第128話:海に抱かれて
クロに海へと入るように言われましたの。
「……結構寒いですのよ?」
『まあ、寒さを遮る術式でも使って貰えれば』
ううむ、まあクロなら悪くはしないでしょう。でも焚き火くらい用意しておきましょうか。そばの廃墟から木材の部分をひっぺがし、乾いた倒木を集めて積んで魔術で火をつけます。
義兄様もいないし、どうせ誰も見てないし良いですわよね。服を脱いでたたみ、風で飛ばぬように上に石を置きます。
一糸纏わぬ姿となって海へ。うひゃあ、既に風が冷たいですの!
自分を抱くようにしてぷるぷる震えます。金魚鉢からクロを取り出して手の上に載せ、砂浜を踏みしめて海へ。
「魔族の気配はしますか?」
『いえ、近海にはいませんね』
基本的にブリテン近海の海は魔族の領域、釣りはともかく、泳ぐなんてほとんどしませんからね。
クロはあまり力を減じぬよう魔力の消費を抑えてはいますが、緩く神域を展開している様子です。この入江付近の危険度は低い。
波が足を洗っていきます。灰色の空、鈍色の海、白い波濤。ふふ、こんな中で海へと入っていくなんて。
ざぶざぶと波を受けながら沖へと歩むと膝、腰、肩と海に浸かっていきます。
「〈水中呼吸〉」
足がつかなくなったあたりで海へと潜ります。ぶくぶくぶく。
海の中は地上から見る寒々しさとは異なった青みがかった透明な世界。〈耐寒〉の術式を使うと、冷たさも感じなくなり、風景の寒々しさがさらに遠くなったように感じます。
足を動かし、さらに先へ。入江の砂浜です。この辺りは遠浅ですが、先に行くと切り立った崖のように深みがありますね。
手の中のクロが身じろぎして手から落ち、ゆっくりと海底に沈んでいきましたの。水深は3mくらいでしょうか?わたくしもクロを追いかけて海底へと向かいます。
クロからの思念。
『アレクサ、ここで魔力を循環させて回復させましょう』
『陸上より回復が速いのかしら?』
今〈水中呼吸〉と〈耐寒〉で2つの魔術を使用していますが、それでもここの方が回復が速いと。ふむ。
わたくしは波に揺られながらゆっくりした動きで、海底の砂を慣らして平らにすると、その上に胡座をかいて座りました。
ちなみにわたくし、水に沈みますの。
体重が重い。うん、体重というより密度が高い。強化術式を筋肉や骨格にまでかけ続けていたりしたために、筋繊維の密度や骨密度が一般人の比ではないんですわよね。そうでもなければいかに魔術礼装着ていたとしてもライフル弾とか受けられませんもの。
(うーみー)
『ご機嫌ですわね』
アホ毛もご機嫌そうです。ああ、海に入るのとか初めてですわよね。巻き髪が解け海にたゆたいますの。
わたくしは海底にて瞑想を行います。
魔力循環を始めます。わたくしの内なる魔力、全身に行き渡らせると魂絆を通じてクロへ。クロはその魔力を海へと送り、海から再び受け取って私に。
――大いなる海、暖かな海。海流は極地に至りて氷に触れ、深く冷たく沈み込む。千年の時を経て再び表出し、太陽の光を浴びる。
クロの魔力のイメージですわね。……違う、実際にそれを今行われているのですわね。今わたくしがクロに与えた魔力は世界に流れ、そして今クロから受け取っているのは数千年かけて世界を巡っていた魔力なのですか。
世界中の海の記憶、それは生命の物語であり、死の静謐でありますの。
海は生、海は死、そしてその狭間。
命ある海の力、生命を産み育む力をわたくしの魔力に。
暴虐なる破壊、嵐、静謐なる死の力をスティングに。
そう、わたくしの髪に宿っているのは死せる魂が由来、死の力と親和性があるのでした。
そして生と死の狭間の魔力がクロへ。
脳裏に遠き海の歴史が流れてきます。
老いたる巨大な鯨がついに死して海底に身を横たえ、その身に無数の甲殻類や小魚が集り、食い、崩れ。その小魚をより大きな魚が喰らう。
崩れた肉は、甲殻類の死骸は、小魚の糞は、海を汚していくのか。
否。ちがいますの。
その周りにいるなまこ。深海の砂上に身を横たえる彼らはその微細な粒子を砂ごと口にし、浄化して戻す。
極北の海にも、赤道直下にも、波打ち際にも、深海にも。彼らは太古より存在してその暮らしを続けてきた。
彼らがいなければ海底は死と腐敗の集積場となり、ひいて世界は滅びる。生と死の狭間にありて世界を保つもの。そう、だからクロは“水底の守護者”という守護者の尊称を冠しているのね。
この日、わたくしはクロという神性を理解しました。
海底で2時間ほど瞑想を続け、上がります。思ったより魔力回復効率が良すぎて長くなりました。
焚き火の前で濡れそぼった身体を拭っていると義兄様が戻ってきますの。
野うさぎを仕留めてぶら下げる半裸の義兄様と、全裸のわたくしが見つめ合います。
「ガルゥ?」
「おっと失礼しましたの」
義兄様は大きくため息をついて肉をその場に置くと、焚き火の向こうでうさぎの毛皮を剥ぎ始めます。ううむ、思ったより瞑想の時間が長くなってしまいましたからね。戻ってきて火を見てこちらに来てしまわれましたか。
なんとはなしに義兄様の手元を見つめます。
手際良くうさぎの死体が肉と皮に分けられていきますの。
「グルル……」
裸のままぼうっとしていたわたくしに義兄様から不思議そうに声がかけられました。わたくしは手を広げて大きく息を吸い、周囲を見渡します。
クロがいるにしても、ここにいるのはわたくしと義兄様の2人だけで、裸でいるとなるとあれですわね。旧宗教の楽園とはこうであったのでしょうか。
愛する人のみこの場にいて、余人に邪魔されることもなく、食料にも困らない完成された世界。
ここにいると社会的な責任も地位もない。
今のアレクサンドラはアイルランドを継ぐものでも、ポートラッシュ領軍の指揮官でも、サウスフォードの学生でも、先輩でも後輩でもない。
わたくしはそのまま砂の上に倒れ寝転び、天を見上げます。厚い雲と、切れ目から差し込む日差し。
このままここにいて、獣のように生きる。という選択肢がふと生まれました。
義兄様と戦う必要もなく、義兄様に神に勝利したとしてもその後レオナルドと結ばれるには貴族的な要害もあり、魔族との戦を続ける必要もない。
顔も知らぬものたちのため、特に感謝もされぬアイルランドで防人を務める必要もない。
ここで獣や魚を獲り、芋を掘るだけで成り立つ暮らしをとる自由。
……でもその選択肢を選ばぬのもまた自由。
進んで戦闘の只中に突き進むのもまた自由ですの。
領軍の兵士たちの顔が、翠獅子騎士団の者の顔が、ディーン寮の皆の顔が浮かびます。
うん、2人ぼっちは寂しいですからね。
「グルル……」
砂浜に倒れているわたくしの頭の脇に義兄様が跪きました。心配そうに覗き込んできます。手を差し伸べようとして、その手が解体の血に塗れているのに気づいたか空中で止まります。
わたくしは義兄様の手を取って頬につけます。頬が血に汚れました。ん、気づかぬうちに涙を流していましたのね。
わたくしは義兄様の手を掴んで身を起こすと、義兄様の太腿に跨り、抱きつきました。
義兄様の張りのある筋肉、体温、呼吸、蓄えている魔力を全身で感じます。
「んふー」
安心感と多幸感。わたくしは義兄様の首筋に唇を寄せました。
わたくしの耳元に彼の息がかかります。
このまま原初の衝動に身を任せたいような気がしますが、……そうじゃないですの。
「義兄様を神から解放したら、続き、ね」
そう言って離れました。
それから数日間、海の中での瞑想が日課となり、長い時間を海の中で過ごすようになりましたの。
海がだんだんと豊かになるのか小魚さんやなまこさんたちが瞑想している場所のあたりに増えていきます。クロはもっと暖かい海のなまこさんであるようで、このあたりのなまこさんたちは小さいですけど色鮮やかななまこさんが多いようですの。
触腕をふりふりとクロに振っているように見えますの。
3日で髪の分まで魔力が完全に戻り、翌日には義兄様も魔力を蓄え終えたようでした。
「では、行きますか」
『ええ』(おー)
「……グルゥ」
クロが、スティングが答え、義兄様が頷かれました。
わたくしたちは決戦の地、ダンネット・ヘッドへと向かいます。




