第五話
新宿にある閑静な住宅街。
その一角、都内でも有数の資産家たちが暮らす高級住宅地に、依頼主の家はあった。
趣ある重厚な造りの和風屋敷は、まるで武家屋敷のような厳めしさを湛えており、堂々たる門構えが印象的だ。
あの後すぐに依頼主へ連絡を取ると、どんな形であれ「猫が見つかった」という報告に安堵の息を漏らしていた。
そして、「明日すぐに来てほしい」と告げられ、こうして二人と一匹で足を運ぶことになったのだった。
「お前、ずいぶん遠くまで捨てられたんだな。ここから歌舞伎町までは、だいぶ距離があるぞ」
「……おそらく、帰ってこれないように、でしょうね。うーん、なんとも悪質な」
そんな会話を交わす隣で、猫又は尻尾をピンと立てたまま、じっと門を見据えている。
その表情には、帰ってこられたことへの安堵と、これから対峙する相手への緊張がにじんでいた。
チャイムを押すと、しばらくしてインターホン越しに声が聞こえてくる。
依頼主に面識のある新平が応対すると、やがて門がゆっくりと開いた。
出迎えたのは、使用人と思しき女性だった。
彼女に案内されて門をくぐると、手入れの行き届いた日本庭園が目に飛び込んできた。
静謐な空間に、鹿威しの音がコン、と響く。
そして通されたのは、意外にも洋間だった。
大正時代を彷彿とさせる、和洋折衷の上品なインテリアが静かに並ぶ応接間。
和の落ち着きと洋の気品が見事に調和したその空間は、この屋敷の格を如実に物語っていた。
応接間に通されてほどなく、足音とともに依頼人の女性が姿を現した。
年の頃は四十代後半といったところだろうか。スラリとした細身に端整な顔立ち。立ち姿にはそれなりの品も感じられるが、ややきつめの目元のせいか、どこか神経質な印象を受ける。
「ごきげんよう、探偵さん」
「どうも」
女性と新平は簡単に挨拶を交わしたのち、新平の隣に座る幽心へと視線を移す。
その瞬間、彼女は息を呑んだようにポカンと口を開け、見惚れたようにその場に立ち尽くした。
「……この方は?」
「うちの所長ですよ。依頼を受けた日は所用で席を外してましてねぇ。依頼完了のご報告とご挨拶を兼ねてお連れしたんです。すみませんねぇ、先にお伝えしておけばよかったなぁ」
新平の言葉に合わせるように、幽心がふんわりと笑みを浮かべる。
それだけで、女性はまるで湯気が立ちそうなほどに顔を真っ赤に染め、視線をそらして落ち着かない様子を見せた。
「い、いえ……構いませんわ」
ちらちらと幽心を盗み見るようにしながらも、女性は向かいの席に静かに腰を下ろす。
物語から抜け出してきたような美貌の持ち主が突然目の前に現れたのだから、平常心を保つのは難しいだろう。
「さて、早速なんですがね。お電話でもお伝えした通り、確かに見つけはしたんですが……一歩、遅かったようで」
新平がそう言いながら、そっと白い箱をテーブルの上に置いた。
その箱に込められた意味を察したのだろう。女性の表情が一変し、あからさまな嫌悪に顔を歪めた。
「そうなの。まぁ、いいわ。こちらで預かりますから、依頼は完了ということで。後日、依頼料は振り込ませていただきます。ご苦労さま」
白い箱から視線をそらした女性は、中身を確認しようともせずに口早にそう言うと、部屋に控えていた使用人に箱を運ぶよう指示した。
だが、使用人が手を伸ばしかけたところで、新平が「待った」をかける。
「お預けする前に、中身をしっかりご確認いただかないと困りますねぇ」
「え? いや、それは……」
中を確認するということは、猫の遺体を直視するということだ。
不快そうに顔をしかめた女性に対し、新平はさらに言葉を重ねた。
「あぁ、別にあなたでなくても構いませんよ? そうですね、たとえばご家族のどなたかがご覧になれば、判別できるかと」
「それは困るわ!」
思わず声を荒げた女性の反応に、新平は薄く笑いながら続ける。
「……では、あなたがご確認ください。隅々まで丁寧に、間違いがないようにね。ご依頼の猫ちゃんであると確認が取れれば、正式にお渡ししますので」
新平は、机の上に置いた白い箱をズイと女性の方へ押しやった。
理性と感情がせめぎ合っているのだろう。女性の表情はどんよりと暗く、応接間には重苦しい沈黙が広がる。
しかし、いつまで経っても彼女は箱に手を伸ばそうとしない。
時だけが過ぎていたそのとき――突然、応接間の扉がノックされた。
控えていた使用人が足早に扉へ向かうが、返事を待つ間もなく扉は静かに開かれる。
現れたのは、上品な老夫婦だった。
老紳士は背筋がまっすぐに伸びており、その姿勢からは年齢を感じさせない。
仕立ての良い背広の上からでも、鍛えられた肉体がうっすらと窺え、この屋敷の主にふさわしい威厳と風格が漂っている。
その隣に立つ老婦人もまた、美しく結い上げられた髪に、しっとりと落ち着いた物腰をまとっていた。
柔らかな微笑みとともに発せられる気配には、控えめながらも高貴な気品がにじんでいる。
「お義父さま、お義母さま……」
二人の姿を目にした瞬間、女性――頼子の顔色がはっきりと変わった。
知られたくなかったことが露見したかのように、その表情は見る間に蒼白になり、箱へと伸ばしかけていた手は小刻みに震えていた。
「頼子さん……やはり君だったのか」
老紳士は、声を荒らげることなく静かな口調でそう告げた。
しかしその声音には、抑えきれぬ怒りと、深い失望の色が滲んでいる。
「ち、違います。私だって……あの子がいなくなって、心配で……」
「だが君は、あの子を随分と疎ましがっていたようだったがね」
「そ、そんなことは……!」
老夫婦はちらりと幽心たちに視線を向けたあと、再び頼子に目を戻す。
「前から言っていたそうじゃないか。この綺麗なお屋敷に合わない、みすぼらしい老猫なんて――さっさと捨ててしまえばいいのに、と」
「なっ……だ、誰がそんなことを……」
「いいかい、頼子さん」
老紳士の声が、静かに、しかし確かに重くなる。
「使用人は物言わぬ家具ではない。皆、この鳴神家に仕えてくれている大切な人たちだ。その人たちの前で放たれた言葉は、いずれ必ず――私たちの耳に届くようになっているのだよ」




