第74話:はいらんだー
クリスが顔を覗き込んできます。
「大丈夫?アレクサ。顔真っ白よ?」
わたくしは目をつぶり、深呼吸をして、心を落ち着けますの。
…………ふー…………よし。
「ん、ちょっと驚きましたけど大丈夫ですのよ」
「そうは見えないけど。なに、どうしたのよ」
クリスがじっとこちらを見つめます。目を逸らします。
…………じぃー。
むむむ、見られてますの。聞き出そうとしてますわね、これ。こうなるとしつこいんですわよねぇ。
わたくしは校舎に向かって歩き始めつつ言います。
「……後でお教えしますのよ」
「どこいくの?」
「図書室ですのよ。ちょっと調べ物したらすぐに戻りますの。
……あー、図書室にばかりはクロを連れて行く訳にもいきませんわよね。預かって頂けます?」
「いいわ、その代わり戻ったら教えなさいよ」
はいはいと頷き、わたくしはクロを見ます。金魚鉢の中、クロが身を伸ばして体を傾けるような動きをとりました。
『いってらっしゃいませ』
「はい、行ってきますのよ」
さて、クリスとクロと別れ、図書室へ。紙の匂いがわたくしを出迎えます。
ここは魔術学校ですからね。普通の学校に比べて、圧倒的に蔵書が多いですの。天井まで届く高さの飴色の本棚に、ぎっしりと本が詰め込まれています。
ここには学術書、参考書、小説、絵本まで取り揃えられておりますから。そして、もちろん魔術書も。
まだ放課後すぐということもあり、あまり人はおりませんが、机では既に何人かの生徒の方々が本を読み、また学習を始められています。
「おお、アレクサ嬢。久しぶりであるな」
司書のクィンランさんですの。
久し振り、確かに。クロを召喚して以来、図書室に来ていなかったですわね。
わたくしは挨拶もそこそこに手を出します。クィンランさんはごそごそとローブの下から首飾りを取り出すと、わたくしの手の上にそれをのせました。
「辞書の閲覧の許可を頂きたいですの」
そう言いながら、首飾りの宝石に魔力をたっぷり籠め、クィンランさんに返します。
クィンランさんはそれを首に下げ直しながら、にこにこと笑みを浮かべて答えます。
「おお、ありがたい。アレクサ嬢の頼みとあれば喜んで、だ。」
許可をいただき、古語の辞書の書架へ行きます。
「フランス語……ドイツ語……イタリア語……ありましたの」
スコットランド・ゲール語の辞書。古語の中でもさらに忘れ去られた言語。一冊だけでも書架にあったのは僥倖でした。
最も貴重な本は魔術書ではありません、辞書ですの。確かに極めて強大な魔術の叡智が記された魔術書も存在しますし、1冊で屋敷が立つような、考えられないような値段のつくものも少なくありません。
それと比べれば辞書はそこまで希少なものではありませんし、値段もそれらに比べたら安いものです。しかし西暦時代や黄道暦時代に作られた辞書の素晴らしいことといったら!
極めて薄く丈夫な紙に、小さな文字を連ねる失われた印刷技術の高さ。
司書とは広範な本の知識に加え、魔術書の管理、このような古書に〈保存〉の術式をかけ保存し、汚損したものがあれば〈修復〉の術式などで直すという大変なお仕事ですの。
先程の首飾りもそれら術式のための魔力を蓄積するものですわ。
わたくしは手近な椅子に腰掛けると、丁寧に辞書を捲ります。
「ニヴァシュ……N・I・V……違いますわね」
ゲール語に詳しくはありませんので、綴りがちゃんとわかりませんのよね。
「これですかね、Nebheis。有毒な、恐ろしい、悪意ある……」
ふむ、なぜ彼がこれを仮の名としたか、ですわね。
つまりはわたくしに対して害意があるということでしょう。後は使い魔が蛇であることにも関係しているのかもしれませんわね。弱体化の系統として、毒の類を得手とされているのかも。
わたくしは本棚に辞書を戻すと、クィンランさんに頼み、毒系統の魔術の写本を何冊かお借りして図書室を後にしましたの。
寮にもどるなり、クリスに捕まり、食堂の片隅へと連れ込まれました。
机の上にはクロと毛玉うさぎのフラッフィー。
クロがうねるのをフラッフィーが見つめています。
そして小さなビスケットとお茶のセット。人払いしたのか、他の生徒の姿は見えません。
調理場にはミーアさんの姿と、ディーン寮の朝晩の料理のお手伝いに来て下さるミレイおばさまの姿が見えますの。
わたくしは椅子に腰掛けると、クリスは向かいに座り、膝の上にフラッフィーを抱えます。
まずは紅茶で口を潤し、話し始めました。
「どこから話したものでしょうか……。
わたくしのお母様の名前はディアドリウ・ファーガスと言いますの」
「!ファーガスって」
クリスが驚き、彼女に抱きかかえられたフラッフィーが、苦しいのか、ぷーと鳴きました。
「ええ、ニヴァシュことハミシュ・ファーガスは母方の親戚でしょう。恐らくは本家筋の伯父の息子ということになるかと思いますの」
『彼からは敵意を感じましたが、人間は近い血縁でも憎みあうのですか?』
クロからの思念です。
「いえ……。責められる理由がわたくしや、お父様にあるのです」
クロは砂上で身じろぎしました。
クリスが引き継いで尋ねますの。
「辺境伯に?」
わたくしは首肯します。
「以前もお話しした大氾濫の時のことですの。
ベルファストが陥落し、多くの兵が失われ、お母様も命を落とし、義兄様は正気を失われました。
当時、ライブラにいたお父様が連絡を受けて3日後に竜で駆けつけ、わたくしと義兄様を奪還しましたが……」
「ええ、聞かせて貰ったわ」
「お母様の遺体や遺品を得ることは叶いませんでした。
そのままお父様は領都をポートラッシュにするための手続き、民の移動やその護衛。ラーン以北に魔が侵入しないよう、戦線の再構築。
お母様の葬儀もろくに行ってませんのよ」
クリスは眉をひそめます。
「それって……仕方ないじゃない」
「ええ、そうです。それ自体は仕方ないことですわ。
でも、落ち着いたらそこでちゃんと死者を悼む集いを行うべきでした。お母様の実家の方にもきちんと使者を送り、それに招くなり、お父様やわたくしがそちらに行くべきでした。
ただ、お父様はアイルランドから離れられない誓約を自身に課してしまったのですけどね」
わたくしがお茶を口にし、椅子に深く座り直します。
……ふふ、ミーアさんの耳がピンと立ってこちらに向いていますわ。あまり気もそぞろだとミレイさんに注意されますのよ?
「……アイルランドは落ち着いているの?」
「わたくしや義兄様をブリテンに送り出せる程度には、ですかね」
まあ、その間、ブリテンより代わりの方が護りに来てくださっているのですけども。
「あと、詳しくはないのですが、お母様は駆け落ち同然でお父様と結ばれたとか。ファーガス家の家長の方、つまりわたくしの祖父にあたる人物には結婚を反対されていたと聞きますの。
そして、その嫁ぎ先で亡くなった。
ファーガス家の方々からポートラッシュ家への心証はかなり悪いものだと思いますわ」
「うーん……なるほど。
たしかにそれだとアレクサの家にも非があると言われても仕方ないところもあるかもねぇ」
『アレクサの母親の死に、あなたや父親が悪いわけではないにせよ、謝罪は入れるべきだったと言うことですかね?』
「そういうことですの」
『ふむ、人類は複雑ですなぁ、フラッフィー殿』
「ぷーぷー」
「やぁん、可愛い!」
クロの問いかけにフラッフィーが答え、クリスが身を捩って悶えますの。
「後は……ハイランダーですか。クリスはハイランダーってご存じですの?」
「ええと、ブリテン北部高地に住む人のことよね」
「その通りですが、彼らが自分のことをハイランダーと名乗るのを聞いたことがありますか?」
クリスはしばし考え、首を横に振りました。
「西暦末期に世界が滅びかけ、十二の都市のみが残った黄道暦時代。汚染された世界の中、人々は十二の都市に身を寄せ、汚染から身を守りましたの」
急に歴史の話を始めたわたくしに、クリスがゆるく首を傾げます。
「ですが世界のあらゆる場所で。僅かに、自らの住居を捨てずに生き残った者達もいますの。
魔界の向こうのサムライ、幽霊海賊船団、南極の氷河王。そしてブリテン島北部高地の生き残り、ロイヤルスコットランド連隊の第四大隊、ハイランダーズを中核とした民」
クリスの顔に驚きが浮かびますの。
わたくしは幼い頃にお母様から聞いた話を思い起こします。
「同盟暦以前より彼の地に住まう、まつろわぬ民、戦士の末裔。自らをハイランダーと名乗ることを許される者。
そしてわたくしの祖父、恐らくハミシュの祖父でもある者が、世界で唯一、純血のハイランダーの生き残りですの」
司書。
日本では司書ってそこまで学位のいる職では無いですが、ああ、国会図書館とかは別ね。
さておき海外だと結構大変な資格です。
『なまこ×どりる』の世界だとそれに輪をかけて大変だろうなと。
司書資格。魔術書管理資格。古書管理・修復資格。
全部持ってるクィンラン氏は凄いインテリで高給取りだと思うの!




