第十話
幽心は民宿を出ると、特に目的もなく道なりに歩を進めた。
秋めいた景色に視線を向け、時折吹き抜ける涼風が髪を揺らすのを感じながら、その肌寒さに混じる清涼な心地に目を細める。
その足元には、車中ずっと黙り込んで司の傍らにいた猫又の幸太郎が、トトトと軽快な足取りでついてきていた。
「司君の側にいなくてもいいのですか?」
幽心の問いかけに、幸太郎は耳をぴくりと動かし、前を向いたまま小さく頷く。
『……司についてたって、どうせあいつには俺の姿が見えないだろ』
尻尾を軽く揺らしながらも、どこかツンとした口ぶりに、幽心はふっと笑みを漏らす。
「それでも、わざわざここまでついてきたんですね。――ずいぶんと心配性なお猫様だ」
『あいつは昔からドジで怖がりで泣き虫なんだ。それに、知らないうちに妙なことに巻き込まれる才能まである。あんたみたいなヤバい奴と一緒に出かける時点で、もう厄介事を引っかける未来しか見えねぇ』
「司君を想う気持ちは結構ですが、あまり過保護なのも考えものですよ?」
『ふん。あいつはご主人の孫で、俺にとっちゃ弟みたいなもんだ。面倒見てやりたいだけさ』
幸太郎はそう言って、ゆらりと尻尾を揺らしながら近くの塀へと跳び上がった。
『俺はこのあたりを散策してくる。……どうも、変な奴らがうろついてるみたいだから』
幸太郎の視線の先、道端の電柱の下には――何かが立っていた。
どこにでもあるはずの電柱なのに、その足元の“それ”だけが、異様な存在感を放っている。
ズタ袋に詰め込まれた人影が、ゆらり、ゆらりと不安定に揺れていた。
目も口も粗い糸で縫い合わされ、まぶたは閉じたままなのに、顔は笑っている。
唇の形だけが弧を描き、作り物めいた笑みを張りつかせて――それでも、確かに何かを「見つめて」いた。
袋越しの身体は微かに蠢き、縛られた腕がうねるように動く。
けれどその顔は、ただひとつの方向を向いたまま動かない。
この鳴神村に入ってから、似たようなものを何体も見かけた。
皆一様に目と口を縫われ、体を拘束され、まるで何かに導かれるように――同じ方角を向いている。
その先にあるのは、おそらく――。
「単独で、あまり深くまで探らないようにしてください。今のあなたは、まだ妖になって日が浅い。……飲まれますよ」
『……わかってる』
幽心の忠告に、幸太郎はそっけなく答えると、塀の上を軽やかに歩き出し、そのままどこかへと姿を消した。
人の身では入り込めないような場所にも自由に出入りできる彼は、いったいどんな情報を拾ってくるのだろう。
幽心は去っていく幸太郎の背を目で追いながら、小さく微笑んだ。
「さて――僕も少し、探索してみましょうか」
そう呟いて歩き出した幽心は、電柱のそばで蠢き続ける“それ”の脇を、何のためらいもなく通り過ぎた。
その直後、ふと自身の落とす影に視線を落とす。
しかしすぐに前を向き、何事もなかったかのように歩みを進めた。
次の瞬間、そこにあったはずの“それ”の姿は、跡形もなく掻き消えていた。
まるで、初めから存在していなかったかのように。
***
「――あれ、幽心さんは?」
「あー、色々見てくるってよ」
片づけを終えた新平たちが部屋を訪ねた時、すでに幽心はふらりと外へ出かけた後だった。
彼らを部屋へ迎え入れた五郎は、再び畳の上にごろりと横になると、だらしない格好のままテレビをつける。
ローカル番組が映し出される中、新平と司はそれぞれ座卓のそばに腰を下ろした。
「なんか、長閑なところっすねぇ、ここ」
「まぁ田舎だからな。観光スポットからも外れてるし……長閑っていうより、寂れてるって感じだな。屋敷を扱うときには、色々考えたほうがいいかもしれん」
寝転んだままテレビを眺める五郎に、司が恐る恐る声をかける。
「あの、爺ちゃんからある程度は聞いたんだけど……その、幽心さん? がここに来たいって言い出したって……」
「ん? あぁ、そうなんだよ。あいつも物好きだからな。集団行方不明事件の現場なんて、あいつからしたらいい暇つぶしなんだろうよ」
「いやぁ、清々しいほど不謹慎っすね……」
五郎の言葉に、新平は思わずそう呟いた。
二十年も昔の事件とはいえ、未だ行方の知れない者たちの親族もいる中で、それを“暇つぶし”と呼べるのは、幽心ぐらいのものだろう。
「幽心さん、やっぱり“あれ”を見に行ったんだろうなぁ」
新平がそう呟くと、五郎と司が同時に顔を上げ、訝しげに視線を向けた。
「……いるんすよ。あちこちに、ヤバそうなやつらが」
「マジかよ。お前、ほんとに見えるようになってんだなぁ」
「幽心さんのそばにいると、なんかどんどんそっち方面が鮮明になってくっていうか……最近は特にはっきり見えるようになっちまって。――はぁ」
新平は、この村に入ってから何度も目にした“得体の知れない者たち”の姿を思い出し、思わず重いため息をついた。
あれらの存在は、どう見ても常軌を逸している。
最初に出会った“吊られた男”でさえ、そこには人間としての怒りや恨みがあった。
だが、この村にいる連中は違う。人としての尊厳という尊厳を奪われ、死してなお何かに囚われ続けているのだ。
彼らが何者なのかは分からない。
だが、この土地には――そんな者たちを“生み出す”ほどの何かが潜んでいる。
新平は、さっそく先行きが不安で仕方なくなり、内心「もう帰りたい」と思っていた。
「見えるとかなんとかって……どういうこと?」
五郎と新平の会話を聞いていた司が、何のことか分からないまま、素直に問いかけた。
司は祖父・将功から、猫の幸太郎にまつわる事件の顛末をおおまかに聞いたうえで、「幽心という人が鳴神家の別邸を見たいと言っている。同行してやってくれないか」――そう頼まれて、ここまでついて来ただけだ。
今回こうして鳴神村を訪れているのは、別邸の“内見”という名目のためだが、まさか、長らく放置されていて、司自身も存在を忘れかけていたような場所を「物件として扱いたい」と言い出す人がいるとは思ってもみなかった。
鳴神家が所有するその別邸は、かつて本邸として使われていたほどの立派な造りを誇っていた。
しかし今では管理も行き届かず、朽ちた箇所が目立ち始めているという。
内見したところで、結局は取り壊して建て直すしかないだろう――司はそう思っていた。
だが、五郎や幽心たちの話を聞いているうちに、彼らの“本当の目的”が別邸そのものではなく、そこにまつわる二十年前の行方不明事件にあるのだと、次第に感じ始めていた。
なぜ、そんな“事故物件”をわざわざ見に行こうとするのか。
司には、どうしても理解できなかった。




