5.帰宅
英碧はたった1日で自分の常識が崩れた。
母親は不思議な力があり、目の前には安倍晴明がいる。
安倍晴明の式神である太常は、人間の形状をしているが、人間ではない。
先刻、晴明が太常に碧を守るよう伝えると、太常は「はい」と言って頭を下げ、碧と重なるように、碧の中に入っていったように見えた。
「燈は一人でも問題ないですが、この子は何の力もない。若い目を確実に摘みとる、と言う意図でもこの子に危害を加える可能性のほうが高いので、太常をつけることにしました。碧、鬱陶しいとは思いますが、慣れてください」
晴明の言葉に碧の頭の中で『素直じゃないですね』と、反響し、碧は頭を抱えて混乱した。
「言葉が反響しますか? 式との対話はそのようなものです」
碧は変わらず頭を抱え「会話もできますか?」と晴明にと問う。
「もちろんです。碧の中に入っている限り、碧の考えのある程度は太常も感じとれます。視覚、嗅覚、触覚、聴覚は、貴方のものです。太常と碧がこれらを共有することはできない」
碧の片手を晴明は頭から外す。
「自身の式ならば五感の共有もできますが、他者の式とは条件付きで貴方に貸与してるんですよ。仕方ないことです」
碧が頭を下げて、晴明に礼をする。
晴明はにこりと笑い「ただしーー」と言って無表情になる。
「碧が陰陽師試験及び歴史の証人試験を受けるときは、太常を外してから受験しなさい。私は実力のない人は嫌いですからね」
碧は色々思ったが、晴明の無表情と声色にすっかり萎縮し、思わず「はい、わかりました」と応えていた。
(え、あれ。私、歴史の証人になるつもりなの? というより、試験って何?)
「ところで、その歴史の証人になるには、どのようなことをすれば良いですか?」
晴明と燈は表情を固まらせた。
しまった。なにも説明をしていなかった。
晴明が「太常、あとで説明をしなさい。加えて、色々教えてあげなさい。いいですか? 燈?」
「私は異論ありません」
碧の意見を聞かずに話がまとまったようだ。
『はい、よろしくお願いしますね。碧』
頭の中で声が響いた。
「さて、戻りますか」
燈が碧を手招きする。
手を離してはダメよ、と言って燈が碧の手を自分の胴体に巻き付けた。
碧は燈の腹部にしがみつくと、扇子をバサッと開いた。
碧がぶつぶつつぶやくと扇子からオレンジ色の光が放たれた。光はますます強くなり、碧は目を瞑った。瞼を介して周囲が真っ白に変化するのを感じた。
光が収まってくるのを感じ、ゆっくりと目を開くと、見慣れた我が家のリビングにいた。
♢♢♢♢
碧は安堵をしたのか、思わず「帰ってきたー」と言って、伸びをした。
そのままソファにもたれようとすると、燈が慌てて碧の腕を引っ張り、座らせないようにする。
碧の体は斜めになり、燈が支えている。
「お母さん、なに、これ?」
燈の顔が赤くなってくる。
「絶対に体が汚れているから、お風呂行ってちょうだい」
「え? 安土桃山に行く前にお風呂は入ったけど?」
碧は一歩後ろに足を動かし、体勢を立位へと正した。
燈は自由になった指で、自信の足の裏を指さし、靴下を脱いで見せた。
靴下は真っ黒だった。
「ひっ! 真っ黒」
「わかった?」
碧は燈の質問に首を上下に振って同意を告げる。
風呂を出てから暫く立っているはずなのに、湯舟が温かった。
湯船につかると疲れが取れた。今日1日で自分の価値観が180°変わった。
碧は顔を上げて風呂場の天井をみた。
水滴が落ちてきそうで落ちない。
「歴史の証人ってなんなのよぉ」
小声だが、思わず、口に出していた。
すると、太常の声が頭に直接響いた。
『歴史の証人とは陰陽師の仕事の一つです。まず、陰陽師試験に受かってから、歴史の証人試験に合格して初めて、歴史の証人になります。そうですねぇ、こちらの世界でいうと……、医師国家試験に受かった後、呼吸器内科や循環器の専門医の認定試験を受けるでしょう? それと同じですよ』
なるほど、よくわかる。腑に落ちる。
だが、なぜ太常はこちらの世界のことを知っているのだろうか。
『あなたの意識と連結しているんです。あなたが知っていることは私もしっているんですよ』
「その理屈でいうと、太常の知っていることはと私も知っているんじゃないの?」
『それは晴明さまが禁じてらしたでしょう? 歴史の証人に係る件については手助けをしてはいけない、と。それに碧さまも同意されていたじゃないですか』
碧はちゃぷん、と鼻まで湯船につかった。
少し不服そうに頬を膨らませた。
はい。言いました。確かに、言いました。
「どうしたら陰陽師になれるかな? まずは陰陽師になって、そのあとは歴史の証人だから、スタートの資格はどうするのかな、と」
『まずは五行説を覚えましょう。それと並行して、体に気を溜める訓練をします。その後、自分の系統を極めます。人によっては私のような式を作り、実体化するものもいますし、自然の力を利用する者もいます』
なるほど。
覚える概要はわかった。
だが、気を溜める訓練なんてどうすれば良いのか分からないが、太常か燈に聞こうと思い、碧は風呂を出た。
燈が碧の長風呂に一言文句を言うので、碧はごめん、ごめん、と言って謝った。
「お母さん、五行説について教えてほしいんだけど、五行説が載ってる本ってあるかな?」
「あるけど、あんた、歴史の証人やるつもり?」
碧はへへへ、と笑い、首を縦に振って応えた。
まだ濡れた髪の毛から水滴がこぼれ、床に落ちた。
「やってみたいと思ってる」
だって、望んでいた知らない世界とやっと繋がったから、自分の未来を変えるのは自分しかいない。
頑張るしかない。
そうしたら、きっと未来が開けていく。
燈は子供のキラキラした目に感慨深くなり、ふっと笑った。
――いつの間にこんなに大きくなって。
「言っとくけど、厳しいわよ。普通の人と違う道を選ぶということは、人より大変なの。たくさん努力しても叶わないかもしれない。それでも、頑張れる?」
「頑張れる」
「わかった」