第70話 とろー?
翌朝、寮の食堂での食事の最中のことでしたの。
――カランと金属音。
ん?ナタリーが食器を取り落とした様子。
ちょうどわたくしの方に転がってきたスプーンをしゃがみ込んで拾い、体を起こすとナタリーの瞳には涙が盛り上がっていますの。
「あら、ナタリー、どうしましたの?」
「お姉さまが……お姉さまが血を吐かれている様子が見えました……」
む。ナタリーがわたくしの姿を幻視しましたか。
わたくしはイーリーさんの方を見ます。彼女は興味深げに目を輝かせて言いました。
「〈予知(Precognition)〉か〈過去視(Past-Seeing)〉かどちらかかな?」
わたくしはナタリーの頭をそっと胸元に抱きよせて囁きます。
「ナタリー、あなたの見たわたくしは、今のわたくしですか?小さいわたくしですか?それとももっと大人でぼんきゅっぼーんな感じですか?」
「……見えたのはほんの一瞬のイメージなんですけど、今のお姉さまでした。服装も今と同じ白で、場所は校庭でしょうか。左手で胸の下を押さえて突き飛ばされているような……」
なるほど、〈予知〉ですかね。彼女の頭を軽くぽんぽんと叩きます。
クリスがわたくしに耳打ちしました。
「えーっと、何、ナタリーの魔法?」
「魔法なのか魔術レベルで説明できるのかは分かりませんが、〈予知〉でしょうか。見えたと言っていたので、〈未来視(Future Seeing)〉?
もしかするとこの子の能力、見ることに特化しているのかも。
ナタリー、他に何かわかりますか?」
「男性に……攻撃されたのだと思います。黒い髪の」
「ということは、今日の魔術決闘のヴィジョンで、決闘相手はハオユー。
彼の攻撃で吐血するか喀血するというところでしょうかね」
「冷静ね」
クリスが言います。
「そりゃあわたくし戦闘で血を吐いたことなんてたくさんありますしね」
「お姉さま、ご自愛くださぃー……」
もう一度ナタリーの頭をぽんぽんと叩いてから離れます。
「別に、わたくしが死ぬところを見たという訳では無いのでしょう?
まあ、気をつけてみますのよ。ありがとうございますわね」
午前の魔法薬学の授業中、授業をノートに取りつつもナタリーの〈未来視〉がやはり気になります。
……ハオユーですか。この教室にはいない彼のことを思います。
成績と魔力量に応じてクラスが分けられるため、実のところクラスのメンバーはこの四年間ほとんど替わりませんの。
そして魔術戦闘訓練のような合同授業を除き、彼と同じクラスになったことはありません。
でも実はわたくし、彼のことは以前から気になっているんですの。
東方より来たる漂泊の民、故郷を失いし者の末裔。
――そして、功夫を伝承する者。
彼の生活もまた修行、すなわち功夫と共にあります。
例えばわたくしが朝、ランニングをしている時。まだ誰も登校していない校舎の裏手で彼が型稽古をしているのを見かけます。
毎日。晴れの日も雨の日も。
中腰になって足で強く地面を蹴りつつ拳を突き出し、そこで静止、ゆっくりとした動きで肘を打つ形に。一転素早い動きで両の掌を前に。振り返って突き。手を大きく回して腰撓めに構え、屈んでの打撃、身を回して背中から突っ込むような動き。
型はそのまま実戦に用いる物ではありません。
ただ、わたくしにはどのような理念を以てこの動きが作られているのか。そしてそれは実戦に耐えうるのか……。
実はスゴい興味がありましたの。
彼が真剣に、全力でその稽古をしていたことは間違いありません。校舎の裏手のあの一角、あそこだけ踏み固められて雑草も生えてきませんのよ。
ただ、ほら。わたくしルシウスと婚約していたでしょう。
だから他の殿方とそんなところで話してるのを見られるわけにはいかなかったんですわよね。
だから型も全部を続けて見たことはありませんし。
1度だけ、そう1度だけ話したことがありますか。
確かわたくしが寝坊したか、ランニングのルートを気紛れに変えたかした日で、たまたま彼の型稽古の終わるときにそこを通りがかったんですわよね。
稽古を終えられたハオユーとちょうど目が合って。
汗が湯気のように湧き上がっていましたの。
「おはようございます。アレクサンドラさん」
わたくしは足を止めて応じました。
「おはようございます、ハオユー。
いつも流麗な型稽古、素晴らしいですわ」
「ありがとうございます。
この稽古を套路と言います」
「とろー?」
「套路です」
「とーろ」
「ええ、そうです。
アレクサンドラさんもいつもランニングお疲れさまです」
これくらいでしょうか。
ふと思いますの。
彼はなぜ魔術学校に通っているのでしょうか。
もちろん、魔力があるからなのでしょうけども。
彼の魔術……見たことは無いですが……ん?
ん!?
ああ、そうなのですね。今さら気づきました。
わたくしたちの武術は、わたくしの使うポートラッシュ領軍格闘術も、あるいはボクシングもレスリングも。
魔法とは無関係の完全なる体術として存在していますの。
戦士の誓約や騎士の誓いも、魔法的・宗教的側面があり、一般的に祝福という形で利を得ます。でもその戦い方そのものに魔力は関わりません。
ですが失われしアジアの武術、無数に存在するという功夫の流派や空手、忍術……。
その武術そのものが神秘です。
神秘に魔力は宿る。ゆえに格闘技にすら魔力が宿る要件を満たしている。
ですが、今この学校に魔法使いはいない。ナタリーの件もまだ公にはしていませんしね。
ということは彼は魔法使いではないということであり……、功夫、気功といった概念。身体操作と呼吸法で魔法的効果を得る技術も実は魔術として体系づけられているに違いありません。
なるほど……なるほどなるほど。
思わず笑みが溢れます。
ちょんちょん。と肘がつつかれました。
そちらを見やると立ち上がっているクリス。
「なににやにやしてんのよ、アレクサ。
もう授業終わってるわよ」
「おや」
「……授業聞いてなかったわね?」
そんなこんなで午後の授業、魔術戦闘訓練の授業ですの。
「これより第5戦を始める。全勝はいよいよ4名、あと2試合となった。では…………。
まずアレクサンドラとハオユー。次にマイクとニヴァシュ」
チャールズ先生がおっしゃいます。
「はい」
ひゅう、ハオユーですか。
ナタリーの〈予知〉通り?それとも早計かしら。実際、1/3で当たる訳ですしね。
ちらりと彼の方を見ます。
一重の瞼の下、黒に近い茶色の瞳の視線がわたくしの視線と絡みます。
「ハオユー、あなたとは一度お話ししてみたかったんですわよね」
「是、わたしもです」
今日の彼は制服では無く、中華の伝統的な装束、漢服と言いましたかね、黒い漢服を着ています。
「ですがまずは拳で語ることになりそうですわね」
「喜んで」
わたくしたちはグラウンドの中央に進むと向かいあい、杖を抜きます。
「我が名はアレクサンドラ・フラウ・ポートラッシュ。使い魔クロを従え決闘に臨む」
ハオユーは、ちょっと困ったような顔をして右手の杖を地面に置くと、両手を合わせて礼を取りました。
「我が名は林浩宇。アレクサンドラ嬢、あなたに比武を望みたい」




