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潜水少女  作者: 小萩珈琲
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起承転結の結

 畦道を登ってゆくと幅の広い瓦黒い屋根の平屋が一軒、ぽつんと建っていた。門と呼べる門は無く、立ち入りを概ね開放している様子の家の脇には鳥小屋があって、赤茶の軍鶏たちが小刻みに動きながら何かをつまんでは食べている。

 まだ空は明るいが、遠くにあった黒い雲がさっきよりも近づいている。近くの雲は穏やかである。メレンゲを空へ放り投げたような雲がぷかぷかと浮かび、空気は澄んでいて遠くの山のそのまた向こうまで透けて見えそうなほどであった。


 家の縁側には一人の女性が座っていた。しっとりとした黒髪を束ねた美しい女性であった。切られたスイカと蚊取り線香を横に置いて、彼女は畦道からあがってきた私たちをうちわで顔をあおぎながら見ていた。


「こんにちは」私たちは頭を下げて言った。


「こんにちは、何か御用かしら。その辺は日差しが当たって暑いでしょう」


 彼女は自分の横を手でポンポンと叩き、私たちを縁側の軒下へ優しく誘った。


「いえ、すぐ帰りますから大丈夫です。これを届けたくて」


 私は二つの手毬のついた髪留めを彼女に手渡した。彼女の手はひんやりとしていて気持ちがよかった。受け取ると、その髪留めを見て「まあまあ」と笑った。その顔を見て渡利さんが「笑った顔が米谷さんに似ているね」と言った。


「ちょうどなくしたと言って大泣きしていたのよ。もう泣き疲れて寝てしまっているけど」


 部屋の奥には蚊帳が吊られていて、そこには先程の少女が仰向けで寝ていた。縁側の彼女は寝ている少女を愛しそうに見つめていたずらっ子のように言う「まあ、暫く見つかったことは内緒にしときましょ。ちゃんと、宝物として大切にしてくれるまで」

 部屋の奥から懐かしいにおいが立ち込める。埃っぽい蚊帳と畳の臭いだ。確か、この奥の廊下には祖父の大切にしていた盆栽用の鉢が並べられていて、中庭には黒い甕と夏祭りで掬い取った赤と黒の出目金が二匹いたはずだ。よく祖父が大量の餌を入れてしまうので頻繁に甕の水を入れ替えないと臭ってしまうのだ。


「あら、あなた娘そっくりの素敵な髪ね。見事にくるっくるだわ」


 彼女が私の髪を指さしそういった。

 すこしどきりとした。そして、どのように応えようかとあたふたしながらも「これは私の自慢なのですよ」とふと、出た返事がそれであったことに、私自身驚いた。


「本当にウールのようにくるくるとしていて可愛らしいわ」


 女性は今にも手を伸ばして私の頭を撫でそうなほど身を乗り出して、ひだまりの温かさを兼ね備えた、優しさと温厚さを調和したような笑顔を向けていた。


「その髪留めはとても素敵な模様ですね」


 渡利さんが言った。女性は手の中でころころと弄ぶようにして、赤い毬を見ていた。細い長い手の中で踊るようである。


「どこかの温泉旅館のお土産売り場で売っていた安物だけどね。一目ぼれしたわ」


 二つの毬をもってゴムの部分をみょんみょんと伸ばしたり、指先でくるくる回したり、お守りの身になって考えてみれば心中穏やかではない。その女性は「貴方は束ねたりしない方がいいわね。せっかくの真っすぐな黒髪がもったいないもの」と言った。

 その時、ぷんと鈍い音がして髪留めのゴムが切れた。毬の部分がころころと転がって、縁側に置いてあった渦巻き蚊取り線香にぶつかった。


「ああ、壊れちゃった」


 あんなにいじくりまわしていたら、必然的にそうなるだろうと思った。私は転がる毬を拾い上げると再びまじまじと観察してみた。私がストラップにしていたものよりも鮮やかな赤色で、白い菱形の模様と思っていたものは、よくよく見れば黄色であった。そう気づくと、何故か急に愛しく思える。まるで植えた朝顔の種が大きな双葉の芽を出したのを見つけた時のように、読んでいた本の一節がいたく心に響いた時のように、毬の赤い輝きが私の琴線に触れたことは間違いない。

 私がうっとりとしていると女性が私に「それ、そんなに気にいったならばあげようか」と言った。しかし、私は首を横に振った。


「お子さんにあげてください。きっと大事にしてくれるはずですから」


                    〇


「家は遠いの? 雨が降りそうだから車で送ってあげましょうか」


「いえ、大丈夫なのです」


「そんなこと言って、この時期の雨はとても強いのよ。家に着く前に心が折られちゃうんだから」


「私はつきたてのおもちのように粘り強く我慢強いので、決して心が折れないのです」


 すると、女性は笑った。「それ、いい長所ね。素敵だわ」

 軒下から猫が這い出てきた。茶白の猫みかんである。みかんは一言「にゃあ」と鳴くと、私の足元に首元を擦り付けてきた。みかんについて行きなさい、ヤツカ様の言葉を思い出した。


「お邪魔しました」


「いえいえ、こちらこそわざわざ来てくれてありがとうね」


 黒々としてずんぐり太った雲はもう間近まで迫っていた。きっとすぐに強い雨が降り出すに違いない。夏の真ん中に、ここらでは暴力的な雨と風が続く時期が毎年のように到来するのだ。私はよく雨の日に外に飛び出し、びしょぬれになりながらカタツムリを大量に獲り漁っては父と母にこっぴどく叱られたものだ。

 私たちは走り出すみかんの後を追って、田んぼの畦道へと再び戻ってきた。背の高い雑草の中をひょこひょこと跳ねるようにかき分けて進む。

「降り出してきたわ!」と渡利さんが叫んだ。

 それは突然の豪雨で、矢の如く重く鋭い雨粒が容赦なく大地を叩きつける。跳ね上げられた水滴と土埃で、私はむせ返りそうになった。強く差し込んでいた日差しも、遂には雲の中にかくれてしまい、あたりは一変して夜のように暗くなった。


 獣の唸り声の様な音を発しながら、狂瀾怒濤の雷の渦が雲の中で何度もちかちかと光った。辺りは高い建物など無く、一面の背の低い稲穂ばかりで私はいっそう不安に駆れたのだ。

濛々として視界が遮られる中、私は地面に伏せていたみかんを抱き上げた。みかんは私の顔の近くで顔を振って水気を飛ばした。


「もう土砂降りだわ。いったいどうやって帰るのかしら!」


「わかんない! みかんに付いて行けってヤツカ様が言っていたの」


 手でみかんの頭の上に傘をつくり雨から守りながら、渡利さんはみかんに尋ねた。


「みかんちゃん、どうやって帰ればいいの?」


 みかんは手の中で小刻みに震えている。夏とはいえ突然の豪雨に体温は下がってしまったのかもしれない。寒そうにするみかんを私は手の平で優しくさすった。

 その時、青白い稲妻が光り、空気が破裂するような音と共に空を真っ二つに割いた。

 びりびりと地面が振動して、私たちはみかんを挟むようにして思わず抱き合った。我慢強い事で定評のある私でさえ肝を冷やしのだから、渡利さんの様な乙女が怖がるのは当然であろう。

 ふと気づくと、みかんの震えが増していた。腕の中をぶるぶるとぬうようにして飛び出して、空中でくるくる回ると、見る見るうちに茶白の毛むくじゃらになってしまった。


 あっけにとられる私たちをおいて、その形はまた変化してゆく。長い尻尾の様なものがにょきっと生えると、しゃもじのように薄く平べったくなった。それを一生懸命パタパタと動かし、飴細工のように薄く伸びると、それは魚の尾びれになった。体の脇からも両手のようにしゃもじ型の突起物が飛び出すと、それは胸びれになり、頭から丸い球が二つ飛び出ると、それはぎょろぎょろと動く眼球へと変わって行った。


 毛むくじゃらが一気に抜け落ち、ついにそれはまごうことなき一匹の出目金へと変貌していったのだ。

お世辞にも上手に変身したとは言えない中途半端な格好のその生物は、あろうことか「にゃあ」と鳴いて見せた。


「みかんが魚になった!」


 みかんの尾びれがぴろぴろと左右に細かく揺れて、雨の中をまるで水中のように泳いでいる。出目金になったみかんは私たちの方を向くともう一度「にゃあ」と鳴いた。


「掴めってことだわ」


 渡利さんは私を抱きしめると、片手でみかんの尾を握った。

 すると途端に体中が軽くなり、空へと吸い寄せられるような感覚になった。みかんは胸びれを上手に動かし、猫でありながらも魚的運動神経をいかんなく発揮した。次第に私たち二人の体は宙に浮きあがり、水に潜った時の浮力を体中に感じ取りながら雲の中へと吸い込まれていったのである。


 下を向くと、遠のく地面と首を垂れた稲穂、遠くには懐かしき一軒家が見える。そこにあの女性の姿があるかどうかまでは、目を凝らしてみたが飛沫に遮られてよく見えなかった。

 雲の奥深くまで入り込むと、既に息苦しくなるほどの水蒸気の層が顔にぶつかってきた。渡利さんは思いっきりそれを吸い込んだようでひどくむせていた。


「もう! プールの塩素の臭いがするわ」


「ということは、出口が近いということだね」


 みかんがせわしなくひれを動かしながら、懸命に雲の上へと私たちを引っ張ってゆく。私も試しに足をバタつかせてみた。すると、確かな水の抵抗と共に、その抵抗の中をぬうように進む推進力を感じた。幼き頃に嗜んだ水泳の経験がしっかりと根付いているのを確信するものである。それに対して、渡利さんはてんでばらばらに手足を振り回して、水の捉えどころをもがきながら暗中模索しているようであった。彼女が正真正銘の金づちであることは一目瞭然だ。


「米谷さん、泳ぎうまいのね」


「幼い頃に水泳を習っていたことがあるの。私に任せなさい。さあ、しっかりと捕まって!」


 雲の中は渦巻き始めて、私たちは水の中でもみくちゃにされた。下から上へと突き上げられるような水流に成すすべなく体を任せているうちに「これだは泳げようが泳げまいが関係ないではないか」ということに気づいた。それでも渡利さんは私の体にがっしりと巻きつくようにしてしがみついている。


 すでに、みかんの姿は見当たらなかった。激流の中、うっかりと手を放してしまったようだ。頭の奥がかんかん痛くなり、鼻やら耳やらに入り込む水の鬱陶しさすらどうでもよくなってくる。

 このまま渦の中を回遊し続けて、しかるのち水の中に私たちの体が融解して、撹拌されてしまうかもしれない、と思ったその時、渦のてっぺん部分が光っているのが見えた。

 光彩陸離たる、まんべんなく降り注がれる光の束が、水面に映った太陽の物だと気づいた時には私は必死に水を掻いて上へと突き進んでいた。渦の中を、そのまま昇天してしまいそうな勢いで進むと、最後の力で渡利さんがぐいと両手で私の体を水面へと押し上げた。


 激しく水面が噴き出し、頭と体を水面から突き出すようにして私たちは飛び上がった。

 辿り着いた先は学校のプールの真ん中で、そこには咲き乱れていたはずの蓮の花や、水中を踊っていた鯉の姿は全くなかった。むせ返り、濡れ手で必死に顔を擦りながら、あたりを見渡すと、ごく一般的な無機質な作りのプールがすっかり水を打ったように静まり返っている。

 空には痛いほど照り付ける猛火の太陽が見下ろしていて、広大な宇宙の奥深くまで見透かせそうなほど空は青かった。風が疎らに吹き、濡れた髪を優しくなでつけるように西から東へと流れて言った。

 渡利さんはぐったりとしていて、力なく私の腕にしがみついたままであった。いそいで渡利さんをプールサイドに引きずり上げて、プールを囲む金網にかけられていた誰のかもわからないタオルケットを枕にして渡利さんを横たえた。


「大丈夫。少しくらくらするだけ」


 力なく、渡利さんは笑った。


「結局、お守りは返しちゃったから、手元には戻ってこなかったわね」


 強い日差しがあたり、じわじわと体温が上がってくるのを感じた。正直、いまさらお守りの事など些細なことのように感じていた。無事にこの場所に帰ってこられたことも含め、先程まで私たちが体験したことが、間違いなく鮮明に記憶として刻まれていることに、内心とても安心しているのだ。しゅわしゅわと体中の炭酸が抜けてゆくように、ゆっくりと脱力するほかない。


「私がいなくなっても意外と、教室の皆は騒いでいなかったでしょう」


「うん。まあ、なんか拍子抜けするほどすぐにいつも通りになった」


「そういうものなのよ、ほとんど他人には無関心なものよ」


 でも、米谷さんは探しに来てくれると思ったわ。渡利さんはそう言った。


                    〇


 リンリンと風鈴にも似た甲高い虫の声が四方八方から飛んでくる。千里先まで続いていそうなほど長い石段を汗水たらしながら登っているのが私で、軽くステップを踏むように黒髪をなびかせながら登っているのが渡利さんである。


 既にやや温くなったサイダーのキャップを開けて、私は渡利さんの目を盗んでそっと一口含んだ。小さな水疱の塊が口先ではじけながら、わずかに残った冷気が体全体をめぐって、危うく沸騰しかけていた脳みその窮地を救ったのである。


「米ちゃん今、少し飲んだでしょ」


 魔女的な笑みを浮かべて、渡利さんがこちらを振り向くので、急いで私は首を横に振った。神に滴る汗がぽたぽたと飛び散り、頬に冷たい雫の感触を感じた。


「ぷしゅって音がしたもの、嘘ついてもバレちゃうんだから」


「それはタンサンムシという虫の鳴き声だよ」


「なにそれ、そんな変な虫がいるものですか」


「いるともさ。特に東北地方には天文学的数字の虫が生息しているんだから」


 石段脇の草はすっかり伸びきっていて、時折風に乗ってブタクサの青臭い香りと、ヨモギの爽やかな香りが鼻の奥をくすぐった。空には層状の薄い雲が伸びており、既に秋の日和ではあるが、微かに居座る夏気配が茂みに隠れて潜んでいるようであった。

 石段を上がりきると、蔦の絡まる石造りの鳥居とその奥にオンボロの拝殿が見えた。

 風が吹けば飛んで行きそうな拝殿の脇をちろちろと湧き水が流れている。


 私たちは手水舎で手を洗い、ハンカチを濡らして首元を拭った。

 手水舎から溢れた水が苔まみれの木製の樋を伝って大きな黒い甕へと注がれている。甕の中には以前見た出目金魚たちが、相変わらず天真爛漫に色鮮やかなひれをはためかせて泳いでいた。渡利さんは黒い甕を覗き込むようにして彼らを見入っていた。


「いいなあこんなに上手に泳いでいて、気持ちよさそう」


 渡利さんはこの神社の事を能條先生から聞いたらしい。しかし、後日能條先生に聞いてみると「そんな話はてんで聞いたことがない」と言い、ヤツカ様の存在すら知らなかった。私たちの身に起きた事のすべてを話していても、どこか曖昧模糊な空想的物語を聞いている風で、「とにかく無事でよかった」となんとなくその場をおさめた。

 ヤツカ様の言葉をふと思い出す。「ある時はサラリーマンに扮し、或る時は教師に扮し…… 」など、推測ではあるがどこかで既にヤツカ様は私たちの生活の中でひっそりと登場していたのかもしれない。なんせ、悪戯好きの神様であるから。


 軒下の日陰にひっそりとした涼しさを見出し、私たちは縁側に腰を下ろした。靴と靴下を脱ぎ、蒸れてしまった足を秋風でパタパタと乾かしていた。

 道中で買ってきたモズクを、サイダーを注いだ三つのコップに投入し、径の太いストローをさした。熊亀堂で買ってきたおはぎも三つある。小豆がつやつやと輝き、筆舌に尽くしがたい甘味の暴力的風味が二人の女子高生の純粋無垢な食欲を掻きたてる。一つはヤツカ様にお萎えするため縁側の奥へ置いておき、残った二つを私たちで食べた。


「やだ、変な触感ね。モズクがドロドロしていてちょうどいい具合に炭酸の長所を打ち消しているわ」


「これを飲めばたちどころに落ち着くことが出来る」


 日の光にかざすと七色に輝くサイダーの底で、吹き上がる炭酸にモズクたちがゆらゆらと踊っていた。その姿は海底を漂う海藻の動きによく似ている。老若男女問わずこの動きに心を奪われること間違いない。

 拝殿は湧き水の音が染入ったようにひんやりとして静かであった。甕の水面に当たる日の光が反射して、壁に魚のうろこの様な放射状に延びた模様を作っていた。

 私はおはぎを箸で切ろうとしてモズクサイダーを一旦脇に置いた。淑女たるものおはぎは分けて食すのが慎ましい姿というのは言うまでもない。これまでは傍若無人の限りを尽くしてきた私も、そろそろ立派な淑女としての作法を身につけねばならない。さながら渡利さんの様な気品ある女性になるのであればなおさらである。


「おいしいわねえ。やっぱり熊亀堂のおはぎね」


 横を見ると渡利さんは口の脇に小豆をじっとりと付けながら、美味しそうに目を細めて、おはぎを口いっぱいにほおばっていた。手には齧った後のあるおはぎがある。

 ついては、私も頬張った。やはりかじりつくのが一番うまい。こうやって齧るたびに鼻に抜ける満腔の幸福感をほかの何で体感出来ようか。いや、できないであろう。特に友達と頬張る時、それは格別ものへと変わるのだ。


 拝殿の方を見ると、ヤツカ様に備えていたモズクサイダーとおはぎがいつの間にか消えていた。心なしか、どこからかずるずるとストローでモズクを吸い込む音すら聞こえてくるような気がした。

「本当にありがとうございました」そうして私は拝殿に向かってそう呟いたのである。

 あれは本物の母であったか、ヤツカ様が見せた幻であったかなど定かではないが、あの出来事のおかげで私は渡利さんと親しい関係になれた。肝胆相照らす中になるかどうかはわからないけれど、とにかくこんな私であっても、誰かの愛情や友情を確かに受けとって生きているという紛れもない事実だけは胸に秘めていかねばならないのである。


 山の木々も色づき始めるころである。紅葉散る季節になっても雪降る季節の中でも時折、ここにこうやって参拝しに来ようと思う。雨が降る度、気温が下がる度、なぜだか懐かしくなるような、しゅわしゅわと湧き上げる余韻嫋嫋の感情の中を深く潜ってゆらゆらと漂いながら。

 そう、このモズクサイダーのように。


                    〇


 さてその一方、ヤツカ様は拝殿の中で長い足を放り投げるようにして座り込み、おはぎを齧っていた。「本当にここの店のおはぎは最高だなあ」と外に聞こえないほどの声で呟いた。

 ぼんやりとくすんだ色の埃臭い天井を眺めながら、ヤツカ様は幼い頃の事を思い出していた。甘ったるい口内をサイダーの清涼感で流し込み、昔懐かしい稲穂の香りを思い出していたのである。


 あれは、ヤツカ様がまだ猫の姿をしていた時であった。

 一面に広がる田園地帯の飛び回るトンボを目で追いながら、それらの景色を一望できる一軒家の軒下に住み着いてはたまに与えられる猫まんまをのんびりと食べて過ごしていた。いつも決まった時間になると、病の臭いがする美しい人間の女性がヤツカ様の頭上の縁側に腰を下ろすのであった。彼女が日に日に体を弱めているのは明白であった。それでも、時折泣いてしまう二人の赤子をあやしている間は「なんだか、当分くたばりそうもないなあ」と思えるほど幸せに満ちた表情を見せるのだ。

 気味が悪いなとは思ったが、その女性が魚のほぐし身と白飯を与えてくれるので、近づかないわけにもいかない。ヤツカ様が神になるまでの間のうのうと猫として生きてゆくためには、彼女の施しが必須と言っても過言ではないのだ。何を隠そう、「ヤツカ」という名前を付けたのは彼女に他ならない。


 ある日、その女性がヤツカ様に話しかけたのだ。


「ヤツカちゃん。あなた実は私の言葉を理解しているんでしょう。正直に話しちゃいなさいよ」


 ヤツカ様は無視して、猫まんまをはぐはぐと貪り続けた。それでも女性はヤツカ様の背中を撫でながら話しかけ続ける。


「おーい。無視ですかー。そうですか。じゃあ、今後一切のまんまはお預けね。別のえさ場を探しなさい」


 女性が食べている途中の餌を取り上げようとした。それでも、ヤツカ様は猫のように甘ったるい声で鳴いた。そうして、女性の足首に自分の首元を擦り付けて、人懐こい猫を演じ続けたのである。目前の小さな餌などの為にまんまと正体を現したりはしない。


「私のお願いを聞いてくれたら、私の大切な宝ものを貴方にあげるわ」


「それは本当か」


 見事にまんまと声が出た。宝と聞いて、この極貧生活から脱する光明を見出した気がしたのだ。そうして、女性の策につられてしまったのだ。「やっぱり喋れるんじゃない」といたずらに女性は微笑んだ。たまらず、ヤツカ様は「シャー」と唸った。


「実は私はどうやら、もうすぐ死んでしまうかもしれないの。でも、私の可愛い子供の成長を見届けたいという思いはあるわ。これは心からのお願いよ」


「寿命を伸ばすのは無理だ。そんなことをしては神になれなくなる」


「やっぱり、駄目かしら……、ほんの少しでいいんだけど」


 女性は背中を丸めて考える人となった。

 ざわざわと揺れる稲穂が波となって押し寄せるのが眼下に見えた。西の方からは湿った空気の香りがした。朝方に虹が出ていたのを思い出す。朝虹は雨夕虹は晴れに従えば、そろそろ雨が降り始めるに違いない。また、あの空の爆弾の様な雨が降る季節が来るのかと思うと、うんざりとしてしまう。


「まあ、他にもやりようはある」


 押し寄せるであろう雨雲を見据えてヤツカ様は言った。もし、その雲から光の梯子が降りてきて、思い人が降りてくるような物語があれば、それは後世に語り継がれるような、心温まる神話となりえるだろうと思った。「そして、宝物とはなにか」とヤツカ様は女性に尋ねた。


「これよ、このお守り」


 女性が指さした先には赤子が眠っており、その頭には赤い毬の髪留めが鈍く輝いて見えた。お守りとはおそらくその毬の事だろうと思う。


「それは、その子の物じゃないのか。お前、その子にあげたんだろう」


 ヤツカ様は不服そうに尻尾を立て、再び「シャー」と歯を見せて唸った。ヤツカ様は徳の高い神様になる予定であるから、馬鹿にされるのは当然好きではない。何も得られないとなると、ヤツカ様はこの先ずうっと極貧生活から抜け出せず、このように猫に化けて人が与える餌を食ってゆく羽目になるのである。


「この子からもらうといいわ。私の願いを叶えた後で、こっそりと盗んじゃって構わないから」


「うーむ、なんとなく納得は出来ないが、頑張ってみるか」ヤツカ様は考えた。それでも時間はかかるかもしれない。今すぐに大きくなった未来の赤子を連れてくることは困難である。果たして、それまでこの女性は生きながらえることはできるのであろうか。

 いやあ、多分厳しいだろうなあ。女性の体から香る体臭の中に、危うい生命のか細い悲鳴が聞こえるのだ。本人もその内なる悲鳴に気づくほど、深刻な状況であり、だからこそこうして望み薄の猫なんかに頼んでいるのだ。

 ヤツカ様は正直にそのことを言った。


「せめて、準備ができるまでちょっとの間、頑張って生きてくれ」


 すると、女性は(かん)()と笑った。


「頑張るのは得意よ。私は昔から我慢強いの。猫ちゃんに『頑張って生きてくれ』なんて言われるの、なんだか不思議で、とてもうれしいわ」


 そんな女性がいたことを、古い屋根の中に思い出してヤツカ様は再びおはぎを頬張った。

 手には赤い毬のついたストラップを握りしめている。

 そもそも、こんなお守りぽっちで極貧生活からやすやすと抜け出せるものか。と小さく笑った。それでも、何故だか湧き上がる小さな満足感の出所を知らず。ヤツカ様は拝殿の外から聞こえてくる二人の話声に耳を澄ましていた。


 昔から待てば海路の日和ありともいうし、このような毬の様な小さな成果を集めてゆくしかないかなあ、ととにかく今はモズクサイダーをずるずると啜るのであった。


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