世界は誰のためにある
まだ幼い私は、この世界が“物語の中”だと気づいた。
そして同時に、自分がこの帝国の奴隷として生まれたことも知った。
(ヒロインたちが奴隷制度を覆すのは、まだ十年以上も先の話だ)
まぁ、それまで生きてはいられないだろう。
先ほど私は、神事の贄になるため、辺境の奴隷市場から安く買い叩かれた。
そして帝都へ向かう格子付きの荷馬車に雑に揺られながら、ぼんやりと前世を思い出したのだった。
この世界(小説)を知っていたところで、それに触れられる立場にすらない。
親が奴隷なら、子も奴隷。
それが、こちらの身分制度だった。
この帝国にいる奴隷の大半は、宣戦布告もなく突如侵略された小国の生き残りだ。当然、そのほとんどは帝国の言葉をまともに理解できず、帝国で扱われる文字という概念すら知らない。
そんな教養のない奴隷は、そこらの家畜同然の扱いだった。
それまで親の雇い主のお情けで田畑を耕し、どうにか食わせてもらってきた幼少期は、現代人から見れば、生きているのかも分からないような悲惨なものだった。
転生に気づいたところで、この運命に抗う気持ちなど欠片もない。
それどころか、前世の記憶など心を蝕む毒でしかなかった。
齢五年。
荷馬車に揺られる干からびた理性は、ただ現実を脳みそに刻みつけるだけだった。
生まれ育った辺境を売りに出されて――ついでに前世を思い出して――から約五年。
さまざまな悪路を経由し、十歳になった頃、ようやく帝都へ到着した。
後で知ったことだが、この五年に及ぶ旅路そのものが聖地巡礼だったらしい。
教会へ放り込まれた後は、私が言葉を理解できないのを良いことに、「残りの禊には三年ほど必要だ」と侮蔑を滲ませながら説明された。
それからは、毎日毎日、冷たい滝行とお祓いの日々。
食事は、清められた白湯と果物と白パン。
(白パンを毎日食べられるのだと知った時は、生きていて良かったと初めて思った)
十三歳で禊そのものは終わった。
しかし、だからといってすぐに神へ捧げてもらえるわけではないらしい。
贄にも、相応しい年齢というものがあるそうだ。
そこからさらに五年間。
私は神様に差し出すためだけに、教会で清められながら飼われた。
冷たい水を浴び、祈祷を受け、清められたものだけを口にして、ただ大人になるのを待つ。
奴隷として畑で死ぬよりは、よほど贅沢だったと思う。
そして十八歳。
ついに贄にされる当日を迎えた。
腹いっぱいで死ねるなんて、奴隷にしては贅沢な人生だったなぁ……と、しみじみ人生を振り返っていた。
あとは死ぬだけとなって、一瞬、気を抜いたのだと思う。
『この世界の神様は、藍色が好きなのか』
迂闊にも、首に刃が落とされる直前、流暢な帝国語を話してしまった。
『へぇ……お前、帝国語を話せるのか? 堕ちた身、というわけではないな。その額の刺青は、生まれながらの奴隷につける印だ。独学か……いや、ないな。辺境近くの奴隷に、それほど教養のある者は派遣しておらん』
神事の供物から一転、罪人のように処刑されるのだろうか。
せっかく前世を思い出してから今まで、口の利けないふりをしてきたのに。
苦しい人生だったが、最期くらい苦しまずに死にたかった。
台無しだ。
『神の藍が、魂に移ったか? 答えよ、奴隷』
『……滅相もない。弁えて、薄汚く生きてきたつもりでございます』
『やはり面白い! まだ死ぬな。私が飼ってやる』
奴隷にも階級がある。
今言った愛玩奴隷や性奴隷は、元々の身分が貴族や王族であったり、教養があり見目の良い者たちがなるものだ。
間違っても、辺境の蛮族の農耕奴隷の女から生まれた奴隷がなるものではない。
それに、私などに話しかけただけで、お付きの侍女が何人か倒れた。
挙句、そんな奴隷如きが尊い御方と口を利いたことで、近衛騎士たちが血色ばんでいる。
そんな無茶な道理が通るわけがない。
この高貴なボンボンは、自分の我儘なら何でも叶えられるとでも思っているのだろう。
何も期待せず、首が跳ね飛ばされるのを今か今かと待ってみた。
だが、降り注いだのは刃ではなく、高貴な御身からの藍色の羽織だった。
ちなみに、藍色の衣服を身に纏えるのは、王族と神官長様だけと決まっている。
『一番低い身分のお前に、名をやろう。誰もお前の世話などしたがらんだろうから、私が自ら世話もしてやろうではないか』
今までの奴隷人生が吹き飛ぶ、とんでもねえ男に気に入られてしまったのである。
神事を執り行っていた神官長様並びに神官たちが、泣きながら懇願するも無視。
そのまま私を抱え上げた。
神様から贄を取り上げるなんて罰当たりなことをして、本当に大丈夫なのだろうか。
そう考えていたのが伝わったのか、その男は豪快に笑い飛ばした。
その破天荒なことをしでかしたのが、現皇帝と正妃の長男。
帝国皇帝継承順位第一位である、カナフ皇子だった。
そのまま自分の宮殿まで私を連れ帰った後、彼は猫が鼠を甚振るように私を尋問した。
どうして言葉を話せるのか。
いつから話せるのか。
生まれはどこなのか。
親の出身国はどこなのか。
ありとあらゆることを聞き出された。
奴隷根性の染みついた私に抗う術などなく、洗いざらい吐き出した。
どうやっても辻褄が合わないので、転生者であることまで馬鹿正直に話した。
『本当に良い拾い物をした! お前、今日から俺の部屋に住め』
『こ、殺してくれ……!!』
『ならん! 俺が飽きるまで生きろ』
それから早五年。
二十三歳になった今も、皇子様との奇妙な生活は続いている。
カナフから逃げるため、毎日散策する庭という名の森林公園を二キロほど歩くと、一本の巨木がある。
辿り着くとまず適当な小枝を拾い、日当たりの良い場所へ突き刺す。
それから巨木の根元に寝そべり、空を眺めるのが日課だった。
ここにいれば、誰にも会わずに済む。
敵も味方も必要ない。
ただ、あいつの気が済むまで付き合って、いずれ死ぬだけだ。
皇子様の家畜は、基本的に暇なのだ。
与えられた小屋で決まった時間に寝起きし、三食食べて――ひどい時は五食――暇を潰すだけ。
食事を待つ間に、家畜が立ち入っても良いとされている限られた範囲を歩き回るのが、最近の常だった。
(暇すぎて、気が狂いそう……)
あの皇子様は、私が自分から他の暇つぶしを望むまで、これを続けるつもりらしい。
最悪だ。本当に。
自ら家畜を厳しく躾けようとはしないあたりが、いかにも彼らしい。
私の小屋は、やつの私室の中の一画。
半径二メートル弱の柵の内側だ。
贅沢の縮図みたいなクッションや寝具が、お洒落に敷き詰められている。
(アホじゃないのか、あの男)
極めつけが服だった。
『奴隷は、基本的に衣服は纏わないんだがなぁ?』
あのすっとぼけた顔に舌打ちしなかった私の忍耐を、誰か褒めてくれ。
確かに、私はほぼ全裸で長年生きてきた。
全裸の奴隷とは、雇い主のいない奴隷を意味する。
贄を脱した私には、はっきりとした雇い主がいなかった。
五歳も過ぎれば大抵買い手がつき、親から引き離されるものだが、私はその前に贄として売り飛ばされた。
以来、教会から支給される最低限の布以外、まともな衣服というものには縁がなかった。
前世の記憶が羞恥心を呼び起こすものだから、大変だった。
『……俺、下手に子どもが出来たら揉めるって理由だけで、童貞なんだわ』
『殺してください』
『嘘に決まってんだろ、処女め』
『頭おかしいのか、あんた』
『サーシャが、素直に話をしてくれないからだろ』
という下らない流れで、私にも服が支給されるようになった。
次に、額の奴隷紋は皇子の所有紋に上書きされた。
刺青ではない。
これは魔法のような力で刻まれた、不思議な印だ。
扱えるのは、魔力のような不可思議な力を蓄えた者だけらしい。
基本的に奴隷のような低い身分の者たちは、まず使えない力だった。
先天性が主だが、まれに後天的に使える者もいるらしい。
私は使えなかった。
さすが、奴隷のサラブレッドである。
「……話してみたいなぁ」
無意識に呟いたのは、日本語だった。
仮に、この小説だった世界でヒロインやヒーローをやっていた連中と話せたところで、何かが起こるわけでもないだろう。
これは、私の気持ちの問題だ。
まぁ、悪役である公女や、ヒロインである聖女を相手にしては、奴隷など視界を汚すことすらなかっただろう。
ヒーローに関しては、正統派の王子様だ。
この帝国の皇子のように、汚い現場まで降りてきて仕事をするような奇特な男でもない限り、一生出会わない。
宝石は宝石。
石ころは石ころ。
あるべき場所に、ただ在るだけ。
生まれとは、ただただ平等に横たわる。
けれど、育ちは暴力的なまでに不平等だ。
与えられるものは、自分では選べない。
交わらない道では、与えようもない。
サラサラと風が木々の枝葉を撫でていく。
それを見上げながら、そんな取り留めのないことを考えていたら、自然と眉間に皺が寄った。
私に与えられたのは、衣食住。
それも、一般よりずっと上等なもの。
それでいい。
考えるのはやめよう。
考えてしまえば――必ず、欲が出る。
(帰るか……)
日当たりの良い場所に立てていた一本の小枝を引き抜き、その辺へ投げ捨てた。
この世界で時計は嗜好品だ。
大貴族しか持っていない。
帝国の大都市でさえ、時計は公共施設に一つあるかないかだった。
だから奴隷は、時間など気にしない。
気にしないから、一度帰らずに野宿したところ、魔獣に襲われてえらい目に遭った。
なので、日が落ちるまでには帰るようになった。
死んだと思って諦めたら、ものすごく良い笑顔で皇子様が迎えに来たので、死ねなかった。
魔法って凄いんだ。
一瞬で移動できて、一瞬で魔獣を灰にすんの。
だぁれの服も汚れなかったわ。
皇子様は何も言わなかった。
けれど翌日、近衛のおっちゃんに「日が暮れるまでには必ず帰れ」と口酸っぱく言われた。
その日から仕方なく日時計もどきを作り、夕刻までには戻るようにした。
なんか最近、そのおっちゃんと侍女頭の姐さんが、私に絆されてきたのが気がかりだ。
「帰るかなぁ……おっかないのが、三人に増えたし」
また気を抜いて帝国語で独り言を言い、欠伸を噛み殺した時、どこかで吹き出すような笑い声がした。
(監視つけてんなら、別に良くない? あんなに怒んなくても。あー……でも、これ余計な人員割いてるのか。お散歩コース、変えるかな。頻度も)
次の日から、二日空けて公園へ行くようにした。
散歩コースも短めにした。
めちゃくちゃ暇になった。
皇子様が、めちゃくちゃウザくなった。
十日後には毎日公園へ行くようになり、散歩コースも元に戻した。
「サーシャ、遊びに行くぞ」
「早く結婚しろ。頼むから、結婚しろ。婚約者でいいから、早く決断しろ。本当に頼む」
「もっと言ってやれ、奴隷」
「ソルジュ、聞こえているぞ」
「二十五にもなって、継承権一位が未婚ってわけ分からん。何がどう拗れてんだよ。皇子様、性格以外は拗れてなくない?」
「隣国の王太子の成人の儀に呼ばれている。用意しておけよ。お前の話していた“前世”とやらが真か否か、確かめる時が来たぞ!」
「五年も前の戯言を覚えてたのかよ」
「当たり前だろう。お前が忘れても、俺は覚えているぞ。ほら、色々調べた。読んでおけ」
自分の前世については、正直そこまで詳しく話していない。
しかし、この世界がかつて小説の舞台になっていたことは話した。
そうでもしなければ、帝国語を話せることの説明がつかなかったからだ。
ただ、言語については理屈ではないので、かなりこじつけた。
どういうわけなのか、あの日から話す言葉も聞こえてくる言葉も、全て翻訳されてしまう。
文字の読み書きも同じだった。
こればかりは、自分でも分からない。
(で、本当に来ちゃったよ……)
煌びやかな内装。
清楚でありながら華やかな王族の正装。
壮麗で歴史的な価値を持つ王城。
これを維持するための盤石な王政。
それを創り上げた人々。
その意志を継ぎ、維持してきた人々。
彼らの努力と信念の揺るぎなさを、たかが奴隷の私が知っていることの異常さ。
その、たゆまぬ努力が集結する高潔な場で、陳腐な三文芝居とはなんと贅沢なことだろう。
小説のクライマックスに立ち会うことができて、光栄である。
「公女アクセーヌ! 今、この場を借りてお前の罪を告発する!! そして婚約を破棄し、私は聖女リリアと婚約を結び直す! 我々の真の愛が世界を救う鍵となると、聖なる預言の書にも書いてある!! この聖預言書が、私の言葉を支えてくれることだろう!?」
実際に聞くと、頭の痛くなる台詞だった。
「お前が言っていた、聖女と王子と婚約者の修羅場か?」
(身も蓋もないことを……)
楽しそうな声が、右隣から届いた。
特等席から見るオペラのような臨場感に高揚するが、色々と台無しになっている。
ちなみに私は立ち見だ。
階下で繰り広げられているのは、本来予定されていた成人の儀でもなければ婚約式でもなかった。
小説で読んでいた時は、あんなにも輝かしく興奮した景色が、今は煤けて見える。
「この国の聖女の条件に、処女はないしなぁ。普通に浮気がばれて、引っ込みがつかなくなったか?」
静まり返っていた断罪の場に、静かに響いた声。
間違いなく、この場所で一番高貴な声だった。
この国の王よりも高い位置に設けられた御台。
さらに天幕を張り、その顔を覆うのは深い藍色のベール。
式典用の衣装もまた、帝国でも限られた者にしか着ることを許されない装いだった。
「俺のお祖母様が生まれ育った国で、こんな喜劇とは……サーシャ、お前も混ざるか?」
いつものように愛称で呼ばれたが、応えない。
彼の一言一言が、さざ波のようにこの場にいる者たちの様々な思惑を刺激していく。
成人の儀で婚約破棄を見世物にされ、招待客はわざわざ遠方から足を運び、皇太子の後ろ盾を強化するための場が飛んだ茶番に変わった。
この国の女王と王配は、どうするのだろう。
「婚約者の方も、先手を打って隣国の王弟とよろしくやっていたそうじゃないか。いくらなんでも、この国の王族を馬鹿にしすぎでは? 臣下として下ったはずだが、実は裏で糸を引いているのか」
(こうして全部バレているのに……でも、公女はこのまま断罪されて投獄されていた。もしかして、私と同じ転生者だったのか? それにしては王子の台詞も少し変わっているし……聖預言書に関しては聖女しか知り得ない。もしかして、両方がそうだった……?)
なんにせよ。
聖女の語る薄っぺらい愛も。
その茶番に乗って、公爵家の責任から逃れようとする公女の浅はかさも。
その全てを利用しようとするナルシシストたちも。
ここから見れば、反吐が出る。
私が失望混じりにため息を吐けば、また楽しげに隣が笑う。
私たちのやりとりは、天幕に遮られ階下からは見えない。
見えないはずなのに、茶番を終わらせるであろう殿下の鶴の一声を、誰もが待っているのが空気でありありと分かった。
小説のストーリーでは、ここでカナフ殿下が天幕から出て、階下の者たちへ沙汰を言い渡す。
『その婚約破棄、しかと見届けた』
その後、ヒロインは聖女として数々の苦難に満ちた冒険へ出かける。
公女様は最終的に修道院行き。
ゲームでは、アナザーストーリー展開もあった。
でも、間違いなく奴隷のアナザーはなかった。
この改悪されたエンディングは、どうなるのだろう。
(前世? シナリオ? ヒロイン? 悪役? 何を喚いている? どんなに足掻いても、たかだか十八にも満たない子どもの悪あがきが、全てを持って生まれ育った大人に通用するとでも?)
精神年齢は三十歳超え。
それが、どんなアドバンテージになったというのか。
政治家だった?
一流企業の社長だった?
一から水を分解できるほどの技術と知識があった?
何かを極めた?
何を?
スマホ片手に突き詰めた知識が、権力よりも強いのか?
自分の領地を隅々まで見渡し、研究できるほどの頭があったところで、権力の前では無力だと分からなかったのか?
智力で革命を起こすより、武力で革命を起こす方が効率が良い。
そんなこと、分かり切っているのに。
カツ、カツ、と。
楽しそうに、街ひとつ買えるほどの値段がついた椅子の肘置きへ、躊躇いなく爪で引っ掻き傷を作る人がいる。
その男が楽しげに笑う前で――前世の知識が、どんな盾になってくれるというのだろう。
「サーシャ……俺は、【お前ら】の前世に付き合うつもりはないぞ」
あなたたちの『好き』には、果てしない時が待っている。
それを愛と呼ぶの?
なんて、愚かな。
事前に渡された資料には、公女の公爵領での領地改革や経営方法の刷新が詳細に記されていた。
確かに、一見うまくいっているように見える。
しかし、このまま行けば、いずれ一定層が小金持ちになり、商人が力をつけ始める。
徐々に、その豊かさが――身分制度を脅かし始める。
歴史を知らないのか。
私の記憶では、ブルジョア層はいつだって革命の中心だったように思う。
戦うには、金がいる。
(だからね、君たちは順番を間違えたんだ)
まず、公女がしなければならなかったのは、自領の独立。
そして、民主主義という定義を浸透させること。
それでも盤石とは言えない。
きっと、それが成された時、身分制度は撤廃される。
他国は、それをまだ良しとしない。
圧力からの戦争も、当然視野に入れておくべきだろう。
シンデレラになれなかったヒロイン気取りのお嬢さんにも、同じことが言える。
身分制度の根深さを、私たち現代日本人は本当の意味では理解できない。
生まれた時から、自分の意志を自由に口にできる。
その感覚では、この中途半端に身分制度を礎とした世界では、生きていけないのだ。
「サーシャ。奴隷だからといって、許可なく話してはいけないとは言っていないよ?」
「……私を今まで飼っていたのは、これを見せるためですか?」
なんてことはないように、皇子が鬱陶しそうに片手を払った。
ただそれだけで、階下の茶番は一瞬でなかったことにされた。
ものの五分もかからず、この日の出来事そのものが消し去られたかのようだった。
来賓たちは何事もなかったように、急遽開催された立食パーティーで外交に勤しみ始める。
「まぁね。まずまず楽しめたが……スティングルス領の公爵は、娘の教育を間違えたのは明白だ。首をすげ替えよう。アレらの思想は、まだまだ必要ない。異母兄――隣国の王弟――の首も添えようか。そうすれば母上の怒りも、とりあえず収まるはずだ」
観念して、私も帝国語を話すことにした。
「あの王子様は……誰と婚姻させたところで、何にもならないでしょうね」
「奴隷の君にも分かる未来が、彼らには分からないようで、俺は悲しいよ」
「スティングルス領地の……皇女殿下と皇帝陛下がお好きな酒や食器が楽しめなくなるのは、いささか問題です」
「君の想像通り、俺が何もしなくても必要な者の首は御前に並ぶさ」
「公女と聖女は、ご主人様の愛妾に据えることは……許されませんか? あの能力や知識は、使いようによっては、さらに帝国の発展へ繋がるのでは?」
「サーシャは優しいね。娘らは最終的にそこを狙っていたのではないかと……君も気づいているだろう?」
「……汚い獣の頭では、分かりかねます」
「教えてもいない、触れさせてもいないのに、そこまで勤勉な君以上に興味深いものではないが……考えておくよ。宰相あたりの愛妾で十分だ」
「……」
最悪な人選に言葉もなく視線を落とせば、楽しげな笑い声が聞こえた。
伸びてきた手の気配に、慌てて距離を取る。
だが、さらに捕まえるように腕を取られ――最悪なことに、そのまま膝の上へ抱え込まれてしまった。
控えていた侍女が倒れる音がした。
「……侍女たちの身が持ちません」
「そろそろ、なんで文字が書けるのか教えてくれても良くはないかい?」
「……教えたら、彼女たちの命を救っていただけますか」
「まさか。お前を悲しませたのに、許せるものか」
「家畜に、そこまで愛情を注ぐものではありませんよ……」
「ふむ……なら、家畜は喰らってやらねばならんか?」
「殿下……戯れが過ぎます」
ドン引きしながら、不敬を承知でその腕から逃げようとする。
けれど強く押さえ込まれ、晒していた首筋に噛みつかれた。
「ねぇわ……マジで」
「俺は、そっちの話し方も好きなんだよなぁ。そろそろ、この国に入れ込んでいた理由も話してみないか?」
「大した理由じゃないよ」
小説とは違うエンディングを迎えたその日、私は\この世界にこだわることをやめた。
結局、聖女は今回の騒ぎの罰として、各地への聖女行脚を命じられた。
公女は立場こそそのままだが、三年間、教会での無償奉仕を言い渡された。
王太子は第一王子へ戻され、隣国の後継者争いは振り出しに戻った。
そして王子は、聖女の旅に同行し、また一から修行し直すという。
……やだなぁ。
そんな、世界を救う旅のエンディング。
肝心の奴隷解放運動が起こるのは第二部だったことを思い出し、最高に格好悪かったあのエンディングが、実はプロローグだったことを思い出すのは――一ヶ月後のことだった。
*
(あの断罪から、一ヶ月も経つのか)
話す、という意思疎通は難しい。
話さなければ伝わらない。
話したとて、伝わらなければ意味がない。
そういうことに関して天才的な才能を発揮するのが、私のご主人様なのかもしれない。
つまり、彼の前では沈黙を金とせざるを得ないということだ。
「大臣、今一度、我々の話をご一考いただきたく……」
だというのに、玉座から遠い謁見の場で、諦めず言葉を繋ぐ彼らは、ある意味健気だ。
彼ら――聖女御一行は、今から数ヶ月後に起こるであろう災害について陳述しに来た。
だが、何か確かな裏付けがあるわけではない。
ご主人様の御前に用意されたトーシャワー地区の地図を、何の気なしに眺める。
そういえば、そんな話があったな。
一読者で、コアなファンでもなんでもない奴の記憶など、その程度だ。
「サーシャ、何か他にしたいことはないのか? そろそろお前の日課を観察するのも飽きてきたぞ。あの簡易な時計は面白かったが、学者がお前の知恵に驚嘆しておってなぁ……。お前の村か親は、奴隷らしくなく学があったのか?」
「……」
「サーシャ……そろそろ俺に懐けよ。可愛くないやつだな」
「……いや、聖女様方の話を聞いてあげてくださいよ。裏付けなら、彼女たちの中に地理や地区の風土、天候などに精通した者を入れて、取らせてくれば良いのでは?」
「そうやって話を逸らすのは、お前の可愛くないところだ。大臣が代わりに話を進めてくれているから、問題ない」
むくれたようにため息を吐く彼へ、不敬ながらこちらもため息を返す。
(確かに、暇な毎日だ)
毎日、自分の小屋でゴロゴロする私を、柵の外から飽きもせず眺めるご主人様。
『私に聞くより、民や聖女や公女の話を聞けよ』
そう口にしたくないので、分からないふりをしてやり過ごしてきた。
尊き壇上のやり取りに気づくはずもない彼らは、まだ健気に叫び続けている。
「痴れ者が……よもや、あの浅慮な聖女の能力を忘れたわけではあるまいな」
皇子は苛立っている時の癖なのか、ゆっくりと長い銀髪を掻き上げ、右肩へ流しながら呟いた。
私は前下がりのショートカットの黒髪。
額がよく見えるよう、前髪はセンター分け。
首につけられた、皇子様の瞳と揃いの藍色のチョーカーは、案外気に入っている。
三着を着回している同じデザインの服は、ツナギのように着られる機能的なものだった。
色は地味な黒にしたかったのだが、皇子から「気が滅入る」という理由で白にされた。
(汚れが目立って仕方がない)
毎日、申し訳ない気持ちで過ごしている。
そろそろ私に飽きて、捨て置いてくれないだろうかと悩むほどだ。
今は、野暮ったい真っ白なローブを頭からすっぽり被り、存在感を極限まで消している。
「彼女が強く願えば願うほど、その言葉が形になる。という御業でしたか」
ご主人様の言葉に、彼らと話していた農林畜産を担う大臣が反応した。
彼は現在の陛下に仕える身なので、皇子に対して断りなく言葉を使える。
歳は陛下とそう変わらないと聞いている。
大臣の中では最年少なのだとか。
「その口枷をもってしても、彼女の予言は止まらぬと……。確かに浅慮。今世の聖女は、自身の沈黙に価値があると、なぜ気づかぬのか。皇子、一応調査してみますかな?」
「真実と相なった時、どう繕う。聖女が魔女に変わるぞ。利になると考えての行脚が、鋭い刃となって返ってくる」
「なんと面倒な……奴隷の、そちはどう考える?」
「……」
大臣に唐突に水を向けられ、少したじろぐ。
私はこの世界を変える気もなければ、その立場にもない。
変えられるとすれば、彼女たちだと思っている。
楽しげに私を見つめる皇子の視線に眉を寄せ、視線を伏せたまま口を開いた。
「僭越ながら……公女マリトワ様が、聖女様に相反する魔法を得意とし、一時的に彼女の御業を退けたと聞きました。それに、彼女は彼女で予知の能力があるとも。トーシャワー地区は教会の規模が小さい。ゆえに公女様を含め、何名か修道女を派遣し、貧民街などで奉仕活動を数ヶ月行わせてみる……と愚考いたします」
私が言い終わる前に、大臣が喉を鳴らすように笑った。
「貴様、本当に奴隷か?」
「まごうことなく」
「大臣。俺が気まぐれで飼ったものが、つまらないモノなわけがあるまいよ」
しばらく私と聖女御一行を除いた者たちで話し合いが行われ、マリトワ公女を含め十五人の修道女たちを派遣することが決まった。
その中には数名、大臣や宰相子飼いの魔法使いを紛れ込ませるらしい。
災害が起きたとしても被害を最小限に食い止める策を、これから秘密裏に立てるとのことだ。
これでマリトワ公女も、少しは名誉を挽回できるだろう。
しかし聖女は、私が思っていた以上に、自分というものを知らずに生きているようだ。
変に関わらない方が良いかもしれない。
「聖女様の発言を、お許し願えますか?」
「ならん」
「ですが、トーシャワー地区に関しての詳細は、聖女様しか知らぬのです」
「公女マリトワをトーシャワー地区へ派遣する。貴様らは、その災害が起こるまで地区周辺へ近寄ることを禁ずる」
「……御意」
大臣の回答に、一行が息を呑んだ。
恐らく、今の言葉の意図を汲んだ者は半数。
残りは、聖女様を含めて憤っている。
手柄を横取りされた、とでも思っていそうだ。
「なんで!? アタシの予言なのに、アタシたちにトーシャワー地区を救わせてくれないの!?」
口枷が外れた。
どうやら彼女の後ろに控えていた信者の一人が、要らぬ気を利かせたらしい。
(また人が死ぬな……)
愚か者が、こうも呆気なく人を殺す世界だ。
私も喋りすぎた。
反省する。
「早々に名誉挽回、とはいかぬのだ。のう……キャスガネーデ侯爵の倅よ」
今でも不思議なのだが、私はまるで映画の吹き替え版を観ているような感覚で言語を理解している。
文字を読む時は、翻訳がルビのように振られる。
言葉は口の動きと合っていないのに、日本語として聞こえる。
私が話した日本語も、自動的に帝国共通語へ変換され、口から勝手に吐き出されていく。
自分で自分が気味悪くなるほどの、得体の知れない違和感。
説明のしようがないので、皇子には嘘をついた。
聖女の御業も、似たようなものなのではないかと思う。
だからこそ制御のために、厳しい修行が必要なのだろう。
彼女が初めての聖女でもあるまいし、この帝国における教会の起こりは、それこそ帝国よりも古い。
歴史に裏打ちされた確かな鍛錬を、なぜか彼女は「受けたくない」と拒絶したらしい。
……ちょっと今、気づかなくていいことに気づいた気がする。
やめておこう。
「皇子様、どうかお慈悲を! アタシの予言は、この先も役に立つはずです!!」
必死に言い募る様が浅ましく、今まで代表して話していた王子様が苦い顔で俯いた。
分かるよ。
誰か殺してくれないかな、って気持ち。
「あ、夢で見るんです! 例えば、皇子様が飼っているモノを当てられます!」
貰い事故だと?
私が顔を上げたのと、苦い顔をした王子様が慌てて彼女の口を塞ごうと動いたのは同時だった。
「藍色の瞳を持っていたという理由だけで神事の贄にされそうになっていた、黒い毛並みの彼女を気に入って、拾って帰ったはずです!」
贄の理由、そうだったのか?
他人事のように感心していたが、次の言葉で息が止まった。
「藍色って意味の名前をつけて、サーシャって愛称で可愛がっている『猫』がいるはずです!!」
咄嗟に、贄の時に覚えさせられた真言を唱えた。
だが、聖女の力が上だったようだ。
皇子、笑うな。
近衛隊長、肩震わせるな。
やめろ。
大臣たちも二度見するんじゃない。
ポヒュッ、と間抜けな音がして、体に光が散る。
衝撃でローブが乱れ、首から上が露わになってしまった。
「最悪だ……もっと真面目に、贄の修行をすれば良かった」
「サーシャ、可愛いなぁ! お前は本当に飽きない!! はっはっはっ!!」
「私を今すぐ殺してくれ……」
真言は、心で唱えれば唱えるほど不浄なものを退けるのだそうだ。
聖女様のたった一つの偽りを退けるには、力が及ばなかったが。
「奴隷の……そちは、獣人族だったのか?」
「カーリャ地区の外れに村があったから、ルーツを遡れば混じっているかもしれませんね」
「なるほど、混血が生まれやすい地区ではある。可能性はあるな」
「なぁ、お前たちは真面目に話しているが、私はサーシャの変貌に怒れば良いのか、感謝せねばならぬのか、量りかねておるんだが?」
「あぁ……そうですか」
大臣と息が合ってしまい、眩暈がした。
のちに事故として処理される、この日の珍事。
「猫の耳が生えるとは、御業も俗よの?」
「それ以上近づいたら死ぬからな。あのアバズレ聖女、聖女行脚をなんだと思ってやがったんだ。さらにヤリまくり行脚とか、娼館に売り飛ばした方が金かかんなかったんじゃねーのか? くそっ……やるなら全力で全部猫にしやがりあそばせってんだ……! ヤルことヤって、修行サボって力半減してる上に、あの断罪劇のこと忘れてんのか? 頭湧いてんのか? なぁ? 元凶の片割れよ?」
くだんの聖女は問答無用で牢屋へぶち込んでもらい、まだ話が通じそうなボンクラ王子を壇上の一席で締め上げる。
「殺してくれ……あと、俺はヤッてません」
「婚約者ヤられてんじゃねーよ、素人童貞。担がれてただけとか、生き恥行脚かよ? 可哀想だから奴隷の私が抱いてやろうか? あ? クソッタレ」
「こんなに流暢に毒舌を操る奴隷とか、色々と信じられない……。どうでもいいと思うが、俺の婚約は破棄されていない。公女マリトワが婚約者のままなんだ。一応、一線は越えないように気をつけていたから命拾いした」
「アバズレが婚約者なのは変わんねぇのな。それから、毒杯一歩手前の王子なんか奴隷より生きづらいわ、ドアホめ!」
「返す言葉もない……」
「俺より仲良くなるなよなぁ、ボンクラ」
この世界(猫耳)を変えるために、私が聖女を目指すことになるまで――あと数分のことである。
書きたいことを詰め込んだら、収拾つかなくなった。




