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恋するクラウン3  作者: 川崎 春
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ジークフリートの決意

恋するクラウン3のその2です。

 ライラックを出てレイチェルと別れ、ジークフリート・ラグニスは、部屋に辿り着くと、大きく息を吐いて、椅子に座った。資料の山が丁寧に整頓された机は、兄であるローレンスの机を見て嫌だと思った末の結論だ。

 ……同じ親から生まれて、何故あいつは、ああなんだよ。

 ジークフリートは、シールダーだ。しかし、マギの血も引いている。彼の母親であるパメラ・ラグニスは、トニー・レイブンと恋仲になって、三人の子供を産んだ。

 ローレンス、アーサー、そしてジークフリートだ。

 パメラの父である、ガーラント・ラグニスは激怒した。レイブン家は、表向き人間として暮らしているが、シールダーの家系だ。千年前、ラグニス家がそういう希少種にしてしまったレイノスの末裔だ。あらゆる縛りを受けている魂は不安定で、大き過ぎる理力の暴走と死亡は、頻繁に発生していた。彼らの子孫は絶やしてはならないとされていたが、生存率を上げるのは非常に困難だった。成人数が少ないのだ。よりにもよって、見守る立場のパメラが、それを分かっていながら成人して生き残った数少ないシールダーと恋仲になった事が許せなかったのだ。

 そもそもシールダーは感情が欠落している為、恋愛は不可能だとされていた。魂への刺激が強すぎる恋愛は、危険だとして避けられ続けていた。

 シールダーはやがて、ラグニス家によって、『繁殖』させられる立場になっていた。金で雇った人間の女性によって、産み増やされ、マニュアル化されたノウハウを理解したラグニス家の関係者に育てられる。

 彼らは感情が無いから、何も感じていないと思われていた。しかし、無事成人した男性の場合、ある程度の感情も引き出されるし、恋愛感情がある事が分かった。

 何故分かったのか。パメラとトニーが恋仲になったからだ。

 シールダーの魂は、世代交代によって修復されていく。それによって、ゆっくりと理力の調整が出来る様になっていき、感情の揺れにも耐えられる魂が形成されつつあったのだ。長い時間が必要だと言われていたけれど、その時間については、何も分からなかった。ラグニス家の代々の当主は、長い年月の間に、保護対象であるシールダーを、手間のかかる繁殖用の希少種としか、見られなくなっていた。……だから、そんな事にも気づかなかったのだ。

 トニーは成人し、人として扱わないガーラントの行いをちゃんと理解していた。そして、新たに保護観察者としてやってきたパメラに、安心したのだ。

 ガーラントは、シールダーが異性にもてると言う始祖フランの縛りを、知りつつも、パメラを後任にしてしまった。わざとではない。ガーラントにとって、娘は女性と言う括りに含まれていなかっただけの話だ。……それ程に、破天荒でガサツで、恋愛とは無縁な女性だったのだ。

 結果、二人はガーラントに無断で子供を産む関係になった。

 長男であるローレンスは、マギだった。ガーラントは、ほっとしつつ、シールダーを滅ぼす気か、トニーには別の女性を宛がうと言い出した。パメラは父親を無視して、双子を身ごもった。そして出産した後、会いに来た父親に言い放った。この子達は、シールダーだ。何の問題も無かろうと。

 ガーラントは、黙るしかなかった。

 娘との言い争いに巻き込まれる恰好になった、トニーとも何度か接する内に、彼が無感情では無い事を実感していたのだ。とっくに、ガーラントの中で、トニーは婿になっていたのだ。

 婿を娘から引き離して繁殖……なんてできない。今までの歴代の当主が、如何に酷かったかを思い知った。娘を愛していたし、孫は想像以上に可愛かったらしい。

 それでも、伝統はなかなか曲げられないもので、ガーラントは、シールダーの伝統的な育て方と新たな育て方を、自分とパメラが双子を別々に育てる事で模索する様に、パメラとトニーを説得した。そして、ローレンスを跡継ぎとして育てたいと告げたのだ。彼が成長すれば、シールダーにも親身になれるからと。

 パメラは普通の家族として暮らしたいと必死で抵抗した。しかし、今度は、パメラが押し黙る事になった。新米で名家のお嬢様のパメラに、希少種の双子とマギの息子の子育ては荷が重すぎたのだ。売り言葉に買い言葉で一気に産んでしまったが、育てられなくなったのだ。

 少しの物音ですら、シールダーの赤ん坊には危険で、歩き、泣きわめき、笑うローレンスとは一緒に育てられなかった。防音の別室で双子は育てなくてはならなかった。

 予備知識の無い者は、家に入れられない。だからと言って、秘密を話す事もなかなか出来ない。おむつが汚れても、お腹が空いても泣かない二人の赤ん坊の様子を四六時中観察し、ストレスを与えずに育てつつ、どんどん動き回るローレンスを夫婦で育てるのは、到底無理な話だったのだ。

 言葉よりも先に、ローレンスは、デタラメな法術を使う様になった。マギの子供と言うのは、教えないと、頭の中で勝手に組み立てた法術を使い出す。言葉を覚えるのが遅れると、そうなるのだ。……ローレンスにまで手が回らなかった結果だった。

 しかも双子は、想像より早く動き始めた。首が座ると、すぐに寝がえりで転がり始めたのだ。壁際に毛布を敷き詰め、衝撃を与えないようにしつつ、もう無理だから、お父さんを頼ろう、トニーがやせ細ったパメラに言った。トニーが言わなければ、パメラはそのまま死んでいたかも知れない。父には頼らない。そう思って意地を張っていたパメラはそれで折れた。

 ガーラントは内心、娘を心配していたので、喜んで迎え入れ、娘夫婦と協定を結ぶ事にした。ローレンスに家督を継がせる代わりに、アーサーはパメラの元で、ジークフリートはガーラントの監視下で従来通り育てると決めたのだ。

 三人は、成人した暁には再会し、兄弟だと名乗り合える予定だった。しかし、その日は来なかった。

 ジークフリートが自分と家族の過去の経緯についてざっと知っているのは、この程度だ。

 その後、レイチェルが庭に突然現れるまで、ジークフリートの日常は静かで、何も無い毎日だった。

 それが大きく変わって、人としての感情を持ち、理力のコントロールも上手くなった。

 ジークフリートの場合、魂の契約をレイチェルとしていて安定していた事と、父親であるトニーの教えを受けられたことが大きかった。想像以上に早く成人できた。自分も周囲もほっとしたものだ。シールダーの成人は三十歳でも普通と言う遅さなのだ。

 ジークフリートは、誰かに守られる必要が無くなったのだ。

「レイチェル」

 ジークフリートは愛しい嫁の名前を呟く。誰が何と言おうと、彼女が自分の嫁なのだ。それなのに、再会しても驚くばかりで、自分を避け、周囲に憎しみを持っていた。薄いクラウンが出たり引っ込んだりしている様子は、ずっと気になっていた。踏み込んで話を聞けば、何も覚えていない。しかも、レイチェルは酷い有様だった。

 さっきの話を聞いて、どうしてそんな事になっているのか、ジークフリートにだけは予想が出来ていた。

 レイチェルが攫われ、運ばれた病院では、どうやっても体に傷がつけられなかったのだ。

 ジークフリートと契約して、理力持ちになったレイチェルには、未熟ながらも、盾嫁にふさわしい理力があったのだ。始祖は大抵、元の種族から別種族に変化する。レイチェルもそれにあてはまったのだ。刃物が体に入る事を理力が防いだのだ。法術だって通らなかっただろう。それがレイチェルの命を守った。

 しかし、何らかの方法で内面を傷つける方法を見つけられてしまった。酷い虐待をしつこく続けられた挙句、記憶を消され、内臓を引きずり出されたのだ。殺せないからって……酷い事を考えるものだと心底怒りが湧く。

 景色が明滅したり、景色が赤っぽく見えたりするのは、何処かの血管が怒りでブチ切れているのだ。……憤死と言う言葉がある。怒りが原因で死ぬ事を指す言葉だが、そういう死亡例は伝説でも稀だ。面白い死に方だと思っていたが、違う。確かに起こりうる。全身を巡る理力の影響で自己再生能力の高いジークフリートは死なないが、これ、普通は死んでるな、とまで思う。

 それくらい、ジークフリートは怒っているのだ。勇者バルトー・ロッソの子孫は、感情を細分化する事が出来る。憎しみ、怒り、悲しみ、それらを混ぜる事無く、頭の中で分けて同時進行させる事が出来るのだ。これは、全ての感情を見たと言われる聖女ユーリアが勇者を見定める条件だったと言われている。これが出来ると、クラウンを表に出さずにコントロール出来る。殺意だってコントロールして出し入れ可能だ。

 ちょっとした鍛錬が必要だが難しい事では無い。聖勇者は全員出来る。皆、バルトーの子孫だからだ。自然に出来る者もかなり多い。聖勇者の面倒を見ているエルハントマネジメントでは、出来ない聖勇者には、率先してこれを教育している。自分の悪意で、自家中毒を起こすからだ。

 レイチェルが、自家中毒で日常的に苦しんでいたのは明らかだ。……相手の害意も当然あるが、連鎖して引き出された自分の悪意で視野が曇ると言うのは、典型的な自家中毒の症状だ。吐き気やめまいを起こして倒れるのだが、彼女はそうならなかった。理力で自家中毒を中和させているのだ。自分の聖性で自分の悪意を浄化すると言う循環で理力が体内を巡り続けている。レイチェルの理力の使い方はシールダーのそれとはかけ離れている。

 学校に派遣されていたケアスタッフは人間では無かった筈だ。レイチェルが欠けた聖勇者だと知っていただろうに、感情分化の方法を教えなかったのだ。覚えているかどうか、確認する言葉さえかけなかったのだ。

 レイチェルの味方は、居なかった。本当に敵か無関心な者ばかりだったのだ。誰も助けなかった。結果、レイチェルはああなってしまったのだ。

 自分が一般常識から外れた、外道な扱いをされた挙句、あまりにも惨いので、その事実を無かった事にしようと提案されたのだ。……周囲は誰も、彼女の本心を聞き出さなかったのだ。

 本当にどうしたいのか、どうすれば落ち着くのか。誰一人として聞いた事が無かったのだ。不安で、誰かに側に居て欲しくて、自分の気持ちを打ち明けたくても、それも出来なかったのだ。その挙句……黙殺されたのだ。

 優しい言葉を、まるで見たことの無いプレゼントを請け取ったみたいに途方に暮れていた。このプレゼントは君のだから受け取ってもいいよと言っても、信じられない子供の様な顔をしていた。……こんなになるまで放置してしまった自分が、情けなくて、本気で泣きそうだったのは内緒だ。

 確かに被害者の過去を背負うのは重い。特にレイチェルの重荷は、特異過ぎる。……けれど、彼女の重荷は自分なら背負えた。受け止められた。祖父も両親も、分かっていた筈だ。魂の契約とはそう言うものだ。それでも、ジークフリートに隠し続けたのだ。許しがたい事実だった。

 ジークフリートそのものが始祖になっているので、レイチェルで無くても、誰か別の女性が子供を産めば、その子供がソルジャーになる可能性がある。祖父は、完全にレイチェルじゃなくても、いいと思っていたのだ。……だから、間違えた。

 両親はアーサーを失った悲しみから完全には立ち直っていない。単に、ジークフリートを失いたくないと言う気持ちから何も言わないのだ。息子を守りたいと言う気持ちが強いから、ジークフリートからレイチェルの存在を隠したのだ。……それも間違いだったのだ。

 祖父も両親も、思いは違うが、レイチェルの居場所を教えたら、法術結界すら突き破ってジークフリートが飛んで行ってしまう事を真っ先に心配した。……心配すべき所はそこでは無かったのに。

 ローレンスは……知っていたら教えてくれた筈だ。とにかく忙しいし、自分からレイチェルの消息を聞く様な気の利く男ではない。ローレンスの顔を思い浮かべてすぐ消した。もう、彼しか頼りに出来ない。

 ジークフリートは、ポケットから証明証を出して眺めた。

 誰もが自分の思いを特別だと思って生きている。そしてその大事な想いを殺さないように生きている。それを否定できない。その結果、誰も……レイチェルを大事にしなかった。そして、あの子は、滅茶苦茶にされて傷だらけのまま、手当てもされないで泣いていた。

 傷ついて、人を酷く怖がっているから、抱きしめる事すらできない。

 何よりも許せないのは、半天教だ。アーサーとレイシアを殺しただけでなく、レイチェルを『病院』と表向き看板を出しただけの宗教施設で、滅茶苦茶にしたのだ。こんな事、調べなくても分かる。エルハントマネジメントとラグニスの名前で探して見つからない場所なんて、限られているからだ。

 しかもロイネスは、閉鎖的で縁戚関係を大事にする社会が形成されている。レイチェルの様に、養子縁組されない孤児は雇用されない。人口は少ないが、聖勇者が血縁に入る事もトラブルの原因になるからと嫌われる風潮もあって、聖勇者迫害とまでは行かないが、人間比率が多く半天教徒に寛容な国だ。レイチェルを隠すには良い場所だっただろう。

 レイチェルの考えた論文を認めなかったのは、彼女の死にたがりを止める為だけでは無い。

 本当の事を言えば、ジークフリートだって、彼女の願いを叶えてあげたい。アーサーとレイシアの無念を晴らしたい。大抵の聖勇者は、一度教団のテリトリーに入ると、生きて帰ってこないので、詳しい迫害の実態が把握できていないのだ。

 彼女は、半天教による聖勇者迫害の生き証人だ。彼女の論文が出来上がれば、それは凄い論争になるだろう。一気に聖勇者の人権運動が起こり、彼女には大勢の人々が集うだろう。

 そして、彼女を擁護する『仲間』が現れて、彼女の苦痛を分かち合う事になる。しかし、同時に彼らは死んでいく。半天教は、狂信者の集団だ。そして彼女の痛みを理解できるのは聖勇者や非武装で話し合えば分かると信じている平和主義者の人間だ。……そんな仲間はいらない。

 相手は何でもありだ。正攻法では、力の差があり過ぎる。レイチェルは、また人を信じて失っていくのだ。これ以上の負荷があったら心が壊れてしまうだろう。これ以上の負担は与えたくなかった。

「さて、どうする?盾夫。盾嫁さんを傷つけられて泣き寝入りか?」

 証明証の自分の写真に自問自答する。

「そうはいかないよなぁ……。ここは頼りになるお兄ちゃんも、巻き込もうか」

 レイチェルを傷つけないように過去の答え合わせは慎重にしなくてはならない。まだ心のケアが不十分だ。無理に言わせる様な事は絶対にしたくない。今日泣かれて、本当に辛かったのだ。涙を拭いたくても、触れる事すらできない。とにかく、調べる事が必要だ。

 調査は、向いている者に心当たりがある。彼以上に信頼出来て、迅速に調査を進められる人物に心当たりがない。しかし、彼を半天教に接触させるのは、死ねといっているのと同義だ。聖勇者だから。……半天教は、聖勇者を見つけるのが恐ろしく上手い。人間の潜入者は、教団に入信してしまう。潜入した者が返ってこない事は歴史が証明している。半天教は、狂信者の集団である上に、中の全く見えない教団なのだ。

 コーネルは体術の達人だ。足も速いし、危機察知の能力では、シーカーでも群を抜いている。生き延びて帰って来てくれる筈だ。そう信じたい。

 しかし、ローレンスの乳兄弟だ。自分とアーサーのせいで放置されていたローレンスの兄代わりになって、長年彼を支えてくれた人だから、無断でこんな頼み事は出来ない。

 ローレンスの大事な者を犠牲にする様な事になれば、今度は自分が恨まれる事になる。けれど、それでも構わない。

 ジークフリートはレイチェルを最優先にして前に進む為に、覚悟を決めたのだった。


 レイチェルは、学生証に透明なフィルムを張り付けて、その上から可愛いデコレーションを施していた。ジークフリートとライラックで話をした翌日の事だ。

 特に種族の部分には、花の形にラインストーンを張り付けて、人間の部分だけが二重線を引かれているけれど見える様にあしらっている。材料提供者はルイーザだ。

 自分に似つかわしくないのは分かっている。分かっているけれど、これは消せない。最初は、フィルムを被せて、白い修正ペンで消す様な恰好にしていたら、学食のゲートで警報が鳴ってしまった。学生証に対する修正ペンは、御法度だったのだ。法術による警報に気付いて、警備員がわらわらと集まって来た。どうしようと思っているレイチェルと、訳の分からないルイーザが囲まれている所で、ジークフリートが現れたので、騒ぎは収束したけれど、警備員に驚いてつい落とした学生証を、ルイーザが拾っていたのだ。気付くと、彼女はレイチェルの学生証をまじまじと見ていた。それから、ルイーザは目を真ん丸にして、レイチェルとジークフリートを交互に見た。

 言い逃れられない事を悟ったレイチェルは、ジークフリートに連れられて、ルイーザと共にいつもなら絶対入らないちょっと高めのレストランに入る事になった。

「ジークフリート先生のおごりですよね」

 ルイーザは、入店と同時にすまして言った。

「勿論だよ」

 ジークフリートも苦笑している。

 座席には、何故か、ジークフリートとレイチェルが並んで座る形になって、対面に腕と足を組んでふんぞり返った、夜会盛りのルイーザが座る恰好になった。

 何だか、ルイーザの柄が悪くなっている上に、尋問される様な雰囲気がある。

 三人供、同じランチを注文すると、ルイーザが机を人さし指でトントンしながら言った。

「どういう事でしょう?」

 声に出して具体的に質問されたくない。ここは特権レストランではないので、秘密保持の義務が無い。情報はダダ洩れだ。

「ルイーザ・ロッソ君だね。直接話すのは初めてだね。いつもレイチェルと仲良くしてくれてありがとう」

「別に自分が好きでやっている事ですから……あなたにお礼を言われる筋合いはありません」

 ルイーザの言葉の圧力に、レイチェルは喉がカラカラになった。

「僕とレイチェルは、元々そういう仲だったんだよ」

「はぁ?」

 凄く怖い。ルイーザ怖いよ。レイチェルは思わず頭上を見てしまう。クラウンは無い。

「お互いを、深く思い合っていたのに、無理矢理引き裂かれたんだ。詳しい事情は言えないけれどね。しかし苦難を乗り越えて、僕達は再会したんだ。だから、もう引き裂かれない為に、結婚したんだ」

 レイチェルは飲んでいた水を吹きそうになって咳き込んだ。これ、アッと言う間に広まる。間違いない。周囲は、平然としているが、話している者が殆ど居ない。聴覚に集中して、私達の話を聞いている。

 ルイーザの尋問はまだ続く。

「あの落書きは、何ですか?」

 ジークフリートは自分の身分証明証を出して見せた。

「ただのバカップルの遊びだよ。二重線を引いてあるけれど、ちゃんと見えるでしょ?これは違法じゃないんだなぁ。さっきも警備員、咎めなかっただろう?」

 ルイーザは、ジークフリートとレイチェルを交互に見て、再び、ジークフリートの身分証明証に視線を落とす。

「レイチェルは、とっても困ってましたけれど」

「彼女は、恥ずかしいだけで嫌じゃないんだ。そこ、重要だからね」

 ジークフリートは、平然とそう言い放つと、証明証をポケットにしまう。……魂の契約と言うのは、そんな所まで分かるのか。レイチェルはジークフリートを盗み見ると、ばっちり目が合って、慌てて顔を逸らした。

 そこにランチが運ばれてきて、会話が一時中断する。

 ウェイトレスが居なくなり、ジークフリートは言った。

「僕、午後一で講義があるから、食べながらでいいかな?冷めちゃうし」

 ルイーザが渋々と頷き、皆で食事を開始した。

 暫く沈黙が続いた。重苦しい空気の中、レイチェルは食事の味も分からない。残る二人は平然と食事をしている。

「詳しい事は聞きません。一つだけお願いしたいんです」

「何?」

「私は、レイチェルと同じ学校でした」

 レイチェルがぽろっと持っていたフォークを落とした。知らないんだけど……何で言ってくれなかったの?

「私にとって、レイチェルは憧れの人でした。どんなに苦しくても弱音を吐かないし、何があっても、人の悪口も言わない、勉強が凄く出来るし、とても優しくて強い人だと思っていました。私は、助けたくても、助けられなかった。方法も分からなかったし、勇気も無かった」

 ルイーザは何処まで知っているのだろうか?レイチェルは、不安になりつつ、彼女を見た。

 ルイーザは一瞬俯いた後、強い眼差しでジークフリートを見た。

「だから、ここに来ると聞いて、私、去年、学府の試験に落ちていたけれど、今年こそは絶対に受かってやるって……一緒に肩を並べたいって気持ちを糧にここまで来たんです」

「根性あるし、君は見所のあるいい子だね」

 ジークフリートがそう言うと、ルイーザは怒気を孕んだ声で言った。

「あなたがレイチェルを好きなら、これ以上彼女を困らせないで。好きなら、もっと静かに隠して恋愛なり、結婚なりしてくださいよ。目立ち過ぎます」

 ああ、心の友!レイチェルは、ルイーザが自分の気持ちを代弁してくれた様な気がして思わず頷いていた。

 ところが、ルイーザの言葉にジークフリートは反論した。

「だって、レイチェルは僕の嫁だもん。特別に決まっているじゃないか。他と同じにしてどうするんだよ?わざと目立たせているんだよ。僕の特別だって圧力をかけて何が悪い?」

「それじゃ、彼女が悪目立ちして可哀そうだって言っているんです」

「君だって、同じ方法でレイチェルを守っているのに?」

「え?」

 レイチェルが思わず声をあげてルイーザを見る。ルイーザは反論出来ないのか、悔しそうにジークフリートを睨んでいる。

「派手で頭の悪そうな女の子に巻き込まれない様に避ける人よりも、ラグニス家を敵に回すのが怖くて逃げる人の方が、ずっと多いと思わない?」

「そんな事をしたら、良い人が友達になりたくても、なれないじゃないですか!」

「いらないんだよ。そんなもの」

 ジークフリートはにやりと笑った。その笑いと言動には、空気を凍らせる効果があった。

 ルイーザも、絶句している。

「僕にもレイチェルにもクラウンが見えないと思って、悪意をまき散らしながら近づく馬鹿も、君みたいな根性も無いのに、僕ら夫婦の事情に首を突っ込む様な、善良かも知れないが、野次馬なお友達は、いらないんだよ」

 善良でも、心が強いとは限らない。ジークフリートは、レイチェルの過去にも、自分との馴れ初めにも一切口を挟まず、親交を深められるような奇特で善良な人物は、居ないと言い切ったのだ。……ルイーザを除いて。

「君みたいな子は、圧力をかけても事情を知っても、レイチェルと一緒に居てくれる。逆に食らいついて来るんだから、良い根性していると思うよ。僕はそう言う子しか、嫁の友達と認めないし、近づけない」

 ジークフリートは、コーヒーを一口飲んでから改めて言った。今度はジークフリートがルイーザを睨んでいた。

「君だって、レイチェルを傷つけるなら……」

「やめて!そんな事言わないで」

 レイチェルが慌ててそう言うと、ジークフリートは笑った。レイチェルにだけ。しかし、ルイーザの方を見ると、再び顔が怖くなった。

「逃げるなら、今の内だよ?前の学校時代みたいに、見ているだけなら、君は巻き込まれない」

「逃げたりしないです」

 ルイーザは怖いのだろう。青い顔をして震えているのに、そう言った。

 凄く大きくて、威圧感のある大人の男性に、十七歳の小娘が、本気で睨まれているのだ。そりゃ怖い筈だ。

 ジークフリートは、すぐに視線を緩めて、いつもの笑顔に戻った。

「いいね。その調子で頼むよ」

 ジークフリートは、何事も無かったようにさっさと食事を再開すると、食べ終わり、伝票を持って立ち去った。そして、何事も無かったかの様に、支払いを済ませて店を出て行った。

 二人になったレイチェルとルイーザは、食事を続ける気分になれなかった。

「出よう」

 レイチェルが声をかけて立ち上がると、ルイーザも立ち上がる。

 レイチェルが先を歩き、ルイーザがとぼとぼと後を付いて来る。しかし、振り向くと、ルイーザが立ち止まっていた。

「私……余計な事、したかな?」

 俯いて、少し涙目になっている。

 そんな事ない。今言えるのはまずそれだ。しかし……

『そうじゃないの。そうじゃないのよ』

 昔の事を想い出す。

 ……違う。この言い方では届かない。レイチェルは少し考えてから、勇気を出して、ルイーザの小指を握った。精一杯の努力だ。ルイーザは平気だと分かっていても、自分から触るのは、やっぱり怖いのだ。

「午後の講義、一緒に休んでくれる?」

 ルイーザが顔を上げた。

「あのね、ルイーザと話がしたいの。……嫌な話になるかも知れないけど、いい?」

 ルイーザの眼からボロボロと涙が零れ落ちる。そして、何度も何度も、頷く。

「その恰好、私の為に、無理してくれてたんだね。……ありがとう」

 学生証の写真が、本当のルイーザ。……今、目の前に居るのは、似合うけれど、中身の伴わない、レイチェルの為のルイーザだった。

 彼女が触れても嫌ではなかったのは、本心から彼女を案じてくれていたからなのだと改めて思う。『先生』に触れられた時や、ケアスタッフに触れられた時のピリピリした痛くて嫌な感覚はルイーザには感じない。彼女は、学校が同じだったと言っていた。知っているのだ。全てではなくともレイチェルの過去を。それでも、側に居ようと思ってくれたのだ。

 本当のルイーザを知りたい。そして、自分の事も嫌でなければ、話してみたい。レイチェルはそう思った。

 ルイーザが、涙を拭って言った。

「私の部屋でいい?」

『仕掛けとかあると落ち着かないから』

 念話で告げられる。仕掛け……法術か何かだろうか?レイチェルは素直に、ルイーザの部屋に招かれる事にした。

 ルイーザの部屋は、思っていた程派手ではなかった。どちらかと言うと、カラフルで子供っぽいパッチワークのベッドカバーや枕が目立つ。机の上には手作りらしき人形とぬいぐるみ。

 少女趣味と言うよりも、如何にも子供の為の部屋と言う感じがする。児童心理学を志すだけあって、本当に子供が好きなのだと思う。

「ちょっと、待っててね」

 ルイーザはそう言うと、レイチェルを椅子に座らせて、自分はベッドに座った。

 そして、ベッドの下からポーチやブラシ等を取り出すと、メイクを落とし、髪の毛を夜会盛りから普通に一つにまとめて片側に垂らす。

 髪の毛の中から、赤い髪の毛の色とは違う、白い毛の生えた耳が飛び出す。

 とても可愛い。高飛車なお姉さんの様な格好よりも、ずっと彼女になじんでいた。

「あの恰好をしているとね、強くなれるの。言いたい事を言えるの。……本当の私は、地味で弱いから嫌だったの。別にレイチェルの為だけじゃないんだよ」

「でも、嬉しかった。ありがとう」

 ルイーザは赤くなって首を左右に振る。

「ロイネスの学校で、成績が貼り出されると、いつも私の名前が、レイチェルの下にあったの。……知ってる?」

 レイチェルは、罰が悪そうに首を振った。その部分に全く興味が無かったのだ。

「ごめんね。私、そんな余裕無くて」

「知ってるよ。私……気持ち悪いと思われるのが嫌で、言わなかったけど、ずっとレイチェルの事知っていて、見ていたから」

「そうだったんだ」

「最初はね、ただ自分より成績の良い人を見たかっただけだったの。……私も孤児でね。レイチェルが来るまでは、主席になる事もあって、いじめられたの。シーカーだってそれで知られちゃって、外の誰かに頼んで念話でカンニングしたとか騒がれて……わざと手抜きしたら、虐められなくなって、毎日、息を潜めて暮らしてた」

 ロイネスは人間が多い。聖勇者に対する差別は根強い。良くも悪くも田舎なのだ。

「レイチェルが孤児の奨学金の申請を通ったのを、先生が周囲に自慢して漏らすから、レイチェルは苛められたんだよ。孤児だって、先生がばらしさえしなければ、人間の首席として普通に居られたのに」

「遅かれ早かれ、ああなっていたと思うよ。私は、精神病院出身だし、常識は知らないし」

 レイチェルは苦笑した。ルイーザは否定できなかったらしく、寂しそうに言った。

「レイチェルの噂はずっと周囲に流れていたから、私は色々聞いた。シーカーだからさ、気になるとつい聞いちゃうの」

 耳がぺたんと水平になっている。嫌な噂だった筈だ。内容は聞かなくても分かる。

「……ところで、あのシルビアって人は、何者だったの?」

 丁寧に優しく常識を教えてくれた女性だ。触れてピリピリするまで、彼女を拒否した事は無かった。だって、彼女しか大事な事を教えてくれなかったから。

「シルビアは、エルハントマネジメントから来ていた、私の精神をケアする人だったの。私は一般常識も知らないし、話し相手が必要だからって、派遣してもらっていた人なの。あの人、私におかしな事を教えていた?」

 ルイーザは眉根を寄せる。

「それは大丈夫。仕事は仕事として割り切ってちゃんとやってた。気位高かった。ロイネスのド田舎の学校で、あんな高級な洋服を着こなして胸張って歩いていたのは、あの女だけだよ。先生よりも威厳あった」

 言われてみれば、レイチェルの様な派手さではなく、高級で上品なイメージをいつも頑なに守っていたのを思い出す。シルビアの仕事のできる女性の雰囲気を思い出す。あの人が側に居る間は、いじめが止んだのだ。

「あの女……シーカーだったの知ってる?」

 それは知らない。レイチェルが首を横に振ると、ルイーザが言った。

「レイチェルと話している最中、何処かに念話を飛ばしているのをずっと私は見てた」

「見えるの?」

「正しくは感じる、かな。シーカーは、そう表現するの。とにかく、シーカーはシーカーが分かっちゃうの。耳を隠していても分かるの。私は自分もシーカーだとこっそり教えて近づいたの」

「シルビア、ルイーザの事なんて、何にも言ってなかったよ」

「そりゃ言わないわよ。私は孤児で、自分とは違うって思われていたから」

 うわぁ……。確かに嫌な感じだ。

「あの人はね、見下して、憐れんでいた」

「憐れむ?」

「シルビアは、孤児で、勉強でしか成り上がれない、可哀そうな人達に手を差し伸べる自分の方が偉いって思っていたのよ」

 思い返してみるが、そんなことを全く見抜けなかった自分が居る。

「レイチェルが手を振りほどいた時、私見てたの」

 ルイーザが恐る恐る聞く。

「レイチェルも、聖勇者なんだよね?希少種なんだよね?」

「あ……うん。一応」

 噂頼みなのか、心細そうなルイーザの言葉を、レイチェルは肯定する。一応が付いてしまったのは、仕方ない。本当に一応なのだから。

「事情は知らないけれど、あの人、レイチェルを聖勇者として扱っていなかったよ」

「何で、分かったの?」

「あの人の目があると、噂が止まるから楽だったよね。周囲も感化されて偽善者面していたから。でも、あの人手を振りほどかれて、レイチェルが居なくなってから、人間の癖にって、言ったんだよ。それっきりあの人が来なくなって、聞いていた人間が噂を流したの」

 レイチェルに、意地悪をする行為が再び発生したのは事実だ。前の様に教師にばれるモノではなく、もっと地味で陰湿なものだったが。

「レイチェルが標的になっていたから、二番目になっても私にいじめは無かった。仲良しは居なくても、普通に会話できるクラスメイトも出来たし、気付いたら、すごく楽になっていたの。嬉しかった。けれど、レイチェルが……悪意や不満のはけ口にされ続けているのに放置したの」

 当たり前の事だ。自分がいじめのターゲットになりたいなんて、叩かれて喜ぶ変態に近い。

「私は知っていて放置した。楽しかったけど、息苦しかった。私は学府の試験に落ちていたから、就職も考えていたの。それで……本当は嫌だったんだけど、養子縁組を申請していたの。そうしたら、レイチェル・リンドは誰も養子にしない。比べられる事はまずない。健康な体に感謝しなさいって、担当に言われた」

 健康な体……言葉を選んでくれただけ、その担当者は偉いとレイチェルは思う。

「レイチェルがどういう生い立ちかはよく知らない。何があったにせよ、ここまでレイチェルが冷遇される理由が分からなかった。近くに居るのは、人の痛みの分からない、馬鹿な奴らばかりだからこんな目に遭うんだって思った」

「ルイーザ……」

「レイチェルが養子縁組をしないなら、学府に行くのは分かってた。学府で一緒に再出発したいって思った。だから就職はしない。学府では、私が守ろう。できるだけ側に居て、こんな目に遭わせないって決めたの」

 始めて声をかけられた時、『おねえさん』と呼ばれた。小柄で童顔、しかも男か女か分からない容姿。最初から、計画的に声を掛けて来たのだ。

 ルイーザの優しさの理由や、居心地の良さを、レイチェルはようやく理解出来た。

 傷に深入りしないのは同じ孤児で、過去を語る辛さを知っているからだ。そして、周囲の目から守る方法も、必死で考えてくれていたのだ。レイチェルを隠し、自分が盾になるように、権力も強さも持たない女の子が、勇気を出して、必死に考えて実行してくれたのだ。

 何て凄いんだろう!しかも、自分の為にだなんて!

 レイチェルは気づけば、感動と尊敬の目でルイーザを見ていた。

「レイチェル?」

「感動して、うまく言葉が出ない」

 ルイーザが赤くなって顔を逸らした。

「そ、そんなたいした事してない」

「たいした事だよ!全然気づいてなくてごめんね」

 ルイーザは更に赤くなって、首を横に振る。

「いいの。……誰よりもレイチェルの側に居られて、私も嬉しかったから」

 彼女は、ロイネスの三年間をずっと見ていて、それでもレイチェルの味方になってくれた、とても希少な人だ。大事にしたいと思う。

「多分、レイチェルは私の憧れなんだと思う」

「憧れ?」

「中身は超天才なのに、見た目は中性的で、もー永遠に子供みたいで、私の好みにバッチリだったのよ」

 あれ?何か、違う意味でスイッチ入った?

「その話は、周囲を寄せ付けない為のダミー的な話じゃないの?」

 レイチェルが引きつって聞くと、目をキラキラさせて大きく首を横に振る。両手を胸の脇で拳にして、凄く力が入っているのが分かる。

「素だよ。カミングアウトって、怖いからずっとビクビクしてたけど、本当にあけすけにしてみたら、レイチェルは守れるし、言いたい事は言えるし、もう、サイコーだった。だから、これからも続ける!」

 変態さんな所は変わらなかった。

「気にしないで。私、恋はちゃんと成人男性にする予定だから。観賞用として、レイチェル以上の逸材は存在しないわ。そういう意味では、あなたは永遠に私の一番よ」

 観賞用って、触るじゃない!乳に埋もれて、何度も窒息しかけた!

 そうは思ったものの、それは一旦置いておく。そういう流れで話を終わりに出来ない。

 本当は和やかに対話を終えてしまいたかったけれど、相手にだけ告白させて、こちらが何も言わないままには出来ないので、かいつまんで事情を話す事にした。

 自分の種族の事、姉の死、ジークフリートとの関係、病院を経て、学校に入り、病院時代にされた事を知った経緯。

 ルイーザは、黙ってそれらを聞いていた。かいつまんで話したが、長くかかった。お昼過ぎだった時刻は、すっかり夕方になっていた。

 事を全て聞き終えて、ルイーザは眉根を寄せて考えていた。

「レイチェルは、ジークフリート先生と会った記憶が無い。昨日言われても、何も思い出さない……それでいいんだね?」

「うん」

「それで、ジークフリート先生の事は、好きなの?」

 直球だった。

「分からない。だけど、信用はしてる。契約しているから、嘘がお互い通じないのは事実」

 ちょっと赤くなってレイチェルは言った。

「先生、切ないね」

「切ない?」

「レイチェルの事、大好きなのに、触れられない」

「そうなの?」

「レイチェルの体の外側を、何かが凄い速さで循環して全身を覆ってる。言われないと気づかない。感度を上げても良く見えないけど、確かに何かある」

 ルイーザの耳がピクピクしている。瞳孔も本来の深い緑色ではなくて、金色になっている。

 ルイーザの目が元の色に戻り、レイチェルに確認する様に聞く。

「私は触れても平気なんだよね?」

「うん」

「私も痛くないから、理力は私を許してくれているみたいだね」

「許す?どういう事?」

 痛いのは、自分だけだと思っていたのに。

「その理力って言うのは、レイチェルの意思とは無関係に、何かしらで相手を選別して、レイチェルを守ってるみたい。身にまとう番犬みたいな感じ?そいつの許可が無いのにレイチェルに触れたら、皆、酷い目に遭う。シーカーでも私は感度が高い部類だから見えるけど」

 ルイーザは、レイチェルの体を見てそう言う。身にまとう番犬って……。まるで理力には意思があるみたいじゃないか。

「どうして分かるの?」

「嫌な事思い出させるけど、シルビア。あの人、レイチェルに手を振りほどかれた時、頭の中で絶叫してたんだよ。そこら中に痛い!って、あれは念話じゃなくて、悲鳴。プライド高くて、目の前で声に出して叫べなかっただけ。……理力が思い切り噛みついたんだと思うよ」

 ジークフリートは、自分だけにしか作用しない自己中な能力だと言っていたが、そうではないのかも知れない。

「多分、人間も傷つく」

「そんな事無い。病院では人間の職員に触れられていたけれど……」

 『先生』や他の世話をしていた病院に人々の事を思い出す。何度か拘束された。何だか、無気力になって、どうでも良くなっていた頃に『先生』に出会った事だけは覚えている。

「触れたら傷つくって悟らせない為に、とにかく、従順になるように仕向けられていたんだよ。レイチェル本人が気づいたら、バレて、逃げられちゃうもん。そんな事実、半天教、壊滅させちゃう」

 三すくみの上に、人間至上主義を掲げて半天教は成り立っている。その三すくみが崩れて、人間は聖勇者と同等だと分かったら……確かにそうなるだろう。

「半天教ではレイチェルは、多分人間相手に初めて抵抗出来る聖勇者だって認識されてる。だから、これ以上増えない様にしたんだよ」

 ルイーザは、レイチェルを抱きしめた。

「……レイチェルを殺さなかったんじゃなくて、殺せなかったんだよ。色々、辛かったね」

「うん。辛かった」

 レイチェルの言葉に、ルイーザは鼻をすすると、わざと明るい声で言った。

「半天教、滅びろバーカ、バーカ!」

「あはは……」

 苦しい体制のまま、レイチェルはルイーザを抱き返す。

「こんな私でも、会えてよかったと思ってくれるの?」

「こんななんて、言わないで!私の憧れなんだから」

「ありがとう」

 体を離し、二人でにっこり笑った。

「ところでさ、あの身分証明証、何とかしたいよね?」

 ルイーザの提案にレイチェルは頷く。

「ジークフリート先生の直筆はそのままがいいよね?」

 正直に言うのは恥かしい。しかし、以前ルイーザのくれたお菓子と一緒で、とても大切なものなのだ。恐る恐る頷くと、ルイーザは笑った。

「じゃあ、いい事教えてあげる。自分で気に入る様に手作りしている方がいいと思うから、材料とやり方は私が指導するよ。これなら、ゲートにもひっかからないから。……ね?」

 そして、接着剤と沢山のラインストーンが用意された。

 ルイーザは、指導しながら教えてくれた。出身施設の子にお誕生日になると、ラインストーンでデコレーションしたメッセージカードと、王冠やティアラを贈っていたのだと。

「どんな子にも、特別な日には、王子様やお姫様になって欲しくって」

 施設では、その手作りの贈り物を密かに楽しみにしている子が大勢居て、施設の責任者の頼みもあり、今も作って送っているのだと言う。

「簡単だから、レイチェルならすぐ出来る様になるよ」

 そう言って、レイチェルの希望したラインストーンと、ほぼ使い終わりで残り少ない接着剤をルイーザは小袋に入れてくれた。

「この部屋はね、法術が一切施されていないから、安心して来てね」

「シーカーって、そう言うのも分かるの?」

「法術の中身は分からないけれど……見える。あんまり言わないでね。シーカーの感覚は、それぞれ個人差があるから、全てのシーカーには適応できないって事もあるから」

 そう言って話してくれたシーカーの感覚、走るスピードや腕力は、想像以上のものだった。ルイーザはよそ見をしたまま、ダーツを中止に命中させられるし、ダーツを投げる威力によっては、壁に穴をあけられるとも言った。ルイーザは全体的に他のシーカーよりも生まれつき能力が異様に高いらしいが、あえてそれを隠している様だった。

「どうして?その能力なら、何でも出来そうなのに」

 ルイーザは苦笑して言った。

「髪の毛と色違いの耳と高い能力はね、異常聖性って言ってね、近親相姦で生まれるシーカーの特徴なの。だから内緒ね」

 ……ルイーザが捨てられた理由が何となく分かって来る。そして、レイチェルの境遇に共感できる理由も見えた気がした。全然ルイーザは悪くないのに、ルイーザも辛かったのだ。

 ここで何を言うべきか。湿っぽい話はたっぷりした。違う事を言うべきだ。レイチェルは考えを巡らせていて、はっとした。

「あ、言い忘れてた」

 不思議そうな顔をするルイーザに、レイチェルは荷物を抱えてから、大切な事を思い出して言った。

「私と友達になって下さい」

 照れ臭いけれど、手を差し出す。

 ルイーザは、もうとっくになってるじゃない。生真面目ね。とこぼしつつも、手を握り返してくれた。

「私で良ければ喜んで」

 生まれて初めて、友達が出来たのだ。本当の友達。これは夢ではなかろうか。

 授業をさぼった罪悪感は皆無で、レイチェルは、嬉しい気持ちのまま、軽い足取りで部屋に戻った。

 昨日の夜、ライラックでジークフリートと話をして、今日ルイーザと話をした。一気にレイチェルの世界が変わった。

 今日がライラックのアルバイトの日で無くて本当に良かったと思う。

 店長もルークも詮索はしない人だけれど、浮かれ過ぎている今の自分は、うっかり失敗しそうだからだ。一期一会とまで言われている店長の芸術的ケーキを落として潰したり、アンティークであるカップを割ったりしたら、大変な事になる。

 昼の騒ぎもあったので、夕食はルイーザとは別々に取る事にした。

 基本的にここの学生は、自炊をしてはいけない事になっている。包丁は、凶器と認識されているからだ。別に人殺しを心配している訳ではない。自殺予防の為だ。

 研究成果が出ない学者が思い詰めて、過去に何度も自殺したと言う。……自殺は魔界堕ちの大罪だ。普通は考えないが、思い詰めると考えてしまう人が出てくるのだそうだ。……人種を問わず、物理的な凶器を取り除くのが、自殺者を減らす第一歩なのだとか。

 そんな訳で、今日の夕食はルイーザの部屋の帰り道に買った弁当だ。実験を中断出来ない理系専攻者に大人気のお店だ。ボリュームもあって価格もお手頃だった。

 お昼にすっかり食欲を失っていた分、今はすごく空腹だったので、部屋に帰るとすぐ食べた。

 その後、机に向かい、ラインストーンで何とか種族の『盾嫁』部分を隠す。初めてにしては、満足のいく出来になったと思う。こんな風に、机で勉強以外に没頭する日が来るなんて、思いもしなかった。

 レイチェルは、外に出るといつもと違う公衆浴場に行き、手早く入浴を済ませると、さっさと部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。

 学生証を見つめる。……変わってしまった苗字、ラインストーンの飾り、その下の文字。

 明日からは大変な事になるだろうし、面倒な事になるのは分かっているのに、何故か顔がニヤけてしまう。レイチェルは、学生証を眺めながら、いつの間にか眠っていたのだった。


 翌日からは、レイチェルの周囲の雰囲気が一変した。

 ジークフリートに特別視されている理由が分かった為だろう。男性からの嫉妬の悪意は消え失せた。しかし、女性からの嫉妬の黒い気配は相変わらずある。いや、増した気もする。

 特に意外だったのは、講師の助教授や教授の視線や会話の方だった。特に、ラグニス家に対して、媚びを売る様な態度の講師が居て、話しかけられると、とても困った。……ジークフリート以外、誰も知らないのに。

「僕に媚びを売りたいって奴らが居るのは、当然だよ。僕、爺ちゃんに可愛がられているから」

「本当なんですか?」

 レイチェルが疑問を口にすると、平然とジークフリートは言った。

「本当だよ。爺ちゃんは、僕をずっと学府に閉じ込める程度には可愛がってる」

「ジークフリート先生、怒ってますか?」

 ルイーザが顔をしかめる。クラウンが一瞬、見えて消えた。

「うん。そりゃ怒るよ。僕、レイチェルの配偶者なのに、ずっとレイチェルの事を隠してたんだから」

「まぁ、怒らない方がおかしいですね」

 最近、ルイーザの学生証も新しく更新された。種族欄を綺麗に削って直したのに、と怒っていたけれど、学府で入れる場所が一気に増えたらしい。

 お陰で、今日もかなり高級な個室で食事をしている。特権では無いが、学府の外からの接待用に使用するレストランだ。普通は学生が入れないし、価格も凄いものだ。勿論、ジークフリートのおごりだ。

 昼は普通に食堂で食べていたのだが、講義の後、ジークフリートの誘いがあって、レイチェルとルイーザは夕食をここで共にしている。

 ジークフリートは、案外忙しい。レイチェル以外にも上の学年で論文の指導担当をしている学生が十人以上居る。講義もあるし、自分自身の研究もある。レイチェルだって、講義の予習や復習、論文の準備にアルバイトにと忙しいのは事実だ。

 だから、周囲への威嚇として、定期的にこうやってレイチェルを特別扱いするのだ。みんなの目の前で、あえて食事に誘うのだ。研究室で誘われていて、ルイーザに教えていないのに、ルイーザはいつも一緒だ。……どうやら、ルイーザに日頃のレイチェルの様子を聞くと言う事も、兼ねているらしい。

「で、レイチェルにすり寄って来たのは、誰?」

 なんて、もっぱらルイーザとずっと話をしている。レイチェルは、ご飯を食べつつ二人の話を聞いている事が多い。ルイーザが居る前で、レイチェルに話しかけるだけで酷い目に遭う。その内、皆そう思い出す気がする。

 二人共、それが狙いなのだろうけれど、ちょっと怖い。

 そこまでしなくても……なんて事は口が裂けても言えない。二人が物凄く怖い対決を終えて、盟友になってしまっているのを見ているだけに、二人お眼鏡にかなわない人と親しくする気にはならない。

 大事にされていると言う、この何とも言えないむず痒い気持ちと、その気持ちと同じだけの物を返したい気持ちがあっても、何も出来ないのが、目下の悩みだ。

「今日呼んだのはね、ちょっと紹介したい人が居るからなんだ」

 食後のデザートを食べている時、ジークフリートがそう言い出した。

 レイチェルとルイーザは顔を見合わせて、再びジークフリートを見た。

「その……頭は僕よりうんと良いんだけど、滅茶苦茶失礼な奴なんだ」

 ジークフリートが、親し気に、それでいて非常に嫌そうに告げる。

「根は、本当に優しいんだよ?だけど、言葉も手段も選ばないから、かなりやる事も言葉も乱暴だったりする。……表向きの顔をしなくなると」

「表向きの顔?」

 レイチェルが首を傾げて不思議そうにする。ルイーザもジークフリートも、それを見て、同時にデレっとした顔をしたが、すぐに引き締める。

「表向きの顔は、完璧王子。実際は違うから。多分君達が見るのは、素の方」

 ジークフリートは言い辛そうに言った。

「僕の兄貴のローレンス・ラグニスだよ」

 とうとう来た。噂の人に会うのだ。レイチェルは緊張してしまう。……後日、ジークフリートに改めて説明された。ローレンスが義理ではなく、実の血の繋がった兄弟だと。

 遠慮のない物言いは、実の兄弟である事を物語っている。

「レイチェルが感情を与えてくれなかったら、ローレンスと殴り合いの喧嘩なんてできなかったよ」

 マギが殴り合いの喧嘩をする所は、想像が出来ない。ジークフリート曰く、理力に阻まれてローレンスの法術が体に届かないから、結果は……目に見えていたそうだ。殴り合いではなく、一方的に殴ったが正解だと思われる。

 元はと言えば、感情が未発達で理力も未熟なジークフリートを、ローレンスが一方的にいびっていたらしい。結果、ジークフリートに半殺しにされた訳だが……。そこで関係が変わったらしい。

 ローレンスは、恐れるのではなく、兄弟として仲良くする道を選んだそうだ。お前の様な生体兵器は、危険だから、俺が使いこなしてやる。そう言われたとか。

「ここで会うには目立ち過ぎるんだよ。あいつは……そう言う訳で、今日は特別にルイーザもライラックに行こうか」

「え!特権カフェに入れるんですか?」

 ルイーザが嬉しそうに目を輝かせる。

「オーナーの許可は取ったから、大丈夫だよ」

「どんな場所なの?楽しみ過ぎる!」

 更にルイーザの目が輝く。レイチェルが、暗い目で、横からボソリと告げる。

「店長と店長代理の趣味の店」

「へ?」

 超有名パティシエの追及と趣味で出来上がった価格度外視のケーキと、ルークの趣味で固められた高級なアンティークに囲まれて、これまたアンティークの高級食器によって、最高級のコーヒーや紅茶が、惜しみなく給仕される店だ。

 実はレイチェルは一度だけ、皿を割った事がある。上にはケーキが載っていた。店長の顔が頭をよぎり、人生の終わりが見えた気がした。しかし、人生は終わらなかった。

 ルークが、全部を法術で元に戻してしまったのだ。特権カフェでは、種族すら漏れない。だから、目の前で法術を使って、ケーキや皿を修復しようが、全く気にされないのだ。

「無粋だから、こういうのはあんまりさせないでね」

 ルークはそう言って、何食わぬ顔でケーキごと皿をさげて、粗相を謝罪すると、新しいものを提供した。そして修復したケーキは、アルバイトの後、レイチェルが食べる事になった。

「床の埃は紛れていないだろうけど……旦那様にもお嬢様にも、出せない代物だからね。責任をもって、レイチェルが処分して。『不運なケーキ』を廃棄処分にすると、店長にボコボコにされるから」

 今回の様な事情を含め、閉店後も残ったケーキを、店長は不運なケーキと呼ぶ。お前達は悪くない!悪くないんだよ!……ケーキに向かって叫んで、食べている様子をレイチェルは、何度も見た事がある。そして、泣きながらノートに何かを書くのだ。反省点なのだろう。ちなみに店長はシーカーだ。いつも帽子を被っているから見えないが、獣耳がある。

 更に、店長にボコボコにされるのはルークではなくて、家具だそうだ。……椅子やテーブルを蹴ったりもするらしい。法術で修復できるとは言え、食器などと違って、修復した家具は、歴史的な痕跡が一気に消えてしまうのだとか。ルークにとって、精神的ダメージが半端ないのは分かる。

 そんな訳で、ライラックは、店長とルーク、双方の大事な物を守る為、幾つかの取り決めがある様だ。アルバイトが失敗した場合、ケーキをバイトに食べさせるのもその一つらしい。

 お金はいらないと言われて食べさせられた、生まれて初めてのケーキは、忘れられない程おいしかった。長く食べていたくて、小さく切って、ゆっくり味わっていた筈なのに、皿の上に、ケーキはもう無いのだ。夢のひと時だった。これでは、ご褒美なのではなかろうか?……レイチェルの考えは甘かった。

 ごく一般的なケーキを食べたいとは、全く思わなくなってしまったのだ。

 特にレイチェルは初めてのケーキがこれだっただけに、ダメージは大きかった。学食で無理して小さなケーキを買って食べた時に愕然としたのだ。違う!これはケーキじゃない!お金返して!そう思った後、ニコニコして、美味しいねと言っているルイーザを見た。……ようやく恐るべき事実を悟ったのだ。

 店長のケーキしか食べられない体になってしまった!私の庶民的な味覚を返して!……多分、返って来ない。

 皿をわざと割るなんて……今度は、ルークが恐ろしくて出来ない。ルークは、器用貧乏だと思っていたが、実際には人並み以上に何でも出来る、とんでもない人だったのだ。

 見解の違いで言い争っている学者二人を、一瞬で店の外に放り出した手際の良さは、普通の人では無かった。店が真っ黒な空気になって、聖勇者が一斉にビクっとしたのだ。人間だって肌がビリビリしたと思う。レイチェルも何事かと振り向くと、ルークが真っ黒だったのだ。

「今日の所はお帰り下さい。旦那様方」

 二人共、素直に帰った。……帰らなかったら、死んでいたと思う。二人が店を出ると、ルークはあっさり元に戻り、空気は明るい雰囲気を取り戻した。厨房の店長も客も、慣れているのか、再び談笑を始める。固まっているのはレイチェルだけだった。

 後で、人間でも分かる様な強い殺気なんてものは、自由に出し入れできるのが下仕えのたしなみだよ。なんて笑顔で言われた。……絶対、歴史学者じゃない。レイチェルは思った。

 目の端で、いつも店内全部を見て把握している。しかも下仕えとして完璧なのだ。法術が使えるのに一切使わずに、美しい所作で煎れるコーヒーや紅茶は絶品で、甘いものが食べられなくても、それ目当てに来る客も多い。特権カフェの中でもダントツの人気なのだそうだ。

 じわじわと自分のアルバイト先の事が分かって来たレイチェルは、とんでもない店で働いている事を、改めて思い知っている最中だった。

「レイチェル、どうしたの?」

「あ、何でもないです」

 すっかり記憶の中に入り込んでいたらしい。レイチェルは頭を切り替えた。……ライラックで、ローレンスに会うと言う話だった。

「それじゃあ、今から行ってもいいかな?」

「はい」

 既に夜だ。閉店後の店で話をすると言う事らしい。オーナーの許可を取ったと言う事だから、今回は裏口から入らなくても、ルークが店を開けているのだろう。

 三人は店を出て、転移法術陣に向かう。

 学府は広い。だから、色々な場所に転移法術陣があって、歩かなくても移動できるようになっている。学府には無くてはならないものだ。

 これも使用するのにも、学生証や身分証が必要で、入り口のゲートで誰が何時使用したのか、記録される仕組みになっている。ジークフリートが、身分証を時間記録の法術機に押し当てると、転移法術陣へのゲートが開いた。同じ様に法術機に学生証を押し当てて、レイチェルとルイーザが続く。

 転移の法術陣は、決まった場所と場所だけを繋ぐ近道だ。三人は、法術陣を幾つか使って、ライラックの近くまで来た。

 そして、あの恐ろしい『季節のケーキは時価です』の看板の前を通り過ぎる。

 よくルークにつまみ出されなかったものだ。ショーケースに張り付いていたのに。……そう言えば、出て来たのは店長だった。レイチェルは思い出しながら、店に向かう。

 ジークフリートが、くすくすと笑う。

「レイチェルが初めてライラックに入って来た時、ルークは凄く慌てて僕に知らせに来たんだよ。あのルークがあんなに慌てているの、初めて見た」

「え?」

 ルークとは、ただの知り合いではないらしい。店の前に付くと、ジークフリートは扉を開けた。そして悪戯っぽく笑った。

「ここのオーナーは、僕なんだ。……内緒だよ」

 レイチェルだけじゃなく、ルイーザも目を丸くしている。

「とにかく入って」

 レイチェルとルイーザはそそくさと中に入った。物珍しそうに周りを眺めるルイーザを促しながら、レイチェルはジークフリートに続く。

「じゃあ、最初から……」

「君がまさか店に来るなんて思わないだろう?僕も凄く驚いたよ。吹っ飛んできたルークの話を聞いて、とりあえず念話でハルクに足止めを頼んだ。君とルイーザも念話の契約をしているだろう?僕もハルクとしているんだ」

 ハルク・ディエーヌ。世界的に有名なパティシエで種族はシーカー。年齢不詳。ライラックの店長の事だ。ケーキとの対話は好むが、人との対話を嫌う。……ケーキがまずかったら、ただの頭のおかしいおじさんだ。どうしてそうなったのかは不明。何故か名前を呼ばれるのを嫌うので、店長と呼んでいる。

 ハルクは、ジークフリートとルークが、今後の対応を考えている間に、レイチェルをアルバイトとして雇用してしまっていたのだそうだ。店長は一か月で正アルバイトにしてくれた。何処を気に入ったのかは不明だが、レイチェルは店長に感謝している。

「僕はオーナーだけど、ここは彼のお店だから、全ては彼が一番の決定権を持っているんだよ。オーナーでも、僕が君をここで働かせてほしいなんて頼めなかったから、雇ったって聞いた時は何が起こったのかと思ったよ」

 店長が一番。だから、レイチェルの雇用も今アルバイトを続けているのも、全部店長の意思と言う事らしい。

「質問です!」

 ルイーザが、声を上げる。

「どうしてオーナーだって、隠しているんですか?」

「学府で店を開く際の決まりみたいなものだよ。誰の持っている店か知ったら、利用したくないって人も出てくるだろう?だから言わないんだ。事実、店の経営状況には僕はノータッチだし」

「赤字なんじゃないですか?」

 レイチェルが呟く。

「甘いよ。働いているのに分からないの?ここは赤字になった事がないんだ。あのケーキに僕のご奉仕が付いているのに、赤字になる訳ないじゃないか」

 そう言って、カウンターから出て来たのはルークだった。少しつり気味の細い目が、にっこり笑って更に細くなる。

 レイチェルにそう言うと、ジークフリートに頭を軽く下げて、今度はルイーザの方を向く。

「始めましてお嬢様。私は、ルーク・バルニスと申します。ここでご奉仕させていただいております。よろしければ、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 完璧なご奉仕である。動きに隙が無い。

 ルイーザは、頬を赤らめている。……こんな事、普通は言われた事ないよなぁ。私は慣れたけど。レイチェルはそう思いつつ、ルイーザを見る。

「ルイーザ・ロッソです」

 ルイーザが恥ずかしそうに言うと、ルークはにっこりと笑った。

「ルイーザ様。……麗しいお嬢様に、ふさわしい、とても美しい響きでございます」

 ルイーザが、真っ赤になっている。やり過ぎだと思う。

 ご奉仕した分、お金の入って来るビジネスの時間ではない。ルークがこんな事をしたら、ルイーザが勘違いしてしまう。……味覚を奪われるのは諦めが付くが、親友を惑わされる訳にはいかない。

「ルイーザは、見た目こそ大人で派手にしていても、十七歳の乙女なんです。学生です。悪ふざけはやめてください」

「おやおや」

 ルークは、笑って肩をすくめている。それからジークフリートの方を向く。

「ジーク様……奴がお待ちです」

 ルークが忌々しそうに言う。様子もおかしいが、言葉もおかしい。

「分かった」

 ジークフリートは、レイチェルとルイーザに言った。

「個室にローレンスが居る。詳しい話はそこでしよう」

 ルークが先頭に立って歩いて行くと、すぐに扉を開けてくれる。ジークフリートに続いて、レイチェルとルイーザが入り、ルークも一緒に中に入る。

「うわ!」

 ルイーザが、思わず顔をしかめて顔の下半分を手で覆う。……シーカーでなくても分かる。これはコーヒーと煙草の合わさった匂いだ。ライラックは禁煙だった筈だが、この個室は別らしい。ルークが顔をしかめて法術を呟くと、一瞬で空気から匂いが消えた。

「何をするんだ。クソ召し使い!」

 真ん中に設置された応接机に脚を乗せて、ソファーで煙草を吸っていた人がこちらを向いた。

 眼鏡をかけた、金髪碧眼のジークフリートによく似た人だった。

「換気でございます。旦那様のクソ兄貴」

「何だと?」

 立ち上がった、多分、ローレンス・ラグニスであろう人は……ジークフリートと身長がほぼ同じ位あった。こんな大きなマギ、見た事が無い。

『似てる!』

 ルイーザの念話が、叫びになって聞こえてくる。レイチェルは口に出せないので、ルイーザを見て頷いた。

 ジークフリートがため息を吐く。

「ルークもローレンスも、客の前でやめて」

 ルークがすぐに引き下がり、ローレンスがレイチェルとルイーザに、今気づいたと言う様に見ている。それから興味を失くしたと言う様に、半眼になってローレンスはソファーに座った。

「座れよ」

 乱暴に応接机の上に山積みになっていた書類を、束にして脇に寄せて行く。すると何処から湧いたのか、いきなり男性が現れて、その書類を部屋の端に積み上げて行く。

 レイチェルはびっくりして、思わずルイーザに抱き着く恰好になった。

「大丈夫、あの人はコーネル・ウェイスって言うんだ。ローレンスの付き人。気配を消すとか隠密行動の達人なんだ」

 ジークフリートが二人を見て笑った。それから二人に座るように促し、ローレンスの横に座った。

 レイチェルとルイーザは、恐る恐る、対面の革張りのソファーに座った。思ったより広い部屋で、ソファーは百九十センチの兄弟が座っても、まだ余裕がある。

 二人が並ぶと、髪形と髪色は違うけれど、やっぱり……

「似てる、とか言ったら、店を爆破する」

 ローレンスが不機嫌に言うので、レイチェルは飛び上がりそうだった。

「俺はマギだ。念話は使えない。考えを読まれたとか思うなよ。何度も言われて不愉快だっただけだ。単なる、経・験・則・だ」

 鼻を鳴らして、灰皿に煙草を押し付ける。

「改めて紹介するよ。ローレンス・ラグニス。僕の兄だよ」

 超有名人だが、実際に見るのはレイチェルもルイーザも初めてだった。

 ローレンスは、ジークの方を睨んだ。

「で?俺は外で愛想を使い果たして返って来た所だ。今は充電中。紹介は終わった。他に何か用か?」

 レイチェルにもルイーザにも、全く興味が無いらしい。特に、レイチェルは実弟の嫁と言う立場にある。しかし、そんなモノはどうでも良いと言う態度だった。

 ジークフリートは、ローレンスの態度の悪いのを全く気にしない。凄く真面目に言った。

「コーネルを貸してもらえないか?」

「何で?」

「半天教を潰したい。ちょっと調べて欲しい事があって。ルークには向かない。コーネルに頼みたい」

 レイチェルは、一瞬、ジークフリートの中に強い怒りを感じた。……しかし、ちらりと見た頭の上には、クラウンが見えない。ルークと言い、何故、クラウンを自由に操れるのだろうか?そう言えば、乱暴な物言いで、迷惑そうにしているのに、ローレンスの頭の上にもクラウンが見えない。

 ローレンスが、ジークフリートの方に体ごと顔を向ける。真剣に、諭すような口調で言う。クラウンは見えないのに、ジークフリートの中の怒りは理解しているらしい。

「面白そうな遊びだけど、俺は復讐に手は貸さない。そんな事でコーネルを失う様な事は、俺の為にもお前の為にもならない」

「復讐じゃない。……歴史の必然だと僕は思ってる。ホールが増え続けるのは、半天教のせいだろうに。このままだったら、聖勇者も真っ当な人間も、半天教に滅ぼされてこの世は魔界になる」

「だからって、お前が英雄になるつもりか?……それで皆は感謝するが、お前は何を得る?」

 この人は確かに口が悪いかも知れないけれど、優しい人なのだ。ジークフリートを心配して、はっきりと口に出して言える人なのだ。

「レイチェルが『羽化』していないのを、お前はどう見る?」

 ジークフリートが突然自分の名前を出したので、レイチェルはピクっと体が跳ねてしまった。

 ローレンスが視線だけをレイチェルに一瞬向ける。ジークフリートが、続けて言った。

「僕は決して、復讐だけを目的にしている訳じゃないんだ。希望を捨てていない。……狂信者達の首を飛ばしてこの世界から退場してもらいたいんだ」

「復讐メインじゃねぇか」

「半々だよ。もし希望が叶った時、あいつらは危険すぎる。何としてでも排除したい」

 ジークフリートの希望とは何だろう?疑問はあるが、この場の空気は、完全に兄弟が支配している。他の者は皆一様に黙っている。

 沈黙が続いた後、ローレンスが口を開いた。

「で?勝算は?」

「さあ。でも、僕は……負けは考えていない」

「コーネルが命を落とせば、俺は死ぬまでお前を許さない」

「構わない」

 ジークフリートとローレンスが睨み合う。息が詰まりそうだった。

 今、ジークフリートを突き動かしている激怒の理由は分かっている。レイチェルの為だ。同時にレイチェルに希望を見ている。だから、ジークフリートは、ローレンスの大切にしている付き人を半天教に送り込もうとしている。……ただの付き人では無いのだ。幼馴染と言っていた。

 やがて、ローレンスがイライラした表情で、視線を逸らして呟く。

「俺が拒否しても、コーネルに直接頼むんだろう?」

「ラグニス家の使用人に、ジークフリート・ラグニスとして頼むよ」

 ジークルフリートがにっこりと笑って言うと、ローレンスは忌々しそうにジークフリートを睨む。

 自分のせいなのに、何も出来ないのは嫌だったので、レイチェルは口を開いた。

「あの、ラグニス助教授は……」

「名前で呼べ。後、助教授はいらない」

 ローレンスが言葉を遮って睨むので、レイチャルはしどろもどろになりつつ、言い直す。

「ローレンスさんは、コーネルさんのご主人様ですよね?どうして、そんな命令は無視しろって……言わないんですか?」

 多分、コーネルと言う人は、ローレンスの命令は何でも聞く。次期当主とかそういう問題じゃなく。

 口をへの字にしつつ、ローレンスはレイチェルの方を向くと、不機嫌に言った。

「……ジークはシールダーであると同時に、ソルジャーの始祖だ。絶対に失えないから、学府から一歩も外に出ない様に爺ちゃんに厳しく言われている。でも、それはジークの意思さえあれば簡単に破れる、薄っぺらな約束だ。分かるか?」

 レイチェルは首を横に振る。ローレンスはため息を吐いてから更に続けた。

「理力と言うのは、とにかく滅茶苦茶だ。どれだけのスピードで空を飛べると思う?音速を越える。しかも、体を巡る理力が、あらゆる暴力を弾き返す。法術だって敵わない。そんな生物兵器を、どうやって拘束する?」

「無理ですね……」

 ローレンスは、更に嫌そうな顔になる。

「そうだよ。無理なの!だから、勝手な事をしない様に、ラグニス家の使用人は、ジークの我が儘を全面的に聞く様に、命令されているの」

 ローレンスの説明に、ルークが口を挟む。

「ジーク様は、滅多に我が儘なんておっしゃいません」

「そうだな。だからって、人に命かけさせる様な命令をしても構わないって道理にはならねぇ」

 ルークは目を伏せて黙り込む。半天教の情報を集めるには中に入るしかない。レイチェルも中に居たから身を持って知っている。危険すぎる事は。

「レイチェルを発見したのに隠した事実について、爺ちゃんから何も言われていない」

 ジークフリートの言葉に、ローレンスが新しい煙草を取り出しながら言った。

「言わないだろう。普通、孫に頭下げたがる爺なんか居ない」

「僕は、血縁者としての謝罪なんて……情に訴える様な謝罪は、この件に関しては望んでいない。謝罪程度で許せる事じゃない。僕の契約者を僕自身に探させなかった挙句、発見しても隠した事に対する、罰……償いを求めている」

 笑顔で穏やかに言っているけれど、怖い。

 法術で火をつけて、ローレンスは煙草を吸うと、上に向かって大きく煙を吐き出した。

「爺ちゃんにこの女を本気で隠す気があったなら、学府に来てないと思うぞ?エルハントマネジメントで、何処かに職業斡旋していたと思うが」

 レイチェルも改めて考えて、ローレンスの言い分に一理あると思った。そうしていれば、ジークフリートには出会わず、一生を終えていただろう。

「出来る訳ないじゃないか。今、レイチェルに触っても平気なのは、ルイーザ君だけだ。職場でそんな事が発覚すれば、大変な騒ぎになるからね」

「どういう意味だよ?」

「理力の方向性が僕とは全く違うんだ。僕ですら最初訳が分からなかった。僕の理力は外に放出するけれど、レイチェルの理力は内にこもって巡り続けて濃度を増している」

「それの何処が問題なんだ?」

 ジークフリートが上手く説明できないのか、難しい顔をする。

「薬でもジュースでもアルコールでも、濃度が高いのは、体に入ると問題あるでしょ?それに似ている」

「理力が他人に対して毒になっているって事か?」

 レイチェルが硬直する中、ジークフリートが頷く。

「言い方が悪いけどそうだね。レイチェルが触ってもいいと思う者以外には……ただの毒だ」

 全員の目がこちらに向くのを感じて、レイチェルは硬直する。そんな事を言われても、分からない。確かに、ルイーザは理力を番犬だと言っていた。

 そこで、初めてコーネルが口を開いた。硬質で低い声が部屋に響く。

「エルハントマネジメントの、メンタルケア部門で、レイチェルさんのメンタルケアを担当していたシルビア・ラネイアは、片腕を失って退社しました」

 レイチェルは青ざめてルイーザを見ると、ルイーザは首を横に振った。知らないらしい。

「レイチェルさんに触れた指先から腐敗が始まり、食い止める方法が無く、切断する事になりました」

 背中で腕を組んだまま、平静にコーネルは淡々と言った。

 ローレンスがコーネルを見た後、レイチェルの方を見る。そしてぬっと手がレイチェルの前に出てくる。触ろうとしているのだ。レイチェルが、思わずルイーザに抱き着いて縮こまる。

「触れば?腐れて死ねよ」

 ジークフリートが爽やかな笑顔で言う。それで、手がぴたりと止まって、引っ込んでいく。レイチェルの肩からほっと力が抜ける。

「マギの法術じゃ理力は見えない。それは知っているだろう?僕をどう見ても、理力が見えないんだから。レイチェルの理力も見えないんでしょ?」

 悔しそうにローレンスがジークフリートを睨んでいる。一気に吸われて、煙草の灰が長くなり、ぽろりと落ちそうになると、コーネルがぬっと灰皿を出した。

 ローレンスはそこに、煙を吐きながら、ぺっと煙草を丸ごと吐き捨てた。大量の崩れた灰と、まだ燃える煙草から煙があがっているのを、ルークが素早く法術で消した。

 ジークフリートと姿が似ているのに、しぐさが全く違う。ご奉仕される事に慣れ切っている姿は、やはりラグニス家の次期当主なのだと思う。

「残念だったね」

 ルークが、いつの間にか用意したのか、コーヒーと紅茶をコーネルと自分の分を除いて、机の上に置いて行く。レイチェルとルイーザの分は、紅茶だった。ジークフリートとローレンスにはコーヒーだった。ローレンスの前に巨大なマグカップを置くときだけ、妙にカシャン!と音がした。完璧なご奉仕をするルークが……余程、嫌いなんだな。あのマグカップ。

 ジークフリートは、繊細なアンティークのカップを持ち、それにふさわしい所作でコーヒーを一口飲んでから、ローレンスを見た。

「見たい?」

「見たい!見せろ!」

 ローレンスが詰め寄る。ジークフリートは、笑顔で言った。

「僕の体感記憶で良ければ見せるよ。条件は、過去の事でいいから、半天教の調査をコーネルにさせる事。レイチェルの居た病院の事だ。当時の人間に被害者が出ていたか知りたい。理力が人間を害せるか知りたい」

 ローレンスが唸って、自分の頭をかき混ぜると、呟いた。言ったのは、ジークフリートの要求とは全く違う話だった。

「爺ちゃんは、お前達を引き離すのは、もしかして間違いではないかと疑って、この女が学府に入るのをあえて見逃した。そして、お前が怒りだすのを見越して、何も知らされていなかった俺に、事の決定権を丸投げした、と」

「そうだ。犠牲者が出る前に僕にレイチェルを合わせてくれれば、事は簡単だったのにね。こんな風になってしまった。レイチェルの体に起こっている事は、本当に今後、起こる天罰の予兆だと思っていい」

 ローレンスがルイーザを見る。この女は平気じゃないか、とでも言う様に。

「理力は、僕らの深層意識を反映する。レイチェルは基本的に人を信用していないんだ。だから、ルイーザ君と言う信用する人以外には触れられるのを拒む。調査すれば、人間も害した事実がゴロゴロ出てくる筈だよ」

 理力に三すくみの法則は適応されない。ジークフリートは確信していながら、あえて調べろと言っているのだ。それは……まずい気がする。つまり、同じ理力を持つジークフリートも人間を害せると証明してしまう。半天教を壊滅させる殺戮者になってしまう。

 ローレンスも同じ事を考えたのだろう。一瞬唖然とした後言った。

「人間不信は、治療すればいい。今時、天罰かよ……ナンセンスだ。学者の言う事じゃない。そう言う話に持って行くなら、俺はコーネルを貸せない。帰れ」

 ローレンスが苦々しい笑顔でジークフリートに手をヒラヒラさせる。

「ロー、僕もお前も、シールダーの繁殖の過程で生まれた存在だ。神の天啓で増やされた哀れな希少種の末裔だ。一歩間違えば、僕やアーサーと逆の立場だったのに、レイチェルの不幸も他人事として否定する気?」

 あえて愛称を使って優しく呼びかけながら、決して笑わない目元が、ジークフリートの心境を表している。お前だけが兄弟を無視して、祖父の孫として生きるつもりか、と。

 場の空気が凍った。二人の間には、同じ両親から兄弟として産まれながら、違う種族に産まれたと言う大きな壁があったのだ。付き人であるコーネルとルークの表情も強張っている。

 ローレンスが怒鳴った。

「ああ!否定するね。アーサーの死も、お前がシールダーで始祖なのも、俺のせいじゃない!誰だって好きなように生きられる訳じゃない。背負い切れる物にも限度がある。俺には俺の、お前にはお前の生き方がある。今更、どうしろって言うんだよ!」

 正論だった。しかしジークフリートは怯まない。

「どうしろって言ったよね?耳悪いの?僕はコーネルを貸せと言った。その理由をちゃんと説明している。何を調べて欲しいのかも伝えている。僕は、ちゃんと道理を通しているのに……まだ分からないの?お前、馬鹿だろ」

 ジークフリートの言葉に、ローレンスが怒鳴り返そうとしたが、途端にジークフリートの背中から何かが噴き出した。……物は一切動かない。紅茶にも、波紋一つ拡げない。だけれど、明らかに魂のある者の魂と肉体だけを浸食する何かが、一気に噴き出したのだ。

「きゃあ!」

 レイチェルが自分よりも大きなルイーザを抱きかかえる様にして庇う。ルークもコーネルも半歩退き、ローレンスがソファーから吹っ飛んだ。

「ぐっ!」

 吹っ飛んだローレンスが壁にぶつかる。

「理力は育つ力だ。成長するのにとても時間がかかるけれど、一度育ってしまえば、マギもシーカーも人間も勝てない。レイチェルが、理力を僕みたいに使っていたらどうなっていたか、考えないの?」

 絶句してレイチェルはルイーザを抱きかかえる腕に力を入れる。ルイーザがガクガクと震えている。ルークも青くなっているし、コーネルもジークフリートを凝視している。

 ジークフリートの背中には、白い翼が見える。柔らかそうな感じは一切無かった。まるで、薄い曇りガラスの様な羽が密集している。半透明で硬質な羽の一枚一枚に、血管が葉脈の様に走っているのが見える。明らかに体の一部だ。

 それなのに、巨大な翼はソファーを貫通している。物理法則を全く無視しているのだ。……訳が分からない。しかし、レイチェルは翼が無いのに、理力を制御するのは無理だと肌で感じ取っていた。成人したシールダー……ソルジャーと言うべきか。は、明らかに他の聖勇者とは異質だ。

「僕が人を信じなくなったら理力がどうなるのか……爺ちゃんは気付いたんだ。しかし今更、自分では信用を得られない。だから、お前なんだよ。ロー」

 ローレンスがずれた眼鏡を直しながら、ジークフリートを睨む。

「本気で、人を滅ぼす気か?」

「やる気になればできるって話」

「半天教を血祭に上げて解決する問題じゃない。お前は一旦英雄になっても、結局は殺戮者にされてしまう」

「だからどうした!だったらコーネルに調べさせて、理力の恐怖を証明してお前が、世界に晒せ。お前が英雄になれ。後は、僕の存在を明かせばいい。それで、誰も死なないし、半天教は人間至上主義から解放される」

「お前は天罰の化身に成り果てて、この女を得るのか?」

「そうだよ。他は、何もいらない」

 ジークフリートから得体の知れない圧力が消えて、同時に翼が消えていた。まるで空気に溶ける様に消えて行く翼。嘘だとは思っていなかったが、目の当たりにすると、改めて思う。彼は何一つ、嘘を吐いていなかったのだと。あんな訳の分からない力を感知すれば、遠方までシーカーは皆一斉にパニックを起こすだろう。マギの法術は、その力の範囲にあると言うだけで、粉々に砕けた筈だ。人間だって、何かを感じただろう。

 外はどうなっているか分からない。大変な事になっている筈だ。

 しかも、ただ翼を実体化させただけ。それでこの有様だ。悪意を乗せて意図的に拡散させれば、毒どころの騒ぎではない。本当に生物兵器だ。

「そんな事をすれば、子々孫々、お前はラグニス家に飼い殺されるぞ」

 誰かが監視しなければならないと言う話になったら……そうなるだろう。

「そうだね。自分でもそう思う。でも、他に方法を思いつかなかった」

 寂しそうなジークフリートに、ローレンスが顔をしかめて言った。

「そんなにこの女が好きか?」

「好きだよ。分かるでしょ?今度、この女、呼ばわりしたら、殴るからね」

「……最悪。そこまで本気なら引き受けるしかないじゃないか。コーネル!」

 コーネルは一礼すると、部屋から出て行った。それにルークも続く。ローレンスは、再びジークフリートの隣に座ると、言った。

「これでいいのか?天罰の化身」

「ありがとう。兄さん」

 二人は何事も無かったかの様に、同時にコーヒーを飲んだ。衝突と和解を繰り返して、積み上げた関係がそこには確かにあった。

 レイチェルが唖然としている中、ローレンスがルイーザの様子に気付いて、何かつぶやいた。飛んできた法術は、レイチェルの腕に触れて壊れた。……というか、自分にこんなにはっきりと法術が見える事実に今更気づく。そういえば、ルークの法術もいつの間にか見えていた。

 唖然としていると、ローレンスが少しだけ不機嫌そうに言った。……これが普通の状態らしい。

「腕をどけろ。悪い様にはしない」

 素直にルイーザから離れると、ルイーザが気絶している。ローレンスは、立ち上がると、ルイーザをソファーに横たえた。レイチェルは慌てて立って避ける。触れたらいけないと思ったのだ。

 何やら調べているらしく、法術がルイーザに絡みついている。一瞬だけしか口元は動いていないが、凄い量の法術がローレンスから現れては、ルイーザの中に消えて行く。法術の圧縮と言うのは、学府でも、発音が難しくてできないマギが多いらしいが……ルークと言い、ローレンスと言い、かなり圧縮をかけて法術を使っている気がする。

「あんな至近距離で、ジークの理力を浴びて気絶程度で済んだのは、お前の嫁が庇ったからだな。鼓膜も破れていないし、内臓も無事だ」

「そりゃ、レイチェルの理力は学府に来てから、一気に成長しているから。嫁はいい響きだね。その言い方はいい」

「なぁ、皆でもっと良い方法を考えないか?」

「ローに妙案でもあるの?」

「……ちょっと時間をくれないか?」

 ジークフリートの片眉が上がって、魔王の様な笑みが浮かんだ。

「これ以上、レイチェルの貴重な時間を犠牲にして、他の奴らが平穏に暮らしているのは、我慢できない。本当なら気に入らない奴を、片っ端から殺してもいいと思っているんだ」

「待て、話し合おう」

 ローレンスが慌てて弟に向けて、止める様に掌を向けた。

「聞きたくない。レイチェルの言い分を誰も聞かなかったんだから、踏みにじっても構わないって思う、僕はおかしいかな?」

「いかれてる!」

「だったら何とかしてよ。お兄ちゃんだろう?」

「気持ち悪い!何とかするから、それやめろ」

 ローレンスよりも、ジークフリートの方が圧倒的に力で上だ。それなのに、ジークフリートは決してローレンスを踏みにじらない。自分の気持ちを素直に伝えている。彼だけは尊重する意思を持っている。天罰の化身に成ったとしても、ローレンスだけは殺さない。そう思う。

 レイチェルの過去の事で自暴自棄になっているジークフリートの暴発は、ローレンスの存在が防いでいる。ローレンスが居なければ、ジークフリートはとっくに殺戮者に成り果てていた。レイチェルはそれを朧気に感じ取っていた。


 ルイーザは、ローレンスが責任を持って部屋に送り届けるとローレンスが言うので、レイチェルはジークフリートとライラックを後にした。ルークもコーネルも何処かに行って居なくなっていた。後始末に追われているのだろう。普段よりも、明かりの見える窓が多い。

 ジークフリートを歩きながら改めて見る。

 一度も触れた事が無かった。話は普通にしているけれど、男性と言う事もあり、怖さが拭えなかった。そう、怖かったのだ。心を預けられる相手だと認識しているのに。ジークフリートはレイチェルの事を迷わず想ってくれている。それなのに、何も返せていない。……返せるものが無いと思い込んでいた。

 レイチェルが暗い道の中で、意を決して手を伸ばした。……手はそのままジークフリートの手に触れた。

 ジークフリートが目を丸くしてレイチェルを見ていた。

「痛いですか?」

 ジークフリートが首を横に振る。そして手を握り返してくる。一瞬後には、引っ張られ、大きな体に抱きしめられていた。

 ただ、心臓の音と呼吸だけが、夜の遊歩道では聞こえてくる。他の音は無かった。

 どれくらいそうしていただろう。レイチェルは言った。

「私は、今、十分に幸せです。だから……」

 人を殺さないで。

 レイチェルがそう言う前に、ジークフリートが唇を唇で塞いでいた。長い時間、ジークフリートの唇が、逃げるレイチェルの唇を塞ぎ続けた。レイチェルからすれば、食べられると思う程のものだった。呼吸ではなく、荒い息遣いと、自分のものとは思えない声が出て、静かな場に響いた。恥ずかしいのに動けず、足の力の抜けたレイチェルを、ジークフリートが支える。

「ちょっと、話をしよう」

 くったりとしたレイチェルを連れて行くと、ジークフリートは近くのベンチに座る。レイチェルは、ジークフリートの隣にもたれる恰好で座らされた。肩には、ジークフリートの腕が回っていた。どう見ても、恋人同士だった。

「他の人に見られます」

「構わない。僕らは夫婦だ。隠す必要なんて、無い」

 ベンチに並んで座っているのに、必ず少し離れて座っていた『先生』とは違うのだ。その違いにすら、心臓が心地よい音を立てて早まって行く。

「僕は今日わざと言った。君の目の前で。……どんなに手が血や陰謀に汚れても、君を絶対に手放せないから巻き込んだ。他の、あの部屋に居た奴らも」

「どうしてですか?」

「僕が理力を使えば、どうしても分かってしまう」

 ジークフリートの翼を思い出す。あれを展開しただけで凄まじい理力が溢れ出た。あれを隠して動くのは無理だ。

「勝手に動いて、半天教を血祭に上げても、ソルジャーの存在が恐れられるだけだ。それでは、第二、第三の半天教が、密かに生まれるだけだ」

「血祭とか……やめてください」

 ジークフリートはぎゅっとレイチェルの肩を抱く腕に力を入れた。

「争いを好まない君の性質は分かっている。……でもね。僕は穏やかな性格じゃないんだよ」

 そんな訳がない。こんなに優しくて、人の為に心を痛める人が優しくないだなんて。しかし、 さっきの対話も、穏やかそうで、かなり酷い事を言っていた気がする。しかも、翼を実体化する事で、ローレンスを吹っ飛ばして脅した。

「攻撃性も高いし、優しくもない。君に執着している。ルイーザ君みたいな、優しさや善意じゃなくて、もっと汚い感情で動いている」

 ジークフリートはレイチェルの頬にかかった髪の毛をそっと払う。

「もし、君が僕を拒絶して僕を壊すなら、それでも構わないと思っている」

「ラグニス助教授!」

「ジークだよ。呼んで。レイチェル」

 レイチェルは赤くなって俯いた。その顔を上向かせ、ジークフリートが視線を合わせてくる。

 切ない瞳には懇願が混じっている。

「君は僕をそう呼んでいた。笑ってそう言ってくれた君が居なくなって、僕は……暴れて外に出ようとした。シールダーの父さんが居なかったら、僕は君を探しに行けたのに……ずっと、待った。いつか探しに行けると説き伏せられて。馬鹿だったよ。羽化して翼を得ても、今度は知識と理性が、飛び出す事を許さなくて……こんな知識や理性なんて、捨ててしまえば良かった。君を救えない様な物、身に着けても意味が無い」

 レイチェルは慌てて言う。

「違います!ジーク」

 必死だった。彼の乾いて壊れた心に応えたい。レイチェルは必死で話していた。

「私は、昔のあなたを思い出せません。けれど、こうして側に居ます。今のままでいいんです」

 レイチェルは言っていた。

「あなたを信じています。学者としても尊敬しています。だから、自分を否定しないで下さい。あなたは、歪まないで」

 ジークフリートの目が丸くなり、やがて半眼になった。

「僕が歪んでいない様に見えるの?」

 綺麗な顔、優しく、公正な学者……。レイチェルの中での、ジークフリートの位置づけだ。

「ローレンスの方が、余程、まっすぐだと思わなかった?」

「それは、私のせいです」

 ジークフリートは、レイチェルのせいで鬼になった。実の兄も脅し、半天教を潰すつもりで、血で汚れる事すら厭わなくなってしまったのだ。

「違うよ。僕は、ずっと何処かで思っていたんだ。こんな世界、壊れてしまえばいいって」

「それは、私に出会ったからですよね?」

「君に出会う前から、僕はラグニス家の家畜だって自分を認識していた。このまま飼い殺されて、一生を終える。そう思っていた。それに対して、感情が無くても思う所はあったよ。知性のある生き物だからね。客観的に見る事は出来たさ」

 ジークフリートの顔は優しいのに、酷く怖い気がした。

「僕の魂は、歴代のシールダーの苦しみを補てんして出来ていると思っている。ローも同じラグニス家で育って、同じ様にシールダーから引き継いだ魂を持っている。……たまたま生まれた種族が違うと言うだけ。だから、僕の感情を理解できるのは、ローと、嫁の君だけ」

 ローレンスは特別なのだ。本当に特別だったのだ。

「君が僕に感情を与えてくれて、ローが一緒に居てくれた。だから、復讐なんて馬鹿馬鹿しいからしないって思えるようになった。今回も、すぐに動くのは止めた」

 ほっとした所で、ジークフリートは真顔になった。

「ローの嫌がる事はしないつもりだった。けれど、レイチェルを色々な人が傷つけた事と、僕が何も知らなかった事で、本当に収まりがつかない状態なんだ。だから、何とかしないといけない。落とし所が必要なんだ」

 決着を着けないと、ジークフリートの感情の行き場が無いのは分かった。けれど……ここまでしてくれるだけの理由をレイチェルは全く思い出せないのだ。

「私は、あなたを覚えていません。……せめて少しだけでも思い出せればいいのに」

 ジークフリートはただ笑って、その言葉に答えた。

「いいんだ。君がここに居る。それだけで十分」

 ジークフリートは、レイチェルの唇に自分の唇を重ねた。暫くして、唇を少し離すと、ジークフリートは囁くように言った。

「君は今、僕の事をどう思ってる?」

 言葉が出ない。信頼している。けれど、ルイーザに対する好きとは全く違って、上手く言えなかった。触れたばかりの相手との温度差に戸惑ってしまう。相手は、火傷する様な温度で、自分を想っているのだ。……気持ちが追い付かない。

「いいよ。ゆっくりで。どうせ、君は生涯、僕の嫁だから」

 ぼんやりするまで、口付けられて、気付けば抱きかかえられて、部屋に運ばれていた。……最後にベッドに寝かされた所までは覚えていたけれど、そこから先は覚えていない。気付けば朝だった。

 朝起きて、レイチェルは記憶がよみがえり、ジークフリートと、一目も憚らずにとんでもない事をやってしまった自分に頭を抱えたのだった。


 普通にルイーザから念話で昼食の誘いがあった。

 昨日、気絶する様な目に遭っただけに、さすがに心配していたのに、ルイーザは平然としていて、至って普通だった。

「そう言えば、昨日、ローレンス先生、新しい法術を試していて、失敗したらしいよ」

 近くのテーブルから声が聞こえた。講義でもその話で持ち切りだった。

 昨日のジークフリートの理力は、ローレンスの新法術の暴発として処理された。結果、ローレンスは当分の間、謹慎する事になった。つまり、学府の外へ出られなくなったのだ。講演もラグニス家の社交的な付き合いも一切断った事になる。……あくまでも、表向きの話だが。

「ラグニス家は、もうダメだろう」

「母親も酷かったみたいだしな」

 嫌な話が聞こえる。しかし、ルイーザも平然としているし、レイチェルも静かに食事をしていた。ルイーザが法術で記憶を消されている訳ではなくて、昨日の事をちゃんと覚えて、現状を理解している様子に、少しほっとする。

『夜、私の部屋に来て』

 食事の後、そう念話が一言来て、レイチェルはルイーザに頷いた。

 ライラックは臨時休業になって、レイチェルはアルバイトが急に休みになった。周辺は壊れた法術の修復中だ。ライラック周辺の転移方陣や高度な防衛法術は、軒並み壊れて、全て修復しなくてはならなくなったのだ。……ジークフリートに知識と理性を教え込んだ人達は賢明だったのだ。

 今思えば、入学時から、レイチェルの学生証に仕込まれていたセキュリティチェックは、学府の役職持ちに匹敵するレベルに設定されていたのだ。特権カフェであるライラックにあっさり入店出来たのはそのせいだったのだ。新しい学生証の再発行と言い、ラグニス家を嫌がっている割には、その権力を使いまくっているなぁ、と思う。

 講義を終えて、風呂やレポートを済ませてから、ルイーザの所に行く。

 部屋に入ると、ルイーザが真顔になった。

「あのね、実は晩御飯、誘われているの。一緒に行こう」

「誰に?」

「ルークさん」

 レイチェルはきょとんとしてルイーザを見た。何故ルイーザから聞く事になったのか。理解不明である。ルークからは臨時休業の連絡はあったが、そんな話は無かった。

「とにかく、来て」

 強い口調に何か裏がありそうだと思い、レイチェルは頷いた。

 部屋の外に出ると、ルークが待っていた。

「待っていましたよ。麗しいお嬢様」

 わざと私を無視した!

 バイトの時はこき使う癖に……レイチェルはそう思いつつ、ルークを見るが、笑顔で無視された。

「ルイーザ、本当に今日もお綺麗ですね。お手をどうぞ」

 レイチェルをガン無視でルイーザをエスコート。ルイーザは真っ赤になっている。……レイチェルは、その後ろをぽてぽてと付いて行く。何?これ。私、邪魔?

 そして、転移法術陣を幾つか乗り継ぎ、学府内部にある見た事の無い建物の前にやって来た。

 足を踏み入れていない場所はとても多い。しかし、入学時の案内ですら入った事の無い場所とは……。学者用の何処か宿舎か研究棟かな?

 そのまま前の二人に付いて、レイチェルはその建物に入る。そして、二階の一室に案内されて中の光景に絶句した。

 書類の山、本の山……フラスコや試験管、名前の分からない実験器具や機械が、無造作に置かれている。物置?と思っても間違いではなさそうな部屋だった。ルークが嫌そうに法術を呟くと、書類も本も元に戻って行く。

「ルーク!手でやれよ」

 書類と本で見えなかった机には、書類を持って煙草を吸っているローレンスが座っていた。

「コーネルと僕は違いますので」

 すましてそう言うと、一礼して部屋を出て行く。

 え?ここに残されるの?レイチェルの不安な表情に気付いたのか、ローレンスが言った。

「心配するな。食事の準備だ」

 ルイーザが、部屋を見回して、簡素な丸椅子を二つ運んできて、大きなローレンスの机の前に置いた。

「レイチェル、こっち!」

 この凄い馴染み方は何?昨日、何があったの?レイチェルはただ椅子を見ていると、更に座る様に、ローレンスが顎をしゃくるので、仕方なく座る。

 ローレンンスが、再び書類に目を落とし、煙草の煙を吐きながら言った。

「ルイーザ、説明」

「はい」

 昨日と全く違う様子で、従順に従うルイーザが説明を始めた。

「ここは、ローレンス様の研究室です」

 研究室はいいけど、様って……。

「コーネルさんはシーカーです。シーカー同士は、念話で記憶を受け渡せます。私は、コーネルさんと店長さんと記憶の共有をしました。そういう訳で、ローレンス様とジークフリート様の過去をすぐさま知ったと言う訳です」

「へ?店長も?」

「店長もシーカーです。全く無関係ではありませんので、情報共有をしました。ケーキの味やレシピばっかりでしたが……」

 一瞬、ルイーザがうっとりした顔をしたが、はっとして元に戻る。……庶民の味覚を失ったらしい。

「話し方が、丁寧だね」

「コーネルさんの影響です。生まれつきの使用人の記憶は、かなり強烈でして、ご主人様であるローレンス様の前では治りません」

 ローレンスの前では、言葉がこうなってしまうらしい。

「コーネルさんは、現在学府を離れて、調査に入りました。連絡は私も同時に受ける事になりました。もし何かあれば聞いてください。他にも質問があるでしょうか?レイチェル」

 ルイーザが有能な秘書みたいになっている!違和感があるけれど、仕方ない。

「昨日の夜、ルイーザは、複数のシーカーと記憶の共有をしてラグニス家に詳しくなっただけで、何もされていないって事でいいのかな?」

「その通りです」

 ルイーザが笑って言う。すると、書類から顔を上げたローレンスが言う。

「俺が何をするって言うんだ?」

「あ、いや、記憶の改ざんとか、最悪あるかなぁって。……ラグニス家にもみ消されたかと」

「そこまでせんわ!法術における記憶の改ざんと言うのは、思ったほど万能じゃない。出来ないとは言えないが、複雑な割に効果の薄い法術だ。お前みたいに、綺麗にあった記憶を消すのは法術では無理だ。そんな事をするくらいならもっと強烈な記憶を与えて、大した事では無いと思わせるショック療法の方が、余程効果的で楽だ。特にシーカーはそう言う種族だ。情報耐性が圧倒的に高い。大量の情報を頭に入れても混乱しないし、人の記憶で自分の人格を見失う心配も無い」

 まんま、それをやられたらしい。ルイーザは、平然としている。

「さすがに毎晩、ラグニス家の人間と面会していては、怪しまれる。だから、少しややこしいがこういう流れになっている。ジークには来るなと言ってある」

 レイチェルは正直ほっとする。昨日の夜の事がまだ、尾を引いているのだ。

「今後は、レイチェル、お前の付き人がルイーザだ」

「へ?」

 どういう事ですか?

「お前は、レイチェル・ラグニスだ。ラグニス家の一員だ。だから、付き人は必須だ」

「それでは、ルイーザが召使になってしまうので、嫌です」

「慣れろ。ずっと一緒に居たいなら、覚悟を決めろ。ルイーザは即答で了承したぞ」

 ルイーザを見ると、にっこり笑っている。

「アーサーが何で攫われたと思う?あいつは、母さんの教育方針に従って、付き人の居ない状態で普通に育てられていた。どうなったかは知っているだろうに」

 これは、アーサーの残した教訓だ。とローレンスは言う。

「アーサーの感情がどうなっていたのか、母さんも父さんも言わない。だから、よく分からないが……普通に学校に通っていた様だし、ジークよりも、遥かに感情が確立されていたのは確かだ。普通だったんだろうな。……だから、親も安心して油断していたし、あまりに普通だから、攫った半天教も疑った訳だが」

 ジークフリートとアーサーは、全く別の人生を送っていたのだ。

 ジークフリートは、家の方針に思う所があったと言っていた。それはつまり、怒っていたけれど、魂が壊れる事を恐れて表せなかっただけで、感情があったと言う事ではないか?

「結果、アーサーは死んだ。ジークフリートは今や天罰の化身だ。自由と拘束……どっちも極端過ぎたんだよ。今だから分かる事だけどな」

 アーサーは、シールダーである事に無頓着過ぎる環境で命を落とし、ジークフリートは、シールダーであるが故に、人権を無視した育成方法に不満を募らせて成人した。

 ローレンスはバサっと書類を机に投げると、煙草を灰皿に押し付けた。

「そう言う訳で、付き人は絶対に付けなくてはならない。連絡を取る役目も兼ねている。べったり一緒に居る訳じゃない。今まで通り、ルイーザは児童心理学の学生だ。ルイーザでは不満か?」

「いえ……」

「心配するな。付き人との距離感なんてのは自由だ。友達と考えているならそれでいいと思う。……コーネルもルークも、俺達の兄代わりだ」

「そうだったんですね」

 昨日の話し合いでも分かっていたが、やはりコーネルは、ジークフリートに脅されて、半天教の情報収取の為に、何処かに行ってしまったらしい。酷いと思うが、もう行ってしまった。迅速と言えば迅速だが……本当にそれでいいのだろうか?と思う。

 ローレンスは人に説明するのにも命令するのにも、慣れている。上に立つ者として、人との付き合いを心得ている人なのだろう。気迫や力で脅したりしない。いつも不機嫌そうにしているが、ジークフリートと違って、普通に話し合いの出来る相手だと思う。交渉の余地があると言うか。……ん?ジークフリートは、話し合いができない人?

 ローレンスがふんぞり返って笑ったので、我に返る。

「代わりに、ルークを奪ってやったけどな!天罰の化身に護衛はいらないだろうから。こき使ってやる」

 ルークはローレンスを嫌っている気がするが、付き人にして大丈夫なのだろうか?

「食事の準備が整うまで、昔話をしてやろう」

 椅子をキィっと回して、ローレンスは窓の方を向いた。

「ジークと初めて会ったのは、俺が十六であいつが十五の時だ。レイチェルが消えて、死にそうになっていたな。コーネルと俺は小さい頃から一緒に育った完全な付き人だ。コーネルは俺のお守りで護衛。けれど、ルークは違う。ラグニス家の血縁の出身で、次男だから本家で俺が家督を継いだ際の執事候補として修業中だった」

 そこで、ローレンスは言葉をあえて区切ってレイチェルを見た。

「いいか?俺の住む家の執事、行く行くは家令になる筈だったのに。そこを間違うなよ?けれど、年が近いって事で、執事ではなくて、ジークの世話係……付き人になる事になった。俺とジークが会うのと、ほぼ同時だった」

 レイチェルが消えた後、ジーク自身にも大きな変化が起こっていたのだ。そして、ルークの人生も大きく変わったのだ。

「ルークの待遇は、俺も反対した。次期執事で家令が、次男坊の付き人だぞ?普通に考えれば、左遷だ。あいつは何も悪く無かった。俺はあいつに同情していたんだよ。それなのに、ルークは庇った俺じゃなくて、ジークに懐いたんだよ。おかしいだろう?」

 その偉そうな言い方が悪かったんじゃないですか?と心の中で思いつつ先を聞く。

「まぁ、あいつが世話をしなかったら、ジークは自滅していたかも知れない。契約者を失って、感情を持て余し、いきなり兄だって俺に会わされて、嫌味を毎日の様に言われて……」

「嫌味を毎日言っていたんですか?」

 それは酷い。レイチェルが思わず言うと、ローレンスは窓の方を見たまま言った。

「俺も可哀そうな子供だったんだよ。何せ、シールダーの因子を持ったマギで、身持ちの悪い母親の息子だってずっと言われていたからな。それなのに、時期当主に決まっていたんだからイライラしていたんだよ。とにかく、腹が立ったんだ。双子の弟が死んだのに、目の前に、兄の俺が居るのに、完全無視だ。魂の契約者の損失しか考えない。どうかしていると思った」

 レイチェルは、何も覚えていない。しかし、ジークフリートの酷い状態を聞くと胸が痛んだ。

「何も聞いていないと思って、さんざん言ってやったよ。でも、あいつはちゃんと聞いていたんだ。ある日、ジークの我慢の限界が来た。俺はボコボコにされたよ。泣きながら、俺を殴るジークを見て、ああ、こいつも好きでこうなった訳じゃない……俺と同じなんだって気付いた」

 未成熟とは言え、理力で殴られてよく平気だったな、と思う。

「コーネルとルークも止めに入って殴られた。三人共、酷い事になった。……ジークは、後で冷静になって平謝りしたが、俺は暴力のきっかけになった嫌味について、一切謝らなかった。ルークは、未だにそれに納得していない」

 ずっと自分の旦那様を馬鹿にしていたローレンスに腹が立っていたのに、旦那様にローレンスと一緒に殴られたなんて、完璧なご奉仕を目指すルークにすれば、許せない事の筈だ。

「何で、謝らないんですか?」

 とっくにローレンスは自分が悪い事を分かっている。だったら、恨まれていないで、謝ってしまえばいいのに。

「ダメなんだよ。暴力は。あいつの場合、人殺しになりかねない。俺はあの時、思い知った。……単なる言い争いに出来ず、あいつが俺を殴った時点で、あいつが悪いんだ。俺もルークもコーネルも、あの時、死んでいたかも知れないんだ。その後も、何度も殴られて死ぬ思いをした。俺は兄貴で、ラグニス家の次期当主だ。弟のご機嫌伺いはしない。だから謝らない。暴力を肯定すれば、あいつは本当に天罰の化身になる。殺戮者になるのは、俺が止める」

 理力を恐れて逃げるのではなく、力を持つ弟として受け入れ、共に育つ選択をローレンスはしたのだ。誰かが、そうしなくてはならないと思ったのだろう。そして、その誰かに自分がなると決めたのだ。

「上手くコントロールしてやろうなんて、大それた事は思わなかった。ただ、俺が止めないと、誰も止められないって事だけは直感で分かった」

 実際に目の当たりにして、あれをコントロールすると言う発想は出来ない。レイチェルも納得する。

 ローレンスは、理力を恐れず、普通に暮らしていける様に、ジークフリートに生き方を教えたのだ。殺されかけた相手に気安く接し、強い言葉を投げつけると言うのは、真っ当な精神では出来ない。シールダーから受け継いだ魂と言うのは、想像以上に特殊なのかも知れない。ジークフリートの本質をきちんと理解できるのは、ローレンスだけなのだろう。

「まぁ、そう言う事情だから、理力持ちには、理解者が側に居る必要がある。ルイーザしか適任者が居ない。納得して欲しい」

 ローレンスの言葉には、友達を付き人にしてしまう罪悪感があった。ジークフリートの言う通り、根の優しい人だ。そして、とても心の強い人なのだ。レイチェルはただ、頷くしかなかった。

 昨日の理力の騒ぎも、結局全部被ったのはローレンスだ。もっと違う言い分もあっただろうに、弟のしでかした事の責任だから、兄として責任を取って見せているのだ。ジークフリートの良心に訴えかけているのだ。……人としての生き方を忘れないように。

 そこへルークが入って来て、食事に呼ばれた。

 食事は、ちゃんと四人分用意されていて、ルークも着席した。てっきりご奉仕に徹するのかと思ったが、ローレンスの世話はしたくないらしい。

 横着をして、法術で飲物をサーブしている。……面白過ぎる程の豹変ぶりだった。レイチェルの顔を見て、ルークは苦笑した。

「奉仕は、お金の取れる相手と雰囲気が大事な時にしか、しないよ。今、僕が奉仕すると、レイチェルもルイーザも緊張するだろうし、この人には奉仕したくない」

「お前、今、俺の付き人!」

「期間限定です。コーネルよりも重宝して手放さない……なんて事にならない様にしないといけませんので」

「無いから!同じマギの俺とお前じゃ、一緒に居ても変化無いわ」

 いやいや、ラグニス本家の嫡男と何でもできる執事って、絶対に誰も勝てない。魔王ジークフリート以外。

 ルークは無視して食事を続ける。ローレンスも不機嫌なまま食事をする。……結局、仲が悪い様で息が合っていると思う。二人にとっては、これが普通なのだろう。さすがに使用人なので、ルークは、ジークフリートとローレンスには、敬語を使うらしい。

「それで、話はどこまで進みましたか?」

「ルイーザを付き人にするって所まで」

 それを聞いて、ルークがレイチェルを見た。

「頼みがあるんだ。たまに、この人の相手をしてくれない?」

「へ?相手って、何のですか?」

「話でも、何でも。生憎、医者として君の事を調べられる者が、ローレンス様しか居ない」

「ジーク様は、あくまでも歴史や宗教史の学者で、医学は専門外だ。だから、まずは専門家に診てもらうって事で話を進めた」

 確かに、それは正しい。しかし、何だかジークフリートは納得していない気がする。

 ローレンスがニヤニヤして言った。

「あいつ、想像以上に手が早かった。レイチェルの体を調べるのになんて、立ち会わせられない。俺は医者だし、紳士だから安心しろ」

 手が早い……。レイチェルは、昨日の事を思い出して俯いた。明らかに知られている気がする。いや、知っている!

「これ以上のジーク様のお触りは、あらゆる観点から阻止する必要があると判断した。レイチェルも、流されない様に気を付けて」

 ルークに真剣にそう言われて、昨日のあれは、何だか普通じゃなかったのだと思う。

 恥ずかしかったが、何故そこまで言われるのか分からない。実際にレイチェルの苗字はラグニスに変わっていて、戸籍上も夫婦だ。首をひねっていると、ローレンスが言った。

「冷静に考えろ。指導教官が、夜道で指導している学生に、わいせつな事をしたんだ。これからも繰り返してみろ。夫婦だと言っても、年が離れているし、立場が立場だ。あいつは間違いなく折れない。だから、学府と決裂するのは目に見えている。……あいつを今、放校にする訳にはいかん。どうなるか分かるだろう」

 きっと半天教は壊滅する。そして、放校された元助教授は立派な殺戮者だ。ブラックリストに相応しい働きをする事だろう。

 レイチェルは身震いして、こくこくと頷いた。

「そう言う訳で、俺としてもやる以上は全力で診察させてもらう。レイチェル、よろしく頼む。ルイーザも付き添わせるし、ルークも居る予定だから、気長にやろう」

 ルークが笑顔で言った。

「ローレンス様は、とにかく知りたがりの研究馬鹿だから、しつこく質問されるかも知れないけど、付き合ってね。やばいと思ったら、僕とルイーザが止めるよ」

 ちょっと嫌だな、と思ったけれど、仕方ない。確かに自分には理力がある。その事に向き合うべきなのだろう。

 今日はそれ以上の話は無く、食事が済むと帰る事になった。

 その後、ルークとルイーザに送られて部屋に戻った。ルイーザはルークに手を取られて、送られて行った。ルイーザの顔が赤かった。可愛いが心配だ。

『奉仕は金の取れる相手か雰囲気が大事な時にしか……』

 ルークのさらりと言った事を思い出す。雰囲気が大事って、女の子を落とす時の事だろうか?レイチェルは、あんな丁寧な対応をされた事が無い。……だとしたら、ルイーザは、ルークに思い切り口説かれている気がする。いいの?

 そう言えば、ルークってもうすぐ三十だった筈だが……。十七歳の女の子って、いきなり口説くには、年が離れ過ぎている気がするのですが!ルークは、ルイーザに出会った途端に口説いていた気がする。前から知っていたと言う訳でも無さそうだった。一体、あれは何なのだろう?……ルイーザはそれなりに男性をかわす方法を知っているのに、ルークの事は全くかわせていないのも気になる。

 あれは……何?

 レイチェルは、ぼんやりとそんな疑問を持ちながら、日々を過ごした。

 ローレンスに呼ばれるのは大抵、ルイーザに呼ばれて部屋に行ったとして処理されている。ジークフリートは知っている様子だが、何か言って来る気配はない。静観している様子だ。

 ローレンスに呼ばれる様になって、ルイーザとルークの関係の謎をぶつけてみる事にした。ルークもルイーザもたまたま居ない時があったのだ。……いや、意図的に席を外す様になったのだ。まるで、レイチェルをローレンスに慣らそうとしている様だった。

「歴史宗教学専攻なら知ってるだろう。多分聖婚ってやつだ」

 一目見ただけで分かると言われる、運命の相手。神に祝福されていて、幸せになれるとか。都市伝説みたいになっていて、女の子向けの雑誌の表紙を飾る程度の言葉だと思っていた。

「本当に、あるんですか?」

「ある。……歴史的にデータが存在する。肉体的な男女経験が無いと、魂の相性に敏感で、初対面で無意識に自分と合うと感じ取ってしまう。それを聖婚としている」

「神様、関係ないじゃないですか。……何で神様に祝福されているとか、長生きできるとか、別れないなんて伝説があるんでしょう?」

「地上にある人の魂には、種族に関係無く、相性の良い相手との間に癒着が生まれる性質がある。縁づくと言うのか?縁が続くんだよ。現に、レイチェルとルイーザは魂の相性が良かったんだ。この性質は、性別も肉体関係の有無も関係なく働く普通の癒着だ」

 分野が違うので知らないが、面白い話だ。レイチェルは講義の様に聞く体制に入った。

「聖婚の場合、一目で相手と離れて生きる事を拒むほどの強い癒着性が生まれる。魂を支配し、感情も支配する。その癒着性は神が、聖勇者を産む為に作り上げた仕組みだと言う説があって、実証する現象がある。欠けた聖勇者の成人女性を前にした時に起こる、シールダーの覚醒だ」

 アーサーとレイシアを一瞬思い出す。

「獣の聖勇者と言われるマギやシーカーの力と違い、鳥の聖勇者の力である理力は、魂と直結している。聖婚相手に出会った際、魂の共鳴現象で、理力が暴発を起こすなんて、誰も想像しなかっただろうな」

 最初の覚醒が起こってから、何度も覚醒は起こった。ラグニス家では、度々シールダーと欠けた聖勇者の女性を引き合わせていたのだ。時が満ちて、運命の時が来ていても分からなかったからだ。……当主達は試したかったのだ。成人を待って会わせれば良いものを、翼が生えていないシールダーを欠けた聖勇者と会わせていたのだ。シールダーの成人の定義を理解していなかったのが原因だ。

 覚醒が続き、欠けた聖勇者の保護をしていたラグニスの分家は、本家を危険視する様になった。すっかり本家と縁を切り、欠けた聖勇者と共に姿を消した。二百年以上前だと言う。シールダーの成人は人と違うのだと突き止め、欠けた聖勇者を探した時には、もう跡形も無く、ラグニスの分家も欠けた聖勇者も見失っていた。

「シールダーの扱いも酷かったし、欠けた聖勇者の女性が目の前で聖婚相手に死なれて廃人状態になっても、本家は何もしなかったんだから、そりゃ怒るよな。始祖フランの計画は、甘かったんだよ。皆が皆、フランみたいな賢者じゃないのに、千年は長過ぎだ」

「姉とアーサーは、死ぬときまで、笑顔でしたよ……。死ぬのさえ一緒なら怖くないと言う様に、笑っていました」

 ローレンスには、それが異常に思えたのだろう。複雑な表情をした後、苦笑した。

「アーサーが幸せに死ねたのは、兄として嬉しいが……俺は聖婚なんてごめんだね」

 寂しそうにぽつんと言うローレンスが孤独に思えて、何となく立ち上がり、彼の頭を撫でていた。

「な!」

 ローレンスが驚いてレイチェルを見ている。

「あ、すいません。つい」

「触ったな?」

 驚きの顔が、ニヤリと嫌な感じの笑顔に変化する。

「この時を待っていたぞ!レイチェル~。逃げるなよ~」

 地獄の底から響く様な、それでいて嬉しそうな声。がっしりと握られた手首。選択を誤ったと思ったが、もう遅かった。

「ひっ!」

「法術をなめるなよ!どんな理不尽な力でも、解析してみせる!マギのプライドにかけて、理力を解析し尽くしてやる!」

 レイチェルにではなく、レイチェルの持つ力に宣戦布告している。ローレンスを止める者がここには居ない。血の引いて行くのを感じていると、ローレンスもそれに気付いたのか、冷静な表情で手を離した。

「痛い事も怖い事もしない。だから、深呼吸して落ち着け」

 ローレンスも深呼吸を始める。それに倣って深呼吸すると、落ち着いて来る。ローレンスは何もしてこない。この人は悪い人ではない。ジークフリートとアーサーの兄で、信頼できる人だ。レイチェルはそう心に言い聞かせて落ち着くと、ローレンスを見た。

 ローレンスは様子を見つつ、両手を上に向けて机の上に置いた。

「手を重ねろ」

 怖い。ローレンスが死んだら嫌だ。

 するとローレンスが法術を唱える。……髪の毛が金髪からこげ茶色に変化する。そして、眼鏡を外して胸ポケットにしまった。

「心配なら、ジークだと思え。あいつなら平気だろう?」

 似ている。ジークに良く似ているが、やっぱりローレンスだ。レイチェルは見間違いはしない。……レイチェルにとって、ジークだけは、絶対に他の人と違う存在なのだ。けれど、ここまでしてくれた事で、緊張が解れたのは事実だ。

 レイチェルは勇気を出して、ローレンスの手に手を重ねた。……痛くない事にほっとする。自分が痛くない場合には、相手に害を加えていない。とレイチェルは結論付けていた。事実、その話は既にローレンスに詳しく話してある。

「うん。平気だな」

「痛くないですか?」

「痛くない」

 レイチェルがほっとして笑うと、ローレンスは言った。

「ちょっと記憶をもらいたい」

「もらうって、私の記憶はどうなるんですか?」

「どうもならない。安心しろ」

 ローレンスは説明を始めた。

「学術的に言うと、法術による体感記憶の再現と言う。記憶と共に、五感を法術で刺激して、見聞きした事を思い出してもらう。これは被術者の持つ物だから、勝手に奪う事は禁止されている。法術を使用したマギは、許可を得てそのコピーをもらう。これが手順だ。危険な法術じゃないし、プライベートは確実に守れる。嫌だと言う体感記憶は絶対に、もらわない」

 ローレンスは有言実行の人だ。言った事は守る。それは何度も会う内に分かってきている。だから、レイチェルは頷いた。

「分かりました」

「最初はそうだな……。この前、俺と初めて会った時のジークの様子からだな」

「私は、どうすればいいですか?」

「リラックスしていてくれればいい。今回の場合、正確に日時を俺も覚えているし、俺だけでちゃんと引き出せる体感記憶だから」

「分かりました」

 ローレンスが長い法術を呟き始めた。輝く七色の文字がローレンスの口からこぼれ出るのが見えた。七色の文字は、フワフワと漂って、手首を這って、体を上り、頭の中に入って行く。

 嫌な感じはしない。しかし不思議と頭の中にローレンスと言い争っているジークフリートの姿が浮かび始めた。

「記憶が見えているか?」

「はい。ローレンスとジークが言い争っています」

 体感と言う程の感覚は無い。ただ、視覚的に眺めていた記憶だけだ。

「今の部分を、もらっていいか?」

「はい」

 返事をすると、頭の中から、法術がするりと抜けて行き、ローレンスに戻って行った。ローレンスは目を閉じて体感記憶を確認している。

「うん。十分だな。……よし、俺は理力が見たい。翼が実体化した所からの体感追記をもらっていいか?」

「あまり後まで再生しないなら」

 二人きりになった後の記憶はちょっと覗かれたくない。

「俺が吹っ飛んで、翼をひっこめるまでの分だけだ」

「それなら構いません」

「さっきよりも、五感も刺激するから、驚くかも知れないが……手は放すなよ。途中で放すと、法術が返ってこないから」

「え?さっきの記憶で試してからにしてくださいよ!」

 五感は、さっきの法術では全然刺激されていなかったらしい。

「一緒だよ……さっきの言い争いで分かるのなんて、紅茶とコーヒーの匂い位だろう。後はルイーザの胸の感触か?……ルークに殺されそうだからやめておく」

 体感記憶と言うのは、そう言う物であるらしい。

「ちょっと怖かったよな?でもルイーザ庇って頑張ったんだから、踏ん張ってあの時の事、思い出せよ?大事な事だ。理力はマギには関知出来ない。シーカーにも殆ど見えない。お前の記憶が世界で初めての理力の体感記憶になる」

 いい笑顔でそう言われては、頑張るしかない。

「分かりました。頑張ります」

「じゃあ行くぞ」

 七色の文字が、さっきよりも長く流れ出し、レイチェルの頭の中に流れ込んできた。

 そう……噴き出す感じ。まるで蒸気が一気に噴出するみたいだった。皆はあれを直に被った。ルイーザだけは守りたくて、抱きしめたんだ。ローレンスには、あの蒸気みたいなものを塊にしてジークが投げつけていたのだ。意思の力でそうしたのだろう。固まった何かが見えたのは確かだ。それでローレンスは吹っ飛び、レイチェルは茫然とそれを見ていたのだ。翼が物理法則を無視しているにも関わらず、人の体の一部である事に驚き、大きな力が翼から排出されているのを眺めていた。消える様に無くなると、力も消えた。

「もらうぞ?」

 レイチェルは頷き、頭から虹色の文字がローレンス目がけて戻って行く。

 暫く沈黙して目を閉じていたローレンスは、握っていたレイチェルの手を離すと、目頭を揉んでぐったりと倒れ込んだ。

「大丈夫ですか?」

 返事が無い。頭の髪の毛が金色に戻って行く。

「ローレンス?」

 何か問題でもあったのかと思って心配していると、低い笑い声が聞こえた。

「見えた!翼!すげぇな」

 ガバ!っと顔を上げたローレンスが嬉しそうに叫ぶ。

「え?見えないんですか?」

「見えないと言った筈だ。シールダーの翼が視覚的に確認できる瞬間は羽化だけだ。あいつは一人で居る時に羽化しやがったから、誰も見ていない!」

「羽化……」

 ローレンスが興奮して話す。

「そうだよ。何で過去、覚醒を繰り返していたと思う?シールダーの羽化を誰も知らなかったからだ。羽化した後、成人したシールダーは翼を隠す。そりゃ、あれだけの理力をずっと放出し続ければ、死ぬからな。隠して理力も最低限に抑える。それが成人の証だ。翼を実体化しても最初の一回を逃すと、マギにもシーカーにも見えない。アストラル体だから見えない」

「アストラル体?」

 何だか聞いた事があるが、あまり知らない言葉だ。魂の様に見えないけれど、確かに存在する物体を指して言う言葉だった筈だ。

「お前は同族だから見えて当たり前なの。俺はずっとどうなっているのか分からなかった。……凄いなぁ。理力。俺、暫く、この体感記憶だけで生きて行ける。論文三つ位書けそう」

 レイチェルは思わず疑問を口にしていた。異質な存在を前にして、よくそんな風に言える。

「怖いとか思わないんですか?」

 ん?と言う顔をしてから、ローレンスは何を言っていると言う様に答えた。

「怖いに決まっている。俺は、あいつに何度ボコられたと思っているんだ。死にかけたし、全敗だぞ?」

「じゃあ、何で……」

「怖いのは、分からないからだ。知る事で恐怖は克服できる」

 レイチェルは、唖然としてローレンスを見た。……知れば、怖くない?

「訳の分からない物は、分からないままにしておくから怖いままなんだ。半天教がそのいい例だ。あいつらは恐れない。何故なら、聖勇者と人間と悪魔の特性を知り尽くしているからだ」

「学府やエルハントマネジメントよりも、ですか?」

「暇さえあれば、非人道的な事をやっている連中だからな。俺達にはあの非道は真似できない。人体を調べるなら、生体実験が一番手っ取り早い。しかし、被験者が人の場合、倫理が邪魔をする。当たり前だが、それが俺にはもどかしい」

「被験者は、辛いんですよ?」

 レイチェルの言葉に、ローレンスが気まずそうに頭をくしゃっと撫でた。

「許せ。失言だった」

「はい……」

「俺は理力の謎を必ず解き明かし、貫通する法術を作り出し、ジークに一撃お見舞いする予定だ。お前も夫婦喧嘩したら頼れる様に、俺の研究に協力しろ」

 すると、そこで扉が開いた。

 笑顔で扉を蹴っているジークフリートが、ポケットに手を突っ込んで立っていた。背後には、案内してきたルークとルイーザが、気まずそうに顔を俯かせていた。

「何、良い雰囲気になってるの?腐れてみる?」

「違う!これは、お前に一撃入れる為の研究であって……」

 焦ってローレンスがレイチェルを見る。助けろと言う心の声が聞こえた。

「ジーク、本当に今日初めて体感記録を渡せたくらいで、何もありませんよ」

 レイチェルの答えに、ジークフリートの片眉が笑顔のままピクっと上がる。

「体感記憶って、レイチェルに触ったの?最近、こそこそしているなぁとは思っていたけれど、ふぅん……」

 誰もジークフリートに言い返せない。笑っているのに、怖すぎる。

「ルーク、ルイーザ、これどういう事?」

「申し訳ありません」

 二人の声がシンクロする。仕方ない。言い訳はできないのだから。

 ローレンスが真っ青になっている。目が泳いでいるし、汗が額に噴きだしている。怖いと言うのは本当なのだろう。ローレンスはそんなに怖いのに、謝らないつもりらしい。凄い精神力だと思うと同時に、よく今まで無事だったな、と思う。

 レイチェルは、ぐっと拳を握って言った。

「ジークが悪いんです!」

「何で僕が悪いの?」

 この上なく優しい声と笑顔で、ジークフリートはレイチェルを見た。しかし、殺気みたいなものが確かに存在していた。理力だろうか?レイチェルも怖かった。けれど、必死に自分を励まして怒鳴った。

 私は悪くない。皆も悪くない。悪いのはジーク。悪いのはジーク。

「外で、私にたくさんチューするからです!」

 レイチェルの言語能力は、学術的な方面に偏っている。恋バナなんてした事がない。だから、表現方法が稚拙でも、仕方ないのだ。

 全員が、呆けた様にレイチェルを見た。ジークフリートもぽかんとしている。

「誰に見られてもいいなんて、チューじゃありません!私は、チュー初めてだったのに、皆に知られていて、凄く恥ずかしかったです!」

 ジークフリートは相変わらず呆けている。

 肩で息をして、レイチェルはジークフリートを睨んで、ビシ!っと指さした。

「いくら結婚していると言っても、節度のあるお付き合いと言うのは必要です!ここは学府です。私は入ったばかりなのに、放校になんかなりたくありません!どれだけ苦労してここに入ったと思っているんですか!」

「レイチェル……そんなに嫌だったの?」

 ジークフリートの表情が悲壮なものに変わっていく。

「そういう問題ではありません!チューを人前でするのも、放校も私は嫌です。私は怒っています。暫くは、ローレンスとルークとルイーザと仲良くして過ごします」

「え~、僕も入れてよ!」

 子供の遊びか!と言う、ルイーザの念話を心の中で聞きつつ、レイチェルは、ちらりとルークを見た。ジークフリートの背後のルークは、やれ!と言う感じで頷いた。だから、すぐに言った。

「だったら、いやらしい事はしないで下さい」

「何で?僕達、夫婦だよね?」

「放校になります。それは困ります」

「学府なんて、どうでもいいよ……」

 ジークフリートが、拗ねた表情になる。放校になっても、レイチェルが一緒なら平気だと言いたげな顔に、レイチェルはちょっとだけ、ほだされそうになるけれど、我慢する。

「お金に困った事の無い人の考え方です。放校になったら、あなたの著書は絶版です。お給料も入ってきません。ラグニス家のお世話になるつもりですか?」

 ジークフリートの顔が渋くなる。ちらりと、背後を見ると、ローレンスがニヤニヤしていた。

「あなたのお爺さんの跡を継ぐのは誰ですか?あなたは、その人のお世話になって、死ぬまで食わせてもらうつもりですか?私共々」

 ジークフリートの目が見開かれ、驚愕の表情になった後、本当に嫌そうに言った。

「それは、嫌だね……ちょっと、耐えられない」

 ローレンスの小さな笑い声が聞こえる。

「だったら、分かりますね?」

 皆が見守る中、凄く嫌そうに渋々、ジークフリートは頷いた。

 ローレンスの、如何にも愉快そうな笑い声が響く。

「勝ったぁ!ジークに初めて勝ったぁ!」

「あなたじゃないですけどね」

 ぼそっとルークが言うけれど、完全に無視している。レイチェルは、大きく息を吐くと、ジークフリートに歩み寄って、がっくりしているジークフリートを見上げた。

「一緒に、頑張りましょう」

 禁欲的な生活を了承したジークフリートは、ちょっと泣きそうな顔で言った。

「いつまで?」

「私の学生生活が終わるまで」

「後、三年以上あるよ?一緒に既婚者用の宿舎に住もうよ」

「嫌です。これはケジメです」

 にっこりとレイチェルが笑って言うと、ジークフリートは更に項垂れた。

 その日は、約束をしたと言う事で、レイチェルはジークフリートに送ってもらう事になった。

「いいですね、くれぐれも約束は守ってくださいね」

 ルイーザが念を押して、ルークと去って行く。聖婚同士だからだろうか?ルークには、ジークフリートの様な焦りを感じない。あまり年の変わらないジークフリートが子供の様になってしまうのは、複雑な気分だった。

「あのさ、全然自覚が無いみたいだから、言っておくけれど」

 ジークフリートが歩きながら、視線を前にしたまま言う。

「何でしょう?」

「シールダーは、異様な程に異性にもてる。フランの呪いだ。……ソルジャーの始祖にもそれは受け継がれているって分かってる?」

「そうですね。ジークはお誕生日に凄く一杯プレゼントもらっていましたよね……。あれ、ちょっと気にしていたんです」

 ため息が聞こえる。

「分かってない。レイチェル、君は何?」

 そこで、ようやく自分の事を言われていると気付く。

「半天教で君に粘着していた奴らは、腐れて死んだだろうけど……ローレンスはやめて。あれだけはダメ。腐れないし、ローレンスはああ見えてヘタレで草食系なんだ。……レイチェルを眺めながら未婚で死ぬとか、本当にやりかねないから」

「私の気が変わるとか、ローレンスが自分から動くとかは、考えないんですね」

「その時は、世界が終わる時だからどうでもいい」

 さらりと怖い事を言う……。レイチェルは、ジークフリートをちらりと見て言った。

「どうして、そんなにやきもち焼きなんですか?」

「そりゃ、好きだからだよ」

「ちょっと、酷過ぎます」

 ローレンスは普通だった。そこまで心配しなくてもいいのに。

「正直に言っていいよ。僕自身もちょっと、まずいなぁって思うから」

 二人は、レイチェルの部屋の前まで無言で歩いて行くと、レイチェルが部屋に入る前に、ぽつんと言った。

「気持ちは何処にも行きません。あなただけを想っていますから」

 レイチェルは慌てて部屋に入る。

「え?ちょっと!レイチェル!」

「おやすみなさい!」

 部屋の中から叫ぶと、暫くしてジークフリートが歩き去る気配が感じられた。……理力が温かい淡い光の様に感じられる。それが遠ざかっていく。

 魂が繋がっている。レイチェルは自分が理力を強く感じられる様になった事に気付く。

 少しだけ、強くなれた気がした。やっと気持ちを自分の言葉で伝えられて満足したレイチェルは、明日の講義の予習をする事にした。


 ローレンス・ラグニスは、酷く後悔していた。

 レイチェルは明らかに普通では無かった。そう、一見すれば、ぱっとしない女だ。正直女かどうかも疑う程の容姿だ。それなのに、一度、そのあどけない表情で柔らかい手に触れられたら、吸い込まれる様に唇に目が行った。……あれは迂闊に触れてはいいモノでは無かったのだ。

 自制心を保ちながらも、自分の法術が彼女の中に吸い込まれるだけで、ゾクゾクしていた。男の支配欲を掻き立てて、死ぬまで守る事を無意識に強要している。あれを殺すのは、男では絶対に無理だ。

 シールダーに抱かれた女が、他の男に満足しなくなって苦しむ事は、ラグニス家では当主しか知らない事だ。ルークも知らなかったのだろう。だから、親しくなって触れられるようになりたいと言ったら、あっさりと了承した。……とにかく、感覚を伴ったジークフリートの翼の体感記憶が欲しかったのだ。本当にそれ以外は頭に無かった。

 ジークフリートが、守るのに必死になるのも理解出来た。あれは、触れた男を全てをダメにする。とんでもない生き物だと身を持って知った。……ルイーザと聖婚しているらしいルークでも、触れたらどうなるか分からない。

 よく考えれば、ライラックの店長が、レイチェルを一目で気に入ってバイトにした時点で気付くべきだったのだ。……店長は諸事情があって、聖婚者と死別している。ハルクと呼ばれるのを嫌がるのも、聖婚相手を想い出すからだ。そんな関係でケーキ以外には心を閉ざしているのに、何故、レイチェルにだけ気安く応じるのか。考えてみるべきだったのだ。ヤモメには、触れなくても、レイチェルの能力が効果的に働いたのかも知れない。

 キィ……。

 静かに扉が開いて、ジークフリートが入って来た。

「僕は再三言ったよ。触るなって」

 そう。ジークフリートはずっと言っていた。嫉妬にかられて言っていると思っていただけで、聞き流していたが、決してそうでは無かったのだ。

 扉を閉めて机に腰かけて、椅子に座るローレンスを見下ろす。

「ロー、レイチェルはダメだよ?」

「分かっている!」

 結局、負けた。自分の方がずっと世間を知っていて、常識も知識も上回っているのに、また負けた。この男はいつも勝つ。だから信頼しているし、一緒に居ようと思ってきたが、今回は酷い惨敗だった。

「何だよ。これ。酷いだろう……」

 ローレンスが頭を抱えると、ジークフリートが静かに言った。

「フランの呪い。僕らの始祖の呪いだよ。千年間、これでどれだけの人が苦しんだと思っているの?」

 シールダーは男ばかりだった。そして当主も男ばかりだった。……だから、気づかなかった。女で当主を継ぐ事になったパメラは、父であるトニーの虜になった。愚かな恋では無く、必然だったのだ。こんなに強制力の強い力には抗いきれない。

 既に弟と婚姻関係にあるレイチェルに、全てを捧げそうな程に傾いている。自分でも理解できない感情だった。

「ローが聖婚相手を見つければいい」

「俺に聖婚が出来るとでも?」

 マギでありながらシールダーにかけられたフランの呪いを持つ兄が、自分にも異性を魅了する特性がある事に気付いて、女性を近づけないのは知っている。年齢も性格も容姿も無関係に女と言うだけで引き付けてしまうのは、幼い頃の恐怖体験だったらしい。

 閉じ込められてそういう状態から守られていたジークフリートとは違い、跡継ぎとして世間に出る苦痛は計り知れない。

「いらねぇ。俺は、そう言うの、ごめんだ」

 自分の意思なのに、捻じ曲げられる気持ちの悪さと、従えば楽になると言う甘い感覚。ローレンスは悪夢を見ている様だった。他の女を抱ける気がしない。しかし、レイチェルを欲望のままに抱けば、世界も滅びるし自分も死ぬ。弟の手によって。

「俺はそんなに悪い事をしたのか?お前の嫁だとちゃんと認識して触れたのに……何で」

「羽化してないからだよ。理力が調整できないから、無意識に自分を守る方にばかり理力が働いている。このままじゃ、レイチェルを取り合って男が滅びる」

「酷い種族だな。ソルジャーは、生まれない方がいいんじゃないか?」

 ローレンスが言うと、ジークフリートはローレンスの額を軽く弾く。

「しっかりしろよ。フランの呪いは、ソルジャーの誕生で終わる。期間限定のものだ。忘れたのか?全ての呪いを終わらせるのは、ソルジャーの誕生だ」

 少し痛む額を片手で押えつつ、ジークフリートを見て、ローレンスははっとする。それから、絶望した様に言う。

「……しかし、彼女には、子供が産めない」

「ああ、見えないのか。彼女の体は何処も欠けていないよ?」

 ローレンスは驚いてジークフリートを見た。ジークフリートは、ローレンスを見て笑った。

「治した」

「どうやって……」

 ローレンスがそう言ってからがばっと立ち上がり、ジークフリートに一気に顔を寄せる。

「チューか!」

「そう。チュー」

 真面目な顔をして三十歳近い上に、百九十センチもある男同士の会話としては間抜けだが、二人共、至って真面目だった。

「あの子の理力は、僕の理力を拒まなかった。だから、極限まで再生力を高めている理力を共鳴させて、子宮を再生した」

「そんな、滅茶苦茶な……」

「出来るんだよ。全く何も無い場所からの再生は無理でも、残っていれば元に戻る」

「残る?」

 ローレンスの言葉にジークフリートは忌々しそうに告げた。

「誰か知らないが、外科手術が出来ないから、股の間から子宮を掻き出したんだ。麻酔が切れた後も、かなり痛かったろうに。体内に少し残っていたよ。……僕は、それを元に戻した」

「本当に無いと聞いていた」

「月経が無かったし、股の間から調べたら、確かに無いだろうね。ところで、調べた人達はどうなったか、爺ちゃんに聞いた?」

「いいや……聞いていない」

「女性の医者なら腐れないで長く調べられたんじゃないかな。……男はダメだったろうね。体が腐れなくても、心が腐れただろうね。今のローレンスみたいに」

 検査によって、被害者が出たと、ジークフリートは言っているのだ。……出ない方がおかしい。ローレンスもそう思う。

 だから女性のシーカーが、ケアスタッフとして派遣されていたのだ。それも失敗した。そうして、レイチェルは学府に来た。ガーラントは手に余るレイチェルの事もジークフリートの事も、ローレンスに丸投げしたのだ。後々、こうなる事を分かった上で、全てを秘匿して。

 孫が、レイチェルの理力で腐れるか、惑わされて死ぬかも知れないのに。

 クソ爺、くたばれ……。ローレンスは心の中でガーラントを罵る。それを知っていれば、ローレンスは迂闊に触れたりはしなかった。しかし、それを知っていれば、ジークフリートに黙っていられなかった。この事実を言えば、ジークフリートは学府から飛び去り、ガーラントを殺していた筈だ。そうなれば……多分、この世の終わりだった訳で。

「色々とあり得ないな。レイチェルに対する仕打ちもだが、仮にも俺もジークも孫だろうに、何も知らせないで、俺がジークへの対応を間違えていたらどうするつもりだったんだ!知らない内に、救世主だぞ。俺」

「まだ早いよ。兄さん。救世主になるなら、レイチェルの理力がまとわりついている状態を何とかしないとね。跳ね返せないだろう?」

「お前だって、あの子の虜の癖に」

 魔王の様な笑みで弟は告げる。

「僕は魂の契約者で同じ始祖だ。レイチェルの能力は僕には通じない。僕の力もあの子には通じない。単なる聖婚だから。その辺は誤解しないでね」

「分かってる!」

 二人を見たから。どちらも、お互い以外、一切異性に興味が無い。聖婚の特徴だ。誘蛾灯のみたいな自分に寄って来る女共とは、あんな関係は築けない。自分の相手がレイチェルだったなら……と思って頭を振る。自分がレイチェルと言う誘蛾灯に引き寄せられた蛾だ。レイチェルが弟と契約して得た力に当てられたなんて。とんだ大失敗だ。

「ところで……のぞき見していたのは、コーネルでしょ?確かに欲望が無かったと言えば嘘になる。けれど、理力を親和させて流し込む為って目的だったの。レイチェルは、理力の使い過ぎで立てなくなっただけ」

 コーネルは、普段は女性に強引な事をしないジークフリートのとんでもない行動を目の当りにして、驚いて報告してきたのだ。カミカミの報告だった。ローレンスはため息を吐きながら言った。

「凄くエロかったらしいが……」

「エロいんじゃなくて、必死だったの!レイチェルの中に、子宮の欠片を見つけた時、外だってすっかり忘れて、思わず理力注いじゃったんだよ」

 それはそうだろう。滅茶苦茶にされた大切な女が、元に戻せるとなれば、誰だって必死になる。

「それで、レイチェルは本当に元に戻ったのか?」

「僕の理力はそう感じているよ。レイチェルは、羽化していないから、とても不安定なんだ。調べたくても、我慢して。あまり刺激を与えないで欲しいから」

 ジークフリートの言葉は聞いておくべきだ。ローレンスは素直に頷いた。

「僕もレイチェルの体感記憶は欲しい。今度から、コピーして僕にも寄越して。僕から見たレイチェルの体感記憶もあげるから」

「分かったよ……何でもするから、これ、どうにかしてくれ。マジで辛い」

 今の話の間も、レイチェルの事が、気になり過ぎて、頭が変になりそうなのだ。好きと言う気持ちではなく、本能を頭から足で踏みつけられる様な圧倒的な力だ。違うと思うのに、どうにもならない。会いたい、抱きしめたい……。ローレンスは頭をまた抱えた。

「レイチェルが羽化するか、僕の子供を産めばいい」

 羽化?そんなのいつか分からない。子供?確か、禁欲を宣言したばかりだった筈だ。最短で三年半程度だった筈だ。そこからスタートしたら最短でも四年を超える!

「無理!絶対に無理!俺がもたない。おかしくなる」

 泣きそうだった。そんなにずっとレイチェルを想い続けるなんて。しかもレイチェルは自分の方を見ようとしないのに、自分はずっと変わらずに想い続けるなんて、馬鹿げている。……しかも、早く魂を引き離さないと、癒着して対処しても手遅れになる。死ぬまでレイチェルの虜だ。それは……自分が世界を滅ぼしたくなりそうだ。

 ローレンスの様子に、ジークフリートが凄く嫌そうに提案した。

「はっきり言って、僕はこの方法は嫌だ。死ぬ程嫌だ。多分、お前も正気に戻ったら、死にたくなる」

「それでも、自分の嫁に兄貴が執着するよりいいだろう?」

 ローレンスの哀れな声に、ジークフリートはげっそりして答えた。

「この事は、絶対に死ぬまで喋らないでね。墓場まで持って行ってね。言ったら殺すよ?」

 ローレンス・ラグニスは、死ぬまでこの後の事を誰にも語らなかった。……弟に殺されるし、自分も死んでも言いたくなかったから。

 理力と言うのは、多く触れる事で耐性が付く。それは、相手の体や魂に、理力を残すからだ。理力には循環すると言う性質がある。別種族の体内に入ると、理力の排出器官である翼が無い為、そのまま残存し、循環するのだ。だから触れれば触れるだけ、耐性は増していく事になる。

 レイチェルの様に、体内で純度を上げてしまう前に、シールダーは攻撃性が高くなって、内にため込めない理力を羽化して放出してしまう。シールダーの羽化のキーは怒りで、感情をコントロールできるか否かにかかっている。暴発するのは、体が出来上がっていない内に、感情をコントロールできずに理力を放出して自滅するのが原因だ。と、ジークフリートは語った。ジークフリートは、レイチェルとの契約で魂を安定させていたので、怒りがキーにならずに、肉体の成熟が羽化のきっかけになった。

 レイチェルは攻撃性が低い。感情のコントロールがうますぎて、理力が小さくまとまってしまっている。その分、濃度が恐ろしく高いそうだ。再生能力と自己防衛に特化されていて、ジークフリートも驚く程特殊な理力だそうだ。……推定だが、触れた瞬間に流れる理力は、ジークフリートの理力の数十倍だそうだ。だから、長年側に居て得たジークフリートの理力の蓄積など、一瞬のふれあいで越えてしまったのだ。

 レイチェルの理力を越えるジークフリートの理力をローレンスの魂に与えるには……粘膜的な接触で、かなり時間がかかるとジークフリートは告げた。それは、あんまりな提案だったが、理力を流し込むのに上からがいいか、下からがいいか、真顔で聞かれた。

 相手は、嫁を守る為なら、人殺しも恐れない。嫁が守れるなら、上だろうが下だろうが、兄だろうが、やる気なのだ。ローレンスは全身を総毛立たせて、始祖フランを呪った。地獄の二択から一つを選んで、弟から理力を受け取るしかなかった。

 翌日。

 ジークフリートは、ずっとうがいをしていた。ローレンスは、謹慎中の助教授と言うのにふさわしい、やつれっぷりになった。

 二人共風邪を引いたと言うだけで、それ以上立ち入らせない。お陰で、ローレンスは、理力耐性が大幅に強化され、レイチェルに触れても惑わされないし、ジークフリートの理力をぶつけられても、吹っ飛ばされなくなるのだが……。真相は言えず、兄弟だから当たり前、で済ませるしかなかった。

 理力のちょっとした秘密は、誰にも語られないままになったのだった。

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