会話デッキがあればいいのに。
ジャズ調の少しこじゃれていたBGMが流れる喫茶店の、角に位置する壁際の2人掛け座席。
僕の対面のソファ席には、大学内でも5本の指には入るであろう美少女が、アイスコ―ヒーのグラスの氷をぐるぐるとかき混ぜている。
平常であれば、この美少女の顔をまじまじと見ておいて、できるだけ思い出にとどめておきたい、とでも思うところだが、僕は、落ち着きなくことあるごとに座る姿勢を変えながら、窓の外を流れる車に視線を注いでいた。ただし、ボンヤリとしているのではない。脳内は、次に紡ぐべき言葉を必死に探していた。
(気まずい―。早く帰ってきてくれ、ヒナタ!)
時は、10分ほど前にさかのぼる。
早坂日向は、大学内で唯一といっていい女友達である。友達といっても、バイト先のレストランで働くうちに仲良くなり、バイト仲間での飲み会を共にする程度なので、同僚といったほうが正しいかもしれない。
「心理学の過去問持ってるんだけど、あげようか?」
夏休み前のテスト期間もほど近くなったあるシフト中、ヒナタの一声は、週5のシフトで学業を疎かにしている僕にとって願ってもない機会であった。
飛びつくように返事をした僕の切羽詰まった様子を踏まえて、ヒナタは「じゃあ明日、大学前のステバで」とすぐに過去問の受け渡しを約束してくれた。
そして、今日―。
ステバに向かうと、ヒナタはすでに店内で待っていた。そして、ヒナタの斜め向かいの席には、見知らぬ女の子が座っていた。
ヒナタが隣の席の椅子を引く。見知らぬ女子の目の前に座るのは気が引けたが、着席を促されては座るほかないため、促されるまま着席した。机の上には、参考書と筆記具が広げられている。どうやら二人は、勉強するために2人掛けの座席を一つずつ使っているようだ。
「こちらは法学部の友達の佐山涼さん。」
ヒナタが女の子に掌の先っぽを向けながら、紹介してくれた。毎度のことだが、ヒナタはいちいちジェスチャーが大きい。
それに合わせて、佐山さんと呼ばれた女の子がぺこりと軽く会釈をする。
「早坂さんと同じバイト先の入山賀啓です。」
僕も自ら自己紹介をして軽く会釈をした。それに合わせて、また佐山さんは会釈をした。なかなか、真面目で礼儀正しそうな人だ。
その後、ヒナタが佐山さんとの馴れ初めの授業の話や、バイト先では僕より先輩であることなどを一通り話したあと本題を切り出す。
「で、件の過去問なんだけど―。法学関係の勉強道具入れること考えてたら忘れちゃって。」
ヒナタは、手のひらを合わせてゴメンとジェスチャーをしているが、顔はいつも冗談を言うときと同じニヤケ顔である。全く反省の色はない。とはいえ、早坂日向は普段からこういう人間である。バイト中でも細かなミスはちょくちょくあるが、人当たりがよくなんだかんだ許されてしまう。うらやましい性格である。
「でも!私の家ここから10分ぐらいだから。今から取ってくるね、ちょっと待ってて。」
ヒナタはそう言いながらリュックに道具を詰めて帰り支度を始めている。
唐突なことに一瞬あっけにとられたが、その展開がマズイことは瞬時に察知した。
「別に後で帰りにヒナタの家に寄るのでもいいけど?」
「いいから、いいから。カケイの家反対側バイト先の近くでしょ?遠いし。」
確かに、僕の家はヒナタの家とは逆方向である。他の制止の言葉を考えているうちに、ヒナタは「じゃ、ちょっと待っててね。」と言い残して去ってしまった。
仕方なく、ヒナタが去っていった出口の方向から、机のほうに向きなおる。
「行っちゃいました、ね―。」
佐山さんが話しかけてくる。その顔は笑みを浮かべているが、誰が見てもわかるぐらいの愛想笑いである。別に僕のことが嫌いというわけではないだろう。誰だって愛想笑いをうかべたくなる。
初対面の人間と向かい会って話さなければならない時間ほど、気まずいものはない―。
ヒナタが僕たちを置き去りにした後、ヒナタ人の言うことも聞かずに去っていったことに対して二三文句を言ったのち、「何か飲み物を買ってきます」とカウンターでアイスコーヒーを注文し、席に帰ってきたところで、最初の場面にさかのぼる。
通常であれば、共通の友人であるヒナタについて会話を広げるものであろうが、ヒナタがお互いのヒナタとの馴れ初めについてひとしきり話してしまったせいで広げるにも頭をひねる必要がある。こういう時に自分の会話スキルが非常に乏しいことを実感する。
佐山さんは相変わらずアイスコ―ヒーのグラスの氷をぐるぐるとかき混ぜてはちょくちょく飲んでいる。
沈黙は十数秒程度であるが、積極的に会話をしている(しようとしている)場面での十数秒はあまりにも重い。しかもこういった時、沈黙が長くなればなるほど、次の言葉は紡ぎずらくなる。重い沈黙を破って出てきた言葉には、黙考した時間にふさわしい話題が求められてしまうのだ。
「そういえば、カケイさんは何学部、なんですか?」
先に沈黙を破ったのは佐山さんのほうである。なるほど、確かに僕は佐山さんが法学部であることを紹介されたが、僕の学部は教えていない。これは良い話題提供である。
「工学部。の、物理工学科です。」
工学部は人数も多く、学科が多いので学科も勝手に補足した。だいたいの場合、結局学科も聞かれることになるので、最初から言っておいたほうがいい、という経験則である。
「物工なんですね。」
学内の人間は物理工学科を物工と略す。他の学科も長いところはだいたい略して使われる。
「物工ってことは、金井さんはご存じですか?」
佐山さんはこの話題を広げようと質問を重ねてくれているが、この流れはまずい。なぜなら、僕は金井という人間を知らない。おそらくは、佐山さんの知り合いであり、仮に共通の知り合いであれば話題が広がるところであるが、今回は残念ながらハズレである。嘘偽るわけにもいかないので正直に答えるしかない。
「いえ、知らない、ですね。すみません。」
なぜか謝ってしまう。
「あ、いえこちらこそすみません。文化祭の運営委員で金井さんという方がおられてもしかしたら、と。」
佐山さんにも謝らせてしまったのは、申し訳ない。気まずさからお互いアイスコーヒーをすする。必然沈黙が再度訪れる。先ほどは佐山さんから話題提供してもらったので、次はこちらから話しかけなければならない。アイスコーヒーをすすりながら思いつくことを口にする。
「―今日も暑い、ですね。」
これは最低の悪手である。人が天気や気温について口にするのは、決まって話すことに困った時であり、話題に出すこと自体が気まずさを物語っている。しかも、天気というのは人類すべてに対する共通項であって、他の共通項が見いだせないときのための苦肉の策である。我々には同じ大学の同学年というすばらしい共通項があるではないか。
「そう、ですね―。」
佐山さんの返答も必然である。暑いとか寒いとか言われて「そうですか?」などという人間はいない。誰もが笑っていいとものようになってしまうのだ。
こうなってしまえば最後、話題授受者として対等な立場であったはずの僕らの関係は、僕がタモさん、佐山さんが観客の立場になってしまう。つまり、次に話題を提供しなければならないのは僕なのである。
必死に話題を広げようとしたとき、今朝見たニュースを思い出した。
「大阪なんかは39℃らしいですね。」
全く良手とはいえないが、とりあえずニュースの受け売り。その場しのぎである。
「あ、そうなんですね。―大阪にご友人でもいらっしゃるんですか?」
一転、これは悪手であったと気づく。佐山さんは話題を広げようと気遣って、わざわざ大阪のことを言及するのだから何かあるのでは?と考えたのだ。ただし、僕は大阪に縁もゆかりもない。にもかかわらずニュースの受け売りでいきなり大阪の話題を出した僕が全面的に悪い。
「いえ、そういうわけでは―。」
「あ。―そうなんですね。」
―三度目の沈黙。気まずさグラフがあったとしたら今は最低レベル、極小点である。
ここで逆に「佐山さんは大阪にお知り合いがいるのですか?」と問うこともできるが、普通は知り合いがいれば自分から口にするはず。わざわざ気まずいやり取りを再放送する必要もないだろう。
佐山さんは相変わらずアイスコーヒーを飲んでいる、が、気まずさをごまかすたびに飲んでいるためか、もうコーヒーは残っていない。グラスのそこに残った大きめの氷をかき混ぜ、溶けては、その溶けた分を飲んでいる。そういう僕もさっき頼んだばかりのアイスコーヒーはほとんど残っていない。
「ちょっとトイレ行ってきますね。」
「あ。はい。」
僕は最終手段を行使した。会話からの逃走、実質的な敗北である。ただ、負けたからと言ってもう何もしないでいいわけではない。
用を足すわけでもないが、トイレの個室に入り戻った時に何を話すべきか思考をめぐらす。我々は同じ大学の同学年である。何か―、何かあるはず。
そして、佐山さんのある発言を思い出した。
(「あ、いえこちらこそすみません。文化祭の運営委員で金井さんという方がおられてもしかしたら、と。」)
文化祭の運営委員。彼女はひそかに次の話題を提供していたのだ。
本来、会話というのはこういうもの。相手の発言のどこかをフックにして広げていく。要は現代文の読解問題と同じだ。そう思うとなんだか、無敵感に包まれ、いくらでも会話ができるような気がした。
意気揚々と席に戻ると、佐山さんは開いていた参考書を見ながら、ノートに書きこみ、勉強をしていた。こちらに気づくと、「あ。」といってこちらに視線を向けてくれる。ただし、これは次の会話に対する期待の眼差しではない。初対面の人間に対する気遣いの眼差しである。
この状況で最適な言葉はすぐに見つかった。
「どうぞ。勉強続けてください。」
「―。すみません。」
佐山さんは気まずそうにしながらもノートに向きなおり勉強を始めた。僕は勉強道具も持ってきていないので、スマホを触りながらテストの科目を確認したりして、お互い言葉を発さないまま過ごした。
ヒナタが過去問を持って戻ってきたのは、去ってから1時間ほどたったころだった。「サークルの先輩と会っちゃって―。」などと遅くなった言い訳をしていたが、暑い中わざわざ持ってきてくれた手前、強くは言えなかった。
過去問を受け取ると用もないのでそのままステバを去った。
今思うと学内きっての美少女と親密になるチャンスだったのかも、などと思いながらも、自分には無理だな、と達観したような気持ちになった。次に話すべき言葉を真剣に考えてしまう。こういう時点で、直感的に話をするタイプのようにはなれないのだ。
だからといって、そんな自分は簡単には変えられないし、嫌いでもないのだが。