放送局より愛を込めて ~ Child ~
その日は、冬将軍の本格的な出陣というよりは、冬の女神のご来訪というような、上品ながらも逃れきれないしんとした冷え込みが日本列島全域を覆った日だった。
たった2人の放送局員である局長の九流川雅貴と、影の大黒柱である空木こずえは、昼休みに放送する曲のリクエストの集計と編集を終え、並んで駅へ向かっていた。太陽はとっくに退場してあたりには闇が浸透し、雲がなければ月くらいは見えたかもしれないが、低気圧の影響で上空は厚い雲に覆われ、姿を隠している。
今週は人気所のアーティストが次々と新曲を発売し、それらのリクエストは300枚にものぼった。あらゆるツテを使ってその音源を入手して落とし、誰も持っていないのなら部費でレンタルまたは購入して、やっと五位までの編集をして、二人とも力尽きた。九流川が18時半からバイトが入っているので丁度いいやと切り上げたのだ。
駅へと続く道は住宅街を抜ける。
並んだ一軒家からは明かりが漏れているが、時間帯のせいか気温のせいか、周囲に人影はほとんどない。
ポツポツと灯る街灯の周囲以外はほぼ闇で、2人の足音だけが小さく響いていた。
九流川はレザーのジャケットの胸ををはだけたまま、視線をやや上にあげた。
「やっぱ降って来たぞおい」
空木もクリーム色のハーフコートのポケットに手を入れたまま、空をあおいだ。
「……本当だ。きれいですね。クリスマスに降ればよかったのに」
音もなく粉雪が世界に降り注ぐ。電灯のほのかな明かりに反射してキラキラと幻想的に空木の頬に触れては消えていった。
「積もんねーな、この雪じゃ」
「粉雪ですから。でも初雪ですよ」
喋る度に白い息が一瞬留まってから天に昇る。空木はマフラーに顔を埋めた。
今朝の降雪予報のせいか車の騒音も少なく、2人は静まり返った通学路を駅へと進んだ。心無しか足音まで雪に吸収されているように静かだ。空木の鞄に付いたキーホルダーだけが、時々カチャカチャと音を立てる。
「あ?」
突然、九流川は前方を見て不審そうに語尾を上げて立ち止まった。
「先輩、あれほど言ったじゃないですか。喧嘩を売ってるように聞こえるから疑問符をつける時はちゃんと語尾を下げてくださいって」
つい空木は小言を口にしてしまう。だいたい九流川は見てくれがチンピラっぽい。色こそ黒いが鼻先まで届く前髪と、制服のネクタイを緩めて(ある時は外して)平気で登校してくる姿。おまけに喧嘩っ早くて強い。もう教師にも止められなくなる時は、誰かが1年生の教室まで空木を呼びに行く。
それでも問題児扱いされないのは、ひとえにそのずば抜けた頭脳の賜物である。全国模擬試験1位の頭脳は学校にとって手放したくない存在なのだ。
空木の存在無しにはとても置いてはおけないが。
「あれ、何だ?」
言われたそばから無視して九流川は語尾を上げた。
「あれ?」
「あれ。あそこ。ポストの下」
九流川は視線で空木を促した。雪で視界がほんやりする中、街灯の明かりを頼りに、空木はポストの影を一生懸命見た。
それが何かを認識した瞬間、空木はマフラーをほどきながら走り出した。
「大丈夫!? 大丈夫しっかりして!」
空木は急いで子供に自分のマフラーをかけた。歳の頃は5、6歳だろうか。その少女は裸の姿で自分を守るようにひざを抱えて小さくなってガタガタ震えていた。
「ずぶ濡れじゃねぇか。酔狂な」
そう言いながら九流川は自分のジャケットを脱いで空木に渡した。空木も素早くジャケットを受け取ると、少女の背中から包むようにかける。
「いったいどうし……」
そこで九流川は言葉を止めた。少女の右足のすねを見て目を細める。赤く腫れ上がった小さく細いすねは、そこだけ取り付けたように腫れていた。
「これは……折れてるぞ」
少女の怪我に気付いた空木は素早く携帯電話を取り出した。
「……待って。そばにいて」
紫色になっている唇をようやく動かして、少女は空木のコートのそでを掴んだ。今にも消え入りそうな声だ。羽織った九流川のジャケットに雪が降り積もる。かたかたと震えながらも少女は反対の手でジャケットのえりを掴んだ。
「お兄ちゃんも、行かないで」
少女は震えながら九流川を見た。見上げたその瞳には涙が浮いている。
「大丈夫だから……」
か細いその声を聞いて、九流川はいきなりしゃがみこんで少女の顔を覗き込んだ。
「ばかやろう! 子供の我慢できる痛みじゃねぇだろう!」
びくりと震える少女を見て、空木は肩を抱いた。
「先輩、怒鳴らないで!」
尚も九流川の眉は釣り上がったままだ。
「だいたい、こんな所で何やってんだ? 死にてぇのか? 親はどうした!?」
少女は空木にすり寄った。空木も肩を抱く手に力がこもる。
「お……」
少女が一生懸命話そうとする度に、大きな目から涙が溢れた。
「お風呂入って……」
少女はとうとう泣き声になってうつむいた。
「風呂……?」
九流川は一瞬きょとんとした。そんな九流川を無視して空木は少女に優しく語りかける。
「どうしてお外に出ちゃったの?」
震える肩に、雪はどんどん降り積もる。空木はその雪をそっと払った。
「……っ、だったから」
小さい声は更に小さくなって、空木に身体をすり寄せる。
「冷たい、お風呂、だった、から……」
九流川と空木は、下がっていく血の気と逆に強い感情が一気に上昇した。
雪が降るようなこんな寒い夜に、子供を水風呂に入れたという事だろうか。この子はそこから何とか逃げたものの、行く当てもなく帰る事も出来ず、助けを呼ぶ術も知らずに、濡れたままこんな所で独りぼっちで震えていたのだ。どれだけ怖かっただろう。どれだけ心細かっただろう。どれだ痛かっただろう。どれだけ寒かっただろう。
少女の涙がまたぽたりと顎をつたって落ちた。
「……救急車を呼ぶぞ」
そう言って九流川も携帯電話を取り出した。
「病院へ行こう? お姉ちゃんもお兄ちゃんも付いていってあげるから」
そんな二人の言葉に、少女はいやいやと首を振った。
「ダメ……ッ! 新しいおかあさんに怒られる……ッ」
そう泣き叫びながら少女は九流川から携帯電話を奪おうとするが、届く訳がない。その伸ばされた少女の細く小さな腕を握って、九流川は少女の瞳を覗き込んだ。
「大丈夫だ。必ず何とかしてやる」
力強くそう言って空木を見る。
「私達が絶対守ってあげるから」
二人とも助け出せる何かの確信があった訳ではなかった。
児童相談所に通報したところで親元に戻されるだけかもしれない。それでは問題の解決どころか更に悪化させるだけかもしれない。児童相談所に相談実績があっても亡くなる子供のニュースは途絶えない。法の裁きも完璧ではない。自分達に必ずどうにかできる事だとも思ってなかった。
それでも。
この子はどうにかして助けたい。守ってやらなくてはいけないと強く思った。
「ほんと?」
少女は二人を交互に見ながら泣き声で問う。
「本当に助けてくれるの?」
不安を隠しきれない表情で、少女は肩を抱く空木によりいっそうすり寄った。
「心配するな」
そう言って九流川は立ち上がり、携帯電話のロックを解除した。
「こずえ、その子を温めてろ。それから右足だ、動かすなよ」
「はい」
空木はそっと自分のひざに少女を乗せて抱き締めた。髪の毛は少し凍り付いていてとても冷たい。小さく震える身体を溶かそうと空木はできるだけ優しく包もうとした。
「……あったかい」
少女の声が少しだけ大きくなった。
「お姉ちゃん」
呼ばれて空木は顔が確認できるようちょっとだけ身体を離した。
「お兄ちゃん」
九流川も呼ばれて少女を見た。119を押して最後の通話ボタンを押そうとしたところだった。
「ありがとう」
もう寒くないよ。
ばさりと布がこすりあうような大きな音と共に、空木はあるべき感触を失って自分の腕の中を見た。
そこには空木のマフラーと九流川のジャケットしかなかった。
突然重みを失い、マフラーとコートを抱き締めた時、空木はすべてを理解したような気がした。
「どうして……」
そこでうつむいてしまう。
「死んじゃってるならもう助けられないじゃない……」
もともとあの子は生きている人間ではなかった。きっと事実は、あのまま誰にも助けられる事なく、独りぼっちで寒さに震え、恐怖に泣きながら亡くなったのだろう。どんな思いで死んでいったのだろう。
なんて事だろう。なんて悲しい、酷い事だろう。
うつむいた空木の瞳からぽたぽたと涙があふれた。さっきまでそこにいたのに。助けられると思ったのに。
「……助けられたんだろうよ。だからあの子もようやく天国に行けたんだろ」
普段は幽霊なぞ鼻で笑う九流川だが、この時は空木を後ろから優しく抱き締めた。
「お前が助けたんだ。……よくやった」
空木は涙が止まらず自分にまわされた九流川の腕をきつく掴んだ。
「……雪……やんだな」
地面に落ちたままのマフラーとジャケットはもう月光に照らされていた。
大昔に聞いた実話を元に。