一章 本
私は今、夢を見ているのだろうか? それとも妄想と幻想の狭間を垣間見ているのだろうか?
今この瞬間瞬間を、私は知っている気がする。デジャブと言うやつだろうか?
白昼夢の最中のような朧気な意識が覚醒していく。
やばいな。軽い熱中症かも知れない。
独りごちた独白に浸ることを許さないように、蝉が暴力的な騒音を響かせる。
一匹二匹の鳴き声ではない。見渡す限りの木々全てにいるのではと言う程に、それは全方向から時雨のように音の雨を降らせていた。
うだるような夏の日射しは、枝葉の隙間からでも容赦なく体力を奪う。
森林を抜ける風が、草木の香りと僅かな涼を運ぶのみ。
足元には砂利を敷き詰めただけの小道。
ジャリジャリと石のぶつかる音と共に、その道を進む。
それは最初緩やかな登り坂だったが、次第に急勾配になって行く。
ここはうちの裏山。
“裏山”とは呼んでいるが、標高100メートル程の山としての名などない丘のことである。
汗ばむ首筋に黒髪が張り付く。
これから本当に異世界に旅立つのだとしたら、この髪は邪魔かも知れない。
まあ、目の前には、私の倍近いロングストレートを腰下まで伸ばしている女がいるが。
そのさらに先にも、二人の人影。道幅的に縦一列にしか並べないのでこの隊列。
三人共、私の学友であり親友と呼ぶべき間柄の人物。
皆一様に、これからどこの仮装パーティーに行くんですか? とツッコミたくなる格好をしている。
すぐ前を歩く漆原美輝は、銀幕から現れたような侍の姿。黒い着流し姿に、太刀と脇差しを腰に下げている。スーパーモデルクラスのプロポーションと身長だけに、そんな格好がハマり過ぎるくらい似合う。芸能人顔負けの絶世の美女なので、ここまでの道すがら何かの撮影に間違われたのではないかと疑う。と言うか、模造刀などではなく真剣を引っさげそんな格好でここまで来た神経を疑う。銃刀法違反を厳重注意したら「お前らの分もある」なんて言って人数分の刀まで配って悪びれる様子すらない。
私は高校の制服であるセーラー服に、その刀を帯刀。自身の服装の変な部分を上げるのならば、そのセーラー服が夏服ではなく冬服であることと、夏には似合わない黒タイツを履いていること。女子高生が異世界に行くのならば、やはり上下真っ黒なセーラー服しかないだろうと言うチョイス。それが汗だくの要因でもあるが。
ミキの前を歩くのは、宮本加奈。私と同じくらい小柄で華奢で可愛い。私との違いはその“可愛げ”の有無だろう。滅多に笑わない私と、ほとんどにこにこしているカナ。先頭を歩くファッションリーダーに最近茶に染められた髪は、私とそう差のない長さだが、日本人形みたいにストレートの私と違い、ゆるいウェーブを掛けているのでその弛みの分だけ短く見える。
今は“パーティーには僧侶系がいないと始まらない”とかなんとか言う理由で、ミキにシスター姿にコスプレさせられている。本人的にはなぜか気に入っているようでまんざらでもない様子。
そして、先頭を歩くファッションリーダーことお嬢様系スーパーモデルの橘紗弥香は、これから式場に出掛ける気なのか? ウェディングドレスのような純白のドレスを着て、頭には王冠のようなティアラまで乗せている。
イギリス人の血が八分の一入っていて、その覚醒遺伝らしく、さらさらとした絹糸のようなブロンドヘアーの持ち主なので、そんなお姫様コスプレがドハマりしている。長い髪をクルクル巻き髪にしているヘアスタイルもお姫様っぽい。何より、美のお手本のように整った顔がお姫様系である。
身長はミキよりはやや低いが長身にかわりなく、プロポーション的には、アスリート系の引き締まったミキより、サヤは出るとこは出ている女性的なベストプロポーション。
そんなみんなの自己紹介はさておき、カナが明るい声で言う。
「皆既日食楽しみだね」
後ろからで顔は見えないけれど、声の雰囲気だけで表情を想像出来る。にこにこと屈託のない笑顔を浮かべていることだろう。それくらいカナとは古い付き合い。
ミキが凛とした声で言う。素でかっこいいこの声がこいつの地声。
「日食より、儀式がどうなるかだろ?」
不敵とか自信満々とか、そんな表現が似合う表情をしていることだろう。
サヤが美しい声で言う。いつ聞いても惚れ惚れする程に綺麗な声。上品にして優雅な顔が浮かぶ。
「異世界に本当に行けましたら、何をなさいます?」
言い出しっぺがだんまりもないので、私は口を挟む。
「小説の取材をする」
そう。本当の幻想の世界で取材をした小説家などいない。本当にそんな世界に行けるのだとしたら、その世界の隅々まで取材し尽くして、これから書く作品の糧にする。
みんなは「レイらしい」と笑う。
私の名前は野村礼瑚だけれど、家族も友達も“レイコ”までは呼ばない。皆“レイ”で切る。「それなんかいいですわね」なんて言って、“サヤカ”なのに、「サヤって呼んで」なんて言ったプリンセスもいたりする。
一応“野村家”の敷地なので、子供の頃秘密基地なんかを作った裏山。
高校二年生、もうすぐ17歳、この歳になるとさすがに野山で遊ぶ習慣もなくなるので、裏山に入るのは久しぶりだ。
頂上付近は整地されていて、端の方にはトタン小屋が建っている。中には祖父が趣味でやっている炭焼きの道具などが入っているはずだ。
私は小脇に抱えていたA3サイズくらいの大きな本を開く。
表面には凹凸が出来るくらいの深い紋様が描かれ、何度もワックスの塗り直されたアンティーク家具のような光沢がある。
そこには見た事もない文字や、不思議な挿絵が描かれていた。
発見者のミキは「河原で拾った」なんて言っていたがたぶん嘘である。出自は不明だが、ミキがその文字をなんとなく読めると言うので、私たちは夏休みを利用して書かれた文章を翻訳した。
本の内容は、魔法の世界を舞台にしたありふれた冒険譚。
それだけなら、物好きな人間がオリジナルの文字で小説を書いただけの本。
正し、その本の素材が曲者。羊皮紙に似ているが、紙の材質はわからない。プラスチック紙やラミネートフィルムのようにも見える謎の物質。
何よりその強度がおかしい。鋏でどんなに切ろうとしても切れない。地球上にそんな丈夫な紙は存在しないと言うのが私たちの出した結論。
そして、異世界の書物とおぼしきその本の巻末には、異世界に行く方法が記されていた。
それを、今から私たちはやろうとしている。
巻末に描かれた魔法陣と文字を、地面に描いて行く。
心なしか鼓動が高鳴る。何度も何度も夢見て夢見て、小説にも描いて来た。それこそ、原稿用紙何万枚分も書いて来た。
そんな本物の剣と魔法の世界に行けると思うと、興奮が治まらない。
慎重に図形や文字に差異がないことを確認する。
私たち四人がすっぽり入れるくらいの円形の図形の周りには、何重にも文字を描いた。
意味は、翻訳不能なものも多いが、精霊、力、空間、道を意味するもの。
それらが詩的な呪文のように配列されている。
子供の頃から異世界に行くのが夢だった私はともかく、そうではない三人の意思を再確認する為に問う。
「心の準備はいい? 生きて帰れる保証は何もないよ? それでも行くの?」
ふざけた仮装パーティー集団だけれど、みんな真剣な表情。
サヤは胸を張り言う。
「くどいですわ。わたくしはレイの行く場所ならどんな所へもお供致しますわ」
カナもにじり寄り必死に訴える。
「あたしも、みんなと一緒ならどんなに危険な冒険だって怖くないよ」
ミキは不敵に笑う。
「望むところだ。魔物を斬りまくれるなんて、今から楽しみで仕方ない」
若干危ない理由な人が一名いるが、みんなの意志は固いようだ。
私は首から下げた懐中時計を手に取りパカッと開く。
時刻はもうすぐ正午を指す。
今日の正午過ぎ、皆既日食が起こる。
異世界へ行く条件は、皆既日食の間この魔法陣の中にいること。
今を逃すと、何年先になるかわからない。
焦って準備をしたこともあり、何か大事なことを失念している気がする。
いや、全ての用意は万端。きっと気のせい。
太陽観測用の日食グラスで太陽を見る。
小さな点のように見える太陽。これがもうじき欠け出す。
緊張が高まる。
「いよいよですわね」
サヤも日食グラスで太陽を見詰める。
「ドキドキするね」
にこにこ笑うカナも日食グラスを掛ける。
「手を出せ」
日食グラスも掛けず、そんなことを言うミキ。
スポコンもので見るような円陣の形で、私たちは手のひらを重ね、日食を待つ。
ジリジリ蝉が鳴き、ヒリヒリと日が注ぐなか待つこと数分。
何層にも重ねたフィルム越しに見る太陽が、端からだんだんと欠け出す。
“口から心臓が飛び出しそう”そんな表現が似合いそうなくらい、バクバクと高鳴る鼓動。
世界に影が射す。
山から見下ろす街並みが、月に呑まれる太陽に合わせ、遠くから区切ったように暗くなって行く。
その影が私たちを呑み込み、真夜中のような闇が包む。
足元の魔法陣を見るが、なんの変化も見られない。
突然幻想的な光を放つこともなければ、私たちの身体を浮き上がらせたりもしないし、魔法陣に突然大穴が開いて私たちを呑み込んだりもしない。
聴いたこともない音楽や音が響き渡ることもなく、導くような誰かの声や呪文も聞こえない。蝉がただうるさく鳴き続けているだけ。
想像し得る幻想的な出来事は、何も起こらなかった。
美しい天体ショーはあっけなく終わり、太陽の光が再び世界を照らす。
何を間違った?
いや、何も間違ってなどいない。図形は正しく記したし、皆既日食も起きた。そもそもそれほど縛りのある条件ではない。図形や文字を描くのに、何か特別な手法など必要ない。なぜなら、図形も皆既日食も“きっかけ”にしか過ぎず、この儀式に置いてもっとも重要なのは、鍵であるこの本そのもの。魔法陣の中に本と移動者がいる条件下で、皆既日食が起こると異世界へ行けると言うもの。
なのに、儀式は失敗した。
カナが首を傾げる。
「ここが異世界?」
サヤは困り顔で笑う。
「地球……だと思いますわ」
馬鹿げた夢から醒めた気分だ。
何も起こらなかった。何も起こるはずがない。
妙な本に書かれているだけで、なぜ本当に異世界へ行けるなどと確信していたのか?
馬鹿馬鹿しい。
私は、いつもの冷静な声で言う。
「こんなものだよ。小説の中の出来事じゃないんだから、何も起きる訳がないよ。帰ろう」
言葉に出来ない程の落胆はひた隠す。
ため息をこぼすカナとサヤの背を、ミキが叩く。
「そんな顔するな。何も起こらなくたって、楽しい夏休みだったじゃないか?」
ミキの笑顔が伝染するみたいに、二人にも笑顔が戻る。
「そうですわね。レイと存分にイチャイチャ出来ましたものね」
イチャイチャしてませんから。
「みんなとたくさん過ごせて楽しかったよね」
カナの笑顔には癒される。陰鬱としていた気分も晴れて行くようだ。
しかし、この本はいったいなんなのだろう?
一番可能性があるのは、宇宙人の書物だろうか? 地球上の物でないことだけは疑いようがない。
それでも十分すぎるくらいのお宝だとは思うが、今は異世界に行けなかった失望が大きく、そんなものにはテンションが上がらない。
「ミキ、この本返しておくね」
しばし無言で私を見たミキは「わかった」と言って受け取る。
今の間はいったいなんだ?
山を下りるとうちの庭に出る。
一応私有地なので、申し訳程度の柵で囲まれていて、出入口も山頂へ続く道もここにしかない。
とはいえ、そこら辺から切り出した丸太を何メートルおきかに地面に突き立て、針金を張っただけの柵。入ろうと思えばどこからでも入れる。それこそ、忍び込んで歌を唄ったりだって出来る。
古びた大きな家と、広い庭。
車を四台駐車するスペースをとっても、その倍以上の菜園エリアがあり、あちこちに花壇と野花の境界線もなく花が咲いている。
端にある納屋には農機具などが雑多に置かれ、軒下には玉ねぎが吊るされ、その下にはじゃがいもがいっぱいに詰まった麻袋。
誰がなんの為に使ったかわからないバケツや発泡スチロールの箱には雨水が溜まり、緑の藻が生えている。
無秩序に物があふれ散らかっている家。
私は整理整頓大好き人間だけれど、この家を片付けるつもりはない。私が、そんなことをしていいはずがないから。
皆が山を下りたところでサヤが口を開く。
「これからどう致します?」
異世界に行く気満々だったので、行けなかった時の予定など立てていない。
「どっか遊び行く?」
カナの言葉に、普段ならば肯定するが、今日はさすがに無理がある。このコスプレ仮装集団で遊びに行く気にはなれない。
「今日はもう解散しよう。私は少し疲れたし」
なぜか瞳を輝かせるサヤ。
「あら! それはいけませんわ。熱中症かも知れませんし、看病致しますわ」
サヤの口真似でカナも後に続く。
「看病致しますわ~」
ベタベタ魔の二人を適当にあしらい、ミキに刀を差し出す。
「お祖父さんのコレクションでしょ? なくなっているのがバレる前に戻した方がいいよ」
ミキは本の時と同様、しばし私をじっと見てから受け取る。
「そうだな。なくなる訳でもないしな」
妙な間といい謎めいた返答といい、いったいなんなんだ?
三人を門扉のところまで見送る。
門扉と言っても、開閉の度キイキイ鳴るので、ほぼ開けっ放しの鉄柵。あちこち黒いペンキが剥げサビが浮いている。
ミキは余韻もなくスタスタ帰り、名残惜しむサヤとカナを送り出すとひとりに。
築数十年の我が家は、あちこち傷んでいる。
私が子供の頃からひびが入ったままの曇りガラスの引戸は、家が歪んでいるのか? 三分の二以上開けると途端にきつくなる為、全開にしたことがない。
昔の家特有の、やけに高い敷居を越えると広い玄関。下駄箱などと言うコジャレた収納スペースなどはもとよりなく、靴は玄関脇の本棚に収納されている。奥行的に丁度靴が入り、一段一段の高さも調節出来るので、高さをとってる段には長靴やブーツが置かれている。
祖父と両親は仕事。祖母は妹と弟を連れて遊びに出掛けているので、家には誰もいない。
戸を閉めると蝉時雨も遠くなり、屋内には静寂が満ちる。
喉の渇きを覚え台所に向かいながら、みんなにも冷たい飲み物を振る舞えばよかったと、今更そんな気遣いの足りなさに気付く。
本当に“らしく”ない。こんな失態普段はしないのに。
疲れや熱中症気味だけが理由ではないだろう。やはり相当にショックが大きい。
台所には、家族が多いと言うこともあり、普通の冷蔵庫の他に業務用のシルバーの冷蔵庫もあったりする。内容量的には、普通の冷蔵庫の4~5倍は入る。そんな冷蔵庫が軽く置けるくらいに台所は広い。40年くらい前に改築して今の形になったらしいが、改築前は外からの地続きで、釜戸が三つあったそうだ。どんな家? とツッコミたくなる。
その頃の名残の勝手口から出ると倉があり、倉には倉で、これまた業務用の冷凍庫があったりするような家が我が家。
半分近く野菜や果物が埋める業務用冷蔵庫から麦茶を出し、喉を潤す。
流しはデカイがタイル張りのレトロな作り。古くさいが、水色のタイルはピカピカに磨かれているので黒ずみひとつない。
それは床も壁も換気扇も同じ。換気扇など、大掃除の時だけ掃除するとか信じられない。私は毎週分解して磨いている。
料理はほとんど私の担当なので、ここはこの野村家で私が自由に出来る数少ない場所のひとつ。
麦茶を注いだコップを洗い、二階の自室に向かう。
一段一段体重の軽い私が歩くだけでもギシギシ鳴る階段。
二階の廊下の奥には、うず高く雑誌や紙袋が積まれている。
おそらく私がこの家に来る前からあるものもあるだろう。
階段を上がってすぐの襖を開けると、そこが私の部屋。
友人どころか、家族にまで“客間”と評される程に物がない。
部屋にあるのは学習机がひとつだけ。
歩く辞書と呼ばれ、小説家を目指し日夜小説を書いているけれど、本はほとんど読まない。読むとしても図書館で借りるので、“自分の本”は一冊も持っていない。当然本がなければ本棚も必要ない。
教科書や辞書の類いは学習机に収納可能なので、必然的にそうなるし、布団と衣服は押し入れの中。
リュックサックを机の上に下ろす。
異世界を旅するのに必要だと思った道具を詰め込んだパンパンのリュックサック。
ホント、馬鹿みたいだ。
その時、スマートフォンからピロリンとメールの着信音が響く。
いましがた別れたミキからだ。なんだろういったい? 開いたメールの内容に、訝しみはより増す。
『レイ、儀式は失敗していない』
成功したなら、なぜ私たちはここにいる? ミキなりの慰めの言葉だろうか?
問い返しても哲学的な返しが来そうなので返信せずにスマートフォンを机に置く。
冬服のセーラー服は蒸し暑いので、適当な部屋着に着替え、換気の為、締め切っていた窓を開くことに。
ネジ締り錠をキュルキュル回し、鍵を外して窓を開ける。うち以外ではまず見たことがない古い鍵だ。
外から熱を帯びた風と共に、風鈴の音が吹き込む。
空気の流れがある分、こもった部屋の空気よりは涼しい。
疲れているのか? 畳の上にごろんと寝転がる。普段は絶対にしないだらしない姿だ。
畳にうっすら残る藺草の香りが心地よい。
意識が、どこかに引かれるように遠くなる。
ここはどこだ?
見た事もない宮殿のような場所にいる。
白を基調とした壁のない柱だけの回廊。外には熱帯雨林のような鮮やかな草花が咲き乱れ、燦々と光が注ぎ、さわさわと水の流れが聞こえる。
身体を見る。半透明の透けた身体。
これは、なんだ?
何が起きている?
回廊を進むと、神殿のような室内にたどり着く。
幾ばくかの壁があるだけで、他は柱のみ。
その広い部屋で、ビーチベッドみたいな椅子に腰掛ける女性がひとり。
白く細い人。それが真っ先に浮かんだ印象。
肌とのコントラストが鮮やかな漆黒の髪。黒地に白糸で模様を描いたキャミソールみたいな薄手のドレスを着ている。
十代にも三十代にも見え、正確な年齢はわからないが、日本人ではない。
長い前髪が顔の左半分を隠し、右側も耳にゆったりと掛けていなければ、髪に隠れているだろう。
大きな瞳に長いまつげ。紅を挿しているのか? あるいはその色素の薄さ故に血の色が濃く滲み出ているのか? 唇の赤さが鮮やかだ。
彼女が開いている一冊の本に、心がざわつく。
まさかと思い近付いてよく確認するが、間違いなくそれはあの儀式に使った本だ。
開かれた1ページ目には、まだ何も書かれていない。
本に注目していた一瞬の間に、彼女の手には大きな羽ペンが握られていた。孔雀の羽に似た派手な柄で、その長さは1メートル近くあり、とても実用的には見えない。
インクを付けた素振りもなく、彼女は羽ペンを走らせ1ページ目の文章を書き出す。
ペン先にインクは見えないが、なぞるだけで文字が浮かび上がるように描かれる。まるで魔法だ。そう思ったところで気付く。
私は夢を見ている。
あの本が、目の前にいるこの摩訶不思議な女性の手により、魔法のように書かれた書物だったらどんなにいいだろうと言う願望が、私にこんな夢を見せている。
その時彼女が口を開き、まるで詩を朗読しているかのような声音で話し出す。
「夢であることは間違いないけれど、夢が現実ではないと、なぜあなたは言い切れる?」
そして、彼女は私を見た。黒真珠のような瞳に、吸い込まれそうになる。
念のため後ろを振り返るが誰もいない。
『私が見えるの?』
自らの発した声に違和感を覚える。まるでエコーでも掛かっているかのようにくぐもって響く。
彼女は目を細める。
「見えてはいない。声が聞こえている訳でもない」
ならばなぜ会話が成立しているのだ?
疑問を声にする前に彼女は答える。
「“感じる”から」
そこで紅の唇に笑みが浮かぶ。
「ふふふっ、あなたにもすぐ分かる。名前を聞いてもいい?」
答えるつもりはなかったが、一瞬自分の名前を頭に浮かべてしまう。それで伝わることが“感じる”と言うことなのだろうか?
彼女は、驚きと喜びを混ぜたような表情で目を見開く。
「ノムラレイコ、あなたの名前はノムラレイコ」
この人は誰なのだろうか?
彼女はまた、楽しそうに笑う。
「ふふふっ、答えは運命を紡いだ先にある」
そして私の耳元に顔を近付けささやく。
「また会いましょう。レイ」
そこで、目が覚めた。
チリンと響く風鈴の音。ざわざわと風が揺らす枝葉の音。それらに重なるように鳴き続ける蝉たち。
夏の日暮れ前。いつもの日常。
なぜあの女性は私の呼び名を知っていた?
いや、ただの夢なのだからなんの意味もない。
起き上がるとふらついた。
めまいではない。ひどい脱力感。
本当に体調が悪いのかも知れない。
時計もない部屋なので、スマートフォンで時刻を確認。17時を過ぎていた。
昼寝など滅多にしないので、居間に下りて行くと、既に帰宅していた祖母たちにひどく驚かれる。
「ねーちゃんにも人間らしいとこあったんだな」
弟の海斗は、皮肉と言うより、やや嬉しそうにそんなことを言う。日焼けで真っ黒な元気っ子。
「カイトひど! カイトひど!」
その海斗を軽蔑しまくった目で見て非難するのは妹の真凛。今朝編んだ三つ編みが左右で揺れている。
「マリンうっせーよ!」
「呼び捨てしないでよ! マリンお姉ちゃんでしょ!?」
8歳と10歳。まだまだ子供で喧嘩の絶えない二人。そこから始まる口喧嘩をいつもの調子で仲裁し、夕食の支度へ。
「レイ、今日は私が作ろうか?」
心配そうにそう言った祖母の申し出を丁重に断り、台所へ向かう。
体調不良で寝ていたと思われているのかも知れない。
今日異世界に行ける。その興奮で昨晩は寝付きが悪かった。そのせいで眠っただけ。この虚脱感も、たぶんただの睡眠不足。
付け合わせのサラダように野菜を切っていると母が帰宅。
鼻をひくひくさせながら台所に顔を出す。
「いい匂い。今日はシチューね」
サラダを盛り付けながら母を労う。
「お疲れ様です。暑かったでしょ? お風呂もう沸いてるよ」
シチューを煮込んでいる合間にお風呂に湯を張っていた。
母はとことことあたしの前まで来て頭を撫でる。
「さすが我が娘。ありがとう。お風呂先いただくね」
こんな時、どう反応したらいいかわからなくなり、私はただ無言でうなずく。
母は少し困った顔を浮かべ、ポンポンっと優しく私の髪を撫でて台所を後にした。
夕食後、真凛と一緒にお風呂に入る。
家族が多いので、なかなかひとりで入ると言うことはない。
台所と同じ水色のタイル張りのお風呂。
“口から先に生まれた”と言う慣用句が当てはまる部類の真凛は、お風呂にいる間ずーっと喋っている。
特に意味のある話ではない。今日祖母とどこに行き何をしたかと言うことを、朝から順を追って、まるでアナウンサーの実況のように事細かに説明する。
明るくおしゃべりな真凛。暗くて無口な私。私たちは真逆の姉妹だ。
「そういえばお姉ちゃん、今日元気ないけど何かあったの?」
突然脱線したかと思えば、核心を突く問い。
無表情で無感情な為になかなか気分の上下など悟られないが、いつも顔を付き合わせている家族はやはり別か。
「そんなことないよ。のぼせるから上がろう」
話題をすり替え、湯船から出る。
のぼせた訳ではないが、気を抜くと倒れそうな虚脱感がある。夕方より悪化している気がする。なんなのだろう?
ドライヤーで真凛の髪を乾かしてあげ、自分の髪は後でいいやと、濡れ髪ゆらし自室に戻ることに。
実際問題、腕が疲れて自分の髪を乾かす余力がない。急速に筋力が衰える病でも発病したのではと言う程に力が出ないのだ。
階段を登っている時、妙な違和感に気付く。
階段が軋まない。
普段あれだけギシギシと鳴る階段が、どの段に足を掛けてもウンともスンともいわない。
それはまるで白日夢の最中のように、私に非現実を覆い被せて来る。
これはいったいなんだ?
そこでふと、ミキからのメールを思い出す。“儀式は失敗していない”とやつは言っていた。
昼から起きている異変は、あの儀式に関係があるのか?
壁にもたれながら、力の入らない身体を引きずるように部屋にたどり着く。
机の上のスマートフォンを手にし、その横に崩れるように座り込む。
リアルタイムコミュニケーションアプリにたくさんのメッセージが届いている。
このグループに登録しているのはミキとカナとサヤ、それに私を入れた四人だけ。
書き込まれたメッセージに目を疑う。
ミキ14:31
『体重が減っているな。みんなも減ってたら知らせろ』
サヤ14:36
『なんですのこれ? わたくしも体重が減っていますわ』
ミキ14:52
『異世界への移行じゃないのか? 気にするな』
いやいや、普通に気にするだろ?
サヤ14:53
『ミキ! 質問したならレスは早めにって何度も言ってますでしょ!? やきもきしましたわ!』
やきもきの前に、サヤは異世界に移行していることを気にして欲しい。
ミキ15:02
『キーキー騒ぐな』
サヤ15:02
『レス短かっ!』
その文章の後に、呆れたような顔のスタンプ。
ミキ15:05
『携帯放置組はなんのレスもなしだな』
サヤ15:06
『わたくしが電話で確認致します?』
ミキ15:08
『アホなのか? 携帯電話放置しているやつに電話したって捕まる訳ないだろう。二人の家庭の事情を考慮したら、家電もやめとけ』
サヤ15:09
『正論魔ッ! ミキなんか嫌い!』
怒りのスタンプ付きのメッセージ。
サヤ15:41
『放置ひどい!』
泣き顔スタンプ付き。さて、まあここまではいつもの二人のやり取りだ。
カナ17:49
『今メッセジみた。ホントに体重減ってる! それになんかくりゃくりゃする』
驚き顔の連続スタンプがカナらしい。そして“くりゃくりゃ”と言うのはどんな表現だ? と言うカナ語。
サヤ17:52
『カナもですの? 後はレイも減っていれば全員ですわね。わたくしも身体に力が入らず、変な感じですわ』
私と同じ症状。と言うことは、私も体重が減っているのだろうか?
スマートフォンでメッセージを読みながら、体重計がある脱衣場へ向かう。
カナ17:54
『あたしもう体重半分くらいだよ。このペースで減ると、夜にはゼロになっちゃいそう!』
なぜかほわほわした笑顔のスタンプ。“幸福”と言うことで感情表現は合っているのか?
夜にゼロ? いや、これはおそらく。
確信に近い可能性を思案しながら歩みを進める。階段が軋まないどころか、足音すら立たないことに気付く。
サヤ18:01
『今計りましたら、わたくしも体重が半分ですわ! なんだかドキドキしますわね』
ドキドキしてる場合か? そこからしばらくアホ娘二人のポケポケ会話が続くが飛ばし読む。
ようやく脱衣場に到着。
洗面台の下にある体重計を引っ張り出し体重を計る。
10キロとない体重。これが体重計の故障でなければ、とうに餓死している人間の体重だ。
スマートフォンの画面を指先でなぞりメッセージを書き込む。
レイ21:17
『私も体重が減っている。おそらく儀式の12時間後になくなるペースで』
四分の一を切ろうかという体重。つまりはそういうことなのだろう。
サヤ21:17
『レイ! 心配していましたわ』
カナ21:19
『じゃあ、0時すぎにはイセカイにいるの?』
レイ21:23
『おそらくね。考えられる仮説は、小説や作り話の中みたいに一瞬で異世界にいけたりはしないと言うこと。かと言って実体の細胞が物理的に移動しているとは考え難い。そんな移動では、移動の過程で生きていられるとは到底思えない。けれど、実際に体重が減っていることから考えられるのは、科学的には説明不能な方法で質量そのものが移動していると言うこと。その移動が完了する時、私たちは異世界にいる』
この仮説が一番近いニュアンスな気がする。細胞の数が減っているのではなく、細胞の存在自体が稀薄になっている気がするのだ。だから、こんな軽くなった身体を動かすことすらままならない。
サヤ21:23
『素敵! わくわくしますわね』
なぜかハートマークやキラキラなスタンプでデコっている。
カナ21:26
『レイ~むつかしくてよくわかんない』
寂しそうな泣き顔のスタンプ付き。
カナの文章が時々おかしいのは、カナの基本スペック。
私が返信を入力する前に、ミキが登場。
ミキ21:27
『要するに、もうすぐ異世界到着ってことだ』
サヤ21:27
『ミキ! 何をしていましたの!?』
ぷんぷんっと怒っているお姫様のスタンプ付き。こんなものどこで見付けてくるんだ?
ミキ21:28
『みんな体調はどうだ?』
ミキはサヤをガン無視の構えだ。
レイ21:29
『ひどい虚脱感で満足に動けない』
カナ21:29
『あたしも~』
サヤは拗ねたのか無反応。
レイ21:31
『サヤもミキも同じ感じ?』
現金なくらい高速でサヤのメッセージが入る。
サヤ21:31
『えぇ、同じですわ』
にぱにぱ笑顔のスタンプ付き。
ミキ21:32
『私はさっきまで素振りしていたから、動けないって程ではないが、虚脱感はある』
素振りってなんだ? 野球かソフトボールでも始めるのか?
お互いの現状を報告し合いわかったことは、カナは自室のベッドで、ウシ柄の着ぐるみ風パジャマでうとうとしていること。サヤは天蓋付きのフリフリベッドで、ネグリジェ姿でロイヤルミルクティーを飲んでいること。ミキが神社で素振りをしていたこと。
ちなみに私は、脱衣場から自室まで移動出来ず、居間のテーブルに突っ伏している。服装はパジャマで、まだ乾かしていない髪にバスタオルを巻いている。
ミキ22:17
『さすがに歩くのもしんどくなって来たな』
私はすでに、歩くどころか立つことすら出来ない。
これはまずくないか?
レイ22:19
『このままなんの準備もなく異世界へ行って大丈夫?』
昼間は、いろいろとサバイバルグッズを入れたリュックサックを背負っていたが、今はただの風呂上がり。靴すら履いていない。
ミキ22:21
『それは大丈夫だろう。異世界へ行くのは、現状の私たちじゃない。昼間魔法陣の中に有ったものだ』
なるほど。あの儀式の瞬間の私たち。理にかなった話だ。
ミキから連投のメッセージ。
ミキ22:22
『現に、素振りをしていた刀も軽くなっている』
そういうことか。
儀式は成功していると言い、刀の素振りをしていたミキ。準備に余念がない。
サヤ22:24
『それを聞いて安心いたしましたわ。この億劫な身体で今からメイクをするのは大変ですものね』
サヤらしい発言はノーコメントでスルーする。
カナからのメッセージがしばらくない。寝落ちしたのかも知れない。
家族はもう寝静まった時刻。静かな居間には、カチカチと掛け時計の秒針の音が響くだけ。
首をもたげるのも難しく、視線だけで室内を見渡す。古い戸棚には訳のわかんない置物などが置かれ、ガラス戸の中には、何年も使っていない皿や湯飲みが並ぶ。
視線を落とせば、古い畳を隠すように敷かれた絨毯。それも擦りきれ、そろそろ替え時だ。もうすぐこことお別れ。
去来するこの想いを、なんと呼ぶべきだろう?
悲しくはない。寂しくもない。ただ、申し訳ないだけ。罪悪感にも似た想い。ここまで育ててもらっておきながら、逃げるようにこの世界を去る自分の愚行が、ただただ申し訳ない。
レイ22:32
『みんなは、どうして異世界へ行くの?』
だんだんスマートフォンの画面をなぞるのも難儀になって行く。みんなの返信も遅くなっているから、私と同じなのだろう。
ミキ22:34
『面白そうだから』
サヤ22:34
『レイが好きだから』
本心かちゃかしているかはわからないけれど、それが二人の答え。
私は、ここに居場所がないから、全てを棄てた。
カナもきっとそう。ひとりで生きて行くにはどうしたらいいかと、私に聞いたことがある。自分はとろくておバカだから、お仕事ちゃんとして暮らして行けるか不安だと。
呼吸が低く浅くなって行く。
起きているのに、まるで眠っているようだ。
もう指先ひとつ動かない。かろうじてゆっくりまばたきが出来るくらい。
ミキ23:11
『みんな動けるか? 私もそろそろ限界だな』
それが最後のメッセージ。そこから、ただ静かに深く時は流れる。
もはや時間の感覚はない。壁の時計が見える位置でもないので、時刻はわからない。スマートフォンもなんの操作もしていないので、画面は暗いまま。
視界の端の絨毯が、キラキラ光りながら波打った気がした。
いや、これはたぶん気のせい。視界が霞んでいるだけだろう。そう言い聞かせてみても、絨毯は間違いなく輝きを放ち、ゆらゆらとゆれている。目の錯覚以外で、こんなことが起こるのか?
そう思った次の瞬間、ドボンと落ちる。
ゴボゴボと泡立つ視界。身体を包む冷たい感覚。私は間違いなく、居間から水の中へと落ちた。
見上げれば、半透明に光る居間が見える。
戸棚の底や、テーブルの足の裏が見え、何より、脱ぎ捨てられたパジャマと、テーブルからずり落ちるバスタオルが見えた。
衣服を残し、私だけが落ちたのだ。
どんどん水底へ沈み、視界が広がれば、庭にある納屋や車の底までもが見えた。
全てがほのかに光り、輪郭を浮き上がらせる。
これは、なんだ?
私は今、何を見ている?
水中にしては息苦しさはない。
現実なのか夢なのか、広がる視界は街全体を映し、それはさながら、夜空の星屑のように美しかった。