第40話 瘴気の森の魔剣士(挿絵あり)
エリシアは瘴気に満ちた森を一人進んでいた。周囲の木々は黒く染まり、空気はどこか重苦しい。瘴気は普通の冒険者ならば到底耐えられないほどの濃度だったが、彼女には問題なかった。彼女の目的はただ一つ、暴れ回る悪竜アジ・ダハーカの討伐だった。
数ヶ月前に自らが生み出したその竜は、今や瘴気の森を荒らし回り、周囲の生態系や人々に恐怖をもたらしていた。冒険者ギルドも討伐隊を送り込んだが、誰一人として戻ってくることはなかった。アジ・ダハーカの圧倒的な力の前に、人間たちはなす術もなく倒れていったのだ。
森の奥に近づくにつれて、エリシアは大地が焼き焦げ、氷で覆われた異様な光景を目にした。これは明らかに、双頭の竜が放つ炎と氷の力の跡だ。彼女の足元には、既に倒された魔物たちの残骸が散乱している。これらの魔物は、討伐隊によって片付けられたのだろう。残るはアジ・ダハーカのみ――それだけが、討伐依頼として残っていたのだ。
瘴気の森の奥深く、エリシアは双頭の竜アジ・ダハーカの前に立っていた。
目の前にそびえ立つ巨大な竜は、片方の頭からは燃え盛る炎、もう片方の頭からは凍えるような氷を吐き出し、その姿はまさに恐怖そのものだった。
アジ・ダハーカの咆哮が大地を震わせ、周囲の樹々が瘴気に溶かされていく中、エリシアは冷静な表情を崩さず、ゆっくりと手をかざした。
「やっぱり、あなたは現実には馴染めなかったのね。
そりゃそうよ、ここはあなたの居場所じゃない。あなたの力は夢の中でこそ意味を持つものだもの。」
エリシアは呟くように言葉を紡ぎながら、アジ・ダハーカの動きを観察していた。
その瞳には微かに哀れみの色が浮かんでいた。自分が生み出した存在が、今や暴れ回り、この世界に災厄をもたらしていることに、どこか虚しさを感じていたのだ。
竜が再び咆哮を上げると、エリシアの前方に巨大な火球が放たれた。それは大気を焼き尽くすような激しい熱を伴って彼女に迫ったが、エリシアは軽く指を振り、結界を張り巡らせた。火球はその透明な障壁に触れると、静かに消滅した。
「ふふ、私にそんな攻撃は通じないわよ。あなたも分かっているんでしょう?これが最後だって。」
エリシアはもう一度手をかざし、今度は強い意志を込めた言葉を放った。
「夢に帰りなさい。幻創真理。」
その瞬間、空間が歪み始めた。アジ・ダハーカの巨体が徐々にかき消されるように、霧のように薄れ始める。竜の双頭が最後の抵抗を試み、氷と炎のブレスを同時に放つが、エリシアの周囲に広がる幻想的な力場に吸い込まれ、完全に無力化された。
エリシアは静かに目を閉じ、その力が完全に竜を飲み込むのを感じ取った。竜の咆哮も、恐ろしいほどの圧力も、次第に消え失せ、最後には静寂だけが森の中に広がった。
アジ・ダハーカは夢の中へと還された。その存在は再び幻想の中で永遠に眠り、現実の世界からは消え去ったのだ。
「ふう…これで一安心かしら」
エリシアは軽くため息をつき、辺りを見回した。だが、その時、彼女の敏感な感覚が妙な気配を捉えた。それは、2つの存在だった。一つは明らかに魔族の気配、もう一つは、まだ若い人間の少年のような気配だった。
「誰かいるのかしら?」
エリシアがその方向に視線を向けると、暗い森の中から2つの影が現れた。1人は、威厳ある魔族の男性。もう1人は、巨大な大剣を背負った若い少年だった。魔族の男が一歩前に進み、エリシアに向かって丁寧に一礼した。
「お久しぶりでございます。我らが魔王エリシア様。」
その言葉を聞いた瞬間、エリシアの脳裏に過去の記憶が蘇った。そうだ、この男は、魔族の会議に出席していた偉い魔族の一人だ。名前までは覚えていないが、どこかで会ったことがあるのは間違いない。
「ああ、どっかで見たと思ったわ。あなた、会議にいた人ね?」
エリシアは軽く笑いながら言ったが、その表情にはどこか困惑が浮かんでいた。彼女は自分の過去の気まぐれな行動が、思いもよらぬ形で再び彼女の前に現れたことに、少し戸惑っていた。
「はい、あの時の会議ではエリシア様にお目にかかる栄誉を賜りました。実は、今回のアジ・ダハーカの件についても、我々が監視役として見守っていたのです。あの竜が暴走しないように、こちらの少年を連れてきておりました。」
魔族の男はそう言いながら、隣に立つ少年を指し示した。少年はまだ若く、顔にはあどけなさが残っているが、その背には明らかに大きすぎる大剣を担いでいた。エリシアは少年をじっと見つめ、何か不思議な力を感じ取った。
「この子は誰なの?」
エリシアが問いかけると、魔族の男は微笑みながら答えた。
「彼の名はディレードといいます。魔族ではありませんが、彼には特別な力があります。魔神剣『ガディ・グロムス』を扱うことができるのです。
この剣は、我々魔族にとっても特別なものであり、彼はその剣を担うに相応しい存在です。」
エリシアは少年ディレードを見つめながら、興味深そうに首をかしげた。「へえ…人間の子が、魔神剣を?それはなかなか面白いわね。」
少年はエリシアの視線を受け止めながらも、無言で立っていた。彼の目には決意と静かな自信が宿っている。エリシアはその姿を見て、彼がただの子供ではないことを感じ取った。
「まあ、何にせよ、アジ・ダハーカは私が片付けたわ。それで、あなたたちはこれからどうするつもり?」
エリシアが軽い調子で尋ねると、魔族の男は再び一礼し、答えた。
「我々は引き続き、エリシア様の命令を待ちます。いつでもお声掛けください。」
エリシアは苦笑しながら手を振った。
「そんな堅苦しいのはやめてよ。これ以上は必要ないわ。」
魔族の男はディレードをちらりと見やり、再びエリシアに向かって丁寧に頭を下げた。
「今後、彼を連絡係としてお任せいたします。どうぞ、いいようにお使いください。」
ディレードは無言のまま頷いた。
エリシアはその姿に何か引っかかるものを感じたが、特に声をかけることはなかった。
魔族の男はそのまま姿を消し、瘴気の森に再び静寂が戻る。
しかし、エリシアの顔には微かに侮蔑の表情が浮かんでいた。
彼女は魔族の男の振る舞いに不快感を覚えたのだ。
あの男の言葉にはどこか無関心さが漂い、押し付けがましさを感じさせる。
明らかにディレードという存在を厄介払いし、自分の手を汚さないようにしていることが見え透いていた。
「体のいい押し付けってわけね…」
エリシアは軽く鼻で笑い、肩をすくめた。
彼女にとって、これまで何度も経験したことのある光景だった。
周囲の者たちは彼女を恐れ、敬うふりをしながら、その実、自分の手を汚さないように彼女に責任を押し付けてくる。エリシアはそのことをよく理解していたが、今回は特にそれが目に余る。
「まあ、いいわ。私がどう使おうと、あの男には関係ないでしょう。」
彼女はそう呟き、ディレードの方に視線を戻した。少年は未だ無言のまま、何も言わずに立っていた。その背中には相変わらず巨大な魔神剣ガディ・グロムスが光を反射している。エリシアはふと、ディレードがこの剣をどうやって手に入れたのか、そして彼の真の目的が何なのかに興味を抱いた。
「さて、ディレード。あなた、どうしたいの?」
エリシアが静かに問いかけると、ディレードは一瞬だけ彼女の方を見たが、すぐに目をそらした。
「…まあ、あなたが話したくなるまで待つわ。」
エリシアはそう言って、ディレードに背を向け、再び森の出口へと歩き出した。少年がこれから何をしようと、彼女は気にするつもりはなかった。
エリシアは森の出口まで無言で歩き続けていたが、次第に苛立ちが募ってきた。瘴気の森の薄暗い空気と、無愛想な少年ディレードの無口さが、彼女の心をさらにかき乱していた。彼の黙ったままの態度に耐えきれなくなり、エリシアは足を止め、振り返って彼を睨みつけた。
「あなた、いい加減に喋ったらどう?」エリシアは鋭い声で問いかける。その声には苛立ちが明確に滲み出ていた。
ディレードは一瞬、彼女を見返したが、感情をほとんど表に出さず、冷静に答えた。
「あんたを監視するのが任務だ。それ以上でも、それ以下でもない。」
その無感情な言葉に、エリシアの怒りはさらに燃え上がった。彼女は感情を抑えきれずに、強く口を開いた。
「それだけ?私が何をしているのかも、どう思っているのかも、何も言わずにただ監視する?そんな無味乾燥な役割をこなしてるつもり?」
ディレードは一瞬眉をひそめたが、すぐにまた無表情に戻った。
「俺に言わせれば、お前が俺に何を期待しているのかも理解できない。俺はあんたを守るためでも、助けるためでもない。監視するのが命令だ。余計なことはするつもりはない。」
その冷たい返答に、エリシアは一瞬絶句したが、すぐに再び口を開いた。
「ふざけたこと言わないで。私がただの監視対象だって思ってるの?その程度の役割で私にくっついて来るなんて、いい度胸ね。」
ディレードは再び黙り込み、その態度がますますエリシアを苛立たせた。彼の無関心な振る舞いが、まるで彼女の存在を軽視しているかのように感じられたのだ。
エリシアは胸の中で、どうしてこの少年が自分の前に現れたのかを思い返していた。魔族たちの計略か、それともただの偶然か。だが、どちらにせよ、彼がただの駒で終わるつもりなら、それを打ち砕くこともまた自分の楽しみになるだろうと考え始めていた。
「いいわ、ディレード。今は黙ってついて来なさい。でも、私のことをただの監視対象だと思っているなら、その考え、いずれ後悔することになるわよ。」
そう言い残し、エリシアは再び前を向き、森の出口へと向かって歩き出した。ディレードも無言で彼女の後に続いたが、その背後には、重い空気が漂っていた。




