第3話 なまこ・みーつ・がーる
わたしは神である。名前はまだない。
ウミユリとヒトデとウニとナマコを我が眷属とし、海に生きる者たちを深みより見守る存在である。
だが、陸に生きる者たちはわたしを知らぬ。彼らが我が領域まで辿り着くことが無い故に。
もう数百年は前になるであろうが、かつて人間という種族は我が領域の近くにまでに至ったことがある。だが当時の彼らは目に見えぬ存在に対する知覚力がなさ過ぎた。
そして今の人間であれば、わたしを感じることのできる者もいるであろう。しかし彼らではこの地まで辿り着くことはできぬ。ままならぬものだな。
我が眷属たちは穏やかな気性であり、水底で慎ましく生きるものが多い。生殖行為を除いて他者との協調も争いもないため、言語を持つ必要がないのだ。
そう、故にわたしに名前はまだない。
別にそれで困ることがあるわけではない。眷属と会話することはなく、神同士においては、その神としての権能を表す“水底の守護者”か、性質を表す“最も深きもの”、あるいは尊称である“泳がぬ海の王”と呼ばれることで事足りるからだ。
ただ、海における最上位神格である“海神”の一柱が、
「今日から人間たちにネプチューンって呼ばれるようになったから。以後そう呼ぶように」
とか、若い神格でも“獣王”とかが、
「最近眷属が俺のことをグルゥガルガルって呼ぶようになったんですよ!いやー、なんかいいっすね」
とか言ってくるのだ。……くっ、うらやましくなんてないんだからね!
はっ、少し興奮してしまったようだ。わたしの意思の乱れに応じて海流が大きく乱され、たまたまそばを泳いでいたユメナマコ(注:深海5000mくらいで泳ぐピンク色のナマコ)が吹き飛ばされていった。すまん。
わたしは気持ちを落ち着かせ、海流の乱れを整える。海面では少し大きなうねりができただろうが、まあ許容範囲であろう。
飛ばされていったユメナマコも数km先の栄養の多そうな砂の上に着地させておいた。そもそも吹き飛ばされたことに気づいてないようで何よりである。
……まあ、何だ。名前は羨ましい。名前があるということは知られているということであり、そこに思いがこもればそれは信仰となり、力となる。
実際、先に挙げた“獣王”などはたかだか数万歳の若い神であるし、本来わたしより下の神格であるが、その力においてはわたしをはるかに上回るであろう。
特に人間という種が発生してからはそれが顕著である。ほんの数千年で数多くの神が産まれ、あるいは消滅し、その力を大きく増し、また削られていった。
まあ、この水底に人間が訪れることもあるまいし、わたしのような神はこの世界が滅びるまでただあり続けるだけなのだ。……くすん。
ああっ、今度は悲しみで水圧が上がっている……!
と、わたしはこの海に発生して以来ほぼ変わらぬ日々を、無為な思索に費やしながら過ごしているのだが、今日は何やら初めて見るものが眼前に広がっていた。
人間の魔術師による召喚ゲートである。
海の底、光も届かぬ海底で、明るい水色に輝く幾何学模様の描かれた魔法円だ。それはどこか場違いであり、そして幻想的であった。
――おお。
わたしは感動を覚えた。わたしは力弱い神であるが、それでも人間の魔力で神の元まで〈使い魔召喚〉のゲートを開くとは。
多くの神はこれを不遜といって無視するだろう。短気なものなら、召喚者に攻撃するために門をくぐるかもしれない。
だが、わたしはそのようなちっぽけな誇りなど有していないのだ。せっかくのお誘い、受けてやろうという寛大な気分で、……嘘だ。
ぶっちゃけ観光気分でうきうきと召喚ゲートに向かうのだった。
しかし、人間には実体を持たぬわたしを知覚できないであろう。眷属のどれかに受肉しておくか。
……〈眷属召喚:ニセクロナマコ〉。わたしの前に全長30cmほどの大柄なニセクロナマコが召喚された。潮間帯に住まう彼らなら、地上に召喚されても短期間なら問題あるまい。
『やあ、わたしは“最も深き者”だよ、ニセクロナマコ君。しばらく君の体を貸してもらいたいのだが、問題があるだろうか?』
『…………』
〈精神感応〉の術式を使って問いかけるが、特に反対されることもなかった。快く承諾してくれたようだ。
わたしは彼の体を借り受けると、ゲートの上に着地した。
世界が歪み、〈瞬間転移〉の術式と同等の意識の混濁が起き――。
次の瞬間、わたしは乾いた大地の上にいた。
寒っ。割と緯度の高いところに連れてこられたようだ。太陽の角度が低い。
正面にはわたしを召喚したであろう魔術師。周囲にも数多くの人間と、使い魔であろうものたち。
さて、我が召喚者だが、今わたしを召喚するのにその魔力の大半を使ったのであろう。残魔力は少ないが、その本来の魔力容量は確かにわたしを呼び出すに足るほどのものがあるだろう。
ふふ、これでも神だからな。その程度は一目でわかるのだ。ナマコに眼はないけどね!
あまり人間の姿に詳しくはないのだが、魔術師の身長は150cmほどと小柄で起伏は少ない。ただ、金髪を伸ばして顔の横に垂らしているところから女性と見える。
瑞々しい生気からして彼女は若い、あるいは幼いようだ。その年でそれだけの魔力はかなり珍しかろう。実際、この周囲を眺めていても彼女に匹敵する魔力量を有しているのは老人と思われる1人だけだ。
などと周囲を観察しつつ、召喚者である彼女のもとへと近寄っていく。すると彼女はひらひらとした腰布を抑えながら、かがんでこちらに呼びかけてきた。
「******、*****。*****************************?」
ぬ、声が早くて聞き取れんな。
人間とナマコでは思考速度が違うから仕方あるまいか。とりあえず〈精神感応〉でこちらの思念だけでも伝えておこう。
さて、わたしは神とはいえ、彼女の使い魔になるというのだ。ここは召喚者をたて、ていねいな言葉遣いを心がけるべきだろう。
『はじめまして、人間のお嬢さん。わたしは名も無きなまこなのですが、御身の求めに応じ「***〈***〉」て馳せ参じました。どうか御身の傍に仕えさせていただきますよう、伏してお願い申し上げます』
なんか途中で〈加速〉の魔術をかけられた気がする。
まあ良い。一応、人間風に礼もしておこう。頭を下げる……体の前半分の水分を抜いて体積を減らせばよいのか?
「面をお上げください、なまこさん」
おお、声がちゃんと聞こえる。この速度比だと〈加速〉ではなく〈超加速〉だな。召喚者が有能な魔法使いであるのは何よりだ。
しかし、今水分を抜いたばかりなのにもう戻せというのか。人間の礼儀とは厄介であるな!
……こうか。元に戻ったはず。いや、まて。面を上げろと言ったからには元に戻すのではなく、体の前半分を持ち上げろということだろう。だがなまこにとって、体の前半分を持ち上げるとは生殖行為の体勢だぞ。よもや彼女、わたしに放精して欲しいのか?
……さすがにそれはないだろう。なんといってもここは海中ではないからな。放精しても下に落ちるだけだ。よし、体の前半分を少しだけ持ち上げてみることとしよう。
「えーっと……、ぶしつけな質問で恐縮なのですが、なまこって〈精神感応〉の呪文が使えましたの?」
そんな筈はなかろう。
『いえ、普通は使えません。自分は長く生きているので習得しておりますが』
感心しているようだ。わたしの凄さが少しは伝わったであろうか?
『さておき、先ほどは〈超加速〉を有難うございます。海底にて変化のない日々を過ごしていると、どうしても忙しく生きる他の種族と思考速度が合いませんで』
「こちらから呼び出しているのですもの。お安い御用ですわ」
ふふっ。と彼女が笑みを浮かべる。
『どうされましたか?』
「いえ、失礼。わたくしも色々と今日の使い魔召喚の日を想像していましたが、よもやなまこを呼び出すとも、そのなまことお話することになるとも思っていませんでしたわ。こんなことがおきると思うと可笑しくなってしまって」
まあ確かに。わたしがこうして人間に呼び出されるのはもちろん初めてのことであるし、人間の魔術系統にも棘皮動物(注:ウミユリとヒトデとウニとナマコが属します)に関与するようなものは開発されていない。
そして〈使い魔召喚〉のようなランダム性の高い召喚に眷属が呼び出されたことはわずかにあるが、契約された例はない。
『それは然り。なまこの歴史においても魔術師に召喚されたものは数えるほどしかおらず、なまこが使い魔として契約した事例は御座いませんからな。それを想像はできぬでしょう』
と思うと申し訳ないな。彼女も魔法円からなまこがでてきて、さぞがっかりしたことだろう。体を僅かに縮め、すまないという気持ちを表す。
『あなたの使い魔召喚に応じてしまいましたが、おそらくわたしはあなた方人間たちの求める使い魔とはまるで異なっているということ、理解しております。基本的に海の中でしか生きられない身であり、使い魔として扱いづらいかとも思います。
ですが、こちらもできるだけのことはいたしますので、仮の契約でも構いません。あなたのお傍においてはいただけないでしょうか?』
彼女はその言葉にはっとしたようだった。しばし動きが止まり、考えを整理しているように見える。
……わたしは結論をじっと待つ。
すると彼女は大きくうなずいて言った。
「ええ、なまこさん。わたくしはあなたとの契約を望みますわ。仮とは言わず、末永く共にあっていただきたいですの」
おお、なんか好感度高いぞー!
『……ありがたき幸せ』
彼女は勢いよく立ち上がると、〈契約〉の詠唱を始める。
「我、アレクサンドラ・フラウ・ポートラッシュは、我が召喚の呼び声に応じ、彼方より馳せ参じたる彼のものを、我が使い魔として使役することを欲す」
彼女の右手には契約の魔力である2つの光球が形成された。そして小声で詠唱に追加する。
「というのは建前で、お友達として共にあってくれるとうれしいですの」
同意を示すべく体を捩る。
召喚されたものを友と呼ぶあたり甘い術者であるが、こちらの人格を尊重してくれるその心は尊い。
こちらもでき得る限り彼女の力となろう。その意思に伴って契約は成立し、光球の1つがわたしの背中に入っていった。魂に契約が刻まれる。
彼女はかがみ込むと、手にしていた棒を体に引っ掛け、ゆっくりとこちらの体の下に手を差し込み、持ち上げる。
お、おう。視界が高い。
「ではこれからよろしくお願いしますね?それとわたくしの名前はアレクサンドラ・フラウ・ポートラッシュですの。アレクサと呼んでくださいな。なまこさんにも後で素敵な名前を考えましょうね」
名前!そう、名前をもらえるのか!
『感謝します。アレクサ、我が主人よ』
彼女はその言葉に笑みを浮かべると、わたしを抱えたまま振り返り、1人の人間の前に歩み寄る。
「アレクサンドラ、使い魔の召喚と契約、滞りなく終了いたしましたわ」
というと、アレクサの手に乗せられた状態で、この中では年かさであろう人間のおそらく男の前に差し出される。ふむ、この場の上位者であろうか?では挨拶せねばなるまい。〈精神か――。
わたしが呪文を使おうとした途端、眼前の男は崩れ落ちた。
……疲れているのだろうか?
その夜、アレクサはクロという素晴らしい名をつけてくれた。
うへへ、これは他の神々が自慢してしまう気持ちも分かるというものだな!
わたしは神である。名前はクロ。アレクサの使い魔である!
ユメナマコは深海で遊泳する珍しいなまこ。ピンクでファンキーなデザインの生き物だが、多分この作品で登場する機会はもうない。残念。
ニセクロナマコは日本でも見かけられるなまこ。その生態とかは今後の作中で語られるだろうから、ここには書かない。
この作品を読んでなまこに詳しくなろう!(違