第一話
陽が落ち、夜が深い眠りから目を覚ます。
星をかき消すほどのネオンがあちらこちらで煌めく歓楽街は、相も変わらず喧騒に包まれていた。
華やかでいながらどこか滑稽な人工灯に誘われるように、一時の快楽を求めて老若男女が薄汚れた路地を行き交う。
もちろん、夜の歓楽街らしく、その中にはお世辞にも“まとも”とは言いがたい風体の者たちもちらほらと混じっていた。
そんな雑踏を縫うように、ひとりの男が走り抜けていく。
見るからにチンピラ然としたその男は、ド派手なスーツを着崩し、鬼の形相で人混みをかき分ける。
周囲の人々は何事かと目を見張り、そして慌てて道を開けた。
無理もない。すれ違いざま、目が合っただけで射殺されそうな形相をしていれば誰だって避ける。
「ごらぁ、待てやぁぁ! このクソ猫ぉぉぉっ! 」
息を切らしつつ、目線の先にいる三毛猫に悪態を吐いたのは、鹿児島新平、二十八歳。
妻子持ちだが、今はとある事情で家族とは別居中。ちょっとばかり不憫な男である。
彼は、たびたび立ち止まっては挑発的に振り返る三毛猫に苛立ちを募らせながらも、見失わないように鬼気迫る勢いで追い続ける。
残暑も過ぎ、だいぶ過ごしやすくなったとはいえ、走り回れば当然暑くもなれば息も上がる。
一日中、この猫を探してへとへとになった末にようやく見つけたのだ。
逃すものかと、必死になるのも無理はなかった。
猫は新平の様子をどこか楽しんでいるような瞳で見ながら、するり、するりと人波を巧みにすり抜け、薄暗い路地へと姿を消した。
これ以上引き離されてはたまらないと、新平は慌てて路地に飛び込み、肩で息をしながらネオンの届かない暗がりを見渡す。
彼がここまで必死に猫を追いかけているのには、ちゃんと理由がある。
いま新平が世話になっている『道下探偵事務所』の依頼なのだ。
元々は不動産会社の一社員だった新平だが、ある“のっぴきならない事情”から、しばらくの間、探偵事務所で働くことになった。
見た目こそ荒っぽく誤解されやすいが、実のところ彼はとても勤勉で、真面目な愛妻家である。
家族を食わせるために、自分に降りかかる事情をすべて呑み込み、今日もこうして猫を追いかけている──。
「こうも暗いと全然わからんなぁ……っと、いたいた」
手持ちのライトで路地を照らすと、奥の方に二つの光る目が浮かび上がった。
ライトの光を浴びて煌々と輝くその瞳は、まっすぐにこちらを見つめている。
「にゃあーお」と猫が鳴く。
その声は、まるで追いついた新平を称えるかのように、どこか優しい響きを含んでいるようにも思えた。
機嫌よくゆらり、ゆらりと振られる尻尾――だが、それは二本あった。
追いかけていた時は間違いなく、普通の猫と同じく一本だったはずだ。
だが今、なぜか尾がもう一本増えている。しかも片方はうっすらと透けていた。
それを見た新平は、思わず眉間を揉むように押さえ、もう一度目を凝らす。
やはり尾の本数は二本のまま。気のせいでも、眼精疲労でも、光の加減でもない。
――こいつは明らかに、普通の猫じゃない。
「老猫にしちゃあ、やけに元気だなと思ってたけど……猫又かよ!」
今回の依頼は、『うちの年寄り猫が家を出たきり戻ってこないので、探してほしい』という、ありふれたものだった。
二十歳をとうに超えた老猫がいつまで経っても帰ってこないことに、飼い主である老夫婦は胸を痛めていた。
それを不憫に思った息子の嫁が、幽心の探偵事務所に依頼を持ち込んできた、というわけだ。
しかし、新平がようやく見つけたその猫は――すでに猫生を全うし、猫又として新たな生を歩み始めていた。
猫又は優雅な足取りで新平の足元まで近づくと、愛らしい瞳を向けたまま、口を開いた。
『……あんた、俺を探すように頼まれたんだろ?』
先ほどのかわいらしい鳴き声とは打って変わって、低く渋い声色。
しかも、流暢な人間の言葉だ。
目の前の猫から発せられたまさかの台詞に、新平はポカンと口を開けたまま固まる。
それでも、問いかけに対しては素直にうなずいた。
「あ、あぁ。いつまでも帰ってこないと、飼い主が心配してるってな」
『ふーん……あの嫁、そんなこと言ってたのか。ずいぶんとまあ……』
猫は尻尾をぱたん、と地面に打ちつけながら、どこか含みのある口ぶりで呟いた。
その言い方に引っかかるものを感じ、新平は首を傾げる。
『俺だって、すぐに帰りたかったさ。……でもな、あのクソ嫁が、老体の俺を外に放り出したんだよ』
「はぁ? なんだってそんな――」
『もうすぐ主の前で天寿を全うできるって時だったのによ。あの女、死にかけた年寄り猫の面倒なんて見たくなかったんだろうな。……くそっ』
猫は、何十年も連れ添った家族に最期を看取ってほしかった。
「いい猫生だった」と穏やかに死を迎えたかった。それだけだったのに。
けれど、その願いは、突然入り込んできた“異物”によってあっさりと打ち砕かれた。
深く静かな恨みは、やがて猫を猫又へと変えてしまった。
あの嫁が自分を放り出したくせに、なぜ今さら“猫探し”の依頼を出してきたのかはわからない。
猫がいなくなったあとの老夫婦の憔悴ぶりに焦ったのか。あるいは、他に理由があるのか――。
理由がどうであれ、この姿ではもう、あの優しかった主人のもとへは帰れない。そもそも、老夫婦には姿すら見えないはずだ。
猫又になりたての今は、存在そのものがまだ曖昧で、不安定。自由自在に姿を現せるようになるには、もう少し時間が必要になる。
新平にだけは、当たり前のように自分の姿が見えている――それは、彼自身もまた、猫又と同じく“どこか異質なもの”を持っているからだ。
そんな猫又の事情を一通り聞かされた新平は、思わず頭を抱えた。
依頼をしてきたあの女が、思いのほか性悪だったというのもあるが、結局のところ猫又を連れて帰ったところでどうにもならないと、新平は悟ってしまった。
そもそも、すでに“見えない存在”になってしまった猫又を連れ帰ったとしても、依頼は達成されたことにはならない。
依頼主には姿が見えないのだから、説明したところで「ふざけてるのか」と逆に怒られるのがオチだ。
何も解決しない。
どう足掻こうと、それは変わらない。
「死んでいたことにしよう」にも、肝心の亡骸がない。
「見つからなかった」と言えば、依頼は未達成となり、ここまでの苦労は水の泡。
まさに、八方ふさがりである。
「えぇ〜……どうすりゃいいんだよ、これぇ」
『全部、あのクソ女が悪い』
「そうだけどよぉ……。とりあえず、一緒に来てくれよ。こうなったらもう、幽心さんに相談しねぇとダメだわ」
話が通じる猫又だとわかった今、新平はひとまず事態の収拾を図ろうと、そう提案した。
猫又は新平の言葉にしばし黙り込み、何かを考えるように目を細めた。
そして数秒後、小さく頷く。
『……わかった。あんたの雇い主、猫集会でもよく話題に出てたからな。優しそうな顔してるくせに、怖くて近寄れない人間がいるって。だから一度、会ってみたかったんだ』
「猫界隈でも有名なんか、幽心さん……」
猫又はひょいっと跳ねるように飛び上がると、器用に新平の肩へと乗った。
猫らしい重みはまったく感じられないが、ふわりとした毛並みが頬をかすめ、新平は思わずにやける。
「実体はないのに、触れられるんだな」
『俺が意識すれば、どうにかね。あんた、猫好きっぽいし。サービスさ』
「ふんわりお日様の匂いまでしやがる」
『日向ぼっこが趣味なもんでね』
そんな他愛もないやりとりを交わしながら、一人と一匹は探偵事務所へと向かって歩き出した。
お久しぶりです。また少しずつ書いていく予定です。
ちょっと読みやすいように書き方変えたりしたら遅くなってしまった……。




