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婚姻の切り札

求婚書を持って行ったにもかかわらず、王琳の父に阻まれてしまった長恭は、自分の無力さを痛感するのだった。

   ★ 敬徳の帰還 ★


 絳州からの凱旋後、斉では秋を待って高官の異動が多くあった。

 青州刺史であった高敬徳は、中央に戻り侍中府の侍中の職に昇進したのである。

 侍中は、いわば皇帝の政策顧問であり、決裁を受ける上奏文の選択を司り、斉の政の趨勢を左右できる地位である。その職にわずか二十三歳で就く高敬徳は、高一族の中でも出色の存在であった。ちなみに、長恭の散騎侍郎(定員四名)を統括するのが散騎常時であり、その上司が侍中である。


 鄴都で一番の妓楼である嬌香楼には、蝋燭の灯火がさながら昼間のように輝いていた。艶めかしい妓女の蔭が紅殻色の壁に映り、琴や琵琶の音曲が廊下に響いている。

 六月の中旬に侍中を拝命した高敬徳が、青州での仕事の引き継ぎを終了し、鄴都に戻ったのは六月の下旬になっていた。敬徳は、侍中に就任するに当たり、長く侍中の職にある高徳正を嬌香楼に招いた。


 高徳正は、高顕を父に持ち、字は士貞、本貫は渤海郡である。皇族ではないが、北斉建国の功労者であり、藍田公に叙せられていた。建国以来長らく侍中を勤め、国政に関わってきた今上帝高洋の寵臣である。幼少から聡明で、立ち居振る舞いが美しい好漢であった。

 高徳正は、高敬徳の父高岳とも親交があり、敬徳が幼少の頃から、清河王府を訪れては高岳と政治談義に花を咲かせる仲であった。


 敬徳は青州刺史として青州に赴任していたが、王琳将軍からの援軍の要請を知り、高徳正に個人的な手簡を送って高帰彦の翻意を依頼したのである。

 王青蘭との縁談は破談になってしまったが、かねてから王琳将軍の武勇と矜持には憧憬の念を抱いていた。王琳将軍の危機に対して、助力をしたいと考えたのである。その心中に、文叔への友情と共に姉である王青蘭への未練がなかったと言えば嘘になる。かつては気にも留めなかった縁談であったが、できたら改めて婚姻を申し込みたいと思った。


 敬徳が妓楼に着くと、徳正はすでに部屋に入っていた。

 高徳正は、四十半ばの偉丈夫である。武人としての逞しさはないが、張り出した顎と時に厳しく相手を見据える目が、意志の堅さを示していた。

 徳正が正面に座り、敬徳が隣に座ると、酒肴と酒が運ばれてきた。ほどなく嬌声とともに技女達が入っくると、西域の肌も露わな衣装をまとった故舞が披露された。

「藍田公、先日は王将軍への援軍のこと、かたじけない」

「なあに、高帰彦のように利に惹かれる者など動かすのはたやすい」

 高徳正は、胡姫の舞に目を遣りながら笑みを浮かべた。

『それにしても、何故わざわざ儂に遠方から助力を頼んだのだろうか?』

 青州からわざわざ遣いをよこした心中を量りかねて、徳正は敬徳の晴朗な面差しを窺った。敬徳の隣りに座った年若い妓女が、色っぽい流し目で酌をしている。


「侍中の先輩として、政の心得をお聞かせ願いたい」

 敬徳は、新任の侍中らしく自分で酒瓶を取りながら、先輩の訓を聞く体で、徳正に訊いた。

 舞でひるがえる妓女の裳裾と、大きく開いた胸元に目を奪われていた徳正は、敬徳の質問で我に返った。

「うまく調和を図りながら流されず、柔和を旨としながら屈せず、寛容でありながら操守を乱さ・・・」

「『荀子』の暴君への仕え方ですか?」

 敬徳は憮然とした表情で徳正に訊いた。徳正は酒杯を干すと妓女達を退出させた。広い部屋はしずかになった。

「清河王が、『荀子』を読んでいたとは・・・」

「皇族は、学問を知らぬとお思いですか?」

 徳正は、酒瓶を取ると探るような眼差しで酒を注いだ。『荀子』のなかにある暴君への仕え方を口にすることは、今上帝は暴君であると言ったに等しい。皇族の敬徳が読んでいないと侮ってつい口に出してしまったのだ。

「さすが、高岳殿のご子息だ」

 この男は父親から受け継いだ清河王の爵位だけで、侍中の官職を得たわけではないようだ。

「藍田公のご助言、肝に銘じます」

「これからは、子貞と呼んでくれ。これからは何かと世話になる」 

 敬徳は、改めて清雅な瞳を細めると、微笑して拱手した。

『敬徳は皇族だが、父親の冤罪を考えると、鮮卑族の中で、一番陛下と高帰彦を恨んでいるのかも知れない』

 徳正は、敬徳と自分の酒杯に酒を満たした。

「常山王の諌言については、どう思っている」

 徳正は、今上帝の弟である常山王高演が、陛下にひどく鞭で打擲された件を持ち出した。

『私が、青州にいる間に、宮中ではそんなことが起こっていたのか』

 昨年末、敬徳が青州刺史として赴任して以来、宮中の事情は暗衛によって探らせていた。しかし、自分がしらないこともあるようだ。今上帝の暴虐の度合いは、どんどん酷くなっていたようだった。

「常山王は、斉のために諌言した。勇気ある方です」

「まったく、奸臣がはびこり、忠臣が懲打される。この斉はどうなっているのやら」

 忠臣である帝弟の常山王は鞭打たれ、佞臣の高帰彦は、父上を讒言で陥れていながら、今でも寵臣の一人なのだ。

 いつもは、人当たりのいい温顔を見せながら、今夜の徳正は心の不満を隠さなかった。

『父の敵は、必ず取ってやる』

 敬徳は、これまで封印してきた思いを、胸によみがえらせた。


  ★ 甘い誘惑 ★


 七月の上旬、長恭は辛術の屋敷に招かれた。

 家妓の舞が終り、拍手が辛家の堂を包んだ。酒が杯に注がれ、主人の辛術が立上がった。

「斉の繁栄と諸将の健康と武勇を祈念して、乾杯」

 今上帝の酒毒を嫌悪している長恭は、常日頃は酒量を控えていた。しかし、縁談が頓挫してから、気持ちが晴れなかった。


 酒に飲まれないように酒の量を制御していた長恭が、今夜はなぜか強い酒を口に流し込んだ。

散騎侍郎として寸暇を惜しんで職務に励んだ。出陣しては、檄を振るい先頭に立って武功を挙げた。それでも、足りないというのか。

高敬徳が青州刺史の任を終え侍中として侍中府に入ると言う噂だ。同じ侍中府とは言え、散騎侍郎と侍中では雲泥の差である。青州刺史の時でさえ、自分との婚姻を渋っていた王琳が、敬徳の侍中昇進を知れば、敬徳との婚姻を進めるのは予想できる。

どうにかして、敬徳が都に戻ってくる前に、青蘭との婚姻を確定的なものにしたい。


 長恭は、また何杯か杯を重ねた。

 高一族に多い酒の乱れを見聞きしてきた長恭は、朝堂に出てからも決して酒に飲まれるようにはなるまいと心に決めていた。酒宴にはできるだけ出席せず、酒の量も常に自分の決めた量を過ごすことはなかった。

 しかし、破談の危機という困難な現実を受け入れられない長恭は、いつの間にか自分の酒量を越えてしまっていた。肘を突き、酩酊する額を支えていると、主人の辛術が目の前にいた。

「皇子、別室で酔いを醒まされてはいかがであろう」


 辛術の隣りを見ると、先ほど紹介された辛術の娘の辛瑯炎が控えている。今までは、皇太后がほどよい時を選んで中座ができるように遣いを送ってくれていた。しかし、今夜は官吏の屋敷での宴である。皇太后が知るはずもない。

「娘の瑯炎が、別室まで御案内致します」

 長恭は、瑯炎に支えられながら立ち上がると堂を出た。

 堂の外は既に深夜の暗さを示しており、ところどころに灯籠が掲げられている。皇宮の入り口の金明門も閉まっているだろう。もう、宣訓宮には戻れない。

 瑯炎に支えられながら回廊を進む長恭は、一層酔いの深さを増した。ふらついた身体を支えるように回廊の柱に寄り掛かり、星空を見上げると青蘭の姿が思い出された。

『なぜ、青蘭と一緒になれないのだ。私は青蘭に相応しい男じゃないのか。敬徳なら許されるのか』 

 酩酊の中で僅かに残った嫉妬心が、唯一の理性だった。


「長恭様、客房はもうすぐですわ」

 瑯炎が、鼻にかかったような喜びを隠せない声で囁いた。

『何がもうすぐなのだ。婚姻はまだまだ遠い』

 長恭は、瑯炎に支えられよろめきながら歩みを進めた。瑯炎の伽羅の香りが、長恭の傍で立ち昇る。

「私、以前から長恭様のことを・・・」

 瑯炎が、暗闇の中で長恭を見詰めながら囁きかける。ほどなく、瑯炎が一番はしの扉を開けた。中には燈火がほの暗くと灯り、甘ったるい麝香の香が漂っている。

「こちらが、長恭様の客房ですわ。・・・私がお世話致します」

 長恭が榻牀に座ると、瑯炎が長恭の帯に手を掛ける。榻牀の薄絹の帳が蝋燭の灯りに魅惑的な影を作っている。この香は、男の心を惑わす催淫香だ。

『これは、罠だ』

 頭の片隅で囁く声がした。長恭の酔いが瞬く間に覚め、自分の置かれている立場が理解できた。

「それに及ばない。世話は結構だ」

 長恭は、冷たい言葉を吐くと瑯炎の手を強く払った。

「自分でできる。出て行ってくれ」

「長恭様・・・」

 立ち上がった長恭は、すがりつく瑯炎を外に出し、香炉に水差しの水をかけた。扉を閉めても、瑯炎はしばらく扉の前でうろうろしていた。しかし、長恭が蝋燭の灯りを消すと、姿を消した。

 瑯炎の気配が消えると、長恭は扉と窓を開け放した。

『辛父子は、ここで既成事実を作り、あの娘を側室に送り込むつもりなのだ』

 すでに青蘭への求婚は知れ渡っているはず。しかし、政治のためか、娘の恋情のためか分からぬが、辛術は妾を押しつけてこようとする。気を付けなければ。きっとこれからも、このような事が起こるに違いない。皇太后が酒宴では途中で遣いを送り、長恭を中座させていた理由が初めて分かった。

 長恭は長衣のまま就寝すると、まだ暗い内に目を覚ました。外に出ると、空は白々と明けはじめ、内院の木々は暗く、遠くから家人の働く音が聞こえる。

 長恭は厩舎で俊風を受け取ると、宣訓宮にもどった。 


★ 最後の切り札 ★


宣訓宮に戻った長恭は、朝の洗面を済ませて着替えると正殿に向かった。

 朝の早い婁氏は、窓を開けさせると籠の小鳥に餌をやっていた。

「粛や、いやに早いな。朝餉はまだであろう?」

 皇太后は、珍しく長恭を朝餉に誘った。

「御祖母様、折り入ってお願いがあるのです」

婁皇太后は、長恭の思い詰めた面持ちに、餌の椀を秀児に渡した。


 婁氏の居房に行くと、すでに朝餉の用意がされ料理が湯気を立てている。

「粛よ、侍中府に行くのであろう?・・・どうしたのだ。願いだなんて・・・」

 婁氏は孫に茶杯を渡しながら訊いた。長恭は、そうそう願い事をする子供ではない。

 長恭は箸を置くと、祖母の顔を見た。

「御祖母様、実は・・・婚姻の懿旨を出していただきたいのです」

「懿旨?」

「そうです。求婚書を送ってはや一ヶ月も経っています。鄭夫人が江州に行きましたが、王家からは何の返答も来ない。きっと王琳将軍がまだ反対しているのです」

長恭は、思っていたことを一気に吐き出した。

「御祖母様の婚姻の懿旨をいただきたいのです。そうすれば、・・・王琳将軍が反対しても覆ることはない」

「そなたは、何を心配している」

「婚姻は水物です。このままでは、いつ何時横槍が入らないとも限りません」

 長恭は、祖母の顔を見て唇を強く結んだ。

長恭は、何を恐れているのだ。長恭は鄴都で一番の婿がねと言われ、令嬢の絵姿など望まなくても集まってくるほどだ。

「その時は、別な娘を探すまでだ」

 祖母は強気に言った。

「御祖母様、私の大業には青蘭が必要なのです」

 青蘭は前途が見えない中でも、常に前向きだ。鄭家に戻ったとたん学堂に復帰し、最近は医術まで学ぼうとしている。

「私は、青蘭以外と結婚するつもりはありません。結婚できなければ、・・・北辺に赴き、漠北からこの斉を守り抜く任務につくつもりです」

「ひ孫を抱かせぬと、祖母を脅かすつもりか?」

婁氏は、溜息交じりに頭を振った。

「考えておこう」

 いつもは慎重な粛が、婚姻に関しては何とせっかちなのだろう。

「しかし、王将軍は自尊心の強い武将だ。王琳にとっては、懿旨で下された婚姻は気に染まぬかも知れぬな。禍根を残す恐れがあるのだぞ。それでもいいのか?」

 祖母の視線を長恭は、強い思いで押し返した。むしろ、手をこまねいていて青蘭を奪われる方が、禍根を残すと思うのだ。

「大丈夫です。御祖母様、王琳将軍には、事情を話して許していただきます」

 長恭は、鬼も笑顔になると思われる麗容でうなずいた。


   ★ 敬徳の昇進 ★


『敬徳が、侍中として戻ってきた』

 高敬徳が、侍中府の侍中に昇進することが正式に発表された。

官位は将棋の駒のようなものである。一つ動かすと他も動く。周との戦の褒賞として多くの官職が代わった。その影響で、高敬徳が青州刺史から鄴都に戻り、侍中に昇進したのである。

 侍中は定員四名、侍中府の中枢である。長恭の上役の散騎常侍の上役で、皇帝の側近顧問として政務の枢要に関わる職務である。


 長恭が、上司の廬思道に敬徳昇進の話を聞いたのは六月の中旬であった。しかし、官房で地味な職務に励む長恭には、侍中府の長の一人である敬徳と顔を合わせる機会がなかった。

『敬徳は、私が絳州で戦塵にまみれている間に、青州刺史から侍中に駆け上ることがきまったのか』

 五つ違いの幼なじみが、遙か雲の上の存在になっているのを、見たくないという気持ちもあった。

 その日、長恭は、広蓋に上奏文を乗せた宦官と共に、侍中府の正房に向っていた。

「長恭・・」

 どこからか、長恭を呼ぶ声がした。宮中では、宮女が長恭の名前を囁き合うのは普通である。そんな時は、無視して進むに限る。

「おい、長恭」

 もう一度、聞き覚えのある声がして、大きな手が肩を捉えた。振り向くと、すぐ後ろに敬徳の笑顔があった。長恭は、宦官の目を意識して丁寧に拱手した。

「高侍中」

 敬徳は、侍中府の高官に昇進したのだ。

「上奏文を、頼む」

 敬徳は、傍らの宦官に一瞥すると、書房に届けておくように命じ、長恭を中庭に誘った。

「長恭、久し振りだな。やっと鄴に戻ったよ。積もる話がある。付き合え」

 宦官は気を利かせて盆を掲げると、書房に去って行った。


 中庭は、木々の緑が濃さを増し、花海棠の花が白く咲き誇っている。

「敬徳、いつ戻ったのだ」

 長恭は、二人だけになると昔通りの友の口調に戻った。

「つい先日だ。青州では、まだやることがあったのに、・・・呼び戻された」

 敬徳は、栄転を不満げに笑った。

「ふん、侍中と言えば高官だ。二十三歳やそこらで侍中とは立派なものだ」

 長恭は、嫉妬心が言葉に出ないように笑みを浮かべた。

「なあに、お前こそ楽城開国公への爵封、・・・戦での武勇に比べると不満だろうが、今は力を蓄えるときだ」

敬徳は、通り一遍ではない言葉で長恭を慰めた。

「外朝はともかく、六部は漢人官吏の独壇場だ。鮮卑族で皇族のお前は苦労が多いだろうが、政に正道を取り戻すには、頑張るしかないのだ」


長恭と敬徳は、四阿に入った。

四阿の周りには、夏椿の花が咲いている。

「そう言えば、王文叔は元気か?」

 真面目な顔をしていた敬徳が、顎に手を当て急に笑顔で訊いてきた。敬徳は、いまだ文叔が青蘭である事も、青蘭と縁談が進んでいることも知らないのだ。

「ああ、元気にしているみたいだ」

「そうか、・・・姉の王青蘭は、・・・元気なのか?」

「さあ、話では元気になったらしい」

文叔が青蘭だと話せないやましさで、長恭は目を逸らした。

「そうか、よかったよ。文叔と友になって、あいつの姉だったら、妻にしてもいいかなと思うようになったのだ」

敬徳はニヤけた顔で告白した。敬徳は、青蘭に好意を寄せている。

『もし、長恭が求婚して父親の王将軍が承知をしてしまえば、万事休すだ。やはり、懿旨を使うしかない』

「弟が友だという理由で、姉を娶るのはどうかと思うがな・・・」

 長恭は、言葉を濁すと仕事の忙しさを理由に敬徳と別れた。


  ★ 懿旨と結納 ★


数日後、皇太后府から先触れが訪れ、懿旨を携えた宦官が、鄭家に遣わされた。賈主の鄭桂英はまだ江南から戻らず、鄭家は大いに混乱した。しかし、懿旨を携えた勅使を疎かにはできない。主立った家人と王青蘭が平伏し懿旨を受けた。

「王琳の息女、王青蘭は、聡明で慈悲深く貞淑であり多くの女人の手本である。よって高長恭との婚姻を下賜するものである」

「謹んで、拝命いたします」

 青蘭は拝礼すると、両手で懿旨をうけた。 

 なぜとつぜん、皇太后からの懿旨がもたらされたのか?懿旨などなくとも、母が父を説得して鄴都に戻れば、縁談は滞りなく進むはずだ。その理由を使者の内官に訊くわけにも行かず、江南にいる父母に知らせるために使者が立てられた。

 


七月七日の乞巧奠(七夕)の夕方、長恭は青蘭を茶楼の麗香房に誘った。

麗香房の階段を、鴇色の裙襦をまとった青蘭が昇ってくる。今夜は珍しく涼しげな女子の装いだ。

「今夜は、すごい人出ね」

 開け放してある窓から通りを見下ろした青蘭は、長恭が差し出した茶杯を一気に干した。青蘭の女子の装いは珍しく、胸に締めた深紅の帯が眩しくて目を逸らした。

「今夜は、よく出られたな」

「母上が江南に行っているから、大丈夫」

青蘭は、皿に載せられた餅を一つつまんだ。

「師兄、母上が父上を説得している最中なのに、なぜ皇太后の懿旨が?・・・」

 青蘭は、茶杯を手に取りながら長恭を睨んだ。鄭家の縁談は現在進められている最中なのだ。余計な事をすれば、父の怒りを買いやすい。

「先に話ができなくてすまない。なかなか縁談が進まないので、御祖母様にお願いして皇太后令を出してもらったのだ」

頑固者の王琳は、懿旨による賜婚を好まず、反って態度を硬化させるかもしれない。しかし、斉国で祖母に刃向かう力のあるのは、陛下だけだ。

「江南と鄴都は、何千里も離れている。このままでは、いつお許しが出るとも分からない。長引けば、どんな邪魔が入らぬともかぎらない。だから、御祖母様に懿旨を出してもらったのだ」

父王琳は、いまだ青蘭が出奔したことを許してはくれていないのだ。 

「私が、鄴に来たせいだわ」

 青蘭は溜息をついた。

「何言っている、青蘭が、鄴に来なかったら二人は出会うこともなかったのだ。だから、二人の婚儀は天命だ」

長恭は青蘭の手を優しくなでた。青蘭の出奔を天に逆らう行いだとしたら、二人の縁は失われてしまう。

「もし、縁談を敬徳に知られても、懿旨には逆らえなかったと言えば納得する。王将軍でも斉とは仲違いを望まぬはずだ。娘の幸せを望まない父親がいると思うか?」


   ★ 鄭家の返答 ★


ほどなく鄭夫人が江州から戻った。

「これが懿旨か・・・」

 鄭桂瑛は、皇太后の懿旨を広げると几案に置いた。確かに皇太后の印が明瞭に伸されている。賜婚の場合は、家臣が断るには斬首を覚悟しなければならない。商人であれば、なおさらである。

「懿旨など、何のために・・・。長恭殿は、何と言っている」

 意図を図りかねた桂瑛は、懿旨をしまうと青蘭を睨んだ。

「その、師兄は、じゃまが入るのを恐れて、皇太后に願い出て懿旨を出してもらったと・・」

 皇太后としては、愛孫の懸念を払拭するために懿旨を出したのかも知れない。しかし、長恭は懿旨をあまりにも簡単に考えすぎている。平民の娘である青蘭にとって、賜婚は一生の問題なのだ。もし、この婚姻が流れた場合、おそらく青蘭に求婚する家は鄴都では出てこないだろう。

「青蘭よ、皇族に嫁ぐとは虎の背に乗るも同じぞ。一つ間違えれば命を失うのだ。その覚悟はできているのか?」

「どんな困難も二人で立ち向かおうと長恭様と誓い合った。だから、共白髪になるまで添い遂げるつもりなのです」

 青蘭は、鄴の女子たちと同じように、長恭の美貌と知的な雰囲気にすっかり参って正常な判断ができないのだ。皇族がただ一人の妻を守るだろうか。強力な後ろ盾もいないのに、気が強い青蘭が、側女の存在に耐えられるわけがない。

「父上は、高長恭に好意を持っていない。・・・しかし、こうなっては懿旨に従うほかあるまい。そなたは、本当に長恭殿に嫁ぐのか?」 

 懿旨が出たからには、青蘭に他の道はない。もう、後戻りはできないのだ。

「長恭様と苦労を共にする覚悟です」


 最初、王琳は縁談に反対だった。しかし、鄭桂英の説得の結果、援軍を得ている斉との関係は疎かにはできないと考えて、渋々承諾したのだ。ところが、鄴に戻ってみたら、皇太后の懿旨が届いていた。

 孫を思う善意なのだろうが、あまりにも突然だ。撤回を希望することも許されないのだ。懿旨のことは王琳はまったく知らない。頑固者は、むしろ反発するかも知れない。とにかく、この縁談を前に進めるしか鄭家が生き残る術はない。

「わかった、結納の日取りを相談してきよう」

 すみやかに、家宰が宣訓宮を訪れ、結納の日が整えられた。


★ 納采の儀 ★


七月の吉日、鄭家で納采の儀が行われた。

正式の求婚書を携えた内官の許有孔が、納采の品を積んだ馬車を引き連れて訪れた。

鄭家の邸内は、婚姻を祝う深紅の布が飾られ、吉祥の紋を貼り付けた灯籠が掛けられている。結納は皇太后が宝庫から選んだ玉、白磁、絹布、金や銀の器や壺である。それらを収めた大きな櫃には、深紅の布が掛けられている。内官は大門を入り正房に進むと、女主人である鄭桂瑛が拝礼する前で求婚書と懿旨を読み上げた。

 桂瑛は顔を上げ、両手で求婚書を受け取った。先祖の廟に捧げるのである。 母の桂瑛からは、再度青蘭の四柱と返礼の玉佩が内官に渡された。鄭家では、簡単な宴がひらかれ、家人に酒が振る舞われた。

この日より、長恭と青蘭は正式な許婚となり、まさしく一連の婚儀の儀式が始まるのである。


 邸内の喧噪をよそに、椅子に座った青蘭はゆっくりと伸びをした。露台の向こうには、手摺り越しに睡蓮地が広がり、いまだ夾竹桃の赤い花が美しい庭園が広がっている。

 ついに、成婚に向けて動き出した。結納は公に両家の婚姻をにして、高長恭が自分の許婚であることを締めす儀式である。ほどなく納采の宴が開かれ、皇族一同に両家の婚姻が公表されるにちがいない。このまま行けば、遅くとも本年中には、婚儀を挙げ夫婦となり、新しい生活が始まるにちがいない。


 皇族の夫人の生活はどのようであろう。皇太后が屋敷を見繕っていると言っていた。皇太后しか後ろ盾を持たない清廉な長恭が、富貴に満ちた生活を送れるとは思えない。

 そんな中で今まで通り学問は続けていけるのだろうか。弟弟子の時は、様々な形で青蘭の学問を応援してくれた。しかし、想い人には誠意を尽くすが、妻には冷酷な男は少なくない。私が学問を続けることを長恭は反対するだろうか。

 話し合うことが多すぎる。青蘭は額に手を遣ると碧い空を見上げた。


 正房の方から、晴児が茶器を携えて現れた。

「お嬢様、さすが皇太后様の秘蔵っ子はちがいますね。結納の品も市井とは大ちがい。玉や白磁の花瓶など見事な物。巻物だって・・・」

 家人たちは、長恭からの結納品を検めていたにちがいない。もう、後戻りはできないのだ。自由なのは婚儀の前だけ、結婚したら舅や姑に仕え、外出することもままならなくなるという話を長沙にいるときに聞いた。しかし、父母のいない長恭は、結婚すると皇太后府を出て、新たな屋敷を賜る。経済的には大変だが、舅や姑がいないのは、むしろ気楽かも知れない。

「お嬢様、どうなさったのです?」

 晴児が茶杯を差し出した。

「屋敷の女子たちは、結納に若様が来るかと期待していたのに、がっかりですって・・・」

「宮中では、本人は来ないそうよ。若様は、侍中府の勤務だわ」

 青蘭は、茶杯に口を付けると静かに置いた。

「実は、まだ実感が湧かないの。どんな生活が待っているのか、想像できなくて・・・」

 晴児は、正面の椅子に座った。

「みんな、お嬢様をうらやましがっています。若様は、皆の憧れの的ですから」

 結納を済ませれば、二人の婚約の話は鄴中に広まっていくに違いない。商人と降将の娘である自分との結婚が好意的に受け止められることは難しい。重陽の観菊会での楽安公主の言葉が思い出される。 


★ 爵封の宴 ★


長恭は青蘭との結納を敬徳に知られることを恐れて、礼部には関わらせず皇太后府だけで内々に儀式を執り行った。しかし、常に令嬢たちの注目を集める長恭の婚約は、しだいに皇宮で広く知られることになった。

ほどなく高敬徳より、長恭の叙爵祝の宴を嬌香楼で催したいと文が届いた。敬徳に何と言おう。嬌香楼に向かう馬車の中で、長恭は両手を握りしめた。

「青蘭との婚約は、すでに耳に入っているに違いない。ああ、敬徳には、何と言おう」

青蘭には心配するなと言ったが、どう言って敬徳の理解を得られる思い浮かばない。しかも、敬徳は侍中府での上司になったのだ。文叔が実は女子の青蘭だったことを、敬徳に黙っていたことはどう話そう?御祖母様に懿旨を出してもらい、強引に婚儀を進めたのは卑怯だっただろうか。


嬌香楼に着くと、着飾った妓女たちが長恭にまとわりつくように声を掛けた。長恭は、薫香漂う女子たちをかき分け、二階の房に昇った。

恐る恐る扉を開ける。

「やあ、長恭来てくれたか」

両手を広げて長恭を迎えた敬徳は、すぐに長恭を席に案内した。すでに卓上には料理と酒が運ばれている。

 二つの酒杯を満たすと、敬徳は長恭に掲げた。

「楽城県開国公への叙爵おめでとう」

 長恭は、曖昧な笑いで杯を打ち合わせた。

「祝わなければならないのは,私の方だ。・・・侍中への昇進、めだたい」 

私は負け犬だ。開国公は、名前だけの爵位だ。それに比べて侍中は直接政に関わる重要な官職である。

「そう言えば、お前が婚約したという噂を聞いたが、本当か?」

長恭は酒杯で顔を隠した。

「お前は耳が早いな。・・・うん、・・・先日、懿旨を賜り婚約した」

敬徳は、相変わらず輝くような長恭の麗容を眺めた。皇太后は、令嬢たちの絵姿を集めているとの噂であった。きっと、皇太后の気に入った令嬢を娶るのであろう。

「女嫌いで有名なお前が婚約とはな・・・。相手はいったい誰なのだ?」

敬徳は酒瓶から杯に香りの高い酒を注いだ。

「相手は、王琳将軍の娘の王青蘭だ」

一瞬時が止まり、敬徳は長恭の顔を凝視した。

「王青蘭とは、文叔の姉か?・・・文叔の姉と婚約したのか」

 訳が分からないというように、敬徳は首をひねった。

ここだ。・・・なんと言い訳をしよう。長恭は卓の上で拳を作るとゆっくりと息をすった。ここは懿旨を強調しよう。

「御祖母様は、何よりも国を思っている。王将軍を斉に引き留めておくには、婚姻が効果的だとの判断だ。臣下である私には、懿旨に逆らうことはできぬ」

 長恭が文叔の姉と婚儀を挙げる?よりによって賜婚とは・・・。

「皇太后はお年だ。早くひ孫が見たいのだろう。・・・しかし、・・・女嫌いのお前が、賜婚で女子を娶るとはな・・・」

敬徳は、酒杯越しに長恭を睨んだ。

人も羨む麗容を持ちながら、長恭は女子にひどく冷淡だ。手巾を贈ろうとして、突き返された女子は十指に余る。幼い頃から父親の妻妾たちの醜い嫉妬を目の当たりにしてきたために、女子の真心は信じられないと言っていた。

「皇太后の命なら仕方がないが、女子嫌いのお前が、王琳の娘を娶って反って諍いの種にならないか?」

 政略結婚の破綻は、おうおうにして国の危機を招く。

「私が、文叔の姉を冷遇すると?・・・心配無用だ。私だって王子の端くれ、外交の重要さはよく知っている」

 敬徳は溜息をついた。文叔の姉に連絡を取ろうと思ったのに、一歩遅かった。

「そんな言い方は、正蘭殿に失礼だろう。皇太后の命令で仕方がなく娶るなら、文叔も青蘭も気の毒だ。不幸になる前に、懿旨の取り下げを皇太后にお願いしにいく」

敬徳はいきなり立ち上がると、客房から出て行こうとした。

「敬徳、やめてくれ。・・・も、もちろん、青蘭を気に入っている」

 長恭は、敬徳の腕をつかむと席に座らせた。

「とにかく、文叔の姉だ、幸せにしてやれよ」

敬徳は、まだ信じていないというように長恭を睨んだ。


懿旨の存在を明かしたために、まるでいやいやながら、政略結婚のために青蘭を娶るような流れになってしまった。しかも、文叔が青蘭だと明かす機会を逃してしまった。

ああ、何と意志が弱いのだ。長恭は酒杯に満たした酒を、一気に飲み干した。


  

長恭と青蘭の婚姻は結納にいたった。そのあとには、納采の宴だ。両家の親族や幽韻を招かなければならない宴は、後ろ盾を持たない長恭にとって、心配の種だった。

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