第六話
鳴神家は、明治時代から都市開発に先駆けて土地を手放さず、戦後の混乱期を経ても分割を回避した、由緒ある大地主である。
昭和後期には再開発や地代収入、賃貸ビル業などで莫大な富を築き上げた。
現在では複数の高層オフィスビルやマンション、商業施設を所有し、地代と管理収入だけで暮らしているというから驚きだ。
そんな巨大な財と歴史を背負うのが、目の前に立つ鳴神家の当主――あの老紳士である。
彼のような人物を、小手先の策で欺けるなど到底ありえない話だ。
「大方――衝動的に猫を捨てたはいいが、私たちがいつまでも探しているものだから、怖くなったのだろう。自分が捨てたことを知られたら、どうなるかわからない。だから慌てて元の場所に戻り、猫を探したが見つからず……。ちょうど目に入った探偵事務所に依頼を出した。見つかりさえすれば、自分が見つけたことにすればいいとでも思ったんだろう?」
まるで心の奥を覗き込まれたように言い当てられ、頼子は額に汗を浮かべ、小刻みに震えるばかりだった。
「――あの子は、引き取られて以来一度たりともこの屋敷の敷地を出たことはなかった。年老いたあの子が、今更自力で外に出るとも思えない。内部の誰かが連れ出したことは明らかだった。だから、使用人から話を聞いた上で、一番疑わしかった君の行動を監視していた。君の一挙手一投足は、すでに我々の耳に届いている。……それが何を意味するか、言わなくてもわかるだろう?」
家というものは、歴史を重ねれば重ねるほど、金と権力が複雑に絡みつく。
たとえ現代において時代錯誤と揶揄されようとも――多くの人間が関わり、その名に責任を負う家に生まれた以上、その重みからは逃れられない。
だからこそ、そうした家に嫁いでくる者もまた、本来であればそれ相応の良家から選ばれるべきなのだ。
そんななか、息子が連れてきたのは、一般家庭で育った女性だった。
教養こそあったが、名家の空気に耐え得るだけの覚悟や立ち居振る舞いには、不安が残った。
それでも、一人息子の強い願いにほだされ、結婚を許した。
しかし、それが致命的な間違いだったのかもしれない。
嫁の頼子は、使用人に対して冷たく接し、外では鳴神家の名を振りかざして他家の夫人に絡むような振る舞いをすることが多かった。
息子にも何度となく諭したが、状況は改善されることなく、息子夫婦のあり方に悩む日々が続いていた。
そんな折に起きたのが、今回の騒動だ。
これはもう、許せる範囲を超えてしまっていた。
「君が“みすぼらしい”と蔑んだその猫はな、行方不明になった私の姉が大切にしていた存在だった。あの子は――姉と私たち家族を繋ぐ、最後の絆だったのだ。その話は、息子からも聞いていたはずだが?」
「そ、それは……」
「それを、他家から嫁いできた君が――何の相談もなく、独断で外へ放り出した。老い、足元もおぼつかないあの子を。君のしたことは、とてもではないが許されるものではない。たとえ息子の妻であっても、だ」
老紳士は言葉を静かに締めくくると、手を軽く一振りした。
すると廊下の奥から数名の男たちが現れ、蒼白な顔をした頼子の両脇に立ち、無理やり立ち上がらせる。
「待って……待ってください! 私は鳴神家の長男の妻なのよ?! 今まで鳴神家に尽くしてきたというのに、たかが猫一匹のことで、こんな仕打ち……!」
「“たかが猫一匹”では、ありません」
そう冷たく言い放ったのは、それまで沈黙を守っていた老婦人だった。
そのまなざしは鋭く、声音は氷のように静かで、容赦がなかった。
「あなたは、あの子ほどの価値があるとでもお思い?息子に見る目がなかったことについては、私たちも責めきれないでしょう。けれど――だからといって、何もなかったように済ませることはできないのよ」
「なぜ……なぜそこまであの猫にこだわるの!? あんな汚くてみすぼらしい猫……よぼよぼで、目ヤニだらけで、糞尿で家の中を汚して……視界に入れるのも嫌だったわ! あれより私の方が価値がないなんておかしいじゃない!」
「聞いていられないわ。……連れていってちょうだい」
老婦人が不快げに頼子から視線をそらしながらそう告げると、男たちは命じられるまま頼子を引き立てた。
頼子は抵抗する間もなく、引きずられるようにして部屋を後にする。
応接間に残されたのは、一部始終を黙って見守っていた新平たちと、そして老夫婦と数人の使用人だけだった。
頼子の喧しさが消えたあとの部屋には、深い静寂が漂っていた。
まるで“お家騒動”の現場に立ち会ってしまったかのような気まずさに、新平は言葉を失い、落ち着かぬ様子でソファに身を沈めていた。
老夫婦はゆっくりと向かいのソファに腰を下ろすと、机の上にぽつんと置かれた白い箱へと目をやった。
「……この中を確認しても、かまわないかね?」
「ええ、どうぞ」
本来ならば依頼人である頼子の了承を得るべきところだが、すでに彼女はここにはいない。
依頼の経緯も中身も老夫婦にはすべて知られており、もはや守秘義務も意味をなさないと、新平は素直にうなずいた。
老紳士は静かに手を伸ばし、箱の蓋をゆっくりと開ける。
中には、年老いた猫の亡骸が静かに横たわっていた。
艶を失いカサついた体毛、三毛特有の斑模様。あばらの浮き出た痩せ細った身体が物言わず静かに横たわっていた。
「幸太郎や……もう、起きないのかい?」
老紳士はそっとそう呟きながら、箱の中に手を伸ばし、冷たくなった猫の頭を優しく撫でた。
かつてはこの手に頬をすり寄せ、甘えるように鳴いていた――その温もりがもう戻らないことを噛みしめながら、彼は黙って撫で続ける。
「寂しかっただろう……悲しかっただろう。すまなかったな、看取ってやれなくて」
やがて、堪えきれなくなった涙がぽとりと亡骸に落ちた。
その隣で老婦人もまた、そっとハンカチで目元を押さえながら、静かに涙を流していた。
『ご主人……俺は、ここに居るよ。居るんだよ』
猫又となった幸太郎は、老紳士の足元を必死にまとわりつきながら、声にならぬ声で鳴いていた。
けれどその姿も声も、もはや人の目には映らない。
老紳士は二度と目を開けることのない愛猫を前に、変わることのない愛しさを胸に抱きながら、そっと涙をぬぐっていた。




