第89話:とらわれのおにいさま
わたくしは真っ逆さまに落ちていきます。無限の暗闇に。
わたくしは精神系の術式を一切使えませんのでこういう経験は初めてなのですが、ここが義兄様の精神の中なのでしょうか。
何も見えない闇の中、ただ落下の感覚のみがありますの。
「……そうですの、クロは?」
さっき座っていた時に、金魚鉢を抱えていましたが、それがありません。ここが精神の中だと言うなら金魚鉢がなくても何もおかしくはないのですが……。
『ここにおりますよ』
クロの声が響きます。ああ、そうですわよね。いまのわたくしが物理的にものを見ているわけではない。
「〈霊気知覚〉……ぅひゃぁ!」
思わず声が出ましたの。わたくしの目の前には巨大な存在が。わたくしより遥かに大きい、長さは5m、太さ1m程の、菫色に光り輝くなまこがそこにいました。そのなまこの中央からは白く光り輝く紐が生えていて、その逆端はわたくしの胸元へと繋がっていました。あ、これ魂絆ですわね!
「あ、あなたクロですわね!」
『ええ、そうですよ。驚いていると言うことは姿が見えていますね?
この姿でははじめまして。わたしは実体なき神ですが、精神世界においては霊気を見ることで知覚することもできましょう』
「おっきくて輝くなまこさんですの!びっくりしましたわ!」
なまこさんが波打つ様に揺れます。快の気持ちでしょうか、喜び、笑い、そういった感情が伝わってきますの。
クロは口の周りの触腕をこちらに伸ばし、わたくしを引き寄せると、背中にわたくしを乗せました。
ごつごつした背中、わたくしの目の前に、巨大なうにの棘がにょきっと生えてきます。
『お掴まり下さい』
わたくしがぎゅっと棘を握ると、クロはゆっくりと空間を下降していきます。
ふうむ、しばらく降りていくと、下の方が明るく感じられる様になりました。
光……いえ、霊気ですか。え、うそうそ、大きすぎませんの?
「な、何ですの、あれ」
『3柱の神が溶け合ってできた坩堝のようなものです。3つの気配を感じるでしょう。
ですが……。3柱のそこそこ大きい神が混ざり合ってあそこまで大きな神威をあらわしているのかと思いましたが、違いますね。あれは主神クラスの神が1柱に小神が2柱ですな。良くレオナルド殿はあんな強大な神を呼び出したものです』
さすが義兄様ですの!
何といえば良いのでしょう。比較するものも無いため、具体的な大きさは分かりかねますが学校の校舎より大きな光球が足元にある感じでしょうか。
『アレクサ、その手前に檻があるのが分かりますか?』
目を細め、光を見つめていると、その前に巨大な籠の様な形状の檻が。そして近くにつれその中に暗く揺れ動く影が見えてきますの。
「義兄様!……義兄様!」
わたくしの呼び掛けに檻の中の人影がこちらを見上げます。足元の光に照らされて陰となった顔に驚きをたたえ、翠の瞳が輝いてますの。
婚約破棄された日の夜、夢に見た義兄様の姿がそこにはありました。
「アレ……クサかい?」
「レオにいさまー!」
クロから飛び降りて牢の格子を掴みます。掴む手から魂が灼けていくのを感じますが、気にせず牢に手を突っ込み義兄様に手を伸ばしました。
義兄様が牢越しにわたくしを抱きしめましたの。手が互いの背に回ります。
「アレクサ、良くこんなところまで来たね……」
「ふふふ、義兄様、やっとここまで来れましたの。あとは義兄様をここから連れ出すだけですのよ」
義兄様の手がわたくしの頭を撫でますの。むふー。
「アレクサ、大きくなったんだね、ここからでも感じていたよ」
義兄様が身体を離します。牢の格子に触れていた部分、お互い火傷を負ったように傷ついてしまいました。
クロが近づき、背中から触手を生やしてわたくしのお腹に巻きつけ、わたくしを持ち上げます。クロから淡い光が放たれ、わたくしと義兄様の傷を治していきますの。
「ありがとうございます、古き神クロよ。
それと以前も一度ここに来ていただけましたね。アレクサを護り、導いてくれていること感謝いたします」
義兄様の言葉に、クロは口元の触手をぴるぴると横に振りました。
『感謝には及ばぬ、レオナルド。逆に言えば君がアレクサを守ってくれたからこそわたしが彼女と会うことが出来たとも言えるのだ』
義兄様はクロに向かって手を伸ばし、クロは触手を伸ばして握手しました。ふふ、仲良しさんですわね。
義兄様はこちらに向き直り真剣な顔で告げます。
「ベルファストが陥ちた日、アレクサを守れたことはあの時のわたしにできた最良の結果だ。そしてわたしがこういった形でも存在し、君の成長をここからでも感じられるのは、望外の喜びだ。
でもわたしがここにいるのは誓約の結果としてだ。連れ出されることを望んではいないよ」
ふふ、誓約に誠実な義兄様素敵ですの!
わたくしは頷きます。
「義兄様がそう言われることは分かっておりましたの」
「そうか」
「でも、そんなのは関係ありませんの。義兄様が連れ出されることを望むか否かではありません。わたくしが連れ出したいか否かですのよ?」
義兄様は困ったような表情を浮かべつつ微笑みました。
わたくしは義兄様の誓約の言葉を思い浮かべつつ、右手を掲げ、左手を胸に当てて宣言します。
「我、アレクサンドラ・フラウ・ポートラッシュはここに誓約す。たとえ天が落ち、地が裂け、海が逆巻こうとも。我が義兄レオナルドをこの魂の牢獄より解き放つと」
「分かったよ、アレクサ。その日が来ることを待っていよう」
わたくしたちのこの言葉に反応したか、足元の気配が動きます。巨大な光球からずるりと2つの小さな光球が分裂して浮き上がってきます。
『神と人が魂の牢獄に訪れるとは……何用か?』
『海洋の上位古代神ですか……?』
気配の1つがわたくしに、もう1つはクロに話しかけました。クロが1つは自分が対応するというので、わたくしも先に話しかけてきた方の気配に向き直ります。
わたくしは淑女の礼をとりました。義兄様も膝をつきます。
「はじめまして、わたくしはアレクサンドラ・フラウ・ポートラッシュ。そこで囚われるレオナルドの義妹ですの。御尊名を伺っても宜しいでしょうか、尊きお方」
『む、まて。レオナルドの義妹なのに、家名はベルファストではないのか』
気配が動揺したような雰囲気を出します。ああ、確かに。義兄様が誓約した時はそうでしたわよね。
「レオナルドが護ると誓ったアレクサンドラ・フラウ・ベルファストはわたくしですの。
ベルファストの地が魔族に奪われてしまったため、北のポートラッシュに拠点を構え、家名を変更いたしました。わたくしがアイルランド辺境伯ポートラッシュ家の継承者で間違いありませんの」
神にこのような人間の地位を伝えて意味があるのかとも思いましたが、そう伝えると光球はぐにゃりとその姿を変え、壮年の男性の姿をとります。小柄ですが筋肉質で……どこかで見覚えのあるような……?
『そうか。説明感謝する。我が名はキーガン・ベルファストだ』
その苗字……ご先祖様じゃないですの!ああ、そうですわ、なるほど。お父様にお顔が似ていらっしゃいますのね。わたくしは、はっと気づき再度頭を下げます。
「申し訳ございません!
あなたがた父祖の守りしベルファスト、魔族に奪われてしまいました」
 
『構わぬ。というより、当時6歳の幼子を責めて如何とする。
お主も汝が騎士レオナルドも良く戦い、良く生き残った。胸を張るといい』
「わたくし、何もできませんでした」
『「何を言う」』
キーガン様とレオ義兄様の声が重なりました。
「アレクサ、あなたの助力なければそもそも神を降ろすなどできませんでした。それに」『お主が三日三晩眠ることすら無くレオナルドを見守り続けていたからこそ、此奴は戦い続けられたのよ。見事であった』
わたくしの目から涙が溢れます。精神体でも涙が出るのですのね。わたくしはそれを拭うと前を向き、胸を張りました。
「はい、ありがとうございますの!」
『さて、先ほどレオナルドをここから連れ出すというお主の誓いだが……』
ちらりとクロと別の神様の話を見られました。穏やかにお話しているように思います。
『まあ、海のは彼の神に任せておけばよかろう。我は地に属しており、本来は彼の地の守護霊よ』
なるほど、義兄様の誓いは、天、地、海とアイルランドを守り続けた父祖の霊への誓いでしたか。
土地の守護霊は土地に縛られるので地の神としての性質を持ちますの。そしてあの誓いをなしたのはベルファストの霊廟。キーガン様がそれで誓約の対象となったのですわね。
『では汝がレオナルドの誓約を破らせるには如何すれば良い?』
「誓約をなした地、ベルファストの霊廟に赴き、誓約の破棄を宣言することですわね」
わたくしがそう言うと、キーガン様はニヤリと笑いました。
『うむ。だが、我が汝の求める破棄に同意する必要はあるのかね?』
「ありますわよ。
わたくし、レオ義兄様としか結婚しませんもの。ベルファストの正当な血脈を継ぐのは父様とわたくししか残ってませんの。レオナルドを明け渡さないと血脈が絶えかねませんのよ、お祖父様?」
キーガン様は声を出して笑います。
『くはは、神を脅迫しながらプロポーズするとはの!』
………………あっ!
義兄様が顔を手で覆われました。
 




