第88話:だいぶ・いん・ひず・まいんど
魔術戦闘訓練の終わった3月半ば。ブリテンも昼の気温が10°cを超えるようになり、だんだんと寒さが緩んできます。
ミセス・ロビンソンは一週間ほどで新たにお婆さまの化身を創られ、お若いミセスはエリオットさんと仲睦まじそうにライブラへと戻られました。
この先は学校の行事として特に大きなイベントがある訳ではなく、日々はゆったりと過ぎていきますの。
ミセスとの決闘で髪に蓄えていた魔力も含めてごっそり使ってしまったので、再び魔力を髪に蓄えます。
それに左腕はミセスに切断されましたし、ハミシュには銃撃を受けましたし、ハオユーの絶招を受けて吐血もしているのでした。急成長した体格もまだ不慣れなところがあります。
学校や訓練を休むようなことはありませんが、訓練は肉体的なものは柔軟性や体幹の訓練を重点的に。魔術も瞑想や魔力循環を中心にし、体調や魔力を万全に整えることを優先させていきました。
時には翠獅子騎士団の皆様と交流し、時には友と遊び、日々は過ぎていきます。
そして、4月になって。わたくしはいよいよクロに尋ねました。寮の部屋でクロに尋ねます。
「クロ、わたくしはかつて、神に全てを捧げた者がいて、それを奪り返すことが可能かと尋ねたことがあるのを憶えておられますか?」
『ええ、もちろん』
水槽の中、クロが頭をもたげてこちらを向きます。
わたくしは乱れそうになる心を鎮め、尋ねます。
「クロ、分かってるかとは思いますが……それはわたくしの義兄、レオナルドです。あなたはそれに不可能ではないかもしれないと答えました。では実際にどうすれば良いでしょう」
『そのためには正確に問わねばなりません。レオナルド殿はどう言った文言で何を捧げて何を得ましたか?』
ふむ、わたくしは天井を見上げて思い起こします。あのベルファストが陥落した日、霊廟にて義兄様は……。
「義兄様はこう誓約されました。『天よ、地よ、海よ、そしてアイルランドを守る父祖の霊よ。我に力を与えたまえ。我が背の幼き少女を守る力を与えたまえ。この少女、アレクサを、汝らの娘、アレクサンドラ・フラウ・ベルファストを護るための力を我レオナルドに与えたまえ』と」
クロは水中でぐにゃりと首を捻るような体勢で固まりました。
「続けますわよ。『我は全てを捧ぐ、アレクサを護るための機能以外の全てを捧ぐことを誓約す。この誓い破るとき、天よ落ち我を打ち砕け、地よ裂け我を飲み込め、海よ逆巻き我を押し流せ』ですわね。誓約における定番の誓いの言葉ですわ」
『……わたしは以前、レオナルド殿の精神に接触したことがあるのです』
なんと。ぎょっとしてクロを見つめます。
「義兄様の魂は神に奪われ、〈精神感応〉では虚無に接続してしまうとわたくし聞き及んでますの。クロ、危険なことはなかったですか?」
『確かに彼の精神には虚無が広がっています。ですが……』
クロはそこで言葉を止め、砂地に身を伏せました。
わたくしの脳裏に義兄様の姿が思い起こされます。
夢に出てきてくれた義兄様、狂気に囚われていてもわたくしを心配して駆けつけてくれ、わたくしの頭を撫でてくれた義兄様、わたくしの言葉を理解し耳を傾けて下さる義兄様。
「そうですわね。義兄様の魂が失われている筈はないですの。
でも自身の全てを神に捧げ、魂そのものが失われてはいない。なぜでしょう?」
『そこが彼の誓約の巧みなところでしょう。アレクサを護るため以外の全て、つまり最低限の精神は必要とされて残されている』
やはりそう言うことですわよね。
『彼の精神の虚無。人間の術師ではそこを抜けることはできないでしょう。ですがその奥にエミリー女史は不吉な気配を感じられた』
サイモン校長の秘書の方ですわね。確かに以前そう言われていましたわ。
『優秀なのでしょうな。それが神の気配です。しかし、さすがにそこにレオナルド殿の魂があるとまでは気づけなかったようです』
わたくしは思わず立ち上がって叫びます。
「義兄様の魂は残っておられるのですか!」
『ええ、囚われの身ではありますが、しっかりと存在されていましたよ』
「良かった……」
涙が盛り上がり、溢れ落ちます。
恋人たちの日の夜、夢でお会いできたとはいえ、あくまでも夢の中の話ですからね。クロのこの言葉に救われたような気分ですの。
『彼の側には三柱の神の強大な気配がしました。天と地と海の神、間違いなくその三柱の中に、人の神話でも主神として扱われるような強大な神が含まれていることは間違いありません。
それらからレオナルド殿の魂を奪還する。並大抵のことではありませんよ』
「覚悟の上、……そう、覚悟の上ですの」
わたくしは何度も頷きます。
クロからはニヤリと楽しむような気配が伝わってきました。
『では一緒に行きましょうか。レオナルド殿の心の中へ』
「いけるのですか!」
という訳で翌日の放課後お出かけですの。寮で差し入れの蜂蜜レモン水を作って、また浮かせて持っていきますのよ。
セーラムの町を抜けて翠獅子騎士団の駐屯地へ。
わたくしが駐屯地に着くと、彼らはちょうど夕食の準備をしているところでした。当番の者たちが食事を煮炊きする煙が何本も立ち昇り、町から食堂の方でしょうか、料理を持ってきているのが見えます。
それを受け取り帳簿をつけているのはヤーヴォ君ですか。一生懸命、リストと物をチェックしています。ふふ、頑張っていますわね。
こちらに気づき、慌てて挨拶に来ようとするのを断ります。お仕事頑張って下さいましね。荷物の横に樽を置いておきますの。
くんくん……焦げ臭い。奥のかまどの料理が焦げているように思いますわ。
第6騎士団の方々は料理が下手なのですよね。そもそも輜重部隊がないですし、こちらに来る前に彼らは囚人扱いでしたから。ライブラで義兄様とイアン副長とヤーヴォ君以外は、牢獄の番人が用意するおいしくない食事をもそもそ食べるだけだったと聞いておりますの。
ポートラッシュに来る前に、最低限料理は覚えてもらいませんとねぇ。
一際大きくて目立つ義兄様の元へと歩みを進めます。
義兄様は一心不乱に剣を振っていました。魔剣を抜き撃っての胴薙ぎから斬り上げ、袈裟懸け。大剣を小枝でも振るかのような重さを感じさせぬ動きで操り、義兄様の眼前の空気が刻まれていくよう。
「グラァッ!」
最後は咆哮と共に唐竹割に頭上から足元に向けて振り下ろし、刀身が地面に接触する直前でピタリと止めて剣を鞘に納めます。
横で見ているだけのわたくしにまで剣気が伝わってきました。思わず笑みが溢れ、義兄様へと声をかけます。
「レオ義兄様、かっこよかったですの!」
「グルゥ……?」
義兄様がこちらに気づかれたので、駆け寄って飛びつきます。むふー。小揺るぎもしませんの。
「義兄様、ちょっとよろしいでしょうか。それとクロ、どうしたら良いでしょうか?」
『レオナルド殿にできるだけくっついていて貰えますか。それと意識を失っても良いように、安全で安定する体勢が望ましいのですが』
まあまあ、クロったら!
義兄様に木に寄りかかるように胡座をかいて地面に座ってもらい、その上にいそいそと座ります。
「アレクサンドラ様が来るなりいちゃいちゃし始めたんだが」「それな」「ずるい」「団長羨ましい」「ひどい」
ふふふ、聞こえませんの。義兄様の腹筋に背中で寄りかかり、頭を胸に預けます。
クロの金魚鉢がわたくしの胸の前に移動してきたので、それを抱きしめて固定しました。義兄様が不思議そうな顔でこちらを眺めています。
「よろしいですか?クロ」
『ええ、ではいきますよ』
「義兄様、失礼しますわね」
そう言った瞬間、義兄様に支えられているわたくしの身体が倒れこむようなイメージと共に意識が消失し、深淵へと飲み込まれていきましたの。




