第93話 孤狼
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二頭の樹猪を喰らいつくし、割れた身体を膨れ上がらせ、双頭の狼が吠えた。
その割れた身体から絶えず血を流しながらも、痛みなど感じぬまま、真っすぐに樹鹿を見据える。
――あれを得ねば
――果実を喰らわねば
歪な大きさの四肢が大地を蹴り、蛇行しながら樹鹿へ駆けだす。
樹猪に次いで動いていた樹狸が、その身に食らいついた。
――力を得て、持ち帰るのだ
だが狼は、食らいついた樹狸ごと前へ進む。
――喰らえ
――喰らわねばならぬ
何匹もの眷属が群がるも、その足は止まらず。
正面から抑え込もうとした樹熊が、その顎で食いちぎられた。
――喰って、喰って、喰いつくして
――この身を捧げても、持ち帰る
ひび割れた割れ目から夥しい血が溢れ、流れる血に呑まれて眷属が振りほどかれる。
――今度こそ、持ち帰る
そこへ、狼に匹敵する巨体の樹兎がぶつかり、吹き飛ばす。
吹き飛んだ先で待ち構えていたもう一匹の樹兎が、強靭な後ろ足で双頭の片方を蹴り砕いた。
――今度こそ……
砕かれても、砕かれた頭は再生し、狼は駆け抜けた。
最早、遮る者はいない。
そのまま身を起こした樹鹿へ、双頭の狼が飛び掛かり。
――だれのために、持ち帰る?
願いの行き先すら割れて零れた割者は、
立ち上がった樹鹿に、無造作に踏みつぶされた。
■樹鹿視点
「見ものであった、子犬よ」
兎すら抜けて足元までたどり着くとは思わなんだ。
割れたてでなければ、この足に食いつくぐらいはできたであろう。
「この身を立ち上がらせたのだ、誇れ」
敗者なりの矜持、しかと見届けた。
「一撃、かよ」
勝者である子豚が、頬を引きつらせて見上げている。
兄さまに抱えられているが、今にも死にそうな程に顔色が悪い。
死なれては、約束が守れぬ。
「見事であった子豚よ、眠れ」
「まっ!?」
少し圧をかけると「ぐぇ」と潰れたような声を出して子豚が意識を失った。
うむ、これでよし。
呆れたような表情の兄さまが気になるが、よい。
狸に子豚を背負うように言い聞かせる。
「何時ぶりであろう、楽しい時間であった、兄さま」
「姫がそう思えたのなら、何も言わぬ」
幾分か疲れたような様子の兄さまの姿に、笑みがこぼれる。
かつてこの身を守ろうとした大きな背が、今では見下ろすほど可愛らしく思えるとは。
「これ程の余興が見られるのであれば、春が過ぎる度に来てもらっていいのだぞ、兄さま」
「我が身が持たぬ」
残念だ。
しかし、母たる大樹は遠い。
枝たる兄さまがおいそれと離れるわけにはいかぬのもよくわかる。
「ならばこそ、子豚を帰すのは惜しいな」
「戯れを。約束をたがえるなどあり得ぬ、そうであろう」
目を細める兄さまの表情は、幼き我が身を叱るときの表情。
懐かしく思えども、ここはしかと応えねばならぬ。
「間違いなく送り届けるとも。約束は尊く揺るがぬものよ」
意識を失った子豚をその背の蔦にて括りつけた狸に視線を向ける。
約束を破るなどと言うのは愚かな力なきものの行い。
勿論あり得ぬ。
答えに安堵したのか、兄さまの目元が緩められる。
「しかし、だ」
「む?」
優しげに微笑んだ兄さまの表情に、首をかしげる。
鹿の樹と化している今の身で行うと森が揺れるが、些事よ。
「割者すらものともせぬとは、見事であった。誇らしい」
「……あのような割れたてであればこそ、だ」
真っすぐに褒められると流石に気恥ずかしい。
それに、あれが長く力を蓄えていたのであれば、容易にはいかなかったであろう。
しかし、割者か。
「兄さまよ」
「なんだ、姫よ」
巨大な森の木々を超える高さの鹿の目を通して、外のはるか遠くを睨みつける。
はるか遠く、先の春程に目覚めた気配に目を細める。
「かつて母の元に向かい追い返され、眠りについていた大喰らいが、目覚めている」
「……母の元に来た大喰らいと言うならば、『国喰い』か」
兄さまの目が驚きに見開かれる。
人の世で何と呼ばれているかは知らぬ。
なれど、あやつは近くにあった目障りな者を食い散らかしたのであったな。
中々に相応しい呼び名だ、人の世も侮れぬ。
「何故かは知らぬ。いつ来るのかも分からぬ。なれど、あれは今日のとは比べ物にならぬ」
「根のダイダラですら手を焼いたのだ、よく分かっている」
ふむ?
兄さまが名で呼ぶほどの根族がいるのか。
大喰らい──国喰いすら退ける程の戦士がいるのであれば母は安泰であろう。
「よきものが育っておるのだな」
「母の心配はいらぬほどには」
ならば安心だ。
ならばこそ。
「兄さまは、迷わずに母の元へと」
その言葉に、僅かに目を見開いた兄さまは、強く瞼を閉じ。
「また、訪れる。必ず」
「……ならば、また出迎えねばな」
約束は守らねばならぬ。
兄さまとの約束なればなおの事。
さて、何ゆえに目覚め、何ゆえに近づいておるのかは知らぬが。
また森の外が騒がしくなる。
それだけは、間違いないであろう。




