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やり直し令嬢は側妃にならない~隣国の王女に仕え、新たな人生を歩みます~

掲載日:2026/07/27

ざまぁ要素は控え目(主人公が自分らしく生きようとするお話です)

 中庭の木々が青葉を繁らせる頃、ブルーノ王太子殿下にあの方が寄り添うことが当たり前になっていた。


 エリースは心の痛みを表に出すことはなかったが、胸に抱えた教科書を支える指が震える。驚きよりも諦めが勝った。

 彼の隣に立つのは、男爵令嬢のクラリッサ。栗色の巻き髪にふさわしい愛らしい少女だ。人懐っこい笑顔は男子生徒だけでなく女子生徒の警戒心をも解き、学園の人気者。身分が低く、平民に近い意見は貴族たちには新鮮なようだった。

 

 エリースはジンリート王国指折りの侯爵令嬢である。王太子ブルーノの婚約者として、六歳から妃教育を受けている。現在も王立学園に通いながら放課後は王城へ行き、遅くまで勉強している。

 将来の王を支えるために必要な知識は生半可ではなく、ブルーノよりも忙しかった。


 だからエリースは恋をする暇はない。

 ブルーノへの想い育てる時間がなかった。


 だが彼と並んで歩く未来だけは示されていたから、ブルーノとクラリッサの親密な様子は少なからずショックを受けた。

「最近、殿下は……クラリッサ様とご一緒なされることが多くなりましたわね」

「よろしいのですか?」

 クラスメイトの貴族令嬢たちが恐る恐る話しかけてくる。彼女たちはエリースと同じ上位貴族だ。思うところがあるのだろう。


 エリースは一瞬答えに詰まった。

(……いいわけないけれど)

 机で隠れている膝の上の両手を握りしめるが、侯爵令嬢のエリースはどうしていいかわからない。

 常に背筋を伸ばし、凜とした態度で、感情を露わにしてはいけない。

「ブルーノ殿下のお心が休まるなら、それで……」

 エリースの言葉に、令嬢たちは顔を見合わせ、それ以上はなにも言わなかった。


 本音をいえば。

 クラリッサが疎ましい。いや、羨ましかった。

 エリースとブルーノの話すことといえば、政務のことだけ。しかも彼は最終的な判断に手をつけることはなく、上手くいかなかった時は丸投げした事実を隠蔽しエリースを責めるのだ。

 ブルーノは優秀な王太子でいるために、エリースに泥を被せる。それについては異論はない。だが労いも謝罪の一言もかけて貰えないことがエリースはつらかった。


 ブルーノはクラリッサに微笑む。彼女への態度は柔らかく、気遣いに溢れている。

 花を見ながら囁きあい、茶を飲みながら談笑する。

 ブルーノは一度だってエリースにそれらをしてくれたことがなかった。


 だから、とせめてもの抵抗として。

 クラリッサに挨拶をされても無視した。彼女が話の輪に入ってきても返事をしなかったり、答えられない話題を振ったりした。

 エリースに出来るのはその程度だ。


 痺れを切らした貴族令嬢が「生ぬるいですわ」と悪意の満ちた微笑で扇動に来たが、はっきり断る。

「できません」

 侯爵令嬢であり、王太子の婚約者という役目を背負っているのだ。

 クラリッサの持ち物を損なうのは論外。

 階段から突き落とすなんて犯罪。

 毒などを盛れば、もうエリースだけでなく侯爵家自体が消えてしまう。

 こんなこと市井の人間でもわかることだ。


 結局、エリースがしたことは超初歩的な嫌がらせか、子どもが拗ねた時の態度程度のもの。

 けれど恋に酔う二人には充分だった。

「……エリース様に苛められて」

 クラリッサが涙を浮かべれば、ブルーノが慰める。それを見た周囲は王太子の機嫌を取るために、エリースに白い目を向けた。


「身分を笠に着て」

「クラリッサ様がお可哀想ね」

 反論は見苦しいし、些細とはいえ嫌がらせをしたのは事実である。エリースはその後の学園生活を息を潜めるように静かに過ごした。



◇◇◇


 中庭へ続く回廊にまで薄紫色の花片が舞いこむ頃、卒業記念パーティーが開かれた。

 厳かな会場を穏やかにする優しい音楽が流れ、生徒たちが談笑している。

 隅のほうで生徒会役員とパーティー後の打ち合わせをしていたエリースは、旋律が途絶えたことに気づいて顔を上げた。

 ブルーノがクラリッサの腰を抱いて、こちらへ向かってくる。


「アーバン侯爵令嬢」

「はい」

 もう名前を呼ばれなくても胸は痛まず、冷静に見返した。

「私は君との婚約を破棄する!」

 彼が威厳のある声で力強く言い放つと、湧いたざわめきは波紋のように広がっていく。


「君はクラリッサに数々の嫌がらせを行った」

 エリースは俯いて、手を染めた仕打ちを思い出す。

 挨拶を返さない、視線を合わさない、話題を無視する……。

 ブルーノの容赦ない追求を待つが続く気配がなかった。しかも、自分たちを取り巻く空気が緊張感に欠けていることに気づいて顔を上げる。

 貴族たちはどこか戸惑った表情を浮かべていた。


 ――あれだけのことで?

 囁き声だったが、静まり返った会場に響くのは充分だった。


「王太子殿下。その程度で婚約破棄は少々……」

 学園長の歯切れが悪い。小さく頷いた宰相も口を開いた。

「侯爵令嬢の行動としては品位に劣りますが……それだけでは」

「少しくらいの嫉妬でしょう」

 思うところがあるのか王妃が隣を軽く睨むと、王がわざとらしい咳払いをする。

「う、うむ。そうだな」


 結局。ブルーノとエリースの縁は解消され、婚約者の座にはクラリッサが就いた。もちろん、彼女が将来の王妃となることに貴族たちの反発はあったが、国民に寄り添う王室として、説得は成功したのだった。


 エリースは自領での蟄居となる。最初こそ落ちこんだが、もう王城に通って妃教育を受けなくても良い。心と体の負担は減り、圧倒的に自分の時間を持つことができた。好きな時に読みたい本を手に取り、絵画と見紛う緻密な刺繍ではなく可愛らしい動物などを布に刺した。

 父の執務を手伝い、母とともに家を切り盛りする日々を送る。

 しかし、そんなしあわせは長く続かない。


 分厚い雲が太陽を抱きこんだ薄暗い午後に、先触れもなく王城からの使者が来た。

 父と母の顔色は悪く、エリースの鼓動が激しく胸を叩いていた。


「王妃殿下の仕事を補佐していただきたい」

 母の体が崩れ落ちた。できることならエリースも倒れてしまいたかった。母を支え、歯を食いしばるエリースに構うことなく使者は続ける。

「エリース・アーバン侯爵令嬢を側妃として迎えることとする。王命でございます」

 耳を疑う言葉だったが、予想できないことではなかった。

 エリースは幼い頃から妃教育を受けたが、クラリッサは数年で王妃になった。

 ブルーノも王太子の頃と変わっていなければ、裁定をせず責任を負わない。

 国が回るはずはないのだ。


 父はエリースとともに王城へあがり、ブルーノに考え直しを訴えるが聞き入れてもらえなかった。

 エリースは王の側妃となった。宣誓式さえ行われずに、宰相に差し出された書類にサインをするだけ。それさえも、王城に着くなり強要された執務の合間だった。


 それからの日々は、陽が昇る前に起きて文書を確認しながら整理する。

 執務室から出ることなく朝食を摂りながら、事務官の報告を聞く。その後は会議。

 昼は謁見を行い、夕方は大臣たちとの打ち合わせや慰問など。夜は翌日の準備や雑務に追われ、自分の時間は意識のない寝ている時だけだ。


 クラリッサ王妃は、自分が君臨する社交界で思うがままに振る舞う。

 ブルーノ国王と式典に出席して仲睦まじさを国民にアピールする。

 エリースは側妃なのだから表舞台に出なくていい、その通りだ。だからこそ事務仕事だけが押しつけられた。 

「エリース。優秀な君がいてくれて良かった」

 ブルーノが頷く。

「本当に。外交はわたくしに任せてくださいませ」

 クラリッサは微笑む。

 そんな二人を横目に、新たな書類へ手を伸ばす。

 エリースは国を動かす歯車という道具だ。ペンを動かしてまた一枚、裁可の署名をする。



◇◇◇



「お痩せになりましたね」

 王都の視察中、声をかけられたので驚いて視線を上げると、事務官の顔に覚えがあった。学園時代のクラスメイトで、彼のほうは体が丸くなっていた。


「そうかしら……」

 エリースは答え、空っぽの微笑みを向けると、その後ろの若い娘たちの行列に目を留めた。覗くように首を傾げれば、店先に飾られた本が見えた。

「……あの本が人気ですの?」

 なぜか事務官が気まずげに顔を逸らす。


「はい。国王陛下と王妃殿下の恋物語でございます!」

  代わりに護衛が溌溂と発した内容に、エリースは衝撃を受けて目を見開く。無意識に足を踏み出していた。護衛が止めないので、また一歩本屋へ。

 女性の好きな華やかな表紙に、願望の文字が踊るのが目に飛びこんできた。


『王子が恋した少女』

『身分を超えた真実の愛』

『運命の王妃』


 若い娘が買ったばかりの本を胸に抱いて、目を輝かせている。

「素敵よね~」

「あたしも玉の輿に乗りた~い」

「侯爵令嬢に勝って良かった~」

(……ああ……)

 エリースは立ち止まる。彼女たちの笑い声が耳から離れない。護衛に促されれば目を伏せ、先導に続いて歩き出す。


 何年もの激務で、一歩が重い。頭が圧迫されてるように痛くて、目が霞む。肩は凝り、右手は強張り思うように動かせなくなっていた。


 そんなエリースの姿に、誰も振り向かなかった。



◇◇◇



 朝から雪が舞っていた。暖炉にいくら薪をくべても指先がかじかむ。

 会議室に向かう廊下でエリースは倒れこんでしまった。体が意思に反して痙攣して、歯の根が合わずガチガチとなる。


「――リ――ま!――!」

 聞こえる叫び声が、自分の名を読んでいるが応えることができない。震える指が乾いた音を感じた。

「け、……さいを……」

 この後に及んで仕事の心配をしている自分が可笑しくて――虚しい。エリースにはこれしかなかったから。

 体が床の響きを感じ取って誰かが駆けつけてきているのだとわかったが、もう視界が闇色に染まってよく見えない。

 息をどれだけ吸っても肺が満たされず苦しくて、意識が遠のいていくのがわかった。


「い……た……」

 最後に願ったのは、恨みではない。

 もし――もしも、もう一度、人生をやり直せるなら。

(わたし自身のために……生きたい)

 伸ばしたエリースの手は空を掴み、沈んでいった。



◇◇◇



 喉を押さえつけられたように息ができない。熱い胸を掻きむしりたくても腕が上がらない。ひっくり返された青虫みたいに必死に身を捩った。

 一粒の光が真っ直ぐ近づいてきて、エリースの体を包む。不快感はなく、自分が白に溶けていくのを受け入れた。


「……」

 起き上がった体は軽かった。瞼にも重さは感じず、視界ははっきりしている。

 王城の執務室ではなく、侯爵家の自室でもない。けれど見覚えのあるここは――。

 備え付けの机の上には学生鞄。震える手でその中を探り、教科書を見て驚愕する。それでもまだ信じられず机の抽斗から鏡を取り出し、恐る恐る覗きこめば十七歳の頃の健康的なエリースが見返してきた。

 指先に触れる頬は柔らかい弾力があって、温かい。深呼吸をすれば、微かに紙とインクの匂いを感じた。


「……夢ではなく本当に……生きているの?」

 口に出してみるが、誰もいない部屋では答えがない。

「戻ってる……?」

 エリースはゆっくりと周りを見回しながら、確認するように呟いた。

(……もし、そうなら)


 もう一度鏡を見れば、自分の顔なのに他人のようにどこかよそよそしさを覚える。

「今度こそ、わたしは……」



◇◇◇



 寮を出て校門をくぐるなり、並んで歩くブルーノとクラリッサを見つける。

 ブルーノは耳を傾け、クラリッサが爪先立ちしてなにかを囁けば、二人は柔らかく微笑み合った。

 前回は、そんな親密な様子を目にするたび胸を締めつけられて苦しかった。

 けれど今は吹っ切れている。

(どうぞ、お好きに。でも――)

 エリースが追うように二人に近づくと、生徒たちが退いて自然と道が出来る。


「おはようございます。王太子殿下。クラリッサ様」

 ブルーノは億劫そうに振り向き、表情も険しい。クラリッサは少し体を強張らせ、怯える仕草をみせる。それに気づかないふりをして、エリースは優雅に一礼をした。


 前回は、ブルーノには微笑み、クラリッサには冷たい視線を向けたが。

「クラリッサ様。本日の科学は専門室ではなく教室に変更となりましたわ」

 エリースが穏やかに言うと、ブルーノは目を眇める。

「――嘘ではないだろうな?」

 エリースは視線を落とす。

「王太子殿下が疑われるのも無理はございません。わたくしは……クラリッサ様に対して侯爵令嬢にあるまじき態度を取ってしまったことを反省しております」

 クラリッサのほうへ体を向けて、深く頭を下げた。

「申し訳ございませんでした」


 周囲の生徒たちが息を飲むのがわかる。そして彼らはブルーノを注視した。ここでブルーノが頑なな態度を取れば不利益になるだろう。

 たくさんの生徒たちの面前でエリースの行動は卑怯ではあるが、なんといっても命がかかっているのだ。なり振りは構っていられない。


「あ、頭をお上げください!エリース様」

 クラリッサの焦った声が降ってくきた。なぜならエリースは未だ腰をほぼ直角に折り、謝罪の礼をしている。

「許していただけるまでは、そのような真似はできません」


「いい加減にしろ、エリース!」

 苛立ちからか声を荒げたブルーノに、生徒たちが一歩後退るのがわかった。耳を澄ませば、囁き声まで拾うことができる。

 ――エリース様が少しお可哀想。

 ――そもそも殿下の婚約者はアーバン侯爵令嬢なのに。

(本当に……勝手で無責任なのね)

 エリースは優越感も怒りも湧かなかった。ただ空虚な諦めが胸の中を埋めている。


「許さないなんてありえませんわ。だからどうか頭を上げてください!」

「クラリッサ!」

 ブルーノはまた大声を出したが、おそらく自分たちの旗色が悪いと気づいたのかそれ以上の言は重ねなかった。

 ゆっくりと顔を上げたエリースは微笑む。自分でも意外なくらい自然に笑うことが出来た。


「クラリッサ様、感謝いたします。あの……不躾な願いだと承知いたしておりますが、どうかこれからは仲良くさせていただけますでしょうか?」

「えっ」

 クラリッサはぎょっとした表情を浮かべたが、ブルーノと違って彼女はまだ支配される側だ。周りの雰囲気や他人の顔色を読むことは彼よりは少し敏感なので、すぐに笑顔を取り繕った。

「もちろん……ですわ」

「おい」

 ブルーノが止めるのを無視して、エリースはクラリッサの両手を包む。

「ありがとうございます。クラリッサ様!」

 クラリッサの手は頼りないほど小さく、ペンだこもなく柔らかかった。



◇◇◇



 午後の陽が差しこむカフェテリアの一角で、一際明るい声が紡がれている。陽光だけではない華やかさがそこには満ち溢れていた。


「そこでお父様が――」

「まぁ。それでクラリッサ様はどうなされたの?」

 ブルーノとクラリッサは隣同士に座り、脇には取り巻きの生徒が陣取っている。エリースは斜向かいで笑顔を絶やさず、耳を傾けていた。

 テーブルに並ぶ焼き菓子は男爵領地の人気店のもので、良くいえば素朴、悪くいえば風味に欠けている味だ。その菓子を取り巻きたちは競うように口に運ぶ。エリースも、クラリッサに疑念を抱かせないため摘まんではいるが、パサパサしているので喉に引っかかり茶で流しこまざるをえない。


「明日の午後は先生の都合で授業はお休みになりましたから、特別室でお茶会をいたしましょう」

 クラリッサの提案にブルーノが頷くと、取り巻きたちが喜色を浮かべる。

 特別室はその名の通り、学園内の王族専用の部屋。特に用途は決められていないが、大抵はちょっとした執務やそれに伴う会議に使っていたという。


 エリースはカップをソーサーに戻すと、大袈裟に溜息をついた。

「わたくしは生徒会がありますので……。クラリッサ様のお淹れになる美味しいお茶が飲めないなんて残念です」

「エリース様」

「それにクラリッサ様が飾るお花はアクセントに草本を組み合わせるのが素敵で。それが見られないなんて」

「そんな……」

 クラリッサは照れた頬を両手で隠す。そんな彼女の肩をブルーノは満足げに抱いた。


「クラリッサ様は、優しく心を癒やす手をお持ちなのですわ」

 エリースがそう言えば、取り巻きたちはこぞって口を開く。

「本当にクラリッサ様は素晴らしい方ですわ」

「ええ。学校の誇りです」

 あからさまなおべっかにエリースは内心呆れつつも、取り巻きたちに迎合した。

 が、決して。


 クラリッサが王妃にふさわしい、とか。

 二人はお似合いです、とか。

 わたくしは身を引きます、などと迂闊なことは言わない。


 取り巻きたちもエリースの前ではそこまで大胆なことは口にしなかった。影ではどうかわからないが。

 それからの日々、エリースはなるべく取り巻きたちに混ざり、ブルーノとクラリッサの腰巾着になった。ことある毎にクラリッサを褒めることを忘れない。


「今日の髪型もとてもお似合いですわ」

「この前、貸していただいた恋愛小説、感動しました。誰からも愛される主人公はクラリッサ様に似ていますわ」

「王太子殿下はこのお茶とお菓子がお好きなのですね。その細やかな心遣いにきっと癒やされていることでしょう」


 周囲の生徒たちが困惑していたのがわかった。盲目的な取り巻きよりも、彼らは慎重に動向を見極めていた。しかしエリースの化けの皮が剥がれる気配はない。

「アーバン侯爵令嬢は改心されたのでは?」

「エリース様は本当は優しい方よ。わたくしは知っていたわ」

「クラリッサ様ととても仲が良いとか」

 最初はさざ波のような噂が、徐々にうねりへと変化していく。不思議なことに、一度潮目が変わると止まらなかった。


 前回は頭を悩ませて慣れない虐めに手を染めるまで追い込まれても、誰一人顧みてくれなかった。

 しかし今回は、生徒たちは勝手に都合の良い解釈をして、エリースの立場を守ってくれる。


 クラリッサが人懐こく微笑む。

「エリース様をずっと怖い人だと思っていました」

「申し訳ございません。クラリッサ様があまりにも可愛らしくて嫉妬してしまったのです」

 エリースは頭を下げる。最初は少し抵抗を覚えたが、もうなにも感じなくなっていた。クラリッサの賞賛も言い淀まない。


「エリース様は、本当はお優しかったんですね」

 優しい――?いいえ。

(前回あなたたちが利用したものを、少し借りているだけ)

 ブルーノとクラリッサがもう少し慎重で狡猾ならエリースと友好を深めず、多分この手を使えなかった。

(それとも、わたしを側妃にするために今から丸めこんでいるのかしらね?)

 エリーズは胸の裡を隠して、クラリッサに微笑む。


 卒業記念パーティーまで後3ヶ月。隣国の有力貴族に嫁いだ伯母にはとっくに連絡済みだった。



◇◇◇



 遂に卒業記念パーティーを迎えた。

 ブルーノの婚約者として意識した前回とは違い、今回は落ち着いた色味でレースを控え目にしつつ侯爵令嬢の威厳を保つドレスを選んだ。


 生徒会役員と打ち合わせをしながら、エリースはそわそわしていた。

 旋律が変わったが、飛び立つ蝶のように静かな音楽が流れ続ける中、ブルーノとクラリッサが並んで近づいてくる。

「エリース、いやアーバン侯爵令嬢。こちらへ来てくれ」

 前回と違う展開にエリースは内心竦み上がったが、二人の後について行くしかない。


 王と王妃や重臣たちが居並ぶ来賓席の前に来ると、ブルーノが片膝を着く。

「国王陛下、王妃殿下。どうかアーバン侯爵令嬢との婚約解消を認めてください。わたくしは真に愛するクラリッサ嬢と生涯を共にしたいと思っております」

 来賓席の面々は誰も驚く様子はなかった。すでにブルーノが手を回していたのだろう。

 生徒たちからは緊張が伝わってくるものの、前回よりはずっと落ち着いている。


(こんなふうに変わるなんて)

 断罪を免れたことに安堵すれば、自然と優雅に腰を落とすことができた。エリースを見て、我に返ったクラリッサもカーテシーを披露するがぎこちない。


(クラリッサ様、こんなに姿勢が悪かったかしら……?)

 そんなことを考えて思いいたる。前回の彼女はエリースに張り合うため多少なりとも勉強や礼儀作法を頑張っていた。

 しかし、今回は誰もクラリッサの脅威にならなかった結果かもしれない。


「アーバン侯爵令嬢、婚約解消を承知するか?」

 王の問いかけにエリースは意識を戻す。大事な場面で他の考え事をするなんてどうかしていると、自分を叱咤して前を向いた。

 静かに微笑んで、頭を下げる。


「はい。わたくしはブルーノ王太子殿下との婚約解消を受け入れます。王太子殿下、長い間お世話になりました」

 鷹揚に頷くブルーノと満面の笑顔をみせるクラリッサに、エリースは重荷が一つ下りたようだった。二人の後ろで王と王妃が浮かない表情を浮かべていたが、気づかないふりをして祝福に顔を輝かせた。



◇◇◇



 同じ道でも一瞬を逃せば、違う景色になるのだろうか。

 庭を散歩しながらエリースは瞼を伏せ、ゆっくり開ける。目の前の薔薇に変化は見られないが、瞬きをする前と後ではこの花は同じではない。他人が聞けば世迷い言だと笑うだろうが、エリースはそう信じている。


 前回は学園を卒業して1年も経たないうちに、ブルーノに譲位した王は未だ玉座にあった。

 ブルーノとクラリッサの婚礼まで後ひと月ほど。国全体に祝福の空気が満ちて、人々は浮かれている。

 エリースは伯母から派遣された教師に、隣国のしきたりやマナーを叩きこまれて、お墨付きをもらった。すでに荷物の半分ほどは伯母の元に送っており、がらんとした部屋に物寂しさを覚える。


 そんな中、再び王城の使者が侯爵家に訪れた。

 エリースは信じられない思いで使者を迎え入れる。蒼白の父と母を見て、浅い呼吸から胸が痛みを訴えるくらい深く息を吸うと、心に言い聞かせた。

(切り抜けられるのは、前回を知っているわたしだけ)

 本当に側妃を回避できるか自信はなかったが、今回はずっと運命が味方してくれている気がした。焦らず慎重にと、胸に刻む。


「ブルーノ王太子殿下とクラリッサ様より、アーバン侯爵令嬢に要請でございます」

 エリースは内心首を傾げる。

 王命ではなく、ブルーノとクラリッサの要請だということに。


 若い使者は頼りなさげで覇気がない。と彼が前回、王都の視察に声をかけてきた事務官だとエリースは気づいた。彼はあの時、僅かながらも自分に同情してくれた。今回も同じなのだろうか。

「どんな要請でございましょう?」


「実は……クラリッサ様の妃教育が思うように進まず。ブルーノ殿下の執務も滞っております……」

「まあ。でも婚約を解消した、わたくしに出来ることはございませんわ」

「いいえ。ブルーノ殿下は……あなた様を側妃としてお迎えしたいと……」

「お待ちになって。王太子殿下とクラリッサ様は婚礼前です。それなのにもう側妃の話を?国王陛下はご存知なのですか?」

 エリースは彼の言葉を遮り、きっぱりと言い放つ。

「い、いいえ。国王陛下と王妃殿下にはまだ……」

「それでしたら、お断りいたします。我が侯爵家は王の臣下であって、王太子殿下の臣下ではございません」

 彼の表情と色を無くした顔に幾筋もの汗が流れるのを申し訳なく思うが、エリースとて引く気はなかった。


「どうか――どうか、お願いです」

 その場に蹲り床に額を擦りつけて彼が乞うのを、父と母が固唾を呑んで見守っている。

「エリース様はお二人のご学友ではありませんか!」

(好きで友達ごっこをしたのではない。生き残るためだった)

 エリースは静かに首を振り、感情のこもらない瞳で彼を見おろした。


「残念ですが。わたくしは隣国の伯母の紹介により王女殿下の側付きとしてお仕えすることが決まっております。正式な手続きも終え、渡航の準備も整っています」

 エリースの言葉を継ぐ形で侯爵が言う。

「今さらお断りするのは、隣国に対する非礼となり国際問題に発展しかねません」

 娘の淡々とした態度を見て持ち直したのか、父の横顔は落ち着いていた。母も侯爵夫人らしく背筋を伸ばし、けれどエリースを安心させるように手をそっと握ってくれている。


 使者はなにも言い返せずに項垂れながらも立ち上がる。泥濘んだ地を歩くようにふらつく足取りで応接室を出ていくのを、エリースは穏やかな心で見送った。



◇◇◇



 ブルーノとクラリッサの婚礼の祝賀に入国する人々に逆らうように、エリースは隣国へ渡った。


 母の姉――伯母は隣国の代々外務を担当する貴族に嫁いでいる。伯母夫婦には子がおらず、幼い頃はよく隣国へ遊びに行った。ブルーノの婚約者となってからは忙しく、それは叶わなくなったが、「困ったことはない?」と折に触れて手紙をくれていた。


 伯母夫婦の紹介で、エリースは王女殿下の侍女として働くことになった。

「エリースね」

「お目通りが叶い光栄でございます。王女殿下のために尽力させていただきます」

 王女の圧倒的な威厳と気品に、エリースは心も体も自然と引きしまった。

 ブルーノの近くにいたから少しは王族には慣れているとなんとなく思っていたが、勘違いだったと反省する。


 ジンリート王国と違い、こちらの王族は民におもねらない。それは軽視するとか虐げると同義ではなく、民を尊重し守る。だから民は王族を崇拝し敬慕を抱くのだ。


 王女は和やかに頬をほころばせる。

「夫人から優秀だと聞いています。わたくしの良き耳目となってください」

「身に余るお言葉です」

「よろしくね」

 王女の口調は茶目っ気を含んでおり、エリースの緊張を解いた。

「他国出身のあなたならではの視点を期待しているわ」

 思いがけない言葉に胸を衝かれる。王女は会ったばかりの自分を見こんでくれているのだ。前回は誰も寄り添ってくれず、使い捨てにされたエリースのことを。


(……ああ)

 道具でも歯車でもない、人間として生きていける。

 胸の奥底から湧き出した温かさが体の隅々まで行き渡る。礼を取るエリーズの目から滲んだそれは一筋だけ頬を流れ落ちた。



◇◇◇



 仕事は想像以上に忙しかったが、前回のようにやり切れなさや苦しさはない。

 王女殿下は部下たちの働きに目を配り、正当に評価してくれる。それだけではなく、誰が疲れているとか悩んでいるなどの些細なことも見過ごさなかった。

 その細やかな気遣いに、むしろエリースのほうが心配になる。脳裏にちらつく前回の自分の姿と重ねてしまう。


「王女殿下。差し出がましいとは存じますが、お茶をご用意いたしました」

 報告書を読んでいた王女が顔を上げた。

「ちょうど喉が渇いていたの、いただくわ」

 王女は書類を机に置いたが、なにか迷うように表面を指先で触れている。

「……気になることでもございましたか?」

 カップには王女のお気に入りの紅茶、添えたスプーンの上に菫の砂糖漬けを乗せて机に置いた。


「――いいえ。なにも。こちらを宰相に届けてきて」

 手元の書類ではなく抽斗から取り出した書簡を、エリースは渡された。

「はい。行ってまいります」

 扉を閉める前にもう一度振り返れば、王女は憂いの視線を書類に注いでいた。


 エリースが廊下に出ると、角を曲がった文官たちが手にする書類を見比べながら、こちらに向かってくる。互いに目礼して行き交うと、文官たちは再び口を開いた。

「ジンリート王国からの羊毛が半分しか届いていない」

「小麦は虫が湧いていたので送り返したとか。被害は我が国だけではないようです」

 エリースは文官たちの話に聞き入りながらも足を止めなかったが、息苦しさを覚えていた。微かに震える指先で胸元を押さえながら〝もう自分には関係ないこと〟と言い聞かせる。


 角を曲がった時。

「失礼」

 過去に囚われていたせいか反応が遅れてしまい、すれ違えずに肩がぶつかってしまった。

「申し訳ございません!」

 謝罪するエリースの肘を支えるように触れる彼の手が温かい。王太子の近衛騎士で顔見知りであったが、名前までは知らない。

「痛くはなかったですか?」

「はい。大丈夫です」

 エリースが微笑めば、彼は眩しいものでも見るみたいに目を細める。


「失礼いたします」

 一礼して歩き出す。振り返らない背中へ励ますような追い風が届いて足取りは軽くなり、エリースは静かに微笑んだ。

読んでいただき、ありがとうございます。

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