1起承転結の起
蝉の声が頭上の四方八方から降ってくる。このまま山を一つ二つ越えそうなほど、先の長い石段の数十段目。運動不足で骨ばった膝小僧に手を当てながら、己の日頃の怠惰な生活を、遅い後悔と共に登っている女子高生が私なのである。
何故、神様の住む社というものを参拝する際には、往々にしてこのような延々と続く石段を登らねばならぬのか、私は甚だ疑問である。
この疑問には、私が高校教育を卒業する頃には解明できるのかしら。大学入試に備えて、帰ったら調べていたほうがよろしいのかしら。
かき分けた前髪から、丸々と太った汗の雫が石段に落ちる。私は一度立ち止まり、鞄から取り出したハンカチで額やら顔やら首筋をペタペタと拭うも、毛穴から次々と噴き出す汗には到底追いつけない。じれったい気持ちになってしまうけれども、私は幼き頃より我慢強く、自然薯の様に粘り強い子なのである。その頭角をめきめきと現して成長し続けている今、このような石段ごときには決して屈しない。
水分補給大事。ここで給水とする。
鞄から水筒を取り出し、カラカラと氷の揺れる冷たい麦茶を、喉を鳴らしながら飲み込むと、すうと夏の香りが漂うのだった。
さあて、あとひと踏ん張り、ふた踏ん張りせねばならぬ。艱難は私を玉にするはずである。
息を吸い込み、石段脇にある赤い樹木の蒸散作用にわずかな涼しさの滴りを感じながら、私は先を見据えてぐいぐいと進むのだった。私のようないたいけな十六の少女が、何故平日の真昼間に生々しい汗をかきながら、詫び寂びの風情があふれる石段を登っているのかというと、それはヤツカ様に会うためである。
広瀬川の清流に揉まれる仙台の人々には、神様を信じる純粋な心が備わっている。それはもちろん例に漏れず私も同じであり、この石段の先にある木天蓼神社には、ヤツカ様という神様がいるらしい。ヤツカ様はこの地のありとあらゆる人々の動向や、モノの動きの情報を、この地に侍が住み着き始めた時代から今に至るまで、その神聖な手中に納めているという。遠くは青森から、南は福島までヤツカ様に尋ねて解明できない謎など無い。大変頼もしい神様なのである。
私は先日、亡き母からもらった私の宝物をなくしてしまったのだ。これは私の不注意が引き起こしたものであるけれど、どうしても諦めきれず、とにかく本当に見つかるのであれば、心に信じる神が実在しようとしなかろうと、一生に一度くらいは縋ってみてもいいのではないか、と本日限り、学業をさぼって足を運んだ次第である。
〇
境内は人気がなく、石造りの鳥居と黒い瓦屋根の中門をくぐると、ところどころヒビ割れた隙間から雑草が生えた石畳と、風が吹けば倒れてしまいそうなほど、想像していたよりもはるかにオンボロな拝殿が構えていた。境内の脇を湧き水がそよそよと流れている。左手には杓子が並べられた手水舎があり、手水舎からあふれた水は苔にまみれた木製の樋を伝って、黒い大きな甕の中へと流れ出ていた。
私はただ茫然とその中門の下に立ち尽くし、日陰の中で暫しの休息と、我が友の渡利さんからのメールを思い出していた。
「まずは、境内に黒い甕があるからそこで手を洗うの、飲んじゃ駄目よ。たぶんあんまり衛生的には良くないと思うからね」
私はメールに書かれていたものと思われる黒い甕の中をのぞき込んだ。さらさらとしてほのかにひんやりと冷気を含む無色透明な湧き水が注がれている。その流れに甕の中で水草がゆらゆらと揺れており、透き通った水の中で揺れる水草をすり抜けるように、数匹の出目金が実に気持ちよさそうに泳いでいるのである。まるで幼い子供が鮮やかな赤や黒の着物の袖を振り回しながら、水の中で遊んでいるように見えた。
このかわいい生き物に祝福を、と私は思わず小さな拍手をした。
誰か親切で信仰心のある心の優しい方が、丁寧に世話をしているに違いない。私はそう感じた。可愛らしい彼らを見れば見るほど、清涼な水が私の胸の中にも流れてくるようで、夏の暑さに一時の休閑を与えた。
私は手水舎に並べられた杓子の一つを掴み、水の上澄みをなるべく波を立てぬように静かにすくいとり、手にぱしゃぱしゃとかけた。
「そうしたら、猫を二匹見つけるの。茶白の雄の猫と白黒の雄の猫よ。それを捕まえてお賽銭箱の奥に座らせて」
茶白の猫はすぐに見つかった。何故ならばその猫は、私が境内に入るや否や、私の足元に近づき、すりすりと自分の臭いを擦り付けるのに余念がないほど警戒心のかけらもない、愛想のよい猫ちゃんだったからである。
「ここかい。ここがいいのかい、この猫め」
私は抱きかかえて、喉の下を撫でると、茶白の猫はぐうと顎を伸ばし「もっと撫でよ」とゴロゴロ喉を鳴らしながら催促してくるのである。茶白の猫を抱きかかえると、モフモフの毛皮から日に当てた布団の様な香りがした。
賽銭箱の奥にある小さな本堂の縁側に腰かけ、軒の下の蔭に潜んで水の流れに耳をすまして、ひざの上の猫を撫でていれば、じわじわと体がとろけてやがて満腔の幸福感が甕の中の水のようにあふれ出そうになるのである。
これすなわち、平和という概念であるとここに見出したり、と私は自分自身にも小さな拍手を送ったのである。
「白黒の猫も、君みたいに人懐こいのかい?」
私が尋ねると、茶白の猫は立ち上がって伸びをした。そうして賽銭箱の脇を、餌を催促するように爪でかりかりとかいた。かりかりかり、しつこく爪を立て続けている。
すると賽銭を入れる隙間から、ぬらりと液体のように白黒の猫がすり抜けて出てきた。これがメールに書かれていたもう一匹の猫のようだ。おはぎのように丸こくてのっそりと動く。そうして、私の方へゆっくりと近づくと、猫を迎えるべく伸ばされた私の手を素通りして、私の脇腹に猫パンチ猫パンチ! 寝起きの不機嫌を、生半可にたくわえられた女子高生のぜい肉へと渾身の力でぶつけてきた。
かくして、私はついに猫を二匹そろえることに成功したのであった。
「そうしたらね、猫を本堂の軒にぶら下がる鈴の下に置いて、賽銭箱に百円を入れます。入れたら、声に出して願い事を言えばいいのよ」
懐の厚さに一抹の不安を持つ私にとって、百円という存在の偉大さは計り知れない。私は渡利さんに対して断固協議したいところであったが、彼女に対して抗議したところで見当違いであることに間違いない。しかる後、私はヤツカ様に本当に出会えたならば、この百円の内訳をいただき、妥当性についてしっかりと吟味すると心に誓ったのである。
猫を縁側に並べると、二匹はじゃれ合いだした。
眠そうに目を細めている茶白の猫に、白黒の猫が抱き着いたり、かみついたり、首筋の臭いを擦り付けたり、構ってほしそうに必死にくっついている。茶白の猫は平気の平左で日向ぼっこに余念がない。
これがうわさに聞くボーイズラブというものなのかしら。この、胸の高揚感は一体何なのかしら。私は恥ずかしながらなんだか、イケない物を見てしまった気がするから不思議である。
胸の高鳴りを堪えて私の使命を果たすべく、貴重な百円玉を惜しみつつ賽銭箱に投げ入れた。手を合わせて、目を閉じる。
「私の母からもらったお守りを失くしてしまいました。今は亡き母の形見なのです。母は私が幼い頃に亡くなったので、私はあまり母の事を覚えていないけど、どうやら母がとても大切にしていたものらしいのです。私のものであれば、自業自得だと諦めがつくものだけど、母のものとなると、探し出さないわけにはいきません。どこで落としてしまったのか、それすら心当たりがないのです。どうか、見つかりますように」
手の平を念入りにすりすりと擦り、願って願ってぱんぱんと手を叩いた。神社の参拝作法に疎い私は、きっと心を込めて無心に祈るのが一番効果的であると思うものだ。
軒に垂れる鈴には紐がついていなかったので、鳴らすことはできない。私は念入りにもう一つ手をぱん! と叩いて正面の二匹の猫を見た。猫は寄り添って座っていた。二匹はじゃれることを止め、私の方を黒い瞳で見つめて背筋を伸ばして座っていたのである。
じいっとこちらを見つめる瞳の奥に、宇宙の広がりが見えた気がした。
日に照らされて、頭が熱くなる。
ふと我に返った時には、猫はそこに居なかった。
日がわずかに橙色を帯び始め、じわじわと鳴く蝉に紛れて、ヒグラシの鳴く音が聞こえた。