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線香

家族

掲載日:2026/05/11

特にありません

暑い夏の日だった。換気しようと空けた窓からは、生ぬるい風が入ってくる。私と母は一仕事終えて息を吐いた。介護というのは本当に体力を使うものだ。母とキンキンに冷えた麦茶をのどに流し込む。身体のうちから心地よい冷たさが広がる。ぐうっと背伸びをして壁にもたれかかると、ピー!!と呼び出し音が響いた。母はため息を漏らして立ち上がろうとして咄嗟に「あぁ、いいよいいよ!母さん、私が行くよ。」

と父の部屋へ向かった。ドアを開けるとさっきベッドに上げたばかりだった父が床に座ってタバコを吸っている。アルコールとタバコの煙が混ざった不快な匂いが鼻をさした。思わず顔を顰めそうになって兄の姿を思い出す。心のなかで顔を叩いて、父に言う

「どうしたのお父さん」

父はゆっくりとこちらを振り向いて

「母さんは?」

と言った。そうだ。父は母を呼ばないと用件を言わないのだ。しかもそのほとんどが無意味で、無駄な苦労をかけるものばかりだ。アレが食べたい、アレが欲しい、こうして欲しい、しかしいざ言う通りにすると「こがなもん食えるか!とうじんが!」と怒鳴り散らす。でも行かなかったら行かなかったで延々と怒鳴り散らす……どうすればいいのか分からない。

「お父さん、用件を言ってよ。言ってくれないと何もできないよ。」

私はお父さんの前でしゃがんでそういった。父は不満そうに

「酒」

とだけ言う。あぁ、まただ、私はもう父の心配はしない、酒と父の難病の相性はすごく悪いのだ。だから最初は姉と母と私で協力して父を説得しようとした。しかし父は姉にあたった。虐待だの殺す気だの……見るに堪えないやつあたりだった。姉も堪えかねて出て行ってしまった。だからもう、心配など、してやらないのだ。酒を頼まれれば酒を渡す。ただ事務的に繰り返す。しかし…………これだけは何度やっても慣れない。そうだ……父は泥酔して漏らすのだ。もはや排泄物のその臭いは排泄物の臭いとは言い難い。アルコールの混ざったような不愉快な臭い。私は父を寝転がらせ、下着を脱がせる。何とか体をずらしてお尻を拭いて下着と座布団ごと一度お風呂場に運ぼうとひとまとめにすると父が怒鳴った。

「はよ着替え持ってこい!」

「はいはい、ちょっと待ってね。」

もうこの理不尽にも慣れっこだ。母に負担をかけないように私が頑張らないといけない。頑張らないと。頑張らないと。と頭のなかで繰り返してお風呂場に座布団と下着を置いて新しい着替えを取りに行く。父にそれを履かせてベッドにあげた。

「父さん、自分で上がるって言ったんだからまた降りて呼んだりしないでよね。」

お風呂場でシャワーを流して汚物を洗い流す。足で踏んで汚れを落とすこの作業にもすっかり慣れてしまった。最後に洗濯機を回して私は母のところに戻った。母は少し疲れた様子で言う。

「ごめんね。」

「いいんだよ。お母さんはゆっくりして! 」

私はそう言って隣に座った。やっと一息つけると思った瞬間、――チリリリリリ! と電話がなった。立ち上がって電話に出ると聞き馴染みのない声の人だ。その人は言った。

「警察署の者ですが、辻さん宅のお電話で間違いないでしょうか。お姉様の件で、ご連絡いたしました」


「はい、あっていますが、姉がどうかしたのでしょうか……?」


「大変申し上げにくいのですが……一昨日、お姉様がお亡くなりになっているのが発見されました。詳しい状況をご説明し、身元のご確認をお願いしたいので、署までお越しいただけますでしょうか」


思考が固まる。姉が死んだ? 発見された? 3日前に会いに行ったときは姉さんからは変な距離感は感じたけれど元気そうにしていた。……はずだ。しばらく言葉が出なかった。相手も待ってくれているのか黙り込んでいた。分かってなどいない、分かってなどいないが……。


「わかりました。今から出ます……。」

「どうかしたの?」

母が心配そうに私を見ている。

「警察の人が…………姉さんが死んだって……。」

母に言うのは良くなかったかもしれない。これ以上負担をかけたくないし、でも、黙っていてもいずれ分かることだ……。母の顔を見ると妙に凪いでいた。まるでこうなると分かっていたみたいに。カランと麦茶の氷が溶け落ちる。コップを握る母の手は微かに震えていた。私達はすぐに身支度を済ませて家を出た。玄関の扉を開けると太陽の光で目がくらんだ。警察署までの道中、車の暑さが気にならないほど、頭の中で電話の言葉が繰り返された。『あの姉さんが? 』延々と繰り返されるこの疑問に終着点はなく、会話のない車のなかでエンジンとクーラーの音だけが流れ続けた。20分程車を走らせて目的の警察署へ着いた。母と2人で車を降りて警察署の自動ドアの前で立ち止まる。もしかしたら姉じゃないかも、私はきっと、確認してしまうのが怖いのだ。進んでいいのだろうか、私が動けずにいると、母は何も言わずに私の手を引いた。自動ドアがガーと開いてクーラーがガンガンに効いているのか身震いしてしまうほど冷たい風が身体に当たった。私達が入り口の前で固まっていると、奥から警察の人が歩いてきた。


「奥へどうぞ」

彼はただひとこと言って私たちを奥の部屋へと案内した。

「遠いところ、ご足労いただきありがとうございます。お辛いでしょうが、少し落ち着いてお話を聞いていただけますか」

「お姉様が発見されたのは、小学校前の海岸沿いの脇道の先の高台です。土砂崩れで道が崩落しており、本来は高台までは行けないのですが、山の斜面を登ったさきの高台から滑落したようです。」

私も母も何も言えない、何かを言おうと口を開きかけては口を噤んでしまう。それでも淡々と警察の人は淡々と続ける。

「季節柄もあり、ご遺体は大変損傷が進んでおりました。ショックを受けられると思いますので、直接のお顔の確認は控えさせていただき、まずは所持品の確認をお願いできますでしょうか」

警察の人が出した物は透明な袋に入った線香の箱とライター、そして、――姉の携帯電話だった。

「ポケットに入っていたものです。……握りつぶされたような『お線香の箱』と『ライター』でした。ご実家の仏壇用か何かでしょうか? お姉様がこれを持っていたことに、何かお心当たりはありますか?」

そうだ。あの日、姉さんに会いに行った日、確かに姉さんからは線香の匂いがした。

「確かに姉さんの携帯電話です。最後に会った日は線香の匂いがしてたような……気がします。」

「そうですか……」

「事件性についてなのですが、あそこは立ち入り禁止の危険な場所です。誤って足を滑らせた不慮の事故なのか、それとも、ご自身で死を選ばれたのか……。遺書もありませんし、我々も断定はできません。最近のお姉様は、何か思い詰めているご様子はありませんでしたか?」

私が、追い詰めてしまったのだろうか、あの日介護を手伝ってなんて言わなかったら姉さんは生きていたのだろうか、答えは分からない。私は……

「……実は、お姉様を最初に見つけたのは、あの辺りで遊んでいた近所の小学生たちでした。異臭に気づいて見つけたそうです」 

「そうですか……」

「ただ、本当に痛ましいことなのですが……。ご遺体を発見してパニックになっていた児童の一人が、後日同じ場所から転落して亡くなるという別の事故も起きていまして……。あそこは本当に、近づいてはいけない危険な場所だったんです」

「あの娘に会わせてください。」

母は突如として言い放った。母の目は真っすぐと警察の人の見据えている。私も続くように言う

「見せてください」

警察の人は困った様子で頭を掻いた

「しかし……遺体はかなりひどい状態ですよ。」

「構いません。」

母は怯まず、警察の人のように淡々と真っ直ぐに言った。

「わかりました。」



私は、遺体安置所の姉を見たとき、後悔した。ひどい悪臭と恐ろしい光景だった。目がなく、腹が裂け、肌は黒く変色していた。でも、アレは、確かに姉さんだった。遺体袋の中には私が最後にあったときと同じ服が納められていた。きっと……きっと姉さんを追い詰めたのは私だ。私が声を漏らして蹲ると、母は隣に座って私の背中を撫でた。母は……つよい人だ。私の背中を撫でる母の手は震えていた。私は何も言えなかった。母も何も言わなかった。家に帰るまでの帰り道、行きしなの空気とはまるで違った。すべてが早送りのような、家に帰ってもただ時間だけが流れていく、ピー!!、父が呼んでいる。行かなければ、私が立ち上がるより早く、母が立ち上がった。母は言う

「大丈夫だよ。」

私はその言葉を聞いて、すぐに立ち上がった。姉さんとの最後の会話を思い出して。母を座らせた。母までいなくなってしまうようなそんな不安が頭に張り付いてしまったから。

「今日は疲れてるでしょ。私が行ってくる」

母の顔は疲れ切っていた。あぁ行かせなくてよかった。これ以上母に負担をかけちゃダメだ。

「どうしたの、父さん」

「どこいっとんたんな! 虐待じゃろうが! なんかい呼んだと思うとるんな! 」

家を出る前に警察署に行くって言ったのに、呼んでもこれないって伝えたのに。この人は、なんでこんなに偉そうにできるんだろう

「警察署だよ。」

「じゃけぇなんなぁ、クソボケが! なんで早くこんかったんなって言うとるんじゃ。」

ダメだ。どうすればいいんだろう。話が通じない、お酒飲んで頭おかしくなって、わたしたちにあたって、だめだ、だめだ、だめだ……

「聞いとるんか! 」

「父さんのせいで姉さんが自殺したよ。」

思わずそう言ってしまった。そうだ、私じゃなくてこの人がまともだったら姉さんは死ななかったはずじゃないか、こんな人がいるから姉さんが死んだ……。

「なんかいいなよ。父さん」

もう笑顔なんて作ってやらない。もう、ダメだ。

「どうして欲しいの?用件を言ってよ。」

姉さんはこれにずっと耐えてたんだ。

「すまん。」

「え?」

思わずそう言ってしまった。父は怒鳴り散らすと思っていたから。その夜は一度も父に呼ばれず、久しぶりにゆっくり眠れた。朝起きて、朝ご飯を作って、父に食事を渡し母と食事を取った。今日は、姉さんの家に行くのだ。姉さんの家に。姉さんの自転車と携帯電話ライターと線香の空箱を持って。

今日は車ではなく、姉さんの自転車で、自転車は島の海風を浴び続けたせいかサビが回り始めているが本当に乗れるのだろうか? 少しの不安を抱えつつ自転車に乗る。乗り心地は悪くないが、人漕ぎするたびギーギーギーと少し不気味な音が鳴った。


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