第四話
猫又が意識を取り戻したときには、先ほどまでサバトのようだった事務所内もすっかり元通りになっていた。
精巧に作られた形代は白い箱に丁寧に納められており、不気味な黒い手の気配も今はもう感じられない。
「あとはこれを依頼主に引き渡せば、一応、依頼完了ですね。……とはいえ、あの女性がしたことを思うと、後味の悪い結末にはなりそうですが」
幽心はいつもの穏やかな口調でそう言った。
今回の騒動は、依頼者である女性が、義両親の大切にしていた老猫を勝手に捨てたことに端を発している。
形ばかりの“遺体”を届けたとしても、どんな反応が返ってくるかはわからない。
ずっと猫の帰りを待っていたであろう老夫婦に、現実を突きつけるような形になる。
場合によっては、「なぜもっと早く見つけてくれなかったのか」と、こちらが責められる可能性もあるだろう。
『もういい。……ご主人に、形だけでも弔ってもらえれば……』
猫又はそう言って小さく俯いた。
その姿は、長年家族として過ごしてきた者の諦めと哀しみが滲んでいた。
新平は何とも言えない苦い気持ちになりながらも、そっと猫又の小さな頭を撫でる。
すると、優雅にコーヒーを啜っていた幽心が、何の気なしにぽつりと口を開いた。
「復讐を考えているのなら、祟ればいいんですよ。君はもう“猫又”なんですから」
『……祟るって、例えばどうするんだ?』
ピクリと耳を震わせながら猫又が反応する。
まだ幽心に対しては恐怖心が残っているのか、新平を盾にするようにして彼の肩に身を潜めながらも、興味はあるのか、そろりと視線だけを幽心に向けていた。
「元来、猫又というのは、良い飼い主には恩返しをし、意地悪をした者には祟りをなす存在です。あの女性は君の飼い主ではないとはいえ、大切な家に突然入り込んできて、君を捨てた――立派な“悪事”です。別に、祟ってもいいと思いますけどね」
幽心の言葉は、まるで軽い世間話のような調子だった。
だがその瞳の奥には、冗談とも本気ともつかぬ静かな炎が宿っていた。
「君が力をコントロールできるようになるまでは、本格的な“祟り”は難しいでしょうが……そうですね、相手をじわじわ追い詰める程度なら、今でもできるかもしれません」
幽心はそう言うと、いくつかの案を挙げてみせた。
どれも一つ一つは些細な出来事にすぎない。だが、それを積み重ねていけば、やがて相手の精神をじわじわと蝕んでいくことになるだろう。
猫又はその話に耳を傾け、「たったそれだけで?」と小首をかしげながらも、最終的には納得したように小さく頷いた。
「幽心さんよ。なんつーか……祟りっていうより、地味な嫌がらせだな。でもまぁ、確かに回数重ねりゃ恐怖になるかもな」
「そうでしょう? よくホラー映画でもあるじゃないですか。どこからともなく猫の鳴き声が聞こえるとか、ふとした瞬間に猫の影がちらつくとか。そういった現象を、彼女の前でだけ繰り返せば、うっすら残っている罪悪感を炙り出して、それを恐怖に変えることができるんです。……特におすすめは、お風呂場ですね。シャワー中なんか、効果絶大ですよ」
「あー、それはわかるかも。シャワー浴びてて、目ぇ閉じてるときに近くで猫の鳴き声なんて聞こえたら絶対怖い。“死んだはずの猫が帰ってきた”って妄想がどんどん膨らんで、自分の心で自分を追い詰める……ってやつだな」
猫又は、日本のホラー特有の“湿り気を帯びた恐怖”というものにいまいちピンと来ていない様子だったが、ふんふんと真剣に幽心のアドバイスに耳を傾けていた。
「だからこそ、この形代を渡しておく必要があるんですよ。――“猫は死んだ”と、彼女に受け入れさせるためにね。そして力をコントロール出来たところで、本格的に祟れば良い」
ふふふ、と声を漏らして笑う幽心は、どこか楽しげな様子だった。
そんな彼に、猫又はおずおずとした様子で疑問を口にする。
『なんで、そんなことを教えてくれるんだ? お前、人間だろ? 普通はもっと……猫なんかより、人間を庇うもんじゃないのか?』
訝しげな問いかけに、幽心は口元に笑みを浮かべながら、ひらひらと手を振った。
「僕は、人間より幽霊贔屓なんですよ。生きている者よりも、死してなお強い感情を抱き、この世に留まり続ける存在の、なんと美しいことか。幽霊は、人という殻を脱いだ“むき出し”の存在。生者よりも、よほど信じられる。君たちのような妖も同じです。人と同じように嘘を吐くし、醜悪な存在もいるけれど、理性という枷を緩め、あるがままに振る舞うその姿が、実に素晴らしい。僕は、生者よりも死者を、この世ならざる者たちを愛しているんです」
そして、ふっと目を細めて、まるで夢見るように続けた。
「あぁ、早く僕も死にたい……。けれど、天寿を全うして、あの御方に土産話をたくさん持っていってあげたいから、まだ死ねないんですよ」
――残念そうに言いながらも、どこか恍惚とした表情を浮かべる幽心に、猫又も新平も思わず身を引いた。
新平は、幽心が幽霊贔屓だということは以前から聞いていたが、改めてその美しい顔で語られると、背筋に寒気が走るような気持ちになる。
道下幽心は、生者よりも死者を大切にする男だ。
死を経て変化した猫又も、死者と同化しかけた新平もまた、彼にとっては興味深い“存在”なのだろう。
だから、こうして肩入れしてくれているのだ。
「では、明日にでも届けに行きましょうか。いったいどんな反応をするのか、楽しみですね」




