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七章 家




 勝利の余韻が過ぎ、アドレナリンが切れると激痛に悶える。


 速く回復しないとリアルに死ぬ。


 さっき生み出したばかりの枝葉のクッションが、すでに血塗れ。


 制服ごと引き裂かれた脇腹は、内臓までは到達していないが、肋骨が見えるようなグロテスクな怪我。


「ロファルス・エンテリア」


 開いて見たステータスに、痛みも忘れ笑ってしまう。


 ロファルス量が、1000万も増えている。キングアースビートル撃破の報酬。


 そのロファルスで回復に必要なレベルを上げ治療。


治癒サナーレ


 呪文を口にするだけで、がふがふと咳込み血が大量に吐き出される。


 輸血代わりの造血をしているからの出血でもあるが、血はたぶん魔法で造られる訳ではない。造血すれば造血するほど血を造る成分が消費される。回復魔法で疲労感まで回復しないのはそのせい。


 筋肉や皮膚の再生にも、同じく大量のタンパク質が使われている。


 くらくらする。へろへろだ。だが、回復をじっと待っている時間はない。


 身を起こし見渡す大地が、戦いの苛烈さを物語る。


 魔法で生み出された石槍や錐は消えたが、魔法で隆起させた壁や、小石を集めて造った岩は消えていない。もちろん烈線で切り刻まれた大地もズタズタなまま。


 さて、荷物探しと進んでいた方角を見付け出さないとだ。


 立ち止まる暇も余裕もない。いつまた二匹目のキングアースビートルが現れるかも知れない場所にはいられない。


 次も勝てる保証などどこにもない。むしろ、いくつもの幸運が重なった奇跡的な勝利。1000万ロファルスを得たからって、その勝率が劇的に上がりはしないだろう。


 それほどにレベル差があり過ぎた。


 奇跡のひとつ、雪雲も流れ、暖かな日射しが照らす。


 雪も溶け湿る荒れ地に、崩落音が響く。見れば、高く築かれた壁が自重で崩れていた。


 魔法力の補強がなければ、それほどに脆い。


 荷物探しを開始すると、散乱地点はすぐに見付かった。厳密にいうと、心のレベルを上げたら、あの本の気配がわかるようになったからだ。


 気になっていた本のロファルス量を確認し、愕然とする。億超えではないかと予想をしていたが、その予想はあまりにもぬるかった。


 本に込められたロファルス量は、500億。防御、魔法防御、光、闇、心の能力それぞれに100億のロファルスが振り分けられ、レベルが全て50。


 なんだこれは?


 普通の代物ではないとは思っていたが、ここまで異常とは。単純に、キングアースビートル5000匹分のロファルス量である。考えただけで寒気がする。


 本のことはひとまず保留とし、荷物の回収を再開するが、辺りは岩だらけ。ほとんどが岩の下敷きだ。


 いくつかの食糧と飯盒を回収。岩に潰されぺしゃんこになってなくてよかった。


 岩をひっくり返せば全て探せないこともないが、あまりここに長居はしたくない。森での経験で言えば、戦闘音に魔物は集まって来た。出来るだけ迅速にこの場は離れたい。


 荷物探しもそぞろに、崩れ掛けの壁に土の魔法で足場を造り登る。


 怪我の出血は止まっているが、体力の限界を越えているので、足元がおぼつかない。


 どれほどの即効性があるかはわからないが、保存食をかじり栄養を補給。


 階段状にせり出させた足場を登ること10分。壁の上に到達した。


 これを砕いて脱出しようなどと思わなくてよかった。


 壁の厚みは5メートルを超える。備前長船を弾く強度でこの幅では、破壊することなど到底不可能。


 基、キングアースビートルが私を過少評価していてくれてよかったとも言える。自分が倒されるなどとは露程も思っていなかったから、こういった魔法で防御を固めることはなかった。こんな魔法で防御態勢に入られ、一方的に攻撃されようものなら打つ手はなかった。


 吹き荒ぶ風が髪をはためかせる。元々風の強い荒野だが、地上よりも高い分、より強く吹いている気がする。


 壁の端により、さらに恐ろしい光景を目の当たりにする。キングアースビートルが倒されても消えないのは、魔法で生み出された土ではないということで、ではその材料はどこから来たのか? その答えが眼下の暗い溝。堀のように壁の周りのを囲んでいる。


 壁よりも堀の幅は広いから、壁の高さ程の深さはないかも知れないが、もし逃げる為この壁を越え、あの穴に落ちていたら、どれ程の攻撃が降り注いだことか? 考えれば考える程、強敵であったことを思い知る。


 壁の上をしばらく歩くと、どこまでも果てしない荒野に僅かな起伏が見えて来る。キングアースビートルが出現した場所と、そこからここまでズタズタの大地が一直線に伸びる。私がかわした烈線が切り裂いた地面だ。


 キングアースビートルの気配を感じ走り出した時、闇雲に逃げた訳ではない。


 森からここまでの進行方向に向かって駆け出した。


 つまり、この直線の先が私の進んでいた方向。


 歩いている内に全身の痛みがなくなった。全治数ヶ月の怪我が1時間も掛からず完治。しかも傷痕ひとつない。


 しかし、改めて自分の姿を見ると酷い格好である。上着は脇から引き千切られへそ出しルック。さらに左腕の袖も二の腕の辺りからなくなり、半袖状態。スカートも備前長船を結ぶ為に裾を自分で切ったから短いし、一ヵ所スリットのように破けてもいて、太ももが覗く始末。その太ももを包む黒タイツもあちこち破れ、不本意ながら露出度が高くなっている。これはもう履けないので棄てて行く。


 汚れも酷いので、土と乾いた血を水の魔法で洗い流す。


 魔法で生み出した水は、魔法を解くと消えるので乾かす必要もなく、汚れだけを落として消せるから便利。


 砂だらけだった髪もさっぱりしリフレッシュ。


 さて、いつ魔物が現れるかわからないこんな場所とはおさらばだ。




 キングアースビートルとの決戦地を後にし、1時間もしない内にあんなに高かった日が落ちた。


 夕闇が広大な大地を紅く染め上げる。


 木の魔法で丸太を一本生み出し、大地に突き刺す。


 その丸太に背中を預け、備前長船を抱いて眠ることに。


 今日はこの世界に来て一番濃い一日だった。


 疲労はとっくに限界。栄養が不足している。魔法の使い過ぎが原因と思われる不調も消えない。


 一点の光もない闇の帳が落りる。


 いや、空に三日月と一面の星。


 宇宙にでも放り込まれたような、圧倒的なスケールで広がる。


 綺麗だ。肉体的にはキツイが、雄大な光景が常に広がっているので、精神衛生上は助かっている。


 遠くの空に、妙な光の瞬きを見る。気配を感じるような距離ではないが、あまりいい予感はしない。


 まるでUFOのように動く星明かりのような光点。


 異世界にだって異星人がいるかも知れないので、本当にUFOかも知れない。しばらく見ていたが唐突に消えてしまい、私も疲れからすぐに眠りに落ちた。




 母の声が聞こえる。


「はい。はい。……そうですか。……何か連絡があったらすぐに知らせてください。よろしくお願いします」


 電話で誰かと話しているような、一方的な喋り。


 開いた目に映ったのは、見知った屋内の様子。


 歩くたびギシギシ鳴っていた古い階段から、廊下を見下ろしている光景。


 その廊下にある電話台の前に、今しがた電話を切った母がいた。


 焦燥感の漂う面持ち、傍らには祖母もいて、心配そうな顔をしている。


「友達のところにもいないのかい?」


 祖母の問いに、母は力なくうなずく。


「仲良しだった三人も、行方が知れないって。家出をするような子じゃないのに、何があったの? レイ」


 言葉が杭となって、胸に突き刺さるようだった。


『母さん、私は……』


 くぐもった声は、誰にも届かない。


 半透明の自分の姿を、静かに見詰める。


 なんだこれは?


 まるで、私たちがいなくなった後の地球の光景のようなこれは?


 母が、知り合いの家に次々電話を掛けては、私の行方を必死に探している。


 やめて。


 私はそんなところにはいない。


 電話を切った母の目に、涙が浮いていく。


 この胸をえぐられるような痛みは、錯覚だろうか?


 玄関の引戸がガラガラと開く音。


「裏山にも見当たらない。何かわかったか?」


 入口に立つのは、父と祖父。裏山に私を捜索に行き、戻って来たところのようだ。


 ふるふると首を振った母の瞳から、涙がこぼれ落ちた。


 父、母、祖父、祖母、皆が私の身を案じている。


 子でも孫でもないのに、どうしてそんなに心配するの?


 私のことなど、気に掛けなければいい。家族ではないんだから。


 あふれ出す想いに、自己嫌悪で苦しくなる。


 わかっている。わかっている。この人たちが、どれほど私のことを大事に想い、家族と思っていてくれているか。


 注がれる愛情の雨に、レインコートを着て触れないようにしているのは私。


 どうしていいかがわからない。


 これ以上見ていられず、階段を駆け上り自分の部屋に入り掛けたところで足を止める。


 妹の真凛が、私の部屋でぽつんと佇んでいた。


「お姉ちゃん、どこに行ったの?」


 寂しげなつぶやきに、何かが軋む。


 てとてとと足音が近付き、弟の海斗が部屋を覗き込む。


「なんだマリンか。ねーちゃんかと思った」


 くるりと振り返った真凛が、キッと海斗を睨む。


「マリンも“お姉ちゃん”でしょ?」


 ツンっと唇を尖らす海斗。


「マリンは“マリン”だよ。ねーちゃんは“ねーちゃん”だけだ」


 二人は、私が実の姉でないことを知らないから、そんなふうに慕う。


 違う。そうではない。二人は、例え私が実の姉でないと知っても、態度を変えるような子たちではない。そんな子には、私が育てていない。


 自らの浅ましさに辟易する。


 どこかで、皆にも自分のことを避けて欲しいと思っている。そうすれば、私がこんな歪んだ考えでいることが正当化されそうだから。


 注がれる愛情にも、向けられた信頼にも答えられなくて、私はただただ高い壁を築いた。


 そして、異世界へと逃げ込んだ。




 開いた目に映るのは、地平の彼方から朝日が昇る瞬間。


 あれが夢かどうかを考えても意味がない。私にとっての今の現実はこの世界の日々。


 それが全て。




 荒野の旅。二日目。


 体力回復の為に食糧を浪費しているので、すでに残りが心もとないが、木の魔法での栽培は、まだ疲労が抜け切っていないのでリスクが高い気がし、実行が躊躇われるところだ。


 代わり映えのない礫砂漠を黙々と進む。


 時々、この先には行きたくないと思った時は、直角に横に曲がり、20~30キロ進んだ先で再び直角に曲がり進行方向を修正。


 元の直線上に戻る為にわざわざ戻ったりはしない。目的地のない旅。大まかな進行方向さえぶれなければいい。


 この“行きたくない”という漠然とした感覚を大事にしたい。おそらく“心”による危機察知能力。そのまま進めば、キングアースビートルクラスの魔物に出会うかも知れない。この危険な世界を旅する上で、一番の生命線が“心”の能力。


 二日目は、魔物には一匹も出会わず日が暮れ出す。夜間の移動は方向感覚が狂いそうなので止めておく。


 昼間なら、時々振り返り自分の走った後の砂煙を見て、進行方向の補正も出来るが、星明かりだけでは無理だ。


 休める時にはゆっくり休み、進める時には全力で進む。その繰り返しだ。


 昨日と同じ方法で眠りに付く。


 今日も空にUFOのような動く光点を見付ける。しかもひとつではない。まるで編隊を組んでいるように五つの光がゆらゆらと動いていたが、やはりしばらくするとすぐに消えてしまう。




 泣き声が聞こえる。女性が咽び泣くような、もの哀しい響き。


 開いた目には、よく知る部屋が映る。


 カナの部屋だ。桃色を基調とした部屋には、私たちがゲームセンターで取り捲ったぬいぐるみがところ狭しと置かれている。ほとんどがミキの戦利品だが。


 そこで、カナのベッドに顔を埋め、おばさんが泣いていた。


 半透明の自分を見、もはや声を掛けることもしない。


「カナ……カナぁ……うぅ、ふぅうっ、うぅ」


 これも、私たちが消えた地球の光景だろうか?


「ごめんねカナ……もっと、もっとあなたとちゃんと向き合っていたら……」


 嘆くような後悔の言葉に、僅かに苛立たしさも感じるが、泣きじゃくるおばさんを見ていると、そんな気も失せる。


 カナは、長年子供が出来なかった夫婦が引き取った養女。


 望んで親となった待望の子供。カナは深い愛情を受け、すくすくと育った。二人に子供が出来るまでは。


 天からの授かり物とはよく言ったもので、不妊治療の甲斐もなく出来なかった子供が夫婦の間に生まれた。


 カナに向けられていた愛情の全てはその子に向けられ、カナには居場所がなくなった。


 何度も思った。愛情に答えられない私には愛が注がれ、愛嬌の塊みたいに、注いだ分だけ愛情を返すカナには愛が注がれないことの理不尽さを。


 身勝手なおばさんを恨みもした。なのに、そのおばさんはいなくなって初めてカナへの愛に気付き、懺悔の言葉を繰り返す。


 怒りが沸き上がるが、同時にカナが愛されていたことが純粋に嬉しくもある複雑な感情。


 おばさんの泣き声が、ゆっくりと遠くなって行く。




 開いた瞳に映るのは、白の世界。一面が濃い霧に包まれ、何も見えない。


 夢から夢へと渡り歩き、まだ夢を見ているのかとも思ったが、背には眠る前に出した丸太があり、手には備前長船とリュック。目覚めは訪れている。


 湿りを帯びた冷たい空気に身震い。防御のレベルで多少暑さ寒さにも耐性があるが、まったく感じない訳ではない。


 砂漠に突然雪が降るような世界だ。濃霧程度では驚かないが、本当に何も見えない。


 視界は5メートルとないほどの霧。


 眠る前に地面に引いた矢印。これが私の進行方向だが、この霧のなかでどれ程正確に真っ直ぐ進めるだろうか?


 無謀な行進よりも、普段渇いている礫砂漠にこれ程の水分があるのだから、別のことをしよう。


 掘り返した地面に種芋を埋め、水の魔法で集めた水を注ぐ。


 バシャバシャと面白いくらい集まる水で浸し、木の魔法の力でその成長を一気に促すと、瞬く間に芽が出てつるとなり、青葉を広げる。


 そんなことを繰り返し、食糧の生産。それと並行して煮たり燻したりの保存処理も行う。


 初めて植物を魔法で育てた時のような虚脱感はないが、負荷は感じる。植物とは言え、生命を育てるのは、やはり並大抵のことではないのかも知れない。


 タンパク質が不足している。人体形成に必要不可欠な成分を、この世界に来てからまともに摂取していない。


 大豆系の植物は食していない。あの芋が地球の芋とは違い高タンパク質ということもないだろう。


 動物や魚どころか、虫さえいないとは。


 虫くらいはどこにでもいるだろうと、最悪どんな虫でも焼けば食べれる。その認識で、干し肉などはリュックに入れて来なかった。


 今更荷物の選択ミスを嘆いてもしょうがない。今は、あるものだけで生き抜かなければならないのだから。




 クラシック曲が聞こえる。少し遠い場所からだが、上質な音響機器が奏でる美しいメロディーなのがわかる。


 開いた目には、白を基調とした豪奢な部屋。


 イタリア製のアンティーク家具で揃えられた優美な部屋で、レースのカーテンが風に揺れ、天蓋付きのベッドまである。サヤの部屋だ。


 私、カナ、と来てサヤか。そんなことを思いながら、毎度半透明な自分の姿を見詰める。


 音楽が止まり、かわりに話し声が聞こえて来るが、音楽ほど明瞭ではないので聞き取れない。


 部屋を出て階下へ下りる。サヤの部屋は確か三階で、直ぐ下にはリビングがあったはず。


 二階のリビングを覗くと、日本離れした広い部屋には、これまた日本離れした男女がテーブルを挟んでソファーに腰掛けていた。


 どちらの王子様と王女様かという世俗離れした衣服を来ている。


 美男美女という言葉で浮かぶイメージをそのまま体言するような二人。サヤの兄と姉だ。


 兄の方が、ふう~むと何かを納得してから話し出す。


「つまり、妹君は学友たちと共に失踪した訳か」


 言い終えて、何故かにやにやと笑い優雅に紅茶を口に運ぶ。


 姉の方は、そんな兄を睨み付ける。


「兄上、笑い事ではなかろう」


 くつくつ笑う。


「いや、突拍子もないことをするあの子らしいと思ってね。だが、まあ、心配はいるまいて。あの子は優秀だ」


 姉の眉間にしわが寄る。


「優秀であろうと子供だ。捜索願いはもちろん、親にも連絡せねばな」


 兄の方はまたも笑う。


「フフフッ、親ってどの“親”にだい?」


 姉は一瞬言葉につまり、渋い表情でつぶやく。


「あの子の母にも連絡せねばな」


 兄の方はさらに笑う。


「それより僕は、お祖父様の反応が恐いね」


 その言葉に、姉は頭を抱え険しい表情。


 サヤの家族関係は、少し複雑だ。サヤがこっそり教えてくれた。「わたくし、両親の子供ではないんですのよ。本当はお祖父様とお妾さんの子供ですのよ」と、秘密を共有する楽しさからか、ニコニコ笑いながら言った。


 つまり、厳密にいうと今目の前にいるこの二人は、サヤの兄と姉ではなく、甥と姪。


 橘一族の中で、サヤの実の父にあたる祖父は絶大な権力を有しているようで、サヤはまさしくその祖父の秘宝といっていい宝物。


 サヤがいろいろと変な子なのは、その環境によるところが大きいかも知れない。


 深窓の令嬢であり、橘一族にとって腫れ物中の腫れ物がサヤ。




 目覚めるといつもの礫砂漠。


 今日は霧ひとつない快晴と渇いた空気。


 熱い砂塵が肌を撫でる。


 目や口にも多少砂が入っているはずなのに、かゆみも不快感もない。目やにを拭えばざらつき、唾を吐けば砂混じり。どう考えても精霊の加護のお陰だろう。


 軽い食事と出発の準備を手早くすませ、駆け出す。結局昨日は一日中霧が晴れず足止めを食らった。丸一日休養出来たので、今日はベストコンディション。少しペースを上げて走る。




 雑多に積まれたキャンバスといくつもの絵の具が絞り出されたままのパレット。スチールパイプ製のシンプルな棚や台だけの家具。真っ赤なソファーだけが原色を醸し出す芸術家らしいここは、ミキの部屋だ。


 部屋と言っても、庭に建てられたプレハブ小屋である。増築のリフォームより安上がりで、離れのようなひとり部屋が欲しいという本人の要望で実現した部屋。


 今は、その家主の姿はなくひっそりとしている。


 部屋を出て母屋の方へ移動すると、おじさんとおばさんの声が聞こえて来た。


 暗く、思い詰めたような声だ。


「私、あの子がいなくなってどこかほっとしている」


 美の化身のようなミキとは似ても似つかない、平凡な外見の両親。


「お前、それは……」


 “いくらなんでも”とでも続けようとしたその言葉は、言葉に詰まり声にならなかった。


「だって、私はあの子が何者かわからない!」


 語尾は、悲鳴に近いような響きだった。


「俺たちの子供だろ?」


 病院で取り違えでもあったのではと疑い、この両親がDNA鑑定さえしたことをミキから聞いている。


「肉体はね。中身が何かわからない。あの子が、何を考えているのかわからない」


 絶望感さえ滲む言葉。


 おじさんも言葉をなくし、何も言えない。


 ミキと両親の間の溝は、それほどに深い。


 愛の有無などの次元ではなく、ミキは両親に畏れられている。


 ミキは「いろいろと怖がらせて来たから当然の反応だ」なんて言って特に気にも止めず笑った。


 私はミキのことを怖いと思ったことはないから、ミキの両親が感じている畏れは理解出来ない。理解出来ないが、何が怖いかはわかる。


 ミキには普通の人には見えないものが見える。普通の人には聞こえない声が聞こえる。普通の人には触れないものに触れる。


 霊能力とか神通力とか、どんな言葉が当てはまるかはわからないけれど、ミキのそういった超常の力は世界一ではないかと思うほどに、全てを見透かし、全てを言い当てる。


 そんな我が子を凡庸な両親が理解出来ないのは、無理もないことかも知れない。


 初めて会った時からミキはそんなで、ミキとはそういうものだと思っていたから、私は別段なんとも思わなかったが、やはり普通の感覚では異常なことなのだろう。


 自己嫌悪と畏れに苛まれるミキの両親の声が、ゆっくりと遠くなる。




 ざらざらと頬を撫でる砂嵐。


 見飽きた茶色の世界が広がる。


 身支度をしている間に、朝日だと思っていた太陽が沈み出す。どうやら夕日だったようだ。昇る方角も沈む方角もランダムなので、見ただけではわからない。


 今起きたばかりで立ち往生も無意味なので、夜間行軍を決意。


 真っ直ぐ進めるかはわからないが、多少の誤差は寛容に受け止めよう。幸い今日は満月。完全な暗闇という訳でもないから。





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