二章 泉
どれくらい沈んでいたのか?
光が見えない程遠くなり、地球の中心まで落ちたのではと思うくらい長い時間暗闇を漂う。
あらゆる感覚が遠くなり、水の中にいるのに宇宙を漂っているような錯覚を覚える。
不意に薄ぼんやりとした光点がゆらぐ。
次の瞬間、息苦しさにもがく。
手足が動く。水の感覚が一気に鮮明になり、水面を目指し泳ぐ。
直感的に水面が近いと悟った。
ゆらぐ光の正体は、水面に落ちる月光。
三かきと平泳ぎしない内に、水面から手が突き出た。
重くまとわりつく水をはね除け、水面を叩いて頭を押し出す。
こんな呼吸音聞いたことがないと言うくらい、深く息を吸い込む。
激しい水音は、私が上げる飛沫ばかりではない。
近くに滝でもあるかのように、永続的にダバダバと鳴っている。
空には月。その明かりが時々何かに遮られる。あれが枝葉なら、近くに陸がある証拠。
衣服を着ているので泳ぎ難い。おそらくミキの仮説通り昼間着ていたセーラー服だろう。
私よりさらに泳ぎ難そうな着物やドレスを着ていた二人は大丈夫か? そもそも泳ぎが得意ではないカナは?
「カナ! ミキ! サヤ!」
滅多に出さない大声で叫ぶも、答える声はない。
そもそも私以外泳いでいる者などいない。
水面を見渡した時“それ”に気付く。
月だけの薄ぼんやりとした明かりでもわかる。
何もない空中から、水がダバダバと流れ落ちていた。
思わず見惚れる。私はそれが何か知っている。あの本の冒頭で、主人公が異世界にたどり着いた最初の場所が“ここ”だ。
身体が沈み、溺れ掛ける。背中のリュックサックが浮袋がわりにならなかったら危なかった。見惚れている場合ではない。居間にいた頃程ではないが、虚脱感がある。異世界に着いて即溺死では洒落にならない。
幸い流れも何もない泉なので、ゆっくり冷静に平泳ぎで進むと、すぐに足が着く場所までたどり着いた。
身体が重い。
水を吸ったセーラー服や、リュックサックの重みばかりではない。
疲労の限界で、そのまま前のめりに倒れた。
手も付かずに倒れたのに、不思議と痛みは薄い。痛覚が鈍っているのだろうか?
土と草の匂いが鼻をくすぐる。
何とかもぞもぞとリュックサックを外し、仰向けになると、降るような星々の明かりに胸が熱くなる。それは、目がしみるくらいに美しい光景。
南極とか北極とか、砂漠のど真ん中とか、そんな場所で見る星空はきっとこんなではないかと思う程にそれは明るく、掴めそうなくらいに輝いていた。
ポケットからスマートフォンを出す。
防塵防水対衝撃仕様。砂漠や海中でも使えることがウリのスマートフォンは生きている。
画面に映る時刻は7時37分。
いつの間にか7~8時間経過している。
電波は当然圏外。
駄目だ。スマートフォンを目の前にかざしていることさえ辛く、手を下ろす。
そこから、緩やかに意識は途絶えた。
夢も見ない薄い眠り。
次に目を開けた時には、辺りはすっかり明るくなっていた。
身体が冷たい。こんなずぶ濡れで眠れる訳がないから、ほぼ気絶に近い眠りだったのだろう。
上半身を起こす。
辺りは朝靄が包み込み、うっすら白いでいる。
周りにあるのは、どこにでもありそうな広葉樹の森。特に奇抜な枝葉の形をしている訳でもない。普通の平たい葉だ。細かく調べれば地球上のものとの差異があるのだとは思うが、そこまで樹木には詳しくない。
朝日を浴びてキラキラと光る水面。
ダバダバと水を吐き出す虚空。明るい日差しの中で見ても、どういう原理でそこから水が湧き出しているのかわからない。
丁度バケツ一杯分くらいの滝。水面から1メートルくらい上、水の入ったバケツを絶えずひっくり返しているように水を注いでいる。
何かに似ていると思って、それが何か思い当たる。プールの給水口に似ている。水の出る勢いや幅がそっくりだ。
泉の大きさも、25メートルプールを丸くしたくらい。
その泉に何か浮いている。
あれは、あの本だ。儀式に使った本が浮いている。けれど、あれはミキの本だ。
「ミキ! いるの!? ミキ!」
呼び掛けてみてから、自らの記憶の曖昧さに気付く。
そうだ。皆既日食の時、あの本はミキではなく私が持っていた。
スマートフォンで時刻を確認。午後1時を過ぎたくらい。
立ち上がるが、特に虚脱感はない。
勝手な推測による仮説だが、儀式から12時間掛け地球を離れ、そこからさらに12時間掛けこの世界に定着したと言うことかも知れない。
さすがに寒くてガタガタ震えて来る。本の回収の前に暖を取らなければ低体温症になりかねない。
拳より大きいくらいの石をいくつか拾い集め、それを円形に並べる。
真ん中に燃えやすそうな枯葉を集め、その上に矢倉状に枝を組む。
後はリュックサックからライターを出し着火。ライターはもちろん、リュックサックの中のほとんどの物を防水ケースに入れている。これがリュックサックの浮力の大きな要因だろう。
簡単に火が付き、燃え上がる。
太めの枝を火かき棒代わりにし、火を調節しながら枝や枯葉をくべると、冷たくなっていた身体に熱が戻り出す。
ようやく一息付けたことで、不安が波のように押し寄せる。
誰もいない。私以外、誰もいない。
私たちはなんの根拠もなく、同じ場所にたどり着くと思っていた。
それこそ小説や作り話のご都合主義だ。
だって、あの本の主人公もひとりだった。かなり特殊な性格をしている主人公なので、仲間が同じ場所にいなくても気にもせず冒険に行きそうなキャラクター。
これは、完全に失念していた可能性。本を持っていた私だけがたどり着いたと言うことはないだろう。みんなにも同じ症状があった。三人もこの世界に来ているはずだ。だが、それはここではないどこか。
どこだ?
みんなはこの世界のどこにたどり着いた?
考えて見ても、答えは出ない。
しばらく火にあたっていたが、服が渇き切る程ではない。
身体もだいぶ温まったので、湿った服を脱いで近くの枝に掛け、本を回収しに泉に入る。
衣服も虚脱感もなければ、泳ぐのは容易だ。
水面の本を手にしたところで、さらに別な物を探す。
スカートに帯紐でくくっていたが、外れていた。おそらくここでもがいた時に落としたはずだ。
息を吸い込み、水中に潜る。恐ろしい程の透明度なので、水中で目を開いた瞬間に見付けた。
漆塗りの黒鞘に納められたひと振りの刀。
ミキの話だと備前長船長光らしいが、本当だろうか?
小魚一匹いない水中。水底は泥でも砂でもなく、ただ落葉が敷き詰められた琥珀色。
変な泉だ。
異世界の不思議泉に対して、今更変も何もないが。
水中で物思いに耽っていてもしょうがないので、刀と本を手に泉を上がる。
滴る水を拭う布もない。荷物のチョイスを間違えたかも知れない。タオルや着替えはかさばる為、持って来てはいない。
短い水泳でも身体は冷えるので、すぐに焚き火にあたり暖を取る。
水に浮き、濡れることもない魔法の本。
表紙を見た瞬間、強烈な違和感に脳を撫でられたような気持ち悪さを感じた。
表紙に記されたタイトルが読める。
否、すでに解読している文字なので意味は知っている。“力符”と言う意味の言葉。
そういうことではなく、音読出来ることを理解している。その一文字一文字を、如何なる発音で発声するかをすでに知っているという不可解な現象。
試しにその言葉を口にする。この言葉はただの言葉ではない。物語の主人公が幾度も口にした呪文に近い言葉でもある。意味を知り、目的を知りその言葉を口にしたならば、あの現象が起こるはず。
「ロファルス・エンテリア」
胸の前で黄緑色の輝きが生まれ、光が弾ける。
湯気のように立ち上る光の中心に、拳ほどの大きさの光球が生まれた。
鉱石のようにも見える黄緑の光で出来た宝玉。
流れ出ては昇る揺らめく光が薄い形を作ると、カードとなってその宝玉の周りをくるくると回る。
全て、あの本に書かれた物語の通り。
手のひらほどの大きさのカードは、赤い色のものが六枚。青い色のものが六枚。緑色のものが六枚。白い色のものが三枚。
それぞれのカードに書かれた文字や数字も読める。
基本能力を示す赤いカードには、攻撃1。防御1。速度2。魔法攻撃2。魔法防御2。魔法速度2の六つの言葉と数字が記されている。
精霊を示す青いカードには、土1。水1。火1。風1。光0。闇0の言葉と数字。
技を示す緑のカードには、運動。形状。生命。集中。装着。純良の六つの言葉と全て1の数字。
身心の力を示す白のカードには、身2。心5。神0の言葉と数字。
それぞれの数字が示すのは、その能力のレベル。
このロファルス・エンテリアこそが、この世界を剣と魔法の世界にしている根幹と言っても過言ではない。
宝玉の中心には30万ほどの数字が読める。その下には別の色で29万ほどの数字。さらに下にも別の色で1万ほどの数字。一番上に記されているのが私の総ロファルス量で、真ん中が各能力に振り分け済みのロファルス量。一番下が残ロファルス量。
魔物を倒すことで得られるこのロファルスをそれぞれの能力に注ぐことでレベルを上げることができ、さらにこのロファルスは通貨の代わりも果たしていて、物の売り買いや労働の対価としても支払われる。
よくあるRPGの経験値とお金が一緒になったようなものがロファルスで間違いない。
目の前で起こるリアル不思議現象にしばし放心。
夢にまで見た魔法のような出来事がまさに起きている。
宝玉の光は、私の身体だけを照らしている。地面には明るさは生まれず、光と身体の間に枝や葉を入れてもそれが照らされることはない。
カードに触れると、それぞれまた違った光り方をする。
赤のカードは、カードの色と同じ色の光を放つが、光り方がそれぞれ違う。
攻撃のカードは、強い光を放っては消えるという点滅を繰り返す。
防御のカードは、ゆっくりとぼんやりとカードの周りまで広がるような光を放ち、ゆっくりとカードに吸い込まれるように消えるという点滅を繰り返す。
速度のカードは、カードの表面を幾何学的な線を描くように光が走っては消える。光の線は一定のリズムで走るが、毎回違う場所に線を描く。
魔法攻撃のカードは、線香花火のように、火花を散らすような光り方をする。
魔法防御のカードは、赤い蛍の羽ばたきのように、淡い光りがゆらゆらとカードから四方八方に飛び立っては消える。
魔法速度のカードは、三回ずつ連続でカードの上を光の直線が走る。速度と違い、常に真っ直ぐ走る光は、その角度や方向もバラバラ。
精霊を司る青のカードは、レベルが0の光と闇はなんの光も放たないが、それぞれの精霊は別々の色で美しく輝く。
土のカードは、指が触れた部分から土煙が舞うかのような茶色の光が広がる。
水のカードは、触れた部分から、波紋のような青い光が広がる。
火のカードは、触れた部分から、炎が立ち上るように、赤い光が舞い上がる。
風のカードは、触れた部分に緑の光が集まり、放すとその光が弾ける。光を集めたまま指を動かし弾くと、光は疾風のように飛んで行く。
技を示す緑のカードは、全てロファルスに似た黄緑の光を放つが、赤のカードと同じく、ひとつひとつ違った光り方をする。
運動のカードは、カードの周りを絶えず光点が不規則に回り続ける。
形状のカードは、光があちこちで立体的な形を作っては崩れて消えるというのを繰り返す。
生命のカードは、カードの中心から淡く大きく広がる光を繰り返し放ち続ける。
集中のカードは、光が中心に集まり、爆発するように強い光を放ち、また光を集めるというのを繰り返す。
装着のカードは、カード自体がただ点滅するように光る。
純良のカードは、カード自体が眩しく光る。光の強さなら、集中の爆発の方が強いのに、不思議と眩しく感じる光り方をする。
身心のカードは、0の神のカードはなんの光も放たないが、他二つは光を放つ。
身のカードは、カードの外側が光り、心のカードは、カードの内側が光る。
いつまでも見ていられるくらいロファルス・エンテリアは綺麗だが、そんなことにばかり時間を割いてもいられない。
確認しなければならないことが山程ある。
まずひとつは数字。解読出来なかった文字の中に数字が含まれていた為、本の主人公のレベルが未確認なのである。そして、私の記憶が確かならば、あの本の主人公は私のように同じレベルばかりではなかった。
確認の為に開いた本の中身に、タイトルを読んだ時以上の違和感を感じて、カナではないけれど“くりゃくりゃ”する。
知らないはずの知識を刷り込まれ、その知識が目視することで確かなものへと書き換えられていくような感覚。
なるほど。生身でデータをインストールするとこんなにも気持ち悪いのかと、どこか俯瞰の感想を抱きつつ主人公……ギルの能力が書かれたページまで飛ばし読む。
そう。発音などわからなかった主人公の名前も文字を見た瞬間に理解した。彼の名前はギル・ディーザルク。17歳の少年。
そのロファルス・エンテリアのレベルを見て衝撃を受ける。
攻撃12
防御7
速度11
魔法攻撃1
魔法防御6
魔法速度1
土0
水0
火0
風0
光3
闇0
運動8
形状3
生命5
集中6
装着8
純良15
身9
心9
神0
私とは比べるべくもない高レベル。
私の特徴が多数の精霊を持つが故の、魔法使いタイプだとするならば、戦士系と魔法使い系の差だろうか?
いやいや、それにしてもレベル差がありすぎる。主人公選択式のゲームで、選べる主人公の初期ステータスにこんなに差があったらぐれるぞ?
まあ、人は人。自分は自分ということだろう。そう無理矢理にでも納得するしかない。
ここでギルよりレベルが低いことを嘆いていても始まらないのだから。
まだ濡れている制服に袖を通す。冷たく不快な着心地だが、贅沢は言えない。
べちゃべちゃに濡れたままの黒タイツとスクールローファーも履き、カサカサと枯葉を踏み締め立ち上がる。
魔法には、精霊をそのまま放つ単一魔法と、精霊同士を掛け合わせることにより発動する複合魔法があるらしい。本に書かれた通りならばだが。
健康な手足があり、物の掴み方や歩き方がわからない人はいない。
自分のロファルス・エンテリアを見てから、感覚的にわかっていることがある。頭にあのカードを思い浮かべることで、魔法が使えるはずだ。そして、二つのカードを同時に思い浮かべることで、複合魔法も使える。
何度夢に見たかわからない魔法が使えるとか、変な興奮で動悸がやばい。
魔法を放つと、ロファルスが消費されると記されていたが、試し撃ちもせず実戦投入はありえないから、これは必要経費だ。
心を落ち着け、頭の中に水と風のカードを思い浮かべる。
複合魔法はいろいろあるが、一番強力そうなのが、この水と風を合わせることで生み出せる雷の魔法。
思い浮かべた二枚のカードを重ね合わせるイメージを抱くと、指先に僅かな痺れが集まる。
次の瞬間、まばゆい閃光と共にその指先に雷光が生まれた。
とか言うと凄い気がするが、そこに生まれたのは落雷とは程遠い、スタンガンのバチバチみたいな光。
まあ、そんなものかと苦笑をこぼし、その生み出した魔法をどうしたものかと思った時、近くの木に目を止める。
樹高3メートル程の低木。幹の太さも大人の手なら両手で包めそうな程。ミニマムサイズな私では無理だが。
銃口を向けるように、電撃点る指先をその木に向けつぶやく。
「バンな……」
“バンなんてね”その短い一言をいい終える前に、私はドンッ! という轟音と共に弾き飛ばされた。
仰向けに地面に倒れていたが、幸い厚い枯葉がクッションになりそれほど痛くはない。
状況整理の前に私が感じたのは、木工所で嗅ぐような濃密な木の香り。それに僅かな焦げ臭さが混じる。
身を起こし視界に映ったのは、中程から折れた木の姿。綺麗な断面ではない。まるで内側から爆発したようなザキザキの断面。
周りには木片が散らばり、折れた先が横倒しになっていた。
しばし、その光景と光がなくなった指先とを交互に見る。
凄まじい威力だ。
あんなスタンガンの電撃みたいな見た目に反し、その破壊力は手榴弾並。
レベル1にしてこの威力か。しかも消費ロファルスを確認したら僅か100ほど。魔法が相当強力な気もするが、それは実際に魔物にどれほど通じるか次第。今その威力に歓喜するのは早計。
冷静に思案しながらも、他の魔法もいろいろ試し撃ちしてみる。
泉を打つ水音だけが響く森。
その泉から溢れた水は、いく本かの小川になって流れ出ていた。
薄くもやが出て、白く湿りを帯びた風が流れる。
本に書かれた通りならば、聖泉とも呼ばれるこの泉には魔物は近付かない。
ここにいる限りは安全な訳だが、いつまでもじっとしている訳にも行かない。
大きく深呼吸。森林の香りにリラックス。
しばし瞳を閉じ、心を落ち着ける。
目まぐるしく様々なことがあったけれど、目的は整理するまでもない。旅立ち、みんなを見付け出す。それだけだ。
足元の刀を拾い、紐で腰にくくる。ずしりと重く冷たいそれは、重量以上に私の身体を枯葉に沈めるけれど、怯んではいられない。こうしている間にもカナが怖がって泣いているかも知れない。サヤだって寂しがっているかも知れない。ミキは……この状況にものすっごいやる気を出している姿が目に浮かぶ。やつは逆境が何よりの大好物だから。
もう一度深呼吸。目の前には、未知の世界が広がるのみ。
そこへ足を踏み出す。
それほど高い木もない森。
何層にも折り重なった落葉がふかふかの絨毯のようなやわらかさ。それが示す情報は、ここが典型的な落葉樹林ということ。
腐葉土が育む大地には草が生い茂り、視界を悪くするほど。
地球ならば、そんな土を少しでも掘り返せば虫が容易に見付かるが、何も見付からない。私はまだ、小動物はおろか、虫一匹見付けていない。
泉から離れると、本当になんの音もしなくなる。
鳥すら鳴かない。否、そもそもここは鳥がいるかもわからない異世界。
異常な世界にいる実感を、改めて感じる。
ポケットから方位磁石を取り出してみるが、くるくると回るだけで役に立ちそうにないのでそっとしまう。
これくらいは余裕で想定内。地球の磁力に対応した道具が使える訳がない。
もやは少し落ち着いて来たが、それでも湿りを帯びた空気は冷たい。
ふと、その静寂を破るように何かの音が聞こえてくる。
何か、空気を切るようなファラファラという音で、途切れることなく森に響く。
なんだ? なんの音だ?
地球ではおよそ聞いたことのないその音は、次第に近付いてくる。
緊張で、生唾をこくりと呑み込む。
刀の柄を握り、身構える私の正面、薄もやの向こうに現れたのは蛇。
私の目線と同じくらいの高さに、アオダイショウかアナコンダのような大蛇が姿を現した。
ファラファラと怪しい音を立てながら、みるみる迫る。
刀を、いや、距離があるから魔法で迎撃。
軽く混乱する思考に魔法カードを思い浮かべるが、イメージが固まる前に蛇が宙を滑り突撃してくる。
魔法を放つ余裕などなく、咄嗟に横に飛んで体当たりをかわす。
ギリギリ避けられたが木の根に躓き転んでしまう。
その瞬間頭上をブオンっと何かが過ぎ去り、躓いた根の先、幹の部分が砕け散った。
倒れた私の上に降り注ぐ木片。
通り抜け様、避けた私に向かって尾を振り抜いたのだと推察する。
その威力は、木をへこませるとか皮を削るとかではなく、粉砕して叩き折るほど。
転んでいなければ、私の頭がこの木と同じ末路を辿っていただろう。
回避する寸前に見えた。長い胴体の一ヵ所に、トンボのものに似た透明な羽が生えていた。
全長を三分割して頭から三分の一くらいの位置。全長の十分の一もないような小さな羽が六枚。とてもあの巨体を飛行させるだけの浮力を生むとは思えない代物。
その羽が震え、ファラファラと鳴っている。
音が空を巡る。もやで姿は見えないが、空中を旋回し再び突撃してくる気だろう。
魔法を当てるどころか、放つ余裕さえない。
腰の刀を抜こうとして、自らのアホさに呆れる。刀の長さに対して私の手が短く、抜けない。
もたつく間にファラファラという羽音が近付く。
ガッチリ結んだ腰紐をほどくのを諦め、その場で一回転するような動きで刀の方を鞘から振り落として拾う。
その時、フライスネークが再び突撃してくる。
あれを斬るとか、無理ではないか?
咄嗟にかがんでかわす。
カンっと、刀の刃先に何かが触れた気がした。
その瞬間、頭上から降り注ぐドス黒い液体。
温かく、吐き気が込み上げて来るほどに生臭い。
振り返ると、フライスネークが二匹に分裂していた。いや違う。真っ二つに切り裂かれていた。
ゆらゆらと僅かに漂い、ぼとりと落ちると、その死骸は黄緑の光に転じ、私の胸の前に生まれた黄緑の宝玉に吸い込まれるように消えた。
身体を見る。
頭から浴びた返り血さえ、一滴も残さず消失。
本にも書かれていたから知ってはいたが、目の当たりにするとその不思議現象の理解にしばし時間を要する。
髪の毛や制服のスカーフをくんくん嗅いでみるが、先程嗅いだ生臭さは微塵もない。
本当に消えるのだ。跡形もなく何もかも。
まるでテレビゲームのモンスターだ。その認識に何か危険なものを感じる。
私は今、ここにいる。ゲームのキャラクターなどではなく、私自身として。
転べば痛いし、擦りむけば血も出る。
リセットは出来ない。どんなに非現実だとしても、これは夢でもゲームでもない現実。
その現実を冷静に推察。
かがんだ時、残して来た刀に突撃したフライスネークは二枚に下ろされた。
それはわかるが、尻尾を叩き付けただけで木を粉砕するような強度の魔物が、あんな発泡スチロールくらいの手応えで斬れるものなのか?
手にする刀を見る。
至って普通という表現もどうかとは思うが、特に変わったところなどない刀。
確かに刀は銃弾すら真っ二つにするほどの切れ味を持つ刃物だが、人間の握力では刀の方が弾き飛ばされるだろう。
故に、あの手応えのなさはおかしい。
試しに近くの木に刀を振り下ろしてみる。
さくりと、まるで大根でも切ったようにあっさり斬れてしまう。
刀の切れ味が、確実におかしい。
本に物のロファルスを調べる方法が書かれていたので、それを実践してみる。厳密にいうと、物にロファルスを込める方法だが。ロファルス・エンテリアの呪文で黄緑の宝玉を生み出し、刀をその宝玉に重ねると、光がゆらめき私の数値が消え、別の数字が浮かび上がる。
案の定、映し出された備前長船長光のロファルス量は100万。
私の三倍以上とかどうなっているんだ?
そして、その全ロファルスを注いだ攻撃のレベルは10。
このロファルスは、いったいどこから来たのか?
試しに他の持ち物も調べてみるが、ロファルスなど込められていない。
刀だけがおかしい。
ひと振りひと振り丹精込めて造り上げた刀にはロファルスが宿るとか?
異世界の力が宿る訳ないと思いかけたところで気付く。それを言ったら異世界の力が私にも宿っている訳で、その根源はこの世界ではなく生命力とか精神力とか、そういう科学では説明の付かないものなのかも知れない。全て答えのない推察に過ぎないが。
とにかく、ミキに感謝だ。
この刀は激弱な私の生命線と言っていいほど、武器になる。
刀を鞘に戻し、腰には下げず手に持ったまま探検を再開。腰からでは抜けないので、現状これがベストであろう。
ふと、視線を感じ足を止める。背後から、確実に私を見ている。
私には第六感などないので、これが地球でのことなら気のせいで済ますが、ここは異世界で特殊な力“ロファルス”が存在する世界。
ゆっくりと、自然な動きを装い振り返る。
静かな森の風景。
人の姿などなく、人が隠れられるほどの幹の太さがある木も見当たらない。
ただの気のせいだったのか?
さくさくとその方向に進み、枯葉の絨毯に目を凝らす。
ここは魔法が存在する異世界。魔法を使えば、こつぜんと姿を消す方法などいくつもあるだろう。幽霊に見られていたと言うオチでない限り、足跡があるはず。
探偵小説を書く為に集めた知識が役立つ。
落葉のかすかなへこみを見付ける。
体格は私と同じくらいとおぼしき足形のへこみ。
けれど、二つだけ。歩いた形跡がどこにもない。
空を見渡す。
飛行魔法で飛んで消えたか? 瞬間移動魔法でこの空間から消えたか?
あるいは全てが私の思い違いか? 土や泥の足跡と違い、落葉のへこみでは足跡とは断定出来ない。
呆然としていてもしょうがないので、森を進む。
すると今度は、ゲコゲコとカエルのような鳴き声が聞こえてくる。
もやも落ち着き、見通しの利く森の奥を見詰めると、カエルがいた。
鳴き声の通り、カエルにそっくりな生き物が跳び跳ねてくる。
薄汚い濃い緑のまだら模様。ウシガエルっぽいボテボテした鈍い動き。
ただし、サイズの方はかなりおかしく、私よりデカイ。そして左右に別れた二本の長い尻尾がある。
カエルに似ているが、フライスネーク同様似て非なるもの。
まだ距離がある。今度こそ魔法で撃退をとイメージを膨らませた時、カエルがカパッと大口をあけ、地面をぱっくりとえぐるように食べた。
思わず思考停止してしまうような行動。
なんだろう? 主食は土という草食獣ならぬ土食獣的なことか? それなら害はない?
そんなことを考えていると、カエルは二本の尾の先を私の方に向けた。
その先端が、すーっとまぶたのように横線が入り、パッと開く。
尾の付け根の方から膨らみが先端に向かって流れてくる。
予測される事態から回避する為、全力で横っ飛び。
刹那、高速で放たれた弾丸が背後の木を打ち砕いた。
飛び散るのは木片だけではない。泥とも土とも付かない黒と茶色のベトベトした物体。
胃酸のような鼻につく悪臭が立ち込める。
子供が公園の砂場で作るような泥団子を飛ばしたのだ。
木を粉々に砕く威力からして、直撃すれば致命傷だろう。
そんな弾丸を、左右に揺れる尻尾から次々撃ち出す。
やばいやばい。全力で逃げながら回避。
心臓が弾けそうなほどに高鳴る。命を取り合う緊張。
あちこちで砕ける木々が、倒れては轟音を響かせる。
速度は豪速球のように速いが、射程はそれほど広くはない。
20メートルほど離れると急速に威力が落ちる。
これは、速度が落ちてではないだろう。
木に当たるとただの泥のように砕けるだけで、木に傷ひとつつけられなくなる。
考えられるのは、込められた闘気の消失。
ロファルスによる破壊力とはすなわち闘気のこと。
これがコンマ数秒しか持たない為に泥弾の射程は20メートル。
けれど、あの弾幕を避けて斬るのは不可能。
いよいよ魔法の出番。
回避にも慣れて来て、心を落ち着け魔法カードを頭の中に思い浮かべる。
ピストルみたいに構える指先で輝く雷光。
振り向き様に放つ。
「雷」
自然と出た言葉に自分でも驚くが“呪文”の発祥の瞬間かも知れない。その言葉で、イメージが一層強く固まる。
雷鳴響かせ直進する光球は、泥弾の間をすり抜けマッドフロッグの眉間に直撃。
次の瞬間ぷく~っと歪に膨れた頭部が、パンッとグロテスクに飛び散り、フライスネーク同様黄緑の光に転じて消える。
勝った。
一撃必殺の魔法の威力は、やはり高い。
吊り橋効果みたいなものだろうか?
緊張のドキドキが妙な高揚感となり、喜びがあふれる。
柄ではないが、小さくガッツポーズをし勝利の余韻を味わう。
さっそく獲得ロファルスを確認する為にロファルス・エンテリアを生み出す。
刀のロファルスを見る時に、フライスネークの獲得ロファルスは確認済み。
私のロファルスは、約1200増えていた。
マッドフロッグはいかほどか?
映し出される数値の差に、消費した雷の魔法一発分のロファルスを足すと、その差は1500。
フライスネークが特別獲得ロファルスが少なかった訳ではない。
この獲得ロファルスでは、今の私のロファルス量を得るにも途方もない数を倒さなければならない。
ゲームではないから、レベル上げは楽ではなさそうだ。
ゲームではないので、レベル上げ以外にもやらなければならないことがある。
食糧の確保。
木の実や果実、芋のような根菜。後はその辺の草を次々ひと噛みして味見。食べられそうなものを取って来た。
この“食べられそう”と言うのが曲者だ。
本当に食べられるかどうかはわからない。
草や根に毒素が蓄積なんてよくある話。
苦味や酸味などの味や、痛みや痺れなどの刺激でわかる毒素ならいいが、ここは異世界。
そんな単純なものばかりとは限らない。
ほとんど賭だが、リュックに入っている食糧は飴やチョコレートなどが僅かだけ。
水とそれらだけでも数十日は生きられるだろうが、活動を抑え救助を待つ遭難者とは違う。
常に魔物退治や探索をする為に行動することを前提とすると、食糧の現地調達は必須。
むしろ、命懸けでも食べられるものを早めに選別する必要がある。
三点から伸ばした細長い枝先をつたで結び固定。
そこから伸ばしたつたに水を入れた飯盒を吊るす。
鍋ではかさ張るので、アウトドアの万能調理器具飯盒をリュックに入れて来ていた。
とりあえず、ひとつひとつ湯煎し少量だけ食べることに。
地球の常識で言えば、少量で死に至るほどの猛毒を持つ植物は少ない。まして毒素の含有を予想させるような予兆なくは極めて稀。
これらを踏まえ、少量を食した数時間後、なんの異変もなければどんどん食す量を増やし、同じことを繰り返して行く。
それは、飲み水にしても同じ。泉の水を一応沸騰させてから飲む。
果実のひと欠を煮ると湯が琥珀色に染まる。おそらく水溶性のタンニンを含んでいるものと思われる。全てに置いて推測による安全確認。知識の豊富さが役には立つが、推測は推測。まして、その推測する知識さえないカナは?
胸の奥がスーッと冷たくなるような不安。
考えても仕方がない。心配する暇があるなら、一刻も早く探し出す。
泉の周辺で魔物退治と食糧採集すること約4時間。
体調には特に変調は見られない。少量しか食べてないから空腹なくらい。
戦いには未だ慣れない。
ゲコゲコと言う鳴き声と共に飛来する泥弾が辺りの木々をなぎ払う。
飛び散る木っ端にむせないように袖で口元を覆って視線を森に走らせる。
一、二、三……三匹確認。
一匹なら苦戦はしないが、複数だと死を意識する。
レベルは攻撃と防御をなんとか2にした。これにより、刀を楽に振り回せるようになり、跳んだり走ったりの衝撃も大幅に緩和。長時間の戦闘を可能にした。
他にも、レベルとは関係ない成長点もある。イメージ力。
確認したマッドフロッグがいた辺りに雷撃を連射。
「三雷」
魔法を連続で放てるくらいには慣れた。
三匹中二匹に命中。けれど、ファラファラと言う羽音が響いて来る。
音の多重性から一匹ではない。四匹か五匹。
音がする方向へ、土と風の複合魔法“星”をでたらめに放つ。
「星球」
金色の光弾が森に飛び乱れる。
雷撃だと枝葉に当たるが、星の魔法弾なら枝葉を貫通。
フライスネークに直撃しなくても、羽にでも当たれば機動力を奪える。あんな小さな羽だけれど、飛行する為には重要な器官のようで、傷付くと飛行能力は著しく落ちる。
流れて来た黄緑の光で、二匹始末したことを確認。
取りこぼした何匹かの突撃を警戒すると、悪寒のような感覚が背中を伝う。その場から飛び退くと三匹のフライスネークが大地を穿つ。
おそらく“心”の能力と思われるこの危機察知能力がなければ、何度死んでいたかわからない。
すかさず飛び込み、備前長船で斬り棄てる。
飛んで来た泥弾をかわし、最後のマッドフロッグを雷で撃破。
荒い呼吸と、握力の限界で手から滑り落ちる刀。
レベルを上げたことにより、格段に楽にはなった。楽にはなったが、物理的に戦い続けるのは無理だ。
「ロファルス・エンテリア」
つぶやきに生まれる黄緑に光る宝玉。
獲得した全ロファルスをいろんな能力に注いでみるが、そんな簡単にはレベルは上がらない。
空気の僅かな冷え込みと、暮れだす空。
潮時か。
いくらなんでも夜間に魔物退治する程クレイジーではない。
携帯電話の時刻を確認。17:47を表示している。
完全に陽が沈む前に泉へ戻ることに。
採取した食材の下処理をし、昼よりも多く食してみる。
素朴な味の芋みたいな植物の根には、塩を掛けるとなかなかの美味。
現地調達が困難な可能性を示唆し、岩塩や食塩など、塩は多めに持って来ている。試食中のこれらが問題なく食べられれば、取りあえず餓死することはないだろう。
食事が終わるとすることがなくなる。
一日中動きまくり疲れているせいか、強い睡魔に横になる。
防御を2にしたからか、地べたのごつごつもあまり気にならない。
私はすぐさま眠りに付いた。
朧気で不確かな意識が漂う。
不快な言葉がノイズ混じりのように、途切れ途切れに聞こえる。
気持ちが悪い。形容し難い不快感。
なぜなら、その言語は日本語でもなければ、地球上のあらゆる言語と異なる。異なるのに、私はその単語のひとつひとつの意味や、接続詞や助動詞、言葉の全てを理解している。
初めて聞く言葉なのに、わかることが気持ち悪い。いや、厳密には初めてではない。あの鍵となる小説を音読した時の言葉がこれだ。
誰かが、この世界の言葉で話している。
開いた目には、暗い森と、複数の人影。
月明かりだけが、闇に輪郭を描く。
しわがれた老婆のような声が、周りの人影に何かを命じているような口振りだが、途切れ途切れの不鮮明な音声で、はっきりとは聞き取れない。
これはなんだ?
自分の姿を見て、少し納得する。いつぞやの宮殿をさまよった夢と同様に、月明かりの透ける身体が見えた。
これは夢だ。
夢ならばと、その人影たちに近付く。
地面がすり抜けることはないけれど、枝葉は私に触れることなくすり抜ける不思議。
距離が縮まると、不鮮明だった音声が明瞭になり、言葉をはっきりと理解出来る。
老婆の枯れた声が言う。
「必ず見付けだし、あたしの前に連れて来なさい」
その命令に応え、散り散りに消える影たち。
残ったひとつの人影は、腰がすっかり曲がった小柄なひとり。
スカーフか何かを頭に巻いているので、髪型はわからない。
手には木の枝のようなごつごつとした杖。
衣服は所々ほつれたようなぼろをまとっている。
表情どころか、顔の輪郭さえ月明かりだけでは判別出来ない。
その姿はまるで、月夜の魔女のような禍々しさを放つ。
ふいにその老婆が私の方を見る。見ると言っても目の位置もわからない暗闇のこと。顔だけを向けられている。
「誰かいるなら出て来なさい」
詰問する語気の強さに身がすくみ、思わず両手で口を塞ぐ。
この老婆は、私の吐息にさえ気付きかねない。
「気のせいかしら? こんな古びた身体じゃあ感覚も鈍るわね」
自嘲気味に独りごち、老婆は踵を返す。
私もほっと胸を撫で下ろした直後、老婆はつぶやく。
「でも念のため」
振り返り杖を振るうと、そこから黒く無数の何かが私に放たれた。
開いた瞳には、枝葉がアクセントの青いキャンバスが映り、ダバダバと泉を打つ水音だけが響く。
泉の傍らで、眠ったままの姿勢で目覚めた。
そう。ただの夢。ただの夢のはずなのに、痛いくらいにドクドクと高鳴る鼓動。
死んだかと思った。
明確な殺意を浴びせ掛けられた感覚は引かず、脂汗が吹き出す。
突然異世界に来れば、悪夢のひとつも見るだろう。
私は深く考えるのは止め、そう結論付けた。
速度のレベルを3にしたことにより、ようやくフライスネークとマッドフロッグとの戦いに余裕が持てるようになった。
その“余裕”を利用し、様々な魔法を実戦投入することでさらに飛躍的に戦いは楽になる。
「蔓」
水と土の複合魔法“木”の魔法で、手のひらに生んだ銀色の光から植物のツルを伸ばし近くの木に絡め、一気に引き絞ることにより移動。
突撃して来たフライスネークを回避。
空気を切るような音が耳元をかすめる。
まずは機動力を削ぐ。
手のひらに風の魔法を発動。
「風刃」
疾風をいくつも放つ。イメージとしては、風で出来た手裏剣。ひとつひとつは致命傷にならないが、フライスネークの羽をズタズタにするには充分。
地を這う蛇をあっさり斬り捨て撃破。
ゲコゲコと言う鳴き声と共に迫る害意に合わせ、土の魔法を発動。
「土壁」
大地をせり上げ防壁にする。
土属性の攻撃に対して、同じ属性だからか、この土壁は効果覿面。
攻撃方法が泥弾しかないマッドフロッグの攻撃は完封。後は一方的に殲滅。
ギルの能力値を羨んだことを訂正しなければならない。魔法の汎用性をなめていた。
これほど多くの魔法を使えることの優位性はない。
泥弾により倒れた木々の合間から空を見る。うっすらと暮れ出す空。
携帯電話のディスプレイには、15:44の表示。昨日より2時間早い日暮れである。
泉に戻りながら考える。1日の長さが地球とは違う。それは想定の範囲内だが、私は別の危惧から、日の落ちた夜空を睨む。
この世界は、そんな地球の常識が当てはまらないくらい、一筋縄では行かない気がする。
夜間戦闘をするのはまだ危険と言う判断で泉に戻ったが、まだ眠くはない。
私には他にもやらなければならないことがある。採取した食材の加工。
焼いたり炙ったりして保存食を作る。
安全性もまだわからないが、安全を確認してから保存食の加工を始めるような悠長なことをする気はさらさらない。
今、この瞬間さえ、共にこの世界に来た三人のうち誰かが危機にあるかも知れないのだから。
深い深い闇。
何か塵のような光が無数にちらつく。
蛍よりも弱く小さな光。
ここが暗闇だからこそ見える程度の光。月明かりどころか、星の明かりにさえも霞みそうな儚さ。周りを照らすこともないので、闇以外何があるのかわからない。
わかるのは、うっすらとした何かの輪郭。
人ひとり入れそうなくらいの球体にも見えるけれど、その輪郭と言うのは厳密に言うと、見えている訳ではない。
微かな光がそこにだけない。その光のない部分が球体として知覚出来ている。もっと目を凝らして周りを見ると、横向きに漂う人影のような光のない部分も見付ける。
髪が長く、裾の長いワンピースを着ている女性のようにも感じるが、パレイドリアにより、なんでもない空間を勝手に人影と見誤っている可能性もあるのでなんとも言えない。
そう勘違いで結論付けようとした時、変声期で変えたようなくぐもった声が響く。
「誰かいるのなら名乗りなさい」
男性か女性の声かもわからない声。
この詰問に経験がある。また夢?
類似した夢を二日連続で?
考えていたら、突然強い光が生まれる。光源は、球体の中。
逆光で判然としないけれど、確かに球体の中には人影があり、傍らには漂う人影も確認出来た。
ふと、光が消える。否、目が覚めたのだ。
辺りはまだ夜。
携帯電話で時刻を確認して固まる。現在7:13を表示。
辺りは月明かりが僅かに照らすだけの暗闇。
夜が明ける気配すらない。
昨日の夜明けは何時だったのか?
いや、それは重要なことではない。すでに答えは出ている。
この世界は、毎日一日の長さが違う。