第10話 黒くて硬い棒状のもの
ガチャ、パタタタタ、コココン、ガチャリ。
「アレクサお姉さま、大丈夫ですか!」
隣室の扉が開き、廊下を走る音がし、わたくしの部屋の扉がノックされ、扉が開け放たれました。
入ってきたのはナタリー、隣室の子で学年は1つ下。わたくしのことを姉のように慕ってくれていますの。ちょっと鼻の上に残るそばかすが可愛い後輩ですわ。
「おはようですの、ナタリー。そんなに慌ててどうしました?」
「お、おはようございますお姉さま!悲鳴が聞こえましたがどうなさいましたか!」
ああ、なるほど確かに。朝から騒いでしまいましたわね。
「ちょっとウニが落ちてきたんですの」
「ちょっとウニが落ちてくるんですか!」
わたくしが床に転がったウニに視線を向けると、ナタリーもそちらを見ました。
カーペットの上、深紫の球体が奇妙なオブジェのように転がっています。よく見ると棘がゆっくりと動いてますの。
「え、えー?なんでウニが?はっ、お姉さま。お怪我は、お怪我はなさいませんでしたか?」
わたくしは手を目の前にかざします。
「大丈夫そうですわね。ちょっとびっくりしたので声を上げてしまいましたが、傷にはなっていませんの」
ナタリーははしっと両手でわたくしの手を握りますと、じっと真剣な表情でわたくしの手を観察しだしました。
「……ナタリー?」
彼女ははっと気づいたようにわたくしに顔を向けると、
「軟膏をお持ちしますね!」
といって駆け出しました。短いツインテールが揺れて遠ざかっていきますの。
「いや、だから傷はないですのよ、ナタリー……?」
呟きますが、もうナタリーは部屋にはおりません。
『元気な子ですね、妹なのですか?』
クロの思念が飛んできます。
「いえ、血縁ではないのですが。ディーン寮では先輩が後輩の面倒を見る制度があって、これを姉妹関係に例えているのですわ。ところでクロ、ナタリーには挨拶しませんでしたわね」
わたくしは立ち上がって、慎重にウニの棘をつまみあげます。
「これ、どういたしましょうか」
『水槽に入れていただけますか』
わたくしは水槽の中、クロの横にウニを沈めます。
『……まあ、元気すぎて挨拶する暇もなく出て行ってしまったというのもあるのですが。アレクサが話すまで、わたしが子供たちに〈精神感応〉を使うのはやめようかなと思っていたのですよ』
「おや、そうなのですね。なぜですの?」
『彼らと戦うのでしょう?せっかくなら、わたしをただのなまこと侮って貰えた方が良いかなと』
おっと、クロは悪いなまこですわね。
「ふふふ、クロは策士ですの。分かりましたわ、ちょっとの間秘密にしておきましょうか」
コココン、ガチャリ。
ナタリーが戻ってきました。
「持ってきました、お姉さま!」
「怪我なんてしてないでしょうに」
「いえいえ、お姉さまの珠のお肌に棘など許されません!」
というと、ナタリーは軟膏を右手の薬指につけて跪き、左手でわたくしの手を握り、右手の薬をわたくしの手の甲に塗ってくれました。
「珠のお肌って、ナタリー。わたくしの手なんて硬いでしょう」
わたくしの手は戦士というほどではありませんが、そこそこごつごつしておりますからね。
「いえ!お姉さまの手はたしかに内側は硬いですけども、肌は茹で卵のようにすべすべで瑞々しいです!」
と言いながらナタリーはわたくしの手を撫でまわします。
「まあ、強化と治癒系の術式で、肌や髪は保護・補修してますの。……ナタリー、ありがとう」
ナタリーの手からわたくしの手を抜きます。
「いえ、お安い御用です!」
ナタリーはちょっと名残惜しそうな顔をしながら立ち上がると、部屋を見まわして水槽に目をやります。
「これがお姉さまの使い魔ですか?」
「そうね、そのなまこさんがわたくしの使い魔、クロと名付けたのよ」
わたくしも立ち上がり、二人で並んで水槽の中のクロを見つめます。クロは無関心を装っているのか、水槽の砂を口に運んでいました。
「これがお姉さまの使い魔……クロさん……」
「ふふふ、天使様じゃなくてがっかりした?」
ナタリーは召喚前に、わたくしが美しい天使を呼び出すだろうと力説していましたからね。
「いえ、お姉さまの呼び出した使い魔ならなんだってすば、すばら……素晴らしいです!」
なにやら葛藤がありましたわね。
「やはりちょっと一般的な使い魔ではないですわよねぇ」
彼女の眉がへにょりと下がり、申し訳なさそうな表情を作ります。
「……正直に申しますとそうですね。いや、お姉さまの使い魔ですからきっと素晴らしいに違いないんですけども!
ただ、昨日もお姉さまがリビングを去ったあと、ドロシアさんたちがお姉さまの使い魔をすごい馬鹿にされていて……」
「んー、ドロシアも悪い子ではないんですけどね。ただ、ちょっと貴族社会の派閥的なものをディーン寮に持ち込んでしまっているだけですの。
ナタリーもわたくしを慕ってくれているのは嬉しいですが、ちゃんと皆さんと仲良くしてくださいね?」
「はいっ、お姉さま!」
わたくしはナタリーの頭を軽く撫でると、耳元に口を寄せました。
「お、おおおおお姉さま?」
「……ナタリー、ミセスとミーアさんは知っているけど、生徒ではあなたにだけ伝えておくわ。
秘密にしてね?」
ナタリーは顔を赤くしてぶんぶんと首を縦に振ります。
「わたくしは、ただのなまこを使い魔にしている訳ではないの。わたくしの使い魔、クロは大魔道師よ」
ナタリーがはっと息を飲みます。
わたくしはナタリーから離れると笑みを浮かべました。
「後期の魔術戦闘訓練が始まるまでは秘密ですわよ」
「は、はいっ!」
「クロ、失礼しますわね」
わたくしは〈念動〉でクロを水面まで浮かび上がらせ、クロを手に乗せました。
「お姉さま、クロさんをどうなさるんですか?」
わたくしはクロの水気をタオルで軽く拭いながら言います。
「使い魔との魔術的なつながりを魂絆と言うのですけどね、それを深めるには日々の触れ合いが大事だとリンツ先生がおっしゃっていましたの」
オーガを呼び出したテッドは、今頃その手を握っているのでしょうか?呼び出した後震えていましたし、ちょっと可哀相ですわね。
「なにそれずるい」
「えっ?」
「えっ?」
ナタリーと顔を見合わせます。
たまにこの子、変なこと言い出すんですわよねぇ。
「朝食までちょっと時間あるでしょう?その間にやっておこうかなと思いましたの」
「見ていてもいいですか、アレクサお姉さま!」
「構わないけど、特に面白いものではないと思いますわよ?」
わたくしはベッドに腰かけると、ナタリーにも座るよう勧めました。
ナタリーがぴったりと横に座ります。
『クロ?軽く魔力を循環させますわよ?』
『了解です』
わたくしは太腿の上に手を置きます。掌を上にして、その上にクロ、クロの口が膝の側を向いた状態ですわね。
半眼になって視線を定めず、呼吸を整え瞑想に入ります。
その状態で右手からクロに魔力を流し、クロの中を通って左手に抜けるようなイメージ。
その際に、クロの魔力もわたくしの左手から腕、肩、また右の肩、腕、手と流れていくイメージを作ります。
「…………」
普段の魔力循環の瞑想より、魔力の流れがゆっくりな気がしますわね。でも決して澱んでいるのではない、心地よいゆるやかさですわ。
――大いなる海、暖かな海。海流は極地に至りて氷に触れ、深く冷たく沈み込む。千年の時を経て再び表出し、太陽の光を浴びる。
これはクロの魔力に対する思想?概念?でしょうか。
『クロ、わたくしの魔力は地球規模では動きませんのよ。それに千年もたったらお婆ちゃんになるではすみませんわ』
わたくしは心の中で呟くと、意識を浮上させました。
目をぱちくりとさせ、ナタリーに振り返ります。
「ふぇぇ」
ナタリーが口を半開きにしてぽかんとしてますの。
「ナタリー?どうしたの?」
ナタリーは口を一度閉じると、わたくしの腕を掴んで言いました。
「凄かったです、お姉さま!何が……とは言えないんですけども、凄かったです!」
ナタリーは感激したかのように目をきらきらとさせて続けます。
「いつものお姉さまの瞑想も凄いんですけど何かそれとは違って、お姉さまの魔力がゆるやかに巡っていて、それにわたしも包まれてるみたいでした!」
「ふふふ、そうだとしたらクロのおかげね」
わたくしはクロに目をやります。
「クロさんはそんなに凄いんですね。……ナマコですけども。……大きいですよね、クロさん」
ナタリーもクロに目をやります。わたくしの両手からあふれんばかりの、30cmほどもあるなまこですの。
「わたくしの実家であるアイルランド島でもなまこはいっぱい見かけますけどね」
わたくしはクロの背を撫でます。
「こんなに黒くて、大きい、立派なのは見たことありませんの」
ナタリーがびくっと肩を震わせます。
「も、もう一度お願いします」
「?こんなに黒くて、大きい、立派なの見たことありませんの」
「アレクサお姉さまやばい」
何やらナタリーが呟きました。
「ナタリー?……ナタリー?」
またナタリーが変なことになっていますわ。呼びかけてみても反応がありませんの。
手持ち無沙汰にやわやわとクロの体を揉んでみます。
でこぼこしているのですが、適度な弾力があって気持ち良いですの。
「あ……。手の中で硬くなってきましたの」
『クロ、大丈夫ですか?何か硬くなってきましたが』
『あ、はい。ナマコは刺激を受けると皮膚が一時的に硬くなるので。問題はありませんよ』
ナタリーがびくっと肩を震わせます。
「も、もう一度お願いします」
「また?……手の中で硬くなってきましたの」
ナタリーは急に上を向くと、何かを堪えるようなしぐさをして、わたくしに向き直りました。
「お、お姉さま、ちょっと使い魔を持ち替えてみていただけますか?」
真剣な眼差しです。
「構わないけど?」
わたくしが首を傾げます。
「あの、クロさんをですね。望遠鏡を覗くように持ってみていただけますでしょうか!」
わたくしは下から持ち上げるように抱えていたクロを順手に持ち替えて、顔の前に持ち上げます。
「これでいい?」
「最高です!あ、そのままホットドッグ食べるふりしてくれませんか?」
「あーん。……太くって口に入りませんわ」
「最高かよ」
「あ、先っぽから雫が」
海水が垂れてきましたの。
「あなたが神か!」
ナタリーが急に大声を出して立ち上がったので、わたくしはびっくりしてクロを握ってしまいました。
『ぐぇっ』
すると勢いよく白い糸がクロのお尻から出てきました。
「きゃっ!」
『ああ、急に握られたのでキュビエ器官が』
『キュビエ器官?』
『魚に襲われたときに放出するもので、べとべとして魚が嫌う毒が含まれています。ああ、人間には無害なのでそこはご安心ください。
すみません。結構アレクサにかかってしまいましたね』
『いえ、わたくしが握ってしまったせいなので。後で〈清掃〉の術式かけますし大丈夫ですわ』
「ふぇぇ。白くてべとべとしますわ……。あ、顔にもかかってしまいましたの」
クロをタオルの上に置き、頬についてしまった白い糸を、そっと濡れてない手の甲で拭います。
するとナタリーがベッドから立ち上がりました。左手で鼻を押さえています。指の隙間から赤いものが……。
「す、すみません。ちょっと感動が鼻から溢れてきたので、部屋に戻りますね」
「え、だ、大丈夫?」
「はい、幸せです!失礼します!」
ナタリーはそのまま部屋を出て行ってしまいましたの。
幸せなら良いのですか……ね?
この小説はヒロインがナマコを手にしているだけの極めて健全な小説です。ナタリーさんは体調不良でしょうか、心配ですね。
感想欄にこのネタについて言及されていた方がいましたが、というか感想の1つ目からこれでしたが、当然使う。というかこのネタを書きたくてこの話を書き始めたと言って良い。
つまり反省しない。
なまこのまめちしきー
別のエッセイでも書きましたがキュビエ器官について。
ねばねばした白い糸。タンパク質のかたまり。
界面活性成分のサポニンが含まれている場合があり、魚類にとっては有毒です。エラ呼吸を阻害するため。
尻からでます。また一度吐き出しても数か月で再生します。
日本でよく食用にするマナマコにはキュビエ器官がないため、わたしはわざわざクロをニセクロナマコに設定しているのですという話。
つまり、この作品の設定段階からヒロインにキュビエ器官を放出したかった。
ふぅ、満足。




