あの夏の続き
―――『もうい~か~い』
突然聞こえた透き通る声に、キーボードを叩く指が、思わず止まる。
誰もいないオフィス、空調が切れるタイムリミットぎりぎりの、残業中のことだ。
「……まーだだよー」
私が無機質に返すと、辺りはしんと静まり返ったまま、何も変わらない。それを確認して、私はまた、何もなかったように仕事を続ける。
それは休日にも起こる。買い物から帰って部屋でくつろいでいると、ふいに何処かから声がする。
―――『もうい~か~い』
少し歩き過ぎて疲れていた私は、鼻から長くタメ息を吐いた。
―――『もうい~か~い』
もう一度声がしたので、私は気を取り直して、こう答える。
「まーだだよ~」
するとそれきり、声は聞こえなくなった。その日は。
翌週会社で、業務がきついと部下から文句を言われ、今だけの辛抱だからと、ようやくなだめることが出来た。
今実現に向けて取り組んでいる企画は、必ず人の役に立つ。今やらなければ、なあなあになって話は流れ、その面倒さから、誰も取り合わなくなるだろう。持てる者より、持たざる者により大きなメリットとなる様なプロジェクトは、作る側である「持てる者達」にとっては、リスクを背負う価値のない、ムダな労力なのだ。
「キミは、もう少し大人になった方がいいな。この件がコケたら、ここに居場所はないよ、分かってる?」
「わかってます。でも、どうしてもやりたいんです、今しかないんです、部長の賛同さえ得られれば、協力してくれる人達も増えますから、お願いします!」
「いいけど、あのねぇ、分かるけど……こっち側の人間がやるには、ちょっとキツいよね」
「はい、でも、うちがやらなきゃダメだと思います。それに走り出せば、きっとスポンサーはどんどん付きます。こういう切り口に賛同することは、この上ないイメージアップですから……もう少し上の世代に響く内容に出来ないか、部長の知恵をお借りしたくて……」
「ふぅーむ……いいよ、だけど僕は、火の粉は被らないよ、いい?」
「もちろんです! よろしくお願いします!」
各所の上長に頭を下げ、根回しに疲れ果て、自宅でどっと、ソファーに体を投げ出した。
するとまた、声が聞こえた。
―――『もうい~か~い』
日常に割り込んで対応を求めるかのような声に、私は少し苛立った。
いい加減にしてほしい。こっちは精神的にもへとへとで、遊んでいる場合ではないのだ。
「まーだだよー」
雑にそう言い返すと、部屋は静まり返り、また日常の時間が流れ始める。
あれは、私が子供の頃。
毎年夏休みになると、家族で、田舎に住む祖母の家に何日か滞在していた。祖母の家の近所にも、東京からの帰省組の子供がいて、地元の子らと一緒に、よく遊んだりした。その時の事だ。
そこは、幅は狭いが勢い良く流れる川があって、獣道しかない、林のような一帯だった。
「もうい~か~い」
「ま~だだよ~、クスクス……」
かくれんぼをして、私は見知った近所の子と一緒に、不法投棄されたガレキの裏に隠れる事にした。他の皆も、竹やぶの茂みや木の上、古びた倉庫の陰などに隠れるようだった。
しかし誰かが、ふざけ始めた。
「まーだだよ~~」
もう皆、隠れ終わっている。なのに誰かが、少し意地の悪い遊びを始めたのだ。それに乗っかって、リーダー格の子までが面白がり始めた。
「もうい~か~い」
「まーだだよ~!」
何度もそのやり取りが繰り返され、ついに、鬼の子が泣き始めたのが分かった。
その子は、学年の割に体が小さく、恥ずかしがり屋で、気の弱い子だった。ちょっと怒って見せればイタズラは収まるだろうに、グズグズ泣いてばかりだから、意地の悪い子にとっては、かっこうの餌食だ。
「もう、ヒック、もうい~……グスン、もうい~かぁーい……」
けなげに何度も声をあげるが、他の子らは、リーダー格の子に忖度してか、誰も「もういいよ」とは言わなかった。
私はたまりかねて、リーダー格の子に遠くから小石をぶつけ、相手が怯んでいる隙に大声をあげた。
「もうい~よーー!」
すると泣いていた鬼の子は、必死で皆を探し始めた。しかし間もなく的外れな方向へ駆け出し、それきり、その子は姿を消した。
いつまでも探しに来ないので、私と近所の子は心配になって、鬼を探しに行った。皆も集まり、方々探したが、いなかった。
翌日、その子は川の少し下流の岩場で、水死体で発見された。そのまた翌日、駐在さんが祖母と話しているのを聞いた。あの子は、近づいてはダメだと言われていた、あの流れのきつい川に誤って落ちたのだ。茂みから滑落した痕跡と、靴が片方見つかったらしい。
その翌年の夏休み、再び祖母の家に滞在していた時から、始まったのだ。この『もうい~か~い』の声が。
寝転がってテレビを見ていた時、初めてそれを聞いた。あの子の声だと、すぐにピンときた。
私は怖くなり、二度三度と繰り返されるその声に、震えながら「まーだだよ~」と返してみた。すると、『もうい~か~い』の声はおさまった。しかしそれ以来、夏が来ると、場面を問わず、たびたび聞こえてくるのだ、あの声が。
もう段々と慣れてしまって、怖いとも思わなくなった。ただ、泣きながら「もうい~か~い」と言っていたあの子に「まーだだよ~」と返すたび、まるで自分が意地悪をしているようで、胸がチクッとする。
しかし、「もうい~よ~」と答える勇気はない。その言葉で、川で亡くなったあの子が、嬉しそうにヒョコっと現れるのではないか。そう思うと恐ろしくて、その言葉を口走る気は起きない。
夏が終わる頃、私が取り組んでいた企画が採用され、来年度の大イベントと並走する一大プロジェクトとして、マスコミに紹介された。社内での逆風は変わらずあったが、主要な管理職を味方につけ、外部からも援護射撃をもらって、何とか勝ち取った。
もう後戻りは出来ない。会社としては、何としてもこれを成功させ、社会から称賛される必要がある。ようやく走り出したのだ。
練りに練ったプロジェクトだ。構造的には問題ない。思っていたより上の階層が統括することになったので、私は昇進したが、今後は調整役として動くだけになるだろう。役目は終わったも同然。
取締役のオフィスで辞令を受け、戻る途中で、部下の一人がはしゃいで駆け寄ってくる。
「お疲れ様です! 主任すごいです、あ、課長でしたね! 本当に実現できると思ってませんでした!」
それは知っている。彼からは、「言われたからやっているだけ」という空気を、ひしひしと感じていた。
私の部下の中には、ネットで私を名指しで誹謗中傷している者もいて、プロジェクトが採用されなければ、死んで詫びてほしいとまで書いていた者もいる。もちろん匿名なので、誰なのかは分からないが。
しかし今や、部下達もプロジェクトの中核を任され、これから会社での待遇は上がっていくだろう。
「おめでとう、やると思ってたよ」
「ありがとう」
声をかけてくれた同期は、私が通りすぎたあと、ヒソヒソと顔を寄せて内緒話を始める。
何を話しているのかは、察しがついた。私の企画が採用されたということは、採用されなかった企画もある。その企画に取り組んできた者たちが、或いは、私が自分の企画を通す為に踏みつけてきた者たちが、悪い噂を流していると聞いた。
私は、誰も彼もを味方につけられるような、器用な人間ではない。誰にでも愛されるような、人間的な魅力もない。動けば動くほど、敵も作ってしまうのは、初めから分かっていた。偽善者だと罵る声も、ちらほらある。
恋人にも、先日別れを告げられた。仕事にのめり込むあまり、彼の寂しさにも、心変わりにも気づくことが出来なかった。
新しく与えられたオフィスに入り、前の物より少し座り心地の良くなった椅子に、体を預ける。
充実感と達成感、そして安心感。それらで満たされた筈の私なのに、背もたれに沈み込みながら、何故だか、とてつもない虚しさに襲われていた。
同期達の、冷ややかな視線。残業に追われて苛立った部下の、恨めしそうな言葉。
それらばかりが脳裏をかすめ、ふいに、自分の孤独さが身に染みる。
その時だった。また、あの声がした。
―――『もうい~か~い』
その透き通った声に、これ迄にない安らぎと、シンパシーを感じた。押し潰されそうな寂しさが、ふっと軽くなった気がした。
嫌われて憎まれて、だけど私は、誰にも出来なかった仕事をやり遂げた。このプロジェクトは社会に受け入れられ、例え名称やリーダーが変わっても、世に生き続けるだろう。
それで十分だ。もう疲れた。
(今までごめんね、意地悪してたワケじゃないんだよ)
私の口から、軽やかに声が転がり出る。
「もういーよ~」