第七話
「待たせてしまってすまないね。君たちには、ずいぶんと恥ずかしいところを見られてしまった」
そう言って気恥ずかしそうに口元に笑みを浮かべた老紳士だったが、泣きはらした目元は赤く、痛々しかった。
「いえ……」
主人の足元でぽろぽろと涙をこぼす猫又を視界の隅にとらえながら、新平は何とも言えない表情で短く返事をした。
「経緯はどうであれ、君たちがこうして幸太郎を見つけてくれたおかげで、この子をちゃんと弔うことができる。本当に、ありがとう」
老夫婦は改めて礼を述べると、騒動でおざなりになっていた自己紹介を始めた。
「私はこの鳴神家の当主、鳴神将功という。こちらは妻の登美枝だ」
老婦人・登美枝は、楚々とした笑みを浮かべながら小さくお辞儀をした。
「この子を見つけてくださって、本当にありがとう。幸太郎は、わたくしたちにとって子どもも同然でしたの。ずっと長いことそばにいてくれて……言葉をかければお返事までしてくれる、賢い子だったのよ」
箱の中を見つめながらそう語る登美枝は、こみ上げる想いを抑えきれず、時折ハンカチで目元を押さえながら嗚咽を漏らした。
そんな妻の様子を痛ましく思ったのか、将功は静かに箱のふたを閉めると、ぽつりぽつりと語り出した。
「幸太郎は、二十年ほど前に姉夫婦が飼っていた猫でね。私の双子の姉一家が、ある日突然、まるごと行方不明になったんだ。当時はまだ子猫だったこの子だけが、ぽつんと屋敷に取り残されていて……ミイミイと、ずっと鳴いていたよ」
「一家全員が、行方不明……ですか?」
その言葉に反応するように、ずっと傍観していた幽心が口を開いた。
「あぁ。君たちはあまり知らないかもしれないが、当時はものすごく騒がれた。姉とその家族だけでなく、別邸に仕えていた使用人までもが、揃って失踪してしまったんだ。“資産家一家神隠し事件”として連日ニュースに取り上げられ、当時は神隠しだとか、祟りだとか、いろいろと言われてね。マスコミに追いかけられて大変だったよ」
二十年前ともなると、新平も幽心もまだ子どもで、当時のニュースなどに関心を持つ年頃ではなかった。
しかし、話を聞けば聞くほど、これは相当に大きな事件だったのだと察せられる。連日報道されたというのも、うなずける話だ。
有名な資産家一家が忽然と姿を消し、家の中に荒らされた形跡は一切なく、夕食の準備途中と思われる痕跡だけが残されていた――。
その不可解さは、まるでメアリー・セレスト号事件を思わせる。
メアリー・セレスト号については、後世で脚色された部分も多いようだが、この資産家一家の失踪事件に関しては、将功本人が当時、屋敷の様子を実際に目にしているのだから、確かな事実なのだろう。
「姉たちが暮らしていた鳴神家の別邸は、彼女の結婚祝いとして、父が贈ったものでね。古くからある屋敷ではあるが、広さも申し分ないとあって、姉の娘一家とも同居していたのだよ……彼女たちも、あの日以来、消息を絶ってしまったがね」
遠い日に想いを馳せる将功の瞳は、いまも色褪せることのない深い悲しみに満ちていた。
魂の片割れである双子の姉を失った喪失感は、何年経とうとも消えることはなく、決して癒えるものでもないのだろう。
しかもそれが、何の前触れもなく、ある日突然訪れたのだとすれば――心の整理などつくはずもない。
「その地域では、あの家は“幸福の家”と呼ばれていたほどだった。家族皆が仲睦まじく、笑顔の絶えない、温かで素晴らしい家庭だったんだ。私も登美枝も、よくその空間に飛び込んでは幸せを分けてもらっていたものだよ。……今では、あの“幸福の家”と呼ばれた別邸も、すっかり打ち捨てられてしまった。空虚なあの屋敷に、もう一度足を踏み入れることは――皆がもう居ないという現実を、まざまざと突きつけられるようで……どうしてもできないのだ。すまないね、君たちには何の関係もない話なのに。……けれど、幸太郎が亡くなった今、あの家も、そろそろ終わりにすべきなのかもしれないね」
「将功さん……」
自嘲気味にそう言いながら顔を伏せた将功に、登美枝はそっと手を添える。
姉一家がいつか帰ってくるのではないかと、二人は信じていたのだろう。だからこそ、別邸を壊さず、今日まで残してきた。
たとえ未練がましいと笑われようとも――在りし日の“幸福”が、もう一度戻ってくると、信じていたかったのだ。
騒動の後、夫婦は幸太郎が好んでいたという庭に、その亡骸を丁重に埋葬した。
墓の前で涙ながらに手を合わせる老夫婦の姿を見守りながら、猫又は悲しげに鳴き続け、新平もまた、猫又の慟哭につられるように涙を浮かべているのが見える。
胸を締めつけるような深い哀しみが、庭の空気を静かに支配していた。
そんな中で、幽心はただ静かに佇む。
あまりにも静かに、あまりにも沈着に。
当たり前のように傍にいた存在が、ある日を境に突然いなくなる——その喪失の痛みを、幽心もよく知っていた。
両親を亡くしたとき、自分の心にも大きな穴が空いた。その穴に時折虚無感という冷たい風が吹き抜け、何度も胸の奥をざわつかせた。
けれど、その空白を埋めるには、あまりにも多くの時間が必要だということも知っている。
人は皆、生きている以上、見送る覚悟を持たねばならない。
頭ではわかっていても、心はそう簡単に納得してはくれない——そのもどかしさすらも、幽心は知っていた。
だからこそ、彼は「死」というものを愛している。
この世に生を受けるということは、同時に、鮮やかなる死の始まりでもある。
それは何物にも代えがたい、唯一無二の真実だ。
最期に辿りつく場所は皆同じ。
冷たい闇に身を横たえるのが早いか遅いか、それだけの違いにすぎない。
ただ、それだけのはずなのに、生への強烈な未練を残してしまえば、猫又のようにこの世の理から外れた存在になる——。
それもまた、美しい。
目の前の光景に、幽心はそんな想いを胸に秘めながら、ほんのわずかに口元に笑みを浮かべた。
埋葬が終わり、ひと段落ついたのを見計らって、将功は改めて幽心たちを応接間へと招き入れ、今回の依頼について話を始めた。
探偵事務所に依頼を持ち込んだ頼子は、もはやそれどころではないだろう。
彼女は今、自身の進退についてどのような判断が下されるのか、戦々恐々としているに違いない。
「君たちには、きちんと依頼料をお支払いしよう。それとは別に、迷惑料としても何か包ませていただきたい。こう見えても、方々に顔が利く。もし何か望みがあるなら、遠慮なく言ってくれ」
将功にそう言われた新平は、ぎょっとしたように目を見開いた。
だがその隣で、将功の話を聞きながら何かを思案していた幽心が、ふいに顔を上げ、まっすぐに将功を見つめた。
「……ぶしつけなことをお聞きしますが、先ほど話題に出ていた幸福の家は、どちらにあるのでしょうか?」
意外な問いに、将功は一瞬呆けたような顔をしたが、すぐに我に返り、ゆっくりと頷いた。
「あ、ああ、それは――」




