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恋するクラウン3  作者: 川崎 春
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レイチェルの過去

聖勇者……悪魔や人間の害意を断つ事の出来る種族の総称。

マギ……聖勇者の一種。法術と呼ばれる神聖術の使い手。悪魔や半魔の使う魔法とは別物で、脳内に法術の基礎と呼ばれる専用の器官が存在し、術式を脳内で計算して使用する。法術の基礎の無い者には、法術は使用できない。獣の尾を持つが、普段は隠している。

シーカー……聖勇者の一種。五感で悪魔や人、法術を感知する能力を持ち、身体能力が高い。念話と呼ばれるシーカー同士の脳内会話で情報を共有している。獣耳を持つが、普段は隠している。

人間……この世界に本来存在する知的生命体。全ての種族の基礎。

半天……千年前に存在していた、天使と人間の混合種。魂に内包していた天使の部分が欠けて、人としても生存が難しい存在と化した。

シールダー……始祖フランの法術によって生かされた半天の末裔。伝説の希少種と化している。魂は人間と変らず聖性を帯びていないので聖勇者では無い。

欠けた聖勇者……マギにもシーカーにも分化する前の、聖勇者の原型。成人が15歳で、二十歳までに結婚しないと肉体が衰えて死ぬと言われる短命種。現在、絶滅したとされている。

半天教……人間至上主義で、聖勇者を滅ぼし、再び天使が降臨する事を願う狂信者の集団。

 その日、レイチェル・リンドは、髪の毛を鷲掴みにされて、部屋の前の道に転がされた。

 数年、外に出ていなかった。ここに居る事を知られてはならない。姉に言われて、日中も息を潜めて過ごしていた。とうとう見つかったのだとそのとき悟った。

 外の事はずっと知らなかった。ここが何処なのかも、天気の事すらも。長い間雨が降っていなかったのか、土煙があがった。倒れて地面とこすれた所を擦りむいたけれど、痛いよりも、周囲の景色がよく見えない方が気になった。……姉を探していたのだ。必死だった。

 嫌な音がして、レイチェルは姉が転がるのを見た。姉は殆ど反応しなかった。痛そうに顔を歪めても、声を出さない。お腹を押さえてじっとしている。

 土煙が晴れると、周囲は大勢の人が取り囲んでいた。この場所が聖勇者専用の住居である事をレイチェルは入った時から知っていた。確かに、周囲の者達は皆、獣の耳やシッポがある。同じ人間では無かった。自分達姉妹は、明らかに浮いていた。しかし、彼らは姉妹をずっと黙認していたのだ。……今日に限って、何故?

 そして、ここで更に浮いた存在が居る事にようやく気付いた。さっき、レイチェルの髪の毛を鷲掴みにして引っ張り出した男と、姉を蹴った男だ。……護衛上半身に鎧を纏った護衛も居るが、二人は非常に目立つ。男なのに、長すぎる不思議な服を着ている。しかも、額に紐で括りつけられている大きな宝石も気味が悪かった。目玉みたいな形をしていたのだ。赤い宝石の男と、黄色い宝石の男が居るが、顔は何故か黒くて良く見えない。

 聖勇者の力は、悪魔など、魔を滅する力だ。人を直接斬っても、その肉体を斬る事が出来ない。人間は魔を滅する力が無い代わりに、聖勇者を肉体的に打ちのめす事が可能だ。

 この場で最強なのは人間で、聖勇者は何も出来ない事は幼いレイチェルにも分かった。

「やめてくれ!その人を殺さないで!」

 誰かの悲痛な声が聞こえる。その声は少年から発せられていて、顔は涙でぐちゃぐちゃで、首には革の首輪を巻かれて鎖でつながれていた。上半身は裸で傷だらけだった。これもまた異様だった。護衛の男が数人で引っ張っているけれど、鎖がピンと張っている。

「何が聖勇者だ。蛆虫の様に湧く愚か者め。どれだけ罪深いのか」

 赤い宝石の男の、姉を見る目が怖い。姉はもう死ぬのを待つばかりだった。このままでは、本当に死んでしまう。

 レイチェルが石を掴むと、姉は反応してそれを止めた。

「……ダメよ……いい子にしていて。ね?」

「妹がいたとは」

 黄色い宝石の男が舌打ちをして、続く言葉に、姉は顔をあげた。

「ホールの中において来い」

 ホールとは、魔物の湧く魔界との通路の事だ。魔物は、聖勇者が戦う事で、地上に出て来ない様に止められている。そんな場所に幼い女の子を置き去りにするなど、助かる訳がない。

「やめて……いや、いや……」

「やめろぉ!」

 少年の叫び声もする。

「この死に損ないも一緒においてくればいい」

 名案とばかりに言い放つ声が嬉々としている。

「しかし、人間の我々では無理です」

 ためらう護衛の声に、赤い宝石の男が笑いながら言った。

「傭兵団の誰かにやらせればいい。なぁ、お前達、金は欲しいだろう?」

 傭兵団に所属する、聖勇者達は、この様子を見ていた。その人間の男の頭上に浮かぶ、霧を漂わせる真黒なクラウンを、その場の全ての聖勇者が見ていた。

 死にかけている姉と幼い妹に注がれる真っ黒な悪意に、聖勇者達は眉根を寄せた。彼らは悪意に敏感だ。とても気分が悪くて見ていられないと言う様に顔を逸らす者も居た。

「誰かやれよ。あ?」

 護衛の一人が鞭を振り上げる。聖勇者達は青くなってその場から退く。

 人間には敵わない。だって、聖勇者は人間に傷一つ付けられないのだから。かつてあったとされる、悪意をそのまま反射して返すと言う能力は、マギとシーカーと欠けた聖勇者に分化した時点で消えてしまったのだ。一方、人間は聖勇者に暴力を振るい放題なのだ。悪魔には全くの無力なのに……。まるで、三すくみの様な関係がこの世界には形成されている。

 魔は人間より強く、人間は聖勇者より強く、聖勇者は魔より強い。神の定めではあるが、魔は魔界に住み、人間と聖勇者の共通の敵である。地上では当然この力の差によって、差別が発生していた。……人間は高い能力を持つ聖勇者を、下僕として扱う事を覚えたのだ。

「誰かやれよ!この女、今すぐ殺すぞ」

「殺さないで!」

 そう言ってレイチェルが姉の前に立ちはだかると、二人の男はにやりと笑った。

「じゃあ、お前が姉をホールに連れて行け」

 赤い宝石の男が命令する。

「……ほーる?」

「もう少し先に地下に通じる大きな穴が開いている。そこへ、姉と一緒に入れ」

 黄色い宝石の男は親切のつもりなのか、そう言った。

「そうすれば、お姉ちゃんを殺さない?」

 男達の顔が、歪んだ気がした。笑みだったらしい。……気持ち悪い。

「約束しよう」

 どっちの言葉か分からないが、レイチェルは姉を引きずって、ホールの方向へ歩き始めた。ここに居ては、姉も自分も死んでしまう。そう思ったから必死だった。

「お姉ちゃん、頑張って」

 姉は声も無く涙を流してフラフラと起き上がり、レイチェルの肩を借りて歩く。

「ほーるに行けば死なずに済むから」

 レイチェルは姉を励ます。周囲の目は、手伝う訳にもいかず、だけれど目を離す事も出来ず、ただただ二人を見ていた。

 ふらふらと歩く二人の背後から、男達の如何にも楽しそうな笑い声が聞こえる。

「笑うなぁぁぁぁぁ!」

 背後で、鎖の音と傷だらけの少年の絶叫が聞こえる。

 そして、鎖の切れる音がした。

「暴れだしたぞ!まずい!」

 声が聞こえた。さっきまで笑っていた男の声が怯えに変わる。男達は鎖の音と共に悲鳴を上げている。少年が男達を襲っているらしい。周囲の聖勇者達も逃げ出し、辺りは一気に静かになった。

 少年がジャラジャラと鎖を引きずって歩いて来る。

「アーサー……」

 姉がそう呟き、少年はレイチェルからひったくるように姉を抱きしめると、そのまま泣き出した。

「ごめん。本当にごめん」

 姉は首をゆるゆると横に振っている。レイチェルは姉を抱きしめる少年の背中をぽかんと見ていた。痛々しい背中だった。血が流れ、大きな怪我をしていた。この人も死ぬのかもしれない。ぼんやりとそんな事を思った。

「ほーるに、いこう?」

 死なせたくなくて、そう誘うと、二人はレイチェルを見て、とても優しく笑った。それは、死ぬかも知れない人の笑顔では無かった。だから、安心した。

 しかし二人は、目の前で倒れた。二人を飛んできた何かが凄い勢いで貫いたのだ。焦げ臭い匂いと轟音に、レイチェルは思わずしゃがみこんだ。

 血にまみれ真黒なモノがこちらに向かって叫んでいた。

「化け物が、人間に盾つくな!」

 とにかく二人が倒れ、自分だけが残った事は分かった。

 黒いものが、こちらに何かを向けているらしいのは分かったけれど、よく見えない。そして、動けない。

 レイチェルは、何も考えられず、ただ黒いものを見ていた。

「約束だ!受け取れ」

 少年の声がした。

『確かに、受け取った』

 誰かの声がした。

 同時にレイチェルは、一瞬目の前が真っ黒になり、明るい芝生の庭に立っていた。あまりの眩さに目が眩む。……レイチェルは気を失った。


 それが……十二年前、レイチェルがまだ八歳の頃に起こった事だった。

 レイチェルが次に目を覚ましたのは、全く別の場所で、少年も姉も、まるで居なかったように扱われていた。世話をしてくれていた人に、姉や少年の事を言ってもはぐらかされた。そして、言うと拘束されるようになった。

 毎日、与えられなかった食事を与えられ、ただ静かに過ごした。

 どのくらい後になってからか、病院に入れられている事が分かってきた。病院と言っても、体調を整える病院ではなく、精神的に異常のある人の為の病院である事も知った。だから、レイチェルは、あの日の事を一切口にしなくなった。

 病院にある裏庭のベンチで、レイチェルは男性と並んで座っていた。

「レイチェル、具合はどう?」

 綺麗な男性は、指先でくるくると一輪の花をもてあそびながら、笑みを崩さないでレイチェルに尋ねる。

「とてもいいです」

「花には寿命がある。そう、花の寿命は短い。私は、それをとても残念に思うんだよ。僕は、君を長生きさせたい。その為には、努力を惜しまないつもりだよ」

「先生。嬉しいです」

 レイチェルは頬を染めて、『先生』を見つめた。

「じゃあ、答えは分かっているよね?私は、愚図は嫌いだよ?」

「でも……」

 先生の望む答えは、私の望む答えじゃない。レイチェルは言葉を飲み込んだ。『先生』の手の中で花がぐしゃっと握りつぶされるのを見たからだ。もう、『先生』は、否定を許してくれない。

「私……ここを出たいです」

「そうだね。君はいい子だ。好きだよ。レイチェル」

 嘘でもいい。もっと言って。私もその言葉を返すから。

「私も、先生が大好きです」

 『先生』の手が伸びて来て、レイチェルの頬に触れる。温かい感触はなく、ピリピリと少しだけ痛い。……でも、先生の為だから我慢する。

「……何故だ」

 苛立ちに満ちた声がした。

「先生?」

 答えは無い。ただ、空気がやたらと重い気がした。

 それから間もなく、レイチェルは病院を出て、全寮制の学校に入学する事になった。十五歳の時の事だ。それから『先生』には一度も会っていない。

 十五歳で病院を出たレイチェルは、様々な絶望を知る事になった。人を信用出来なくなり、触れられるのが大嫌いになった。全て、『先生』の思い通りになったのだ。十九歳のレイチェルは、姉の事は克服していたけれど、未だに『先生』のせいで苦しんでいる。


 朝の光が、窓から入って来る。ここは世界の中でも東側にあるので、朝が早い。ロイネスと言う西の国からやって来たレイチェルは、朝が早いのにもようやく慣れて来て、むくりと起き上がった。

 ベルグ国際総合学府、通称・学府は、世界最高の『学者の為の』学校である。要は研究職を目指さない者は、試験を受けても意味の無い学校とされている。人間も聖勇者も無関係に平等に扱う事が伝統であり、生い立ちなども一切問わない。ただ学者たれ。それだけがこのロイドベルクの掟だ。

 レイチェルは、世界宗教史の専攻で見事試験に合格し、先月ここにやって来た。早い者は十三歳からここに居るから、十九歳のレイチェルはかなり遅い入学となっている。

 精神科に数年入院していた上に孤児、この生い立ちのせいで、レイチェルはことごとく就職に失敗した。本当は働きたかったけれど、何処も採用してくれなかったのだ。ロイネスの国外に出て、自分の過去を消してしまえれば……とも思ったが、レイチェルには外国に出る程の貯えも無い。結局、この学校の入試を受けて、学者になると言う道を選ぶ事になった。

 専攻は、歴史宗教学。宗教の歴史をなぞる作業で、解釈を巡って議論を交わす所だ。……新しい発見はまずない。けれど、レイチェルはこの専攻を選んだ。過去、この手の本だけは大量に読む事があったからだ。病院では、一人で本を読む時間しか無くて、こんな本ばかり読んでいたのだ。

 八歳の時、レイチェルが姉と居たのは、ホールと呼ばれる、魔界との間に開通した巨大な穴の側だった。魔界から出てくる魔物や半魔を殺すには、聖勇者の力が必要になる。だから、ホールの側の宿舎には、借金と言う名目で、多くの聖勇者が『傭兵団』に加入させられて、強制的にホールに入ると言う事が続いている。半天教の支配下にあるホールだけが、この形式を取っている。一か所しかない。十二年前、レイチェルは間違いなくそこに居た。

 残りは、エルハントマネジメントと言う国際的大企業によって運営されていて、こちらは雇用形態を取っている。エルハントマネジメントは、聖勇者が生まれると同時に保護と支援を行ってきた経歴があり、人間も聖勇者も区別なく地上人類として魔と戦う事を理念として事業を展開している。千年前、亡命したラグニス家が頼りにしたのもエルハントマネジメントの元になった宿屋協会だったとされている。

 エルハントマネジメントの運営している方は、『自警団』と呼ばれている。人間の職員もホール近くの会館で、受付業務などの仕事をしている。……ただし、ホールの近くは危険区域として隔離されており、居住区は一切なく、聖勇者も人間も三キロ以上離れた場所にある居住区に住んでいる。

 レイチェルは、今も半天教について詳しく調べ続けている。……彼女の人生は、半天教に翻弄された物だったからだ。だからこそ、より正しい見方を、知識を欲したのだ。

 遠い昔、始祖フランは、マギを生み出した。マギの使う法術は世界を滅ぼすとして、決して人に向けて使用してはいけないと言う徹底的な倫理を世界に広め、感覚的な聖勇者であるシーカーも人間を守るべき対象と見なし、その倫理に倣い、従う事になった。

 同時期、エスライン王国と呼ばれた王国で、国王が王位を返還する騒ぎが発生した。特殊な王族で、半天と呼ばれていた彼らは、天使の化身とされていた。

 彼らはエスライン王国では、信仰の対象でもあった。だからこそ、国王の退位は国を揺るがす大事だったのだ。

 返還の理由が明らかにされないまま、引き留める者が後を絶たない状況で、国王は大々的な葬式をしたと言う。それは盛大な葬式で、途中まで国王は生きて談笑すらしていたと言う。

 誰も納得していない。誰も嬉しくない。悪趣味としか思われていなかった葬式と言う名の宴の最中、国王と王妃は、突然倒れた。彼らは棺桶の代わりに、巨大なハート型に加工した木箱の中に立っていて一歩も動かなかった。その棺桶に二人で収まる為だったらしいが、彼らは、目論見通り、その中に入ったのだ。

 いきなり……笑みすら浮かべて即死と言うのは、あまりの出来事で、出席者は皆衝撃でその場に座り込んだり、泣き叫んだりしたと言う。誰だって怖い。そんな事が起これば混乱もするだろう。しかし、何度確認しても国王には息が無く、目撃者も居て、誰かが殺したと言う証明は無理だった。

 国王には、一人息子が存在していた。王太子と呼ばれていた男だが、彼も両親の死の衝撃が強すぎたのか、全くの無表情で、殆ど口を利かない存在になってしまった。

 新たに国王と擁立しようにも、王太子は何も出来ない。何か話しかけても、通じているのかどうかすら分からない。そんな事もあって、エスライン王国は、法治国家エスライン国として、新たな一歩を踏み出す事になった。

 半天である王族を失いながらも、他の国よりも豊かであったエスライン国は、始祖フランと呼ばれる偉大な聖勇者の賢者を国内に住まわせる事で、世界の思想の発信地として、聖勇者保護の先進国と成った。

 しかし、始祖フランが亡くなって十年以上も後、問題が発生した。フランの屋敷に出入りしていた書生の一人が、書類を持ち出したのだ。それは、国王の生きている間に書かれたもので、王太子の身柄を、フランの妻ミルカに任せると言う、遺言書だったのだ。他にも、王太子が口を利けない状態になった理由にフランが関わっている事が書かれた、大神官の覚え書きまで持ち出されたのだ。……覚え書きは、フランが神の命令である天啓に従った事も分かる様に書かれていたのに、何故かその部分がにじんで読めない様になっていた。

 王国時代の記憶や信仰を持った者達も多くいる中、その書生の持ち出した書類は物議を醸す事になった。

 特に大神官の覚え書きは、フランが法術で国王達を殺したと言う話になってしまった。当時、ラグニス家はフランの息子の代だった。命の危険を感じた彼らの一族は、エスライン国から別の国に亡命する事になった。結果、エスライン国に居た聖勇者、人間の有識者もラグニス家を追う様に、エスライン国を去る事になった。

 知的財産である有識者を失い、半魔に対抗できる聖勇者も失い、エスライン国は一気に荒廃した。人間だけが残った国で、半天教は生まれる事になった。人間至上主義の誕生だった。

 半天教の誕生と同時に、まるで天罰の様に各国にホールが出現する様になった。

 半天教は、神を信じない。人間を守護する翼ある力の天使だけを信じている。だから、神の罰を恐れない。千年が経過した今、ホールの数は五つ。聖勇者は天罰だとして、半天教を抑えようと試みるも、三すくみの法則のせいで、人間は抑え込めない。

 始祖フランが「聖勇者は人間を傷つけない」と倫理づけたせいで認識されていなかったが、実際には、「聖勇者は人間を傷つけられない」が正しかったのだ。半天教はそれにいち早く気づき、目を付けた。これは後の時代に三すくみの法則と呼ばれる様になる。

 魔は人間に強く、人間は聖勇者に強く、聖勇者は魔に強い。

 どうやっても、聖勇者の攻撃は、人間を傷つける事が出来ないのだ。斬れるのは、相手の害意の感情だけなのだ。聖勇者だって超人では無い。眠るし食べる。そこを大勢で狙われれば、どうにもならない。聖勇者は人間を恐れ、種族を隠す様になった。

 聖勇者は、人間に擬態したのだ。彼らの擬態は徹底していた。だから、現在、どの程度の比率で地上に人類が居るのか……誰も調べられなくなっている。

「何故、勝手に人の家の書類を盗んだ事は不問なんだろうね」

 読書の最中に影が落ちて来る。パタンと本を閉じて、レイチェルは立ち上がった。話しかけには挨拶を返す。どんなに失礼でも。これ、基本。

「おはようございます」

 レイチェルは、無作法な乱入者に丁寧なあいさつをして立ち上がり、研究室を出た。

「おはよう。今の読んでいた内容、僕なら答えられる。知りたくない?」

 こちらが早歩きをしているのに、相手はのんびりと横を歩いている。足の長さの差が、ここまでになると、悔しいとは思わなくなる。

「結構です。ラグニス助教授」

 この男は、妙に馴れ馴れしい。入学して、その顔を見て驚いたせいだろう。

「それは残念」

 へらっと笑うその顔には、何の悪意も無い。……ただ、明確に思い出す顔がある。レイシアと共に命を散らした少年、アーサーだ。ジークフリートはあまりに良く似ていた。アーサーが成長すれば、間違いなく、そっくりだった筈だ。初対面の時、ソンビだ!と叫ばなかっただけ、偉かったと思っている。

「そんなに僕の顔を見て……惚れた?」

 相変わらず、この人の顔は心臓に悪い。死人の成長した姿なんて、誰だって見たくない。この人は、歴史宗教学の先輩であり、助教授で、入学以来、レイチェルに絡んでくる人だ。

 ジークフリート・ラグニスは、聖勇者の名門ラグニス家に、人間として初めて入った養子だと聞いている。ラグニス家は、聖勇者の一種であるマギの始祖の家で、隠す事無く聖勇者を名乗っているとても珍しい家系だ。別に跡取りは存在しているので、彼は次男だ。長男にローレンス・ラグニスと言うマギの血を引いた、正式な跡取りがいるのだ。

 マギの跡継ぎが居るのに、何故人間の養子が必要だったのかは……追々調べるつもりだ。金持ちのする事なんてよく分からないが、この顔を見るたび、嫌な汗をかきたくない。

「君は、聖勇者が嫌い?」

 突然の問いに、レイチェルは怪訝な視線を向ける。

 すると、あっと言う間に廊下で前を塞がれた。このままでは、小柄なレイチェルは前に進めない。ジークフリートは長身なのだ。

「答えて」

「……人間も聖勇者も好きではありません」

 正直に答えると、ジークフリートはあっさり脇に退いてくれた。レイチェルはさっさと立ち去る。

「僕、君の指導教官になる予定だから。よろしくね」

 背後から声が聞こえるが、レイチェルは無視した。よろしくしたくないからだ。あの人が指導教官……。最悪。レイチェルは唇を噛み締めた。

 ジークフリートがあの少年にそっくりな事を考えれば、何か関係があるのは確かだ。けれど、直接、本人から聞く様な真似はしたくなかった。相手に自分の過去を知られるのは嫌だったのだ。……カードゲームと同じだ。持ち札を相手が出せば、自分も出さなくてはならなくなる。レイチェルの手札は少ない。とても困るのだ。

 講義を受ける為に講堂に入ると、手を振られた。

 入学した時から、やけに親し気で友達だと言い張る女。見た目は人間だが、実はシーカーである、ルイーザ・ロッソだ。今日もレイチェルを隣に座らせて満足そうにしている。

「お昼は一緒に食べられる?」

 頷くと本当にうれしそうに笑う。

 ……ロッソと言う名前は、本当は聖勇者特有の苗字だった。しかし、八百年程前、人権保護運動として、人間が聖勇者と同じ苗字を名乗り、聖勇者を半天教に判別させない様にすると言う事が大流行した。ホールの脅威に恐れおののいていた多くの人々は、聖勇者を守る事にしたのだ。聖勇者の血筋の苗字に改名する人間が大勢現れた。特にロッソは、シーカーの始祖の苗字である為、物凄い数が当時登録された。今、世界で一番多い苗字だと思われる。

 獣耳があっても、人間と普通に暮らせますように。

 優しい願いは時間をかけて、叶っている気がする。ルイーザの笑顔を見ると、つい、そんな事を考えてしまう。……世界は、悪い人間ばかりで構成されている訳では無いのだ。

「今日の講義、エスライン語でするんだって。ちょっと難しいから嫌いなんだ」

 うるうるした目で、ルイーザがこちらをじっと見つめてくる。

「……ノートはロイネス語で取って貸してあげる」

「助かる!」

 ルイーザはレイチェルを抱きしめ、豊満な胸でレイチェルを危うく窒息寸前に追い詰めた。この子には、何故か触れられても嫌悪感が無い。不思議な子だと思う。女の人でも、手に触れられて、嫌で振りほどいた事があるのに……。

 ルイーザの専攻は、児童心理学で、子供の研究をしている。

 彼女は、子供の話を始めると何時間でもしていられる位の子供好きだ。子供なら何でもいいらしいが、特に中性的な容姿で、思春期直前の少年や少女が最高だと言う。変態と紙一重だなとレイチェルは思っている。彼女が学府の試験に受かる程の知性を持っていて、美しい女性であると言う部分のお陰で、警察のお世話になっていないだけだ。

 そんな彼女は、子供以外に全く興味がない。清々しい程に。幼少期のお友達とも成長するとお別れしてしまったらしい。……理由を推察すると、何か、酷い気がする。

 で、何故レイチェルがそんなルイーザに友達扱いされているかと言うと、同じロイネス国の出身で、別の国の言語も翻訳できるレイチェルは、いうなれば『翻訳機』として捕まってしまったのだ。レイチェルは、幼少期の栄養不足のせいもあり、細いし、体が小さいのだ。胸もささやかだ。ルイーザは、その姿も痛くお気に召したらしい。

 初講義で、バルトロイ語の授業中、ロイネス語でノートを書いているのを背後から見られたのが運の尽きだった気がする。同国と言う事でレイチェルも付き合い易かったのは事実だ。触れられても平気なのも助かる。ある意味、助けられている。

 例えば食事。

 学食には、各国の定番メニューが置かれているが、実はロイネス人の多くは、国外ではロイネスの定番メニューを食べない。

 講義の復習と、ルイーザに分かりやすくノートをまとめている間に、ルイーザがいそいそと食事を運んでくる。パドミールと言う国で定番の鶏肉シチューとパイだ。

「ありがとう」

 レイチェルの言葉に、ルイーザがにっこりして、食事を端に寄せる。まだ勉強の途中だからだ。レイチェルはさっきの講義の内容を、ルイーザに教えて行く。ルイーザも大人しくそれに従う。分からない部分は遠慮なく質問してくれるので、レイチェルは気を遣う事無く、話を進めて行く。

「ロイネスの包み焼きだってさ!何それ!」

 先月入学したであろう少年が言いながら走って行く。

 レイチェルとルイーザは、内心あーあと思いながら、それを放置する。後で悲惨な目に遭う事を容易に想像しながら。

 ロイネスは寒い。極寒の地なのだ。だから、中には香辛料とアルコール度数の高い酒を混ぜ込んで、長く体温が保てる様に工夫されている。それだけの料理だ。……はっきり言えば、しょっぱくて辛くて鼻がツンとして、おいしくない。他国の料理のおいしさを覚えてしまうと、もう食べる気にならない。

 あの味を好んで食べる人は居るらしいが、多くは無い。ロイネスより暖かい気候の中で、おいしくもないのに、あえて食べる必要性をロイネス人は感じない。だからレイチェルもルイーザもあれは食べない。

 勉強も無事に終了し、二人は冷めたシチューとパイを食べ始めた。

「そう言えば……ルイーザって、年幾つ?」

 改めてレイチェルは聞いた。

「十七だよ」

 若い……二つも下だったのか!胸の大きさ、背の高さ、顔立ちから見て、二十歳を過ぎていると思っていただけに、レイチェルはショックを受ける。

「勘違いされやすいけど、本当だよ」

 学生証をだされて確認してもやっぱり十七歳だった。妙な違和感があった。……顔写真が、今の顔と違う。よく見れば同じ人物だが、写真に写っているのは、化粧をしていない地味な女の子だ。それ以外にも……ちょっと、オイ!と、思ったが、それはあえて言わない事にする。

「勘違いって、年上に?」

「ううん。学府に営業に来た、出前のお姉さん」

 優しく、出前のお姉さんなどとルイーザは言っているけれど、実際には、性的なご奉仕を売り物にしている女性と言う事だ。勝手に学府に入ろうとする人として、出前のお姉さんは、警備員に止められている職種の一つだ。他にも、記者や諜報員など、学府の中に、勝手に入って来てしまう人は案外多いのだ。特に入学の時期から数か月は、結構多いらしい。セキュリティの高いエリアには、勿論入れないが。

「まぁ、そのうち何とかなるって」

 呑気なルイーザが心配になって、レイチェルは言った。

「……服装と髪形が悪いんだと思う」

 胸元の開いたブラウスに、短いスカート、高いヒール。大抵こんな感じだ。まず服装のチョイスが学生らしくない。しかも燃える様な赤い髪の毛をしている。髪形が夜会盛りと呼ばれる、長い髪の毛を頭の上に盛って、飾りを施す髪形なのだ。化粧も凄く濃い。……それが、妙に似合い過ぎて、全然学生に見えないのだ。

「え~!似合わない?」

「いや、似合ってるけど」

 レイチェルは、ルイーザを眺める。

 男を誘っている訳でも無いのに、その無意味な派手さが最大の問題だと思うよ。言いたいけれど、言えない。十七歳なら、自分に似合うおしゃれの限界とか知りたいのかも知れない。……ロイネスの学生時代、そういう子が沢山居たのを思い出す。

 レイチェルは、もっぱら細身のズボンをはいている。上に合わせるのも、丸首シャツとかカーディガンとかで、化粧もしない。胸も無い為、性別不明の地味子として生活している。

「レイチェルはさ、その短い髪形、似合うよね」

 長いと乾かすのが面倒なので、レイチェルは短い髪の毛を維持している。これも、性別不明の要因の一つだろう。サラサラな直毛で、凄く濃い黒だ。

「そう?」

「うん。もう少年か少女か謎っていうか、ザ・中性って言う感じがたまんない!男も女も永遠に謎のまま。そして華奢で柔らかいまま。ああ、レイチェルは私の理想だわ」

 鼻息の荒いルイーザから、レイチェルは視線を逸らして、遠くを見る。

「ああん、その冷たい目だけは大人よね。そこでウルっとした上目遣いをして、こちらをみつめてくれたら、いつでも抱いてあげるのに」

 抱いていらん。巨乳で窒息するから。何で、そんなに胸が育つの?私の胸はいつ成長期を迎えるのだろう……。

「何か、暗い事考えているでしょ?レイチェルったら、もー暗いわよ!でも、その影のある所も、素敵なのよね。影のある謎めいた少年?少女?全部ミステリアスで、引き込まれる魅力って言うの?別に謎を解き明かしたい訳じゃないの。ただ、妄想していたいだけなの」

 そして、頭の中から妄想がダダ洩れした様な事をルイーザは話を続ける。うへへ、とか笑うのも、怖い。変態さんが前にいる……でも止められない。レイチェルの目はまた遠くなる。

 こういう状態のルイーザを止める方法を、今の所まだ見つけていない。何となく、もっと小さな少年少女に矛先を向けて、自分から視線を移動させればいいのは分かってきたが……学府の中では、ルイーザの好みを満足させる対象が非常に少ない。……現在は居ない。

 レイチェルは身長が百五十センチぴったりで、全然伸びない。顔も童顔だ。一般的に人間の成人に合わせて、十八歳が成人とされる中、十九歳だと言っても信じる者はまず居ない。

 ちょっと目立つが、人嫌いもあるので、このままでいいか、とも思っている。奇妙な二人組の会話に入って来て、仲間に加わろうと言う勇者も居ないので、今の所そのままにしている。

 ルイーザがこんなに変態……おかしな子じゃなければ、ナンパ野郎が集まった筈だ。毎日食堂で、大声でこんな事を言っていては、誰も近づかない。本人はそれを分かっているのだろうか?

 そんな事を考えている間も、偏愛妄想をぶちまけているルイーザに声をかける。

「そろそろ、午後の講義あるから出よう」

 レイチェルの言葉にルイーザが素直に従う。

「夕飯にまたここで会おうね!何かあったら連絡よろしく!」

 ルイーザが元気に手を振っている。午後からは専攻が違うから講義も別なのだ。

 ルイーザは、シーカーなので念話が使える。しかし、それ以外に、印をつけた人の声を遠方でも聞く事が出来て、念話で話しかけられると言う特性だ。

 それには契約が必要で、シーカーは三人の者としか、その契約を結べないそうだ。ただ、これは、同時に三人までと言う制限であって、解除や契約は何度でも出来るのだそうだ。

 ルイーザはその中の一人にレイチェルを指名したのだ。

「そこのロイネス人のおねえさん、契約しない?」

 レイチェルはこんな誘い文句で、ルイーザに捕獲されたのだ。

「契約したら、良い事ある?」

 レイチェルの言葉にルイーザはにっこり笑った。

「ぼっち飯からの卒業」

 特に一人でご飯を食べるのは嫌では無かったけれど、混んできて相席を頼まれるのは正直苦手だった。だから即答した。レイチェルは、何故かルイーザは、初対面から平気だったのだ。

「いいよ」

 こうしてレイチェルはルイーザと契約した。名前を名乗り合うだけの事だった。それだけで、ルイーザに届けたいと思ってレイチェルが声を出せば、ルイーザに声が届くのだ。半信半疑だったが、本当だった。凄く便利だ。

 学府は一都市くらいの規模があるけれど、契約者の声なら、その程度なら届くから平気。と言われた。凄い事だが、シーカーには当たり前の事らしい。独り言をつぶやいているみたいな所だけが難点だが、念話の様に頭の中で喋れば伝わる訳ではないのだから仕方ない。

 レイチェルの嫌がる事は、ルイーザは聞いて来なかった。ルイーザの事もレイチェルは聞かなかった。勝手に話す事でお互い知っている情報はあるが、それだけで、過去の話は一切しない。レイチェルは楽なので、この距離感がルイーザも楽ならいいなと思う。

 思い余ったルイーザに、抱きしめられたり、手を握られたり、ベタベタされているが、彼女だと平気だった。ジークフリートの顔と同じく、謎の一つだ。しかし、これを調べるのは自分の体質とか心理を調べる事だ。……無理っぽいので、謎のままにしておく事にした。

 一旦部屋に戻り、午後の講義の準備をして教室に移動する。宗教哲学の講義に向かう。

 学府の中は広くて、転移法術の法術陣が設置されているが、レイチェルはよく徒歩で移動している。ロイネスでは使った事が無かったので、法術と言うものになかなか慣れないのだ。結構な距離を歩く事になるが、少し速足で歩く。

 三度目の講義になるが、宗教哲学は、かなり眠たくなる講義だ。しかし同時に油断できない講義でもある。アルモント教授は高齢で、たまに動かなくなる。本当にピタっと動かなくなるのだ。呼吸をしているかどうかも分からない程のいきなりの急停止に、そのままお亡くなりになってはいけないので、前の席の人間が声をかける事になっている。

 もう誰も最前列に座りたがらない。

 前回の講義の後、講義を受けている全員が集まって、くじ引きをする事になった。そして、レイチェルは見事に当たり、最前列に今回から座る事になってしまった。

 ルイーザの翻訳機の次は、アルモント教授の起動係って……。

 自分の運の悪さを何となく呪いつつ、最前列の端っこに座る。他の受講者は、皆、中段以降に座っている。これで自分達は安心して他の講義の内職や昼寝を、と思っているのが手に取るように分かる。遠かったので、気づきませんって言い張れる距離を皆が取っている。

 羨ましくはない。……多分。

 そう思いながら教授を待っていると、入って来たのは、思いがけない人物だった。

「ラグニス助教授……」

 誰かから声が漏れる。ざわざわする教室で、パンパンとジークフリートは手を叩いた。

「はいはい。静かに。アルモント教授は腰痛で暫くお休みになりました。そこで、僕が代わりに講義を行います」

「暫くってどのくらいでしょうか?」

 元気の良い声がして、ジークフリートは首をすくめた。

「僕が、前期の成績は付ける予定になっています。後期の講師は未定です」

 皆の心の中で、既にアルモント教授が退官しているのをレイチェルは何となく悟った。まぁ、この学園で最高齢の教授だ。名誉教授と言う名の引退を嫌がり、生涯現役を通していたが、さすがに限界が来たのだろう。

「では、早速講義に入ります。皆さん、いいですか?前回までは……」

 ジークフリートの講義は、眠たいなどと言っていられない程のスピード感があった。アルモント教授の三倍のスピードでテキストが進んでいく。

 皆、書かれては消されていく、上下二段の黒板を見て、中段より後ろの席に座った事を後悔した筈だ。今度から皆、前に来るだろう。

 レイチェルもそんな考えに耽る暇もなく、必死でノートを取り続け、気付けば講義は終わっていた。

「では、今日はここまで」

 ジークフリートが授業を終えて出て行く。何人かの学生が、ノートとテキストを抱えてジークフリートを慌てて追いかける。

 当たり前だ。この宗教哲学は、哲学専攻でも必須の科目である。

 この科目を落としていると、必須単位を満たしていないので、退学にはならないが、また来年も講義を受ける事になる。楽をしたくてアルモント教授の宗教哲学を取った学生と、人気のソルレイ助教授の講義が、コマ割りの関係で取れなかった学生の二択しかここには居ない。

 楽が出来なくなった事を今回の講義で知った学生達の中でも、慌てたのは、間違いなく、楽をしようとした組だ。アルモント教授の授業での予想を大幅に超えた範囲が、試験に出るのは、今日の授業スピードで判明した。

 宗教に興味のない哲学者の卵が、必死でジークフリートに向かってダッシュしていた。……とにかく、ここを乗り切らないと、哲学者に成れない。前期試験の傾向だけでも知りたいのだ。

 一方、コマ割りの関係でこちらに来ている学生は、のんびりしている。

 宗教哲学のテキストは、難解ではあるが、好き嫌い無く、何でも覚える事が得意な学生からすれば、あまり分厚いテキストでは無いのだ。

 事実レイチェルは暇つぶしに、持ち歩いて休憩中などに読んで、内容をほぼ覚えてしまっている。一年分の学習内容を大体覚えているなら、何ら困る事は無い。重要な部分は再度読み直しが必要だが、それは今回の様にノートを取って置けばどの辺りか分かるし困る事も無い。

 問題は、内容の解釈方法だ。講師ごとの癖のある解釈に合わせた回答を望まれるとなると、結構困るが……ジークフリートはそういう偏りは無さそうだ。それなりの回答を出せれば、単位は落とさないだろう。だからレイチェルは、ジークフリートを追いかける必要は無く、ノートとテキストを鞄にしまい、次の授業に向かった。

 授業が全て終わった後、レイチェルは窓の外を見て立ち止まった。これからアルバイトだが、まだ時間がある。

 この広い学府の中には、学生の仕事が一杯ある。学生証さえあれば、特に問題なく仕事が得られる。ロイネスに居た頃、何処も雇ってくれず、アルバイトすらできなかった事を思うと、天国の様な場所だと思う。

 暖かい場所で、勉強しながら仕事を持ち、補助で食べられる食堂やカフェの食事は格安だ。しかも部屋は四年まで無料提供してもらえる。最短の四年で無事学者になれれば、学府から家賃と生活費ぎりぎり程度の給料が出る。就職への道もある。

 幸せなんだ。これこそが本当の幸せであって、姉の『あれ』は断じて違う。レイチェルはふと思う。……当時、姉の死と共に、心に強く残っている事がある。

 『あれ』とは、記憶の最後の姉の姿だ。少年抱き合い、死にかけているのに、華が咲いている様に笑った顔の事だ。

 幸せだから、もう何もいらない。姉の顔はそんな風に見えた。少年の顔にもそんな笑顔が浮かんでいた。無知な自分が魔物の居るホールに誘っている事すら、どうでもいいと思っているその顔を思い出す都度、苛立ちが募る。

 羨ましいのかも知れない。二人は自分を連れて行ってはくれなかった。自分は取り残されて、何処に帰ればいいのか、分からないままだ。

 レイチェルは頭を軽く振った。……忘れよう。居ない人の事を考えても結論は同じだ。レイチェルは気分を切り替えてアルバイト先に向かった。

 レイチェルの仕事は、『ご奉仕』である。ウェイトレスと言ってはいけないと店主に言われている。カフェで注文を受け、コーヒーやケーキを持っていく仕事だからウェイトレスで良い筈なのだが、こだわりがあるとかで、そう言ってはダメなのだそうだ。

 コーヒーの匂いは大好きだし、ケーキと言う物は、学府に来て初めて見た菓子だ。気に入っている。見た目が。……まだ食べた事は無い。

 食べるとおいしいらしいが、まず綺麗な所と愛らしさに魅入られた。ショーケースに並んでいるのは、てっきり宝石かと思った程だ。

 ずっと眺めている内に店主が出て来て、バイトに誘ってくれた。それでそのまま、ご奉仕をやっている。

 店主は、レイチェルに何故か男性用の制服を用意したので、それでご奉仕をしている。

 この制服は、自分の持っているどの服よりも高級だ。光沢のある黒い正装は、二着支給されていて、週一回、洗濯できないのでクリーニングに出されている。

「ごゆっくりお過ごしください。お嬢様」

 ここでコーヒーを出した後のセリフは決まっている。どんな年齢の女性でも、『お嬢様』と言うのが絶対の決まりだ。男性は、『旦那様』だ。

 ここは、下仕えが居る、大昔の貴族の暮らしを味わう趣向のカフェなのだ。だから、食器も高級で、椅子やテーブルに至るまで、アンティークな物が集められている。コーヒーも、無農薬栽培にこだわった品で、ミルクティーのミルクも、牛の品種を選べると言う品揃えだ。

 ケーキも世界的に有名なパティシエが作っている。ここの店主こそ、そのパティシエだ。味にも見た目にこだわっている彼は、お菓子とそれに合う飲み物の事しか考えていない。

 日々、厨房にこもり、新作ケーキと日々格闘している。真似されたくないと言うポリシーの元に、店外への持ち出しは一切禁止だ。食べたければここに来い、と言うのが彼の持論だ。味の分からない奴に食わせるケーキは無いらしい。彼が望むのは、彼の味を理解する味覚の客だ。

 たまに演奏家が、楽器を持ってふらりとやって来て生演奏をしていく。音楽専攻の学者達だ。新曲の練習や新しい楽器のテストに来ているとか。

 ちなみにオーナーは、名前も知らないし、会った事も無い。……こんな高級店舗を学府に出店できるなんて、とんでもない金持ちで権力者なのだろう。学府では店に格付けがあって、店のランクがある。ランクは最初に設定されて変わらない。ここは最初から超高級店舗として開設されたのだ。

 その為、ここは特権カフェと呼ばれている。『特権〇〇』と言う場所は、随所に見られる。研究室を出て、別の専攻の人達と語らう特権サロン、そして、学者だけの会食が行われる特権レストランなど、やはり学者だけで学生の姿の無い場所が思索には必要なのだそうだ。

 正式名称は、特権カフェ・ライラックと言う。ライラックは当然、学生の入店は禁止。例外はレイチェルの様なアルバイトだけだ。当然だが価格設定がとても高い。貧乏人は、ここの優雅な雰囲気が悪くなるので、来てはいけないと言う立札がカフェの少し先に出ているくらいなのだ。酷いが、本当にそう書かれていて、『季節のケーキは時価です』と、書き添えられている。

 ……レイチェルは、そのケーキと言う物を是非見てやろうと言う図太い神経で店まで入り込み、ショーケースを見ていたから、こうして働けているのだが。他にも、口の堅さも当然求められる。ここで話されている内容は決して他言してはならないと言う誓約書も提出済みだ。

 レイチェルはここで働いている事を、ルイーザにすら話していない。全て、バイト、の一言で片付けている。ライラックで働いている事自体は話していいのに、そこまで用心して言わない徹底ぶりに、店主はレイチェルを痛く気に入っている。

 そんな訳で、一か月経ったら、本採用で自給をアップするからねと言われて、レイチェルは初めての給料と同時に、自給がアップになる事実を嬉しく思っていた。

 頑張って働こうと決意して注文を取りに行くと……今日三度目の顔合わせになった。

「ここでバイトしてたの?」

 ジークフリートはにこにこしながら目を丸くしている。

 午前中に会って、午後会って、夕方会う。何て日だと思った。同時に、やっぱり名家だけあって、金持ちなんだな、とも思う。

「ご注文をお伺いします」

 考えは、表情に出さずに告げる。

「コーヒー。ラグニス家用のいつものって言ってもらえば、出してもらえる。砂糖は用意して。気分で量が変わるんだ」

「かしこまりました」

 レイチェルはそれをカウンターで伝える。どうやらコーヒーがラグニス家のオリジナルブレンドで、ここではキープされている様だ。

「ラグニス助教授って、しょっちゅう来るんですか?」

 レイチェルは、アルバイトの教育係である先輩のアルバイト、ルーク・バルニスに問う。

 ルークは、聖勇者の男性でマギだ。しっぽは法術で隠しているので、人間にしか見えないが、とても優秀なマギとして、オーナーに見込まれてアルバイトをしている。と、本人は言っていた。専攻は歴史。五百年前にあった小国の貴族の生活を研究しているとか。全然儲からないそうだ。……だから、ここには店長代理として毎日居る。

 ここの内装のアイデアはルークが出したそうだ。非常に綺麗で繊細な貴族の文化を再現しているのは認める。本当に好きなのだろう。

 美術品にも造詣が深いとかで、美術専攻の学者には、よく贋作鑑定を依頼されるのだとか。そっちの道の方が儲かる気がするが、それは特にやりたい事では無いからどうでもいいのだとか。

「ああ、ラグニス助教授は二人いるから気を付けて。ジーク先生の方はまぁ、多くて月三かなぁ。僕としては、あの人は静かだし、貴族っぽい。ここの雰囲気にぴったりだから、もっと来てもいいと思うんだけどなぁ」

「そうですか。どうでもいい情報ありがとうございます」

「レイチェルは、ジーク先生と同じ専攻でしょ?」

「ええ、だからこそ、あまり会いたくないです」

「顔を売っておけば、講義でもゼミでも優遇してもらえるよ?」

「そう言うのはどうでもいいです」

「君は、そういうと思ったよ」

 ルークは苦笑した。狐の様な細い目の上の眉が少し下がる。

 ジークフリートの事を、ジーク先生と呼ぶ者は何人もいる。学生の身分では言う気にならないが、学者になってしまうとそう言う人が多い。もう一人、有名なラグニス助教授が居るからだ。

「もう一人のラグニス助教授の方は、しょっちゅう来るんですか?」

 不安になって問うと、ルークは頷いた。

「殆ど、仕事だの講演だのって、学府には居ないけど、居る時は、ここに入り浸る。見世物になりたくなくて、ローレンス先生は、ここに逃げ込むんだよ。ちなみにこっちは一切砂糖の入っていないラグニスの高級ブレンドコーヒーを、樽みたいなコップ、毎度自分で用意して来て、水みたいな勢いで飲むから、最悪」

「マグカップですか?それは、ここに置かないんですか?」

「絶対に嫌だね!店長が認めても、僕が認めない。売上?知った事か!ここは貴族生活を再現したカフェだ。特権カフェ!ローレンス先生の持って来るのは、でかくて重くて、変な絵が描いてあるマグカップだ。色もおかしい。カラシ色って言うのが一番近いと思うが、黄色の濁ったみたいな色をしていて、有名なキャラクターを真似て失敗したっぽい絵が付いている。でも僕はそう言うの詳しくないから元の絵がよく分からない。いつも気分がモヤモヤする。だから、壊れろって、ここ数年の間念じている。壊れないけどね。……おお!神よ」

 心底嫌そうな表情で、ルークはそのマグカップを罵り続けた。凄く嫌いな様だ。

 ローレンス・ラグニス。ラグニス家の次期当主、跡継ぎである。彼は、祖父のガーラント・ラグニスから、母のパメラ・ラグニスを飛び越える格好で家督を引き継ぐ事が決定している。

 別に女だからではない。パメラが家督を継ぐ前に、彼女は未婚のままローレンスを出産したからだ。翌年にはガーラントに無断で、ジークフリートもラグニス家に養子に取っている。

 パメラのやった事は、悪評となった。ジークフリートを養子に取ったのも、未婚の母である彼女の慈善アピールだと言われてしまえば、悪い方にしか取られない。

 ガーラントは、これ以上騒動が大きくならない内にと、パメラを家督から外し、幼い孫のローレンスを跡継ぎに指名した。そして、ガーラント自身が長く現役を続けて行く事で、大きな後ろ盾になったのだ。

 それで信用を回復して二十数年、ローレンスはガーラントの厳しい教えに従い、立派なマギに成長した。世界各国にある五か所のホール全てを巡った、聖覇者の称号も持ち、学府では法術医療専攻で助教授である。

 聖勇者出身の医者は、全く存在しなかった。何故なら、聖勇者は、人間を物理的に切る事が不可能だったからだ。しかし体内を法術や医療機器で検査し、悪い部分を法術で焼くと言う方法は可能だとローレンスは論文を提出し、実際に証明して見せた。法術医療と言う分野の誕生である。昔から、体内検査の為にマギの法術は用いられていたが、あくまでも人間の医者の補佐の立場だっただけに、常識は大きく覆された事になる。

 マギは、医者になれる。……というか、聖勇者だが、人を傷つける事が出来る。それを世間に知らしめたのだから当然だ。

 論文を実証してから七年。彼は未だに、集会に足を運び、説明を繰り返している。どうやって病巣を取り除くのか、害意の様に、異常な部分しか傷つけられないから安全であると言う事を説明するのは大変な事らしい。しかし、実際に治療で治った患者が増えて来て、多くの国で、聖勇者の医者を採用する動きが出て来ている。

 こんな経歴の人なだけに……入学以来、レイチェルはローレンスを見ていない。ずっと学府の外に居るのだとか。

「いつ帰って来るか知らないけど、帰ってきたら、別室はローレンス先生専用になって、書類の山とか積み上げられるから、気を付けてね」

 ルークは苦笑しているが、冗談で言っている事では無いらしい。

 密談用に別室が一個だけある。めったに使われない部屋なのだが、ローレンスはそれに目を付けて、帰って来るとそこを予約で押えてしまうのだと言う。研究室が専用にあると言うのに、人が押しかけて来て、全く意味を持たないので、ライラックに予約を入れるのだそうだが……。

「自分では、手術とかしないんですか?」

「弟子が何人も居て、もう彼らの孫弟子まで居るくらいだそうだから、自分で手術なんてしないんだろうね」

 何の為に発案したのやら……ただ苦労を背負っているだけの様に感じる。

「何が面白かったんでしょうね?」

 レイチェルがぽつりとつぶやくと、ルークは小さな子供を諭すように言った。

「普及すれば、ホールの急患は死なずに済むよ?面白くない事でも、意義のある事って言うのもあるんだよ。ここの道楽学生や道楽学者は忘れがちだけど」

 ホールで魔物を倒している最中に死にそうになる者は多く存在する。医者の真似事は出来ても、医者にはなれなかった聖勇者が、医者として随行できるのは良い事だ。

「私は道楽学生ですか?」

「突っ込む所はそこなの?」

 ルークは困った様に言った後、コーヒーの載った銀のトレイを渡した。

「君には、道楽も意義も感じないって言ったら、君はどう思う?」

「正しいって思います」

 レイチェルはそれだけ言うと、ルークをじっと見た。

「何をすればいいのか分からない迷子の学生さん、ジーク先生にコーヒーをお願いします」

 レイチェルは素直に頷いた。こういう時には、考えなさいと言われているのだと、最近思う。この人の方が、余程先生の様だ。

 迷子の学生さん……確かに自分は迷子かも知れない。姉を失い、全く知らない芝生の上に立った時から。

 レイチェルは、ジークフリートにコーヒーを運んで、習った通りの所作でコーヒーを置く。書類を見ているジークフリートの邪魔をしない様に。

 気づかれて、顔を上げられたら、決まりのセリフを言う事になるので、出来れば顔を上げないで欲しかった。しかし、ジークフリートは顔を上げた。

 仕方ないので、レイチェルは例の決まり文句を告げる事にした。

「ごゆっくりお過ごしください。旦那様」

 すると、何故かこちらを見ていたジークフリートの顔がみるみる赤くなっていく。耳まで赤くなるのにそう時間はかからなかった。

 男性には旦那様で間違えていない筈だが……何かまずい事でもあったのだろうか?卑猥な事は言っていないつもりだが。

「どうかなさいましたか?ラグニス助教授」

 レイチェルが慌てて問うと、口手を当てて顔を背けた。

「あ……いや、その、何でも、ない」

 レイチェルは怪訝な表情でジークフリートを見たが、何でもないとしか言わないので、仕方なくルークに相談する事にした。

「ラグニス助教授、なんかおかしいんですけど、何でもないって言うんです」

 ルークは慌ててジークフリートの所に行って事情を聞いてくれたが、すぐに普段の顔をして戻って来た。

「君のバイトのシフトを聞かれたよ」

「それで、具合は?」

「至って健康。医療補佐の資格は持っているけれど、使わなくても分かる」

 歴史学者の癖に、美術品の鑑定が出来て、医療補佐も出来て、カフェで店長代理みたいな事までしている。ルークは器用貧乏と言う奴なのではなかろうか?……学府には不思議な人が一杯居る。

「それで、シフト教えたんですか?」

「教えた。オーナーなら、間違いなく教えろって言うだろうから」

「何で、ですか?」

「そりゃ売り上げ向上の為だよ」

 どうやら、レイチェルがバイトに入っている時に、ジークフリートが来る様になるらしい。

「……それは、私がシフトの時には、ラグニス助教授の相手をしろと言う事ですか?」

「そう言う事」

「うへ」

 レイチェルが嫌そうに声を上げると、ルークが声を上げて笑った。普段あまり顔に表情の出ないレイチェルの嫌そうな素振りが、余程面白かったのだろう。

 ジークフリートはその後、変わった様子も無く、三十分ほどでライラックを出て行った。別に長居する訳では無さそうなので、ほっとする。注文を取って運んで放置するなら、別に指導教官になろうが、必須科目の講師であろうが、気にする事は無い。

 カフェは日が落ちると終わりになる。酒は出さないし、食事も出さないからだ。閉店は季節によって日没の時間で決まっている。今は春で、まだ夜は肌寒い。ライラックは日が暮れると、すぐに閉店した。レイチェルのバイトも終了になった。

 店のバイトと入れ違いに、清掃のバイト達がやって来る。彼らも学生だ。彼らに挨拶しながら、レイチェルは店を出た。ルークは清掃の方も監督しているので、まだ店を出ない。

 本当に歴史学者なのだろうかと思うが、アンティークの家具も食器も、本当に五百年前のフィルーチェ様式と言う希少な物を、オーナーに頼み込んでルークが買い集めたものだとか。ルークにとって、ライラックは、研究成果の保管とお披露目を兼ねた場所なのだ。……そりゃ、心配で掃除も見張るよなぁと納得する。

 レイチェルがそんな事を考えながらぽてぽてと、法術で光る街灯の下を歩いていると、ルイーザの声が頭の中に聞こえた。

『今、何処?』

「もうすぐ食堂」

『了解。適当に頼んでおくね』

「よろしく」

 独り言は恥ずかしいが、便利だとは思う。念話は羨ましい。

 しかし、シーカーは自分達の正体を晒さない。耳を徹底的に隠している。

 シーカーは出来るだけさりげなく、耳を晒さない事に全力を注いでいる。夜会盛りを流行らせたのは、実はシーカーだと言う話もある。室内で帽子をかぶっていても良いと言う文化は、シーカーと共に根付いたとか、おしゃれなカチューシャが、女性だけのものでは無く、男女兼用にとして普及したのもシーカーのお陰だとか。

 マギと違って、シーカーは人型レーダーの様な感覚の聖勇者である。正確な空間把握能力、第六感ともいうべき危機感知能力、それらは正に感性、センスによって魔を討伐する聖勇者だ。法術の様に決まりのあるものでは無いので、誰も的確に表現出来ず、その能力を言い表せる者が少ない。

 だから、フランが法術の倫理を世間に説いた時、人々は、線引きの出来る分かりやすいマギの法術能力には許容を見せたけれど、シーカーの能力は特に恐れたのだ。酷い事をされる訳ではないけれど、人間が上手く理解できないと言う理由で、シーカーはマギよりも苦労したのだ。

 だから、彼らの獣耳隠しの文化は、しっぽ隠しの文化より長い。千年以上経過し、凄い数の聖勇者が居て、その半数がシーカーだと言うのに、彼らはマギ以上に、本性を隠したがる。

 とにかく、彼らは徹底的で、身分証明書すら擬態するのだそうだ。学生証の種族の欄は、本来学府が印刷を済ませてから届くので、手書きは不可能だ。それなのに、どうやっているのか、印字の様な綺麗な文字で、国際公用語の『人間』と書き直しているシーカーが大勢居ると言う。これは、学府の掲示板に張り出された『種族詐称は犯罪です』と言う題名の記事をレイチェルが読んだから知っている事だ。大げさな記事だなぁとか思っていたが……実際に思い知った。大げさじゃないと。

 今日、ルイーザに見せてもらった学生証……。種族が『人間』になっていたのだ。一瞬、違和感が無いので、目が素通りしたが、あれ?と言う感じになったのだ。難易度の高い間違い探しで、偶然間違いを見つけた様な気分になった。

 食堂では当然、聞けなかった。あまりに人目が多過ぎて。あんな場所でシーカーだとばらしたら……考えるだけで恐ろしい。きっとルイーザ以外の大勢のシーカーにも危険人物扱いされただろう。彼らは恐ろしく地獄耳らしいので、念話でなくてもかなり遠くの音まで聞こえるそうだ。

 後であんなに綺麗に修正出来るのなら、年齢も名前も出身国も、全部偽造できそうだ。……どの程度の時間で出来るのかは不明だが、シーカーと言うのは、感覚だけでなく、手先も飛び抜けて器用な様だ。……知らない人間は絶対に気味悪がる。黙っていた方が良さそうだ。

 食堂に到着してルイーザを探すと、向こうが立って手を振っていた。

 相変わらず、夜会盛りは綺麗なままだ。昼から半日、あの大きさをキープするのは凄いと思う。しぼまず高く盛られた髪には、心底感心する。

「レイチェル、疲れてる?」

「ああ、バイト先に偶然、ラグニス助教授が現れてね……」

 嘘は言っていない。ルイーザの種族詐称とか、そう言う話はしない。というか、一生触れない。……見なかった事にするのが正解だとレイチェルは思うから。

「え!どっち?」

「うちの専攻のラグニス助教授」

 明らかにがっかりした様子のルイーザにレイチェルは聞く。

「素敵な出会いとか、期待してるの?」

 やっぱり人間は嫌いなの?とか言ったら、きっと闇に葬られるので違う事を言う。思っている事と違う適当な事をとっさに言える自分の脳は、ひねくれているが便利だと、最近よく思う。

「そりゃ、勉学は楽しいけど、子供は自分と世界の為に必要だからね」

 子供は必要……そんな風に言い切れるルイーザは、レイチェルには眩し過ぎる。子供が大好きなのだから、さぞ子供が欲しいのだろう。

「子供育てながら勉強して暮らせるなら、夢みたいだと思うのよ~」

 シーカーと言うのは、念話で子育て出来るらしい。記憶を受け渡してしまえるのだとか。だから、他の種族に比べると、子育ては格段に上手で、楽らしい。

 それでも、昼夜を問わず無く赤ん坊の面倒を見ながら勉強なんて、あまり考えたくない。

「できるの?本当に」

「やりたいなら、できるか疑わずに、両立のさせる具体的な計画を立てるの。とにかく、前に進むにはそれしかないから」

 前向きな発言には、輝きがある。素直に羨ましいと思う。嫉妬してクラウンが出たら大変だ。レイチェルは慌てて話題を変えた。

「うちの専攻のラグニス助教授って、人気無いの?」

 ルイーザの首が大きく横に振られた。

「ジークフリート先生の方は、皆、丁重にお断りだってさ」

 口の中のエビドリアを咀嚼しながらレイチェルは、ん?と疑問に思う。……私には、凄くちょっかいかけてくるから、他の人にもそうだと思ってたのに。

「女の人が大好きで、許容範囲も広そうなんだけど」

 飲み込んでからそう答えると、とんでもないと言う様にルイーザが更に首を横に振る。

「何でもね、自分は養子だから、ローレンス先生よりも先に結婚は出来ないって、迫った子は全員、あしらわれているみたいだよ」

 あの先生が、女の子を断るなんて……こちらから迫れば、追い払えるのか?でも、無理だ。レイチェルは自分から人に触れるなんて、無理だから。

「ジークフリート先生は、ローレンス先生と比べれば、確かに収入は多く無いけど……十分に凄いよね。普通に学者で収入あるし、本とかも何冊も出してて、印税とかもらってるし。ローレンス先生が凄すぎて影に隠れてるけど、あの若さで、凄い事だと思うよ」

「何歳だっけ?」

「二十七だったかな……それで助教授。凄いよね」

 記憶の中にある、アーサー少年は……逆算すると、やはり丁度同じくらいの年齢だ。

 実はレイチェルはジークフリートの年齢を何となく知っていた。荷物を届けて欲しいと頼まれて、ジークフリートの研究室に行ったとき、ジークフリートは留守で、沢山のプレゼントを見た。目に付いたメッセージカードに、『二十七年目の記念日おめでとうございます』と書かれていたからだ。とりあえず、頼まれていた荷物を研究室に置いて立ち去ったが、あれもプレンゼントだったのだろうか?講義の後で、別の講師に頼まれたのだが……女性だった。

 ルイーザの発言から、あれらは全部ジークフリート宛のプレゼントだったのが判明する。確かにモテないと言う訳じゃないらしい……いや、モテモテだ!

「レイチェル、ジークフリート先生の年齢、知らなかったの?同じ専攻なのに」

「うん。特に聞いてはいないかな」

 今、確認しました。裏付けにご協力感謝です。とは言わない。

「本当に、色々と興味が薄いよね。学者としても、女としても、それで大丈夫?ジークフリート先生、凄く恰好いいじゃない。よく平気だよね」

「平気。というか、恋愛とかそう言うの、いらない」

 本音がぽろりと漏れる。慌てて口を閉じる。そこから先は聞かれる訳にはいかない。

 しつこくて困ってる。知っている死人と同じ顔で怖いし、謎だし、関わりたくないのに、指導教官になるそうで、内心、滅入ってる。

「そうなんだ。そんな感じだよね。レイチェルって」

 ルイーザはそう言って納得した様子で頷いた。

 食事も終わり、食器の片づけから温かいお茶の手配まで、甲斐甲斐しくやってくれたルイーザは、ぽつりと言った。

「ねえ、楽しい?」

 レイチェルは、ルイーザを見た。頬杖をついて、こっちを見る目は、不思議と言うか少し悲しそうに感じる。

「うん。ここは天国みたいだって、思うよ」

 ルイーザは、自分も言いたくないのだろう。同郷だと言うのに、過去には触れて来ない。実際、学生証の写真と、今のルイーザの差がそれを物語っている。……きっと、忘れたい過去が彼女にもあるのだ。

 だから、暗黙の了解が多くて居心地が良いのだろうが、珍しくルイーザが切り込んできた。

「私もそう思う。でも、レイチェルのは、何だか違う気がする」

「どう、違うの?」

 ルイーザは言い辛そうにしながら、念話で頭の中に告げた。

『レイチェル、普通の景色を見ているだけなのに、たまにうっすらクラウンが出てるよ』

 ルイーザは、少し迷っている様な、困った様子でレイチェルをちらちらと見た。害意が聖勇者には見える。悪意、憎しみ、殺意……。うっすらとは言え、そんな物が頭の上に出ているとしたら、心配されて当たり前だ。他の大勢の聖勇者にも丸見えだった筈だ。

 レイチェルが困らない様に、ルイーザが勇気を持って教えてくれた事にようやく気付く。この子は、本当に自分を心配してくれている。そう思う。

「確かに……そうかも知れない」

 レイチェルは少し答えを迷ってから告げた。

「私は、普通じゃないんだ。だから普通を当然だと思っている人が羨ましいのかも知れない」

「嫉妬って事?」

「……推測で、本当のところは分からない。私自身の普通が何か。それすら……分からないから」

 ふぅん。とルイーザは言って、お茶を飲み干すと、二人はそれ以上何も言わずに黙っていた。

 レイチェルもお茶を飲み終わって、明日の予習を拡げて二人で勉強を始めた頃、ルイーザはポツンと言った。

「変な事聞いてごめん。レイチェルは、真面目で優しい、いい人だよ。私の勉強の面倒も見てくれる。嫌な事も言わない。いい人だからね。誰が何と言っても」

 確かにこの子は私とは違う。優しさを手放さないで、頑張っている。過去に何があっても、前を向いている。『先生』にいつまでも囚われて、未来を見失った迷子の自分とは違うのだ。

「ありがとう。気にしてないよ」

 レイチェルもさらっとそう言って、お互いを一瞬見た後、また普通に予習に戻った。予習をしながら、誰かが側に居ても息苦しくないと言うのは良い事だと思った。


 あ、やばい、思い出す……レイチェルは、自分が過去に吸い寄せられるのを感じた。

『お姉ちゃんって誰かな?そんな人は居ない。居ないって分かる様にしようね』

 姉の事を言うと、何度もベッドに括りつけられて、放置された。トイレにも行けず、食事も与えられず、身動きも出来ない。たまに、様子を見に来る人に、必死に言った。

『ごめんんさい。もう言いません』

 助けてほしくて、誰かを呼んでいた気がする。姉だっただろうか?とにかく泣き叫んだ。その内、泣き叫ぶと拘束が解かれないのだと理解した。

 黙り、手足が痺れておかしくなって、感覚がすっかりなくなってしまった後、拘束は解かれた。それを何度か繰り返して、姉の事を口にするのを止めた。

 そうしたら、いきなり暮らしやすくなった。誰も拘束しようとしなかった。静かに本を読んでいれば、衣食住に困らなかった。これがいいと思った。だから、望まれるように生きる事にした。それは静かで楽な生き方だった。

 嘘を吐く事にためらいを持たなくなった。

 ごめんなさい。心の中で誰かに謝りながら、違う表情で違う事を言う様になった。相手の望む答えさえはじき出していれば、嫌な事は起こらないと学んだのだ。今のダメ過ぎる便利能力が生まれたのは、この頃だった気がする。

 自発的には何もやらない。言われたことは確実にこなす。それだけでいいのだと……言い聞かせ続けた。

 『先生』に出会ったのは、それに慣れた頃だった。『先生』は私の忘れていた、自分で何かを望むと言う願いを思い出させた後……私を壊して捨てた。

 病院を出たのは、『先生』に捨てられた結果だった。

 自分は無能ではない。『先生』の役に立つから、私を捨てないで。そう願って、最初の中間考査で全て満点を取った。担任教師は有頂天になって、孤児の奨学金制度を無償で使える手続きをしてくれた。結果、病院からの援助で学校に行っていたレイチェルは、国際機関の支配下にその身を置く事になった。……どうして捨てられたのか、学校も国際機関にも晒す結果で。

 病院はそれを待っていたように閉鎖されて、跡形も無く消えた。『先生』の消息も分からない。

 でも、レイチェルの過去を知る者は、皆レイチェルを避ける様になった。あんなに自分の教育の賜物だと言っていた教師は、事情が判明すると退職してしまった。自分を見て、怯える様な表情に、どんどん痩せて行く教師に、レイチェルは心配して声をかけていた。……後でそれこそが、逆効果だったのだと思い知る。

 レイチェルは無知だった。勉強と言う意味ではなく、一般常識と言う面で。学校の暮らしの中で、心の為のケアスタッフを付けられて、彼女からの知識を吸収し、じわじわと自覚していく。自分は普通じゃなかった。しかも、壊されて、もう真っ当では無いのだと。

 姉の死の出来事以上に、病院で受けた仕打ちの内容が、『惨い事』であり、『醜い事』である事実に、レイチェルは痛めつけられていった。気づけば、人が怖くて触れられなくなっていた。触れられるのも怖くなった。

 レイチェルは、悪から救われた可哀そうな被害者だった。それなのに……落ちない汚れがこびりついている子供として扱われた。ロイネスでは、誰もレイチェルの保護者になってくれなかった。だから、就職できなかった。飛び抜けて優秀だった事も、かえって異様に見えただけだったのだろう。

 酷い自分を見てはいけない。立ち止まっても、汚れた自分が居るだけ。……振り向いても、姉は居ない。レイチェルには、助けてくれる少年も居ないのだ。

 また風呂で過去に意識が飛んでしまった。……のぼせてしまう。

 レイチェルは、風呂から立ち上がり、外に出た。過去には蓋をするに限る。……今日はジークフリートの顔を見過ぎた。きっと、そのせいだ。

 ルイーザの部屋は、レイチェルの部屋とは全く違う場所にある。距離は学食を挟んで真反対に同じ位の距離を進んだ場所だ。最寄りの公衆浴場が別なので一緒に風呂は行かない。ルイーザと一緒に入浴していれば、こんな風にならないのに。

 風呂では勉強も出来ないし、話も出来ない。だからよく昔の事を思い出し、考えてしまう。

 さっさと風呂を出ると、着替えて夜風に当たる。ちょっと寒いので、上着を持ってきて正解だった。上着の襟の中に首をすくませて歩き出そうとすると、声がした。

「あ」

 声の方を見なくても分かる。多分、今日はそう言う日なのだろう。

「こんばんは」

 当たり障りなく、まず挨拶をする。これ、人の基本。

「また会ったね」

 ジークフリートは嬉しそうに笑う。背の高い人と言うのは、なんか余計に大きく見える要素でもあるのだろうか?ただ立っているだけなのに、変な威圧感がある。

「どうかした?」

「いえ、……別に」

 特におかしくありません。おかしいのは私です。レイチェルは誤魔化す為に、歩き始めた。

 ジークフリートも、当然の様に隣を歩き出す。

「ラグニス助教授の部屋は、風呂がついていますよね?」

「たまには、広い風呂に入りたいんだ。……ほら、体が大きいから、部屋の風呂じゃ、足が延ばせないんだ」

 確かに、ジークフリートは背が高い。百九十センチあると言う噂を、講義の前のヒソヒソ話で小耳にはさんだ事がある。学者なので当然筋肉質では無いが、ヒョロヒョロと言う訳でも無い。何処に居ても、頭一つ分出ている人だ。

 レイチェルは、真正面を向くと、彼のみぞおち部分を見る恰好になる。頭突きでもすれば、彼もしばらくは動けないかも知れない。……なんて、どうでもいい妄想を一瞬して、慌ててかき消す。クラウン丸出しだったら大変だ。

「背が高すぎるのも考えものですね」

「小さな君に言われると余計にそう思うよ」

 ジークフリートは笑った。

「コンパクトと言ってください」

「収納物ならそれはメリットだけど、人間ではメリットばかりじゃないよ。大勢居る場所では埋もれるだろう?視界も悪い」

 それは確かにそうだ。

「違う場所に行きたいのに、大きな人の流れがあると、踏ん張れずに流されるだろう?」

 レイチェルはあっさり降参した。……群衆にはいつも遅れてついて行くし、分け入ったりしないので、そんな苦労は知りません。なんて正直に言えば、話しが長引くからだ。

「助教授とディスカッションするだけの力は、私にはまだありませんでした。出直してきます」

 そう言って頭を下げる。

「いつでも待っているから、せいぜいがんばりたまえ」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 二人はこうしてお互いの部屋へと向かい、その日は終わって行ったのだった。


 それから、変わらない日常が過ぎて行った。

 ただ、レイチェルの視界に、ジークフリートの姿が入る事が確実に増えて行った。講義の講師として、ライラックの客として、そして指導教官として。

 一年目に指導教官が決定するのは、学府では普通の事だ。既に一般的な知識以上の物を持っている事は入学試験で証明されている。後は、具体的にどんな事をどんな風に研究したいのか、相談して方法をアドバイスするのが、指導教官だ。どんな知識を今後集めるべきか、どんな方法で論文を書くか、など、師弟関係は生涯に渡って続くと考えるべきだろう。

 何故この人なのか……生徒から、名指しで望まれる事もあったし、実際に以前の学校の成績と紹介状を持ってきた者も大勢いたのに。ジークフリートは新しい研究が忙しいからと、今年は指導学生を一人しか取らなかった。……よりによってレイチェルのみと言う選択をした。

 普通一学年で、五人から七人は指導するのも、助教授の仕事だ。ジークフリートはそれを完全に放棄した格好になる。レイチェルに無関心だった多くの学生達との間に、今までなかった大きな溝が生まれた。人と一緒に居たいとは思わないが、露骨に毛嫌いされて嬉しい訳では無い。

 露骨な嫌がらせや文句の類は無いけれど、ルイーザが顔をしかめる様になった。

「レイチェル、大丈夫?」

 シーカーは悪意がクラウンとしてだけでなく、気配でも感知できる。だから、レイチェルに向く視線やヒソヒソと囁かれる声に、何が起こっているか、言わなくても分かったのだ。

「平気。私、人間だから」

 嘘。本当はちゃんと見えている。でも言えない。……しっぽも獣耳も無いから。

 奨学金を受けた際、国際機関とエルハントマネジメントの偉い人が一緒にやって来た。学校の一室で、彼らの連れて来た警備に守られて話をされた。

 長い話は、レイチェルをにとって、厳しい話ばかりだったけれど、当時はちゃんと理解できていなかった。分かったのは、自分が欠けた聖勇者と呼ばれる希少種の出身だった事。それ故に半天教に狙われた事、その血脈がレイチェルで途絶えてしまった事だった。

 頭の上の黒いものはクラウンと呼ばれる悪意で、黒くまとわりつく霧の様なもので顔がよく見えない人は、レイチェルを殺したい程に憎んでいる人だと知った。

 大昔、自分と姉を殺そうとした男達も、『先生』も、黒い霧が纏わりついていた。人相や表情がよく見えない程に。殺したい程に憎まれていたのだ。とぼんやり思った。

 他にも色々言われたけれど、その内容の重要性に気付いたのは、ケアスタッフの話を聞いた後だった。

 様々な説明の結論として、レイチェルは、もう欠けた聖勇者として役には立たない。だから、人間として生きて行くべきだと提案された。あなたの出自を知れば、期待する人も居る。あなたはそれを隠すべきだと説得された。期待を失望に変えれば、あなたの人生に、また不快な事が起こるからと。

 温厚そうな初老の女性が、真剣に語ってくれた。エルハントマネジメントの人で、聖勇者の心のケア部門の責任者だと言う。その人は、優しくて、クラウンなんて全く見えなかった。

 ただただ、目の前に居るレイチェルに失望しているだけだった。・

「もっと早く見つけられて居れば……」

 そう無念そうに呟く国際機関の女性にも、クラウンは見えなかった。

「私って、そんなにダメなんでしょうか?」

 まだ、常識も現実も知らなかったレイチェルは、そう二人に向かって言っていた。ダメだと思われているなら、わざわざお金を出して勉強させてくれる理由が分からない。

 二人は、息を呑み、青くなってこちらを見つめた。

「そうじゃないの。そうじゃないのよ!」

「そうじゃないの。私達はあなたの保護が遅れた事を、後悔しているだけなのよ」

 そうじゃないって言っていたけれど、そうだったのだ。

 みんなの期待を背負っていたのに、『先生』が壊して捨てたから、嬉々として残骸を拾い上げた者達は、みんな失望したのだ。レイチェルはそれを思い知って行く。

 そして、今もそのまま生きている。どうしたら良いのか分からないまま。

 ジークフリートも、勝手に期待して失望するのだろう。そのうち、そうなる筈だから、それまで待って。……レイチェルは、黒い気配に、そう心の中で言うしかなかった。

 食事中、ルイーザの心配そうな表情は、崩れないままだった。


 一年目から、実はスケジュールは厳しい。二年修了時には、とりあえず論文を一つ書き上げておかないといけないからだ。別に出来ていないなら持ち越してもいい。でもそうなると、四年修了時には二個の論文の提出をしなくてはならない。それは、学者としての適性、センスを問うものだ。そんなものを後回しにして一気に二個書いた所で、いい物など出来はしない。

 必須の講義の単位を取得し、二個の論文を四年で書き上げて、指導教官に提出する事が、学生のすべき事なのだ。

 判定は、どうやっているのか、学生のレイチェルには分からない。ただ、四年後の事は知っている。

 見込みの無い者は、大抵学府を去る事になる。そこでずるずる学生を続けても、師である指導教官が認めてくれない限り、永遠に学者への道は閉ざされるからだ。特例として指導教官を変更する事も可能だが、そうなると、論文を複数の別の指導教官に見てもらう事になる。これでダメと言われた場合、学府から『放校』と言う恰好で去る事になる。忙しい学者の手を、つまらない論文未満の文章で煩わせた罰と言う意味合いがある。だから、滅多にこの方法を取る学生は居ない。

 論文の例にもれず、学府で何らかの問題を起こした者は、大抵、放校になる。放校は、学府に二度と在籍を許さないと言う、学校側の強い意志のある命令だ。金が続かず自主退学した者や病気などで休学している者には、復学の道が用意されているが、放校者に復学は、絶対に認められない。

 不倫や汚職、人との関係で問題を抱えていた者も、放校対象になる。学府は、精錬潔癖である事で世界の信用を得ているからだ。

 放校になった者は、学府で、名前や出身国などのプロフィールがリストとして残っている。所謂ブラックリストだ。これに載っているとなると、大手の企業や国立の機関などで仕事を得るのはまず無理だ。

 別に真面目に勉強しているのに、適正が無かっただけの学生には、ちゃんと道がある。就職斡旋課という場所が学府には存在する。普段は学生のバイトや食うに困った学者の副業を斡旋する場所だが、指導教官の紹介状を持っていくと、即、学府卒業者と認定されて、多くの職から仕事を選ぶことが出来る様になる。

 名だたる大企業の名前がずらりと並んだ特別な金の縁取りのされた何冊ものファイルから、最も合った仕事を選べるのだ。学府で勉強はしたものの、学者に向かなかっただけの優秀な存在として扱われるのだ。

 彼らは、職業適性テストを受け、就職アドバイザーと相談して、最も適正のありそうな職種に就職する。こちらがここにすると言えば、即採用と言う、とんでもない好条件である。肩を落として学府を出て行っても、意気揚々と戻って来て教官にお礼を言う者が大半だと言う。

 無事に学者になれたとしても、ライラックのルークの様に、何なのか分からない人になるよりは良いのではなかろうか?

 レイチェルは、どっちが自分に向いているのか分からない。どっちになっても食いっぱぐれない。それが素晴らしいと思う。でも……最近、学府に居る事そのものが辛い。まだ一年目なのに、周囲の空気が黒いのだ。嫌だ。気持ち悪い。

「レイチェルちゃん、聞いてる?」

 顔をジークフリートに覗き込まれて、レイチェルは仏頂面になった。

「苗字か、呼び捨てにしてください」

「じゃあ、ちゃんと話を聞いて」

 確かにぼんやりしていた自分が悪いのだが、レイチェルちゃんとか止めて欲しい。ここは研究室で、他の学生や学者も、ブースで区切られているが居るのだ。皆、こちらの会話を聞いている。空気が余計に黒くなった気がする。

「いいか?君の書きたい論文の主題は、認可出来ない」

 それは前回も言われた。

「どうしてですか?」

「表向き、歴史的な半天教の研究と称して、君の書こうとしているのは、半天教で起こった人種差別の実態だ」

「実際、半天教は人種差別をしています。特に聖勇者は酷い扱いです。賛同者は少なからずいると思います」

 ジークフリートは大きくため息を吐いた。

「君のやりたい事は歴史宗教学じゃない。ただの宗教批判だ」

「違いが分かりません」

「……君に友達がいたとする。凄く仲がいい。素行も悪くない。ごく普通の子だ。その子が半天教だったとして、君は半天教を強く非難できるか?その非難が認められれば、その子も家族も居場所を失ってしまう。それこそ悲劇だと思わないか?」

 半天教には、相当数の信者が存在する。世界で最大の宗教だ。何故、あんな宗教が、と思うが、千年も続いている歴史は伊達では無いのだ。激しく批判すれば、大勢が無意味に命を落とすかも知れない。その責任をレイチェルは負えないと、ジークフリートは言っているのだ。

 学問と言うのは、おかしい事を指摘してもいいけれど、公平かつ平和的にやらなくてはならないのだ。とても難しい。……何だか疲れていると自分でも思う。

 必死に考えてレイチェルはぽつりと言った。

「論文は書きます。却下してください。それでいいです」

 レイチェルの言葉にジークフリートはため息を吐く。

「あのさ、僕は馬鹿にされている?放校にされたいの?一生、ブラックリストのお尋ね者だけど」

「就職組には入れてくれないのですか?」

「それで新聞社に入社して記事でも書いたら、途端にクビか、殺されちゃうから」

「……そうですか」

 がっかりする。……その手もダメか。

 ジークフリートは大きく息を再度吐いて、机に突っ伏すと、下からレイチェルの顔を覗き込んだ。

「ねえ、どうしてそんなに殺されたいの?」

「え?」

「自殺じゃないなら、いいんだって思ってる?他殺でも、死ぬのは幸せじゃないよ?」

 生きているよりも、ずっといい筈だ。姉は凄く満足そうに笑っていた。笑っていたじゃないか!あんな風に自分は生きている限り笑えない。だから、だから……。

 激しい感情を、レイチェルは心の奥で凍り付かせ、すぐに言った。

「別に死にたい訳じゃないですよ」

 嘘だ。生きているのに疲れているので、何とか人に迷惑をかけずに解放されたい。

「ねえ、この際だから言っておくけれど、僕は君を死なせないよ?」

 ジークフリートは、念を押す様に言った。

「指導教官とか、同じ学府の仲間とか、そう言う枠とは、別枠で、君にはちゃんと居場所がある。僕の中にね。その居場所は、君だけのものだから」

 周囲がざわめく。……何をいきなり口説いているのか!

 他のブースにも聞こえる声で、そんな事を言わないで欲しい。レイチェルは、侮蔑の表情に顔が歪んでいくのを止められなかった。この人は、何を知っていると言うのか。

「無理です。気持ち悪いから、アーサーの顔でそんな事言わないでください」

 ジークフリートを置いて、レイチェルは立ち上がり、その場を去った。最後、ジークフリートがどんな顔をしていたのかも見なかった。研究室の外へ出ても、ジークフリートは追って来なかったが、滅茶苦茶に走って逃げだしていた。でも、何処に逃げたらいいのか分からず、気付けば、学府の道端にぽつんと立っていた。噴水が近くにあって、水を吹きあげて、キラキラしていた。

 噴水の前にあるベンチに座り込んで、レイチェルは俯いてきつく目を閉じていた。

 アーサーの名前は言うつもりがなかったのに。こんなに早く、名前を出す事になるなんて……。我慢も限界だったのだ。ジークフリートは、これを狙っていたのだろうか?だとしたら、まんまとやられた事になる。

 それから数日、レイチェルはジークフリートと距離を取って過ごした。講義は後ろの方で受け、論文指導は短時間に抑え、ライラックでのご奉仕も、ジークフリートが来るとルークに変わってもらった。……我慢できなかったのだ。ジークフリートを見たくない、見られたくない。その気持ちが抑えきれなかったのだ。

 ルイーザは、様子がおかしいのに気づいていても、事情を聞かずにただ一緒に居てくれた。ルイーザがそうしてくれていた事にすら、気づかない程、レイチェルは追い詰められていた。話をしていても、上の空なレイチェルを、ルイーザは側に居ながら黙って放って置いてくれていたのだ。

「おとぎ話ってさ、本当は残酷だよね」

 ルイーザが、食堂でお茶を飲みながらつぶやく。

 ぼんやりしていたレイチェルは、『残酷』のキーワードに反応して顔をルイーザに向ける。

「どういう意味?」

「今さ、児童心理学の必須の講義で、童話考察論って授業受けているんだけど、原文がえげつないって話」

 レイチェルは不思議だったので、聞いた。……レイチェルは童話を詳しく知らない。宗教に関連している物の原文は知っているが、他の童話は知らない。そんなにえげつなかっただろうか?

「えげつない話なの?」

「そう。王子様は一人にしか愛をあげられないのに、二人の姫が王子の愛を欲しがっているの。結局一人が選ばれる。そこで子供向けの話は終わってるんだけど、原文では、選ばれなかったお姫様は、惨めだから泣きながら逃げて逃げて、良く知らない場所まで逃げて、世話になった熊のお嫁さんにされちゃうんだって。王子様を忘れられないまま、熊の子供を産んで、泣きながら暮らすんだよ」

 熊……。体格がいいだけのシーカーなんじゃないの?熊って……。それは衝撃的過ぎて、子供に言えない気がする。

「そうなんだ」

「現実は嫌なものだし、厳しい。それをやんわ~りと伝えるのが童話の役目かも知れないって説で論文を進めているんだ。今」

 レイチェルと違って、ルイーザの論文は順調らしい。

「要は、誰かの一番になるには、自分が主人公にならないといけないって頭の中に概念を作る物って事」

「主人公になるのが大事」

 十二年前、レイチェルはわき役だった。姉とアーサーの為の舞台で。主人公じゃなかったから、この世にレイチェルは置き去りにされた。

「そう。童話の酷い所は、わき役は幸せになれないって事。ただの景色みたいなものなんだもん。でも現実世界では、わき役にも人生があって続いている」

「そうだね……」

「だから、自分が主役にならないと、幸せになれないから、みんな自分の物語を作るって言う訳。どう?説得力のある論文になりそうでしょ?」

「うん。がんばれ」

 醜くて惨めな物語の主人公は……どうすればいいの?思った言葉は口に出せなかった。やんわりと伝えても、醜いものは醜い。惨めなものは惨めだ。

 熊の嫁は何も悪くない。選ばれなかっただけだ。レイチェルはそう思ったけれど、言えなかった。訴えた所で、そう言うものは削除されてしまうのだ。無かった事にされるのだ。

 レイチェルと選ばれなかった姫は同じだ。でも、姫は子孫を残せたからまだいい。子供は幸せになれたかも知れない。けれど、レイチェルはそれすら出来ない。出来ないのだ。

 結局、ルイーザとの勉強会が終わっても、レイチェルは元気が出なかった。

 ルイーザは、少し心配していたけれど、何も聞かずに、取って置いたと言うお菓子をくれた。ルイーザには、何故レイチェルが落ち込んでいるのか分からなかったのだろう。

 彼女には、不思議と憎しみが何故か湧かない。ルイーザは今のままでいいと思う。彼女は自分を対等に扱い、そっと寄り添ってくれる。彼女なら、自分の過去を知っても側に居てくれる気がする。けれど、重い物を背負わせたいとは思わなかった。もう、妹みたいに感じているから。自分の重荷で、一緒に迷子になってはいけないから。

 ルイーザには、自分の歩めなかった別の可能性を見せて欲しいと思う。明るく、健やかな日々を送って欲しいと心から思う。姉も、そんな気持ちでいてくれたのだろうか?だとしたら、今の自分は見せたくないな、と思った。


 レイチェルは日課通り、公衆浴場に行った。

 湯につかり、体をしっかりともみほぐして血行を良くする。座ってばかりいるので、これが案外大事だったりする。これで今夜はぐっすり眠れる筈だ。

 そう思いつつ、風呂を出てのんびりと身支度をして、無料で置いてある冷たい水を飲んで、外に出る。

 出た途端、そろそろアプローチしてくると予測していた顔を見た。別の風呂に行くべきだったと思ったがもう遅い。……ジークフリートだ。完全に待ち伏せだ。これは逃げきれそうにない。

「お疲れ様です」

 ぺこりと頭を下げて、それでも逃げようとしたレイチェルに、ジークフリートは言った。

「話がある。レイチェル」

「私にはありません」

「とにかく、来て」

 ジークフリートは大きな体で行く手を遮る。

 お互いがお互いを見る。……無表情で。こんなに近くに男性が居る。それだけで、『先生』との事を思い出し、気分が悪くなる。何故か、ジークフリートはアーサーと『先生』を合わせた雰囲気を持っているのだ。

「僕の……」

 と言われた途端、レイチェルは食い気味に言った。

「あなたの部屋も研究室も嫌です。もちろん私の部屋にも入れません」

 ジークフリートは、困った顔でレイチェルを見た。

「人に話を聞かれない場所を、君は知っている?」

 一つだけ、心当たりがある。

「ライラックは、今人が居ません。私はバイトだから、裏口の鍵の置き場所は知っています」

「……分かった」

 しかし、まだ逃げられると思っているのか、ジークフリートはじっとレイチェルの前に立ちはだかっている。

「逃げませんから」

 ジークフリートは素直に道を開けてくれた。吐き気がおさまってほっとする。その様子の一部始終をジークフリートが観察していたとは、レイチェルは思いもしなかった。

 張り詰めた空気の中、レイチェルはジークフリートと一緒に歩いた。……無言だった。

 ライラックの裏口に辿り着くと、レイチェルは裏口の鍵を、小さな箱から取り出した。ルークがこの鍵箱に法術を仕掛けていて、関係者以外が取り出そうとすると、警報が鳴る仕組みになっている。レイチェルは関係者だから当然鍵が入手できる。ただ、使用記録が残る。何時に箱が開けられたのか、オーナー、店主、ルークは把握している。

 レイチェルはそれをジークフリートに説明し、明日にでも使用した事実を説明に来て欲しいと頼んだ。

「話した内容は聞かれないと思います。仮にも特権カフェですから。ただ、私とこの時間に来て使った事だけは、店主かルークさんに伝えてください」

 オーナーは、未だに会った事が無い。

「分かった」

 レイチェルはジークフリートの返事を確認すると、扉を開けて、彼を中に入れた。

 中は真っ暗だったが、人の気配に法術灯が反応してぽうっと明るくなった。

 厨房の出入り口である裏口の先は、すぐ厨房だった。レイチェルとジークフリートは厨房を素通りして、カウンターへ向かう。厨房は店長の城だ。うかつに触れてはいけないと言われている。心配しなくても、レイチェルが速足で店に向かうと、ジークフリートは後についてきた。

 店の中のカウンター付近だけがぼんやりと明るくなる。店全体が明るくならないように、照明をレイチェルが調整したのだ。

 カウンターの前の椅子をジークフリートに勧めて、レイチェルは内側の椅子に座る。

 カウンターを挟まないといけない状態で、レイチェルが厨房を通ってダッシュで逃げられる構図だ。……所詮、時間稼ぎにしかならないが、心の安静の為の距離だ。

「用心深いね」

「別に、いつもお客様との距離はこの位ですから」

 本音は言わない口が、いつも通りに、するすると納得できそうな理由を吐き出す。

 ジークフリートは、レイチェルをじっと見据えた後、黙って何かを考えていた。レイチェルも話さない。害意が感じられないのに、違う意味で空気は異様に重たい。

 どのくらいしてからか、ジークフリートは言った。

「ねえ、人が怖いのは、どうして?」

 目を丸くしてみれば、ジークフリートは真剣な顔をしていた。

「話すのは平気なのに、触られるのはダメだよね?」

 そっちは聞かないで。『先生』の話はしたくない。

「あなたが聞きたいのは、アーサーの話ですよね?」

 話を必死に逸らしているのは、自分でも分かっている。ジークフリートも分かっている筈だ。でも、レイチェルにはこのカードしか手札がない。

「それは知っているよ」

 一瞬で、最強にして唯一の手札が無くなってしまった。ゲームは終わってしまった。ジークフリートの勝ちだ。

「レイチェル・リンド。この名前を僕は、ずっと忘れた事が無い」

 レイチェルは、頭が真っ白になった気がした。驚きではない。怒りで、だ。

「それ、本気で言っていますか?」

「本気だ。……忘れたのか?」

 意味が分からない。何を指して言っているのか分からない。アーサーは目の前で死んだ。ジークフリートとは会った事が無い筈だ。

「君は、僕の隔離されていた別宅の庭に立っていた。いきなり現れて」

 明るくて眩しい芝生の記憶はある。しかし、ジークフリートに会った覚えはない。

「誰なのか聞いたら、レイチェル・リンドと名乗って倒れた。僕は、君を客間のベッドに運んだ」

 知らない。そんな事は覚えていない。首をゆるゆると左右に振ると、ジークフリートは続けた。

「僕は当時、人との接触を避ける様に育てられていた。色々な事をして行くお手伝いさんは居たけれど、彼らは、爺ちゃんであるガーラント・ラグニスの命令で、僕と不必要な会話をしてはいけない事になっていた。……誰も居ない家で、僕はずっと一人で暮らしていた。君は、家族以外で名前を知った初めての人だった」

 異様過ぎる過去だ。しかし、彼は当たり前の様に言った。この人は何なのか?

 ジークフリートは、レイチェルをじっと見る。

「君の世話は僕がしていた。君は目を覚ますと、僕の顔を見て笑った。『生きてたんだね』って。僕はすぐに誰と間違えているのか分かったよ。一度も会った事のない、アーサーだってね」

 アーサーを見た事が無い?ジークフリートはその事情を飛ばして話を続けた。

「僕は、君がアーサーと僕を間違えていると指摘した。僕はアーサーの双子の弟だから、アーサーとは違うと言った。そうしたら、泣かれた」

 レイチェルは、全く覚えていない事が怖くなった。アーサーの双子の弟?今までの疑問が解消すると同時に怖くなる。何も知らない。

「僕は、生まれて初めて、困ると言う感情を覚えた。感情を持つと壊れるからと言われていたから、同時に覚えたのは、恐怖だった。魂が壊れて死ぬと思ったんだ」

 目の前のジークフリートは、ごく普通の感情を持つ青年で、死んでいない。

「僕は死ななかった。突然、母さんがやって来て、僕と君を契約させたからだ」

 母さんって、ジークフリートを養子にしたと言う、パメラ・ラグニスの事だろうか?

「契約?」

「君と僕が死なない様にする契約だよ。……覚えてない?」

「全然覚えていません。……それが本当なら、今初めて知りました」

 自分を死ななくする契約は一つだけだ。だとしたら、この契約は解除できない。人間はこんな特殊な契約を必要としていない。

 レイチェルは青ざめて、ジークフリートを見る。この人は……人間じゃない?

「君とお姉さんのレイシアが欠けた聖勇者だって事は、知っている?」

「……はい」

「欠けた聖勇者は、十五歳をピークに体が衰えて、早いと十八歳位で死んでしまうんだ。長く生きても、二十歳が限界だと言われている」

 知っている。そのせいで、見つけられた時、どれだけ喜ばれたか。そして同時に、どれだけ失望されたか。……苦しかった。

「見つからないままが良かった?」

 内心を当てられて、ギクっとする。

「分かるんだ。君の感情がある程度。魂がお互いに繋がっているから、近くに居れば分かるんだよ。君は、それ自体を拒絶しているみたいだね。どうやっているのか知らないけど」

 それは気持ち悪い、嫌だ。と思ってしまう。口は違う事を言う。

「それは、落ち着かないです」

 ジークフリートは呆れたように苦笑する。……嫌悪の感情は見事に筒抜けらしい。

「本当に思っている事を言わないね」

 返事をしたくないので黙っていると、ジークフリートはため息を吐いて続けた。

「君は、お姉さんとアーサーの事を話してくれた。僕の母さんが、その前にあった事情を知っていた。二人の話から、アーサーに何が起こったのか、僕は知った。君は当時、幼かったし、衝撃から立ち直れていなかったから話さなかった。……聞く?多分、僕の方が、君よりも詳しい」

 事件の事は覚えている。しかし、何故ああいう状況になったかは知らない。知りたくないと言えば嘘になる。迷ってから、レイチェルは頷いた。

「アーサーは、誘拐されたんだ。半天教に、僕だと疑われて」

 これだけ似ているなら、確かに疑われるだろう。しかし、聞いてみると全く違う話だった。

「僕達は、双子である事を伏せられていた。ジークフリート・ラグニスだけが養子としてラグニス家に入った。アーサーは、母さんに育てられていた。母さんは、名前をパメラ・レイブン……以前は、パメラ・ラグニスと名乗っていた女性だ。母さんは、双子の僕らを別々に育てる為に、家督を放棄して別戸籍になり、父さんと共に、居場所を転々としていた。そのレイブン家の一人息子が、アーサー・レイブン。僕の双子の兄だ。一歳になる前に別れたきり一度も会っていない。全く記憶に無い兄だ」

「それなのに、アーサーは攫われたんですか?」

「半天教は、ジークフリート・ラグニスを探していた。双子で生まれた事実はつかめていなかったんだ。ラグニス家で隠されていた僕は、見つからなかった。彼らは、母さんが子供を育てている情報を掴み、その子供を僕だと当たりを付けて、攫ったんだよ。けれど、『本物』である確証を得られなかった」

「それで、どうしたんですか?」

「欠けた聖勇者に会わせてみる事にしたんだ。……君の姉のレイシア・リンドに」

 さっきよりも、少し納得したけれど、疑問が解消されない。何故レイシアに会わせる事が、『本物』の証明になるのか理解できない。

「あなたとアーサーは、何者ですか?」

 ジークフリートが絶句する。まるで、絶対に知っていると思った知識がないとでも言う様に。

「……君は、何をされたんだ?」

 ジークフリートは、痛ましい表情でレイチェルを見た。疑問に疑問で返すのはルール違反だ。

「言いたくありません。……それで、あなたは何者なんですか?」

 『先生』の事は、忘れたい。それなのに忘れられなくて、苦しんでいる。ジークフリートと出会って契約した記憶は全く無い。明らかに、病院で行われていた『治療』のせいだ。その事は、言いたくなかった。

「僕もアーサーも、『シールダー』だ」

 やっぱり。でも、本当に居たなんて。

 盾の如き、鋼鉄の肉体を持つ事から、そう名付けられた名前だ。歴史宗教学の専攻なら、知らない訳が無い種族の名前だ。

「千年前に壊れかけた魂を始祖フランによって縛られて生き延びた、エスライン王国王太子、レイノスの末裔。希少種だよ」

 怒りが湧いた。伝説の存在なのに、あまりに普通過ぎる。レイチェルは叫んでいた。……ドラゴンに出会ったら、トカゲでした。みたいな?

「おかしくないですか?シールダーって、凄く力が強くて、鋼鉄並の力があって、空を飛ぶ翼を持っているんですよね?翼!無いじゃないですか!」

 何も考えずに、レイチェルはジークフリートを指さした。興奮で、口からは思った事がそのまま出た。

 ジークフリートは、その様子にくすりと笑った。

「あのね、ここからは、秘密の話。翼はね、出し入れできるんだ。出すと、理力が一気に放出されて色々面倒だから、ここでは出さないけどね」

「理力?」

「鳥の天使と言われていた、半天の能力だよ。自分にしか効果が無い、自己中な能力だよ。体の中も外も血液みたいに循環している。深層意識に反応して暴発する厄介な力だ。シーカーの敏感な五感を麻痺させて、マギの法術を木っ端みじんに砕く、破壊の力だよ」

 アーサーは傷だらけだった。背中から大量に血を流していた。……革の首輪をされて、鎖でつながれていた。確かに、数人の男で引っ張って止めていたのは怪力だったかも知れない。

「僕達の能力は人が扱うには大き過ぎた。生まれつきじゃなくて、徐々に育つ能力になった。成人しないと、理力は上手く制御できない。それまでは人間と変らない脆弱な存在だ」

「成人の定義が分からないです」

「翼だよ。成人して理力コントロールが出来る様になると、翼が生えるんだ。それがシールダーの成人だ」

 生まれつき生えていると思っていたが、まさか途中で生えるとは。しかも、出し入れ可能だなんて……本当だとすれば、世界中が驚く事になる。

「僕達の成長はゆっくりで、大昔は、殆ど成人できなかった。……時間が経って、魂が補てんされて、成人できる者が増えた。結構扱いが難しい力なんだ」

 当時のアーサーは、完全に子供だった事になる。それでは理力が不完全だ。人間と変らない。見た目では、シールダーであると言う見分けも付かない。魂が欠けているかどうか、マギの法術かシーカーが見ればわかっただろうけれど、半天教は聖勇者を信じない。

 ようやく、『本物』かどうか、分からないと言う事情に合点が行った。ジークフリートかどうかよりも、シールダーであるかどうかを確認したかったのだ。

 シールダーと欠けた聖勇者。それが出てしまえば、有名な神の予言の話になる。そこら辺は、有名なので良く知っている。

 聖勇者は完成していないのだ。神は予言を残した。マギ、シーカー、の他に『ソルジャー』と呼ばれる聖勇者が存在すると。その誕生を望むなら、シールダーと欠けた聖勇者の婚姻が必要になってくる。彼らは、めぐり合う時が来れば出会い、ソルジャーを生み出すと信じられている。今でも。

 だから、半天教は、シールダーと欠けた聖勇者を探し出し、根絶やしにする事を望んでいる。神の予言が成就されなければ、天使が地上に降りて来て、再び人間を守ってくれる。出来損ないの聖勇者と言うシステムは捨てられて、人間だけの地上世界になると信じているからだ。

 レイチェルが、過去に沈んでいると、ジークフリートは言った。

「未成年のシールダーを一気に覚醒させる方法がある」

「覚醒?」

「その名の通り、無理矢理、理力を爆発的に起こす、正に覚醒だ。……欠けた聖勇者の成人女性を近づける。それだけでシールダーは本能的に、理力を覚醒させる。制御できるかどうかは別だ」

 レイシアは十八歳だった。欠けた聖勇者の成人は十五歳だ。……間違いなく覚醒しただろう。

「レイシアは、教団の本部に行って、アーサー・レイブンと言う少年に会えと命令された。彼女はそれに従った」

 従うしかなかった筈だ。もう動くのもやっとだった。しかも、レイチェルを部屋に隠していたのだ。

「アーサーは覚醒した。覚醒と同時に背中に翼が生えた筈だ。翼は理力の制御器官だ。本来、理力の制御が出来る成長した肉体にしか生えないのに、覚醒はそれを無理矢理引き出してしまう。きっと背中の翼は力に耐えられず、朽ちて落ちた筈だ。翼は失われたら二度と生えない。そうなったシールダーは、理力の暴走で死ぬしかない。後は、君の見た通りだ。半天教は、聖勇者達への見せしめに公開処刑をする予定で、あそこにレイシアとアーサーを連れて行き、レイシアの部屋を面白半分に物色し、君を見つけた」

 アーサーの背中の大きな傷……翼が落ちた跡だったのだ。

 事件までの経緯は、これで繋がった。アーサーとレイシアは……ただ酷い目に遭わされただけだったのだ。『アレ』……何故、二人共満足そうな笑顔だったのかは、理解出来ないけれど、半天教による完全な殺害であった事は理解した。

「半天教は、シールダーの情報にどうして詳しいんですか?」

「彼らは、抵抗出来ない聖勇者を拷問にかけて情報を集めるんだ。家族も当然人質にするし、やり方は酷いものだよ。簡単には殺さないから、死体も酷い有様だ。……千年で何人殺したか知らないけれど、情報は十分集まったんじゃないかな。ラグニス家の親戚関係だけでも、百人以上殺されているしね」

 どうしてそんなに憎むのか?ああ、『先生』は……半天教の信者だったのだ。だから強く憎まれていた。今更ながら気付く。

「私は……どうして、あの病院に居たんですか?」

 おかしな事を聞いている自覚はある。けれど、分からない。レイチェルにはジークフリートとの記憶が全くなく、病院からの記憶になっているから、全然分からないのだ。

「君が僕と一緒に居たのは、二週間程度の短い時間だった。母は君を保護した翌日にやって来て契約をしたから、僕は自由な感情を手に入れて、君と色々な話をした。僕は、感情に振り回されながら、君と話すのを楽しみにしていたよ。僕にとっては、本当に幸せな時間だった」

「全く……覚えていません。すいません」

 ジークフリートの表情から、かけがえの無い記憶を失っている自分を申し訳なく思ってしまう。ジークフリートは寂しそうに笑って、首をゆるゆると振った。

「君は、いきなり連れ去られた。マギの結界に隠されていた家一体どうやったのか、未だに分からない」

 法術をかいくぐると言うのは、更に高度な法術を使うのが普通だ。ラグニス家は言うまでもなく、マギの始祖の家だ。最高水準の新しい法術を開発し続けている家系だ。その技術を越えると言うのは、まずあり得ない。そもそも、レイチェルの居場所に気付いた事自体がおかしいのだ。ジークフリートは、何年も見つけられなかったのに、レイチェルがたった二週間で発見されるのはおかしいのだ。

 レイチェルが居なくなった状況が全く分からないのは、レイチェルだけでなく、ジークフリートも同じらしい。未だに謎のままだと言う。

「君が突然消えて、母さん、爺ちゃん、大勢の人達も、探索に乗り出した。僕は、君と契約結婚しても、理力覚醒はしなかった」

 レイチェルは八歳の子供だった。成人した女性では無かったから、ジークフリートを覚醒させなかったのだ。

「僕はずっと役立たずの人間モドキだったんだよ。僕に翼が生えたのは、二十三歳だから、四年前だ。君がどこに居るのか、その時も分からなかった。……理力は身勝手な能力だ。……僕は、本当に何も出来ないままだった」

「あなたは……私が三年前、奨学金制度に応募して、ロイネスの学校で素性が知れた時、誰にもその事を知らされなかったんですよね?」

 ジークフリートは頷く。

「知らなかった。ここに君が来て、その時に初めて、皆が君の存在を知りながら僕に黙っていた事を知った」

 怒っているらしく、ジークフリートは顔を歪める。

「誰も彼も、皆口をつぐんで、何も言わない。……だから、君本人に聞く事にした」

 レイチェルは、俯いた。

「僕は、君に会えて嬉しかった。しかし、君から感じたのは、恐怖と嫌悪だった。……君は、僕を拒絶した。しかも、生きている事に全く意味を感じていなかった」

 言えない。言いたくない……。この人は何も悪くない。悪くないのだ。他の人もそうだった。助けようとした手を引っ込める程の醜く酷い状態。この人は……どうするのか、考えると怖かった。

「ごめんなさい」

「どうして、謝るの?」

「何も覚えていないし、その後の事は……言えば、あなたを傷つけてしまう」

 契約結婚。魂の契約。聖勇者の始祖を生み出すのに必須の契約で、過去、全ての聖勇者は、これを始まりに産まれている。そんな事は、歴史宗教学の簡単な入門書にも載っている。歴史上たった三例しか知られていない契約の四例目が、レイチェルとジークフリートとの間で行われていたのだ。

 それを知っていたのかは分からない。けれど半天教は怖れただろう。レイチェルをこのままにしておけば、ソルジャーが誕生してしまう。だから、病院で痛めつけられた。記憶も欠けているし、臓器も足りない。

 それを告げるのが、こんなに辛く苦しい事実だなんて、今まで思いもしなかった。レイチェルは、息も出来ない程の苦しさの中、久々に目頭が熱くなるのを感じた。

「無いんです……」

 一言……告げる。

「無い?」

「……子宮」

「え?」

 ジークフリートが立ち上がる。レイチェルはその顔を見上げる事が出来ず、俯いた。涙がぽとぽととカウンターに落ちた。

「取られたって……び、病院で」

 涙が次々に落ちて行く。

 レイチェル自身は自覚が無い。病院に居た頃は、日付も分からない中で、日々、暮らしていた。麻酔をかけられて、眠っていた日があっても、体調を崩して長く眠っていたと言われれば気づかない。

 体や頭が酷く痛んで、動けない日が何度もあった。

 分からない内に、頭の中も、体も、滅茶苦茶にされてしまっていたのだ。

 レイチェルは、学校に入って奨学金制度を受けた際に、簡単な種族検査と呼ばれるものを受けた。聖勇者かどうか、それだけを簡単に調べる検査だ。その際、しっぽや獣耳の有無も調べられる。それで、欠けた聖勇者だと判明した。

 担任の教師など、有頂天だった。欠けた聖勇者を保護した、素晴らしい成果だと、国際機関から来た人々も大喜びしていた。

「そんなの聞かされても……分からなかった」

 その後、国際機関は奨学金を出す事を了承する前に、エルハントマネジメントに、レイチェルの調査を依頼した。

 レイチェルは、勉強は何でもあっさりこなす天才だったけれど、好きな科目がある訳でも無く、一般常識が全くない。勉強が出来る大人しい孤児と言う事で、恰好のいじめのターゲットにもなっていた。それに抵抗しないどころか、人形の様に言う事を聞くレイチェルの姿は、一種異様だった。

 いじめが発覚した際、制服を隠されて、下着姿で平然と帰り支度をしている所を教師が目撃したのだ。普通、そんな事が起これば、泣くし、誰かに助けを求める。しかもロイネスは、年間の最高気温が十度を下回る、非常に寒い国だ。唇を紫にして震えながらも、レイチェルは泣きもせず、鞄に教科書を詰めていた。

 その異様さは、喜んでいた者達に大きな不安を与えたのだ。……この娘には、問題があるかも知れない。と。エルハントマネジメントは、欠けた聖勇者であるレイチェルの過去の調査を行った。そして慌てて検査を行い……絶望したのだ。

 途切れ途切れに話すレイチェルの言葉に、ジークフリートは口を挟まず、黙っていた。

「普通、成人した女には、月のものがあると……私は、そんなの、無いです。知りません」

 生理がある事も後で教えられた。男女の違いも常識も、種族の事も……。この世の一般常識は、全て、エルハントマネジメントから派遣されていた女性のケアスタッフである、シルビアに教えられた事だ。

 レイチェルの体には、手術の跡は全く見当たらない。そこで、婦人科の医師が直接調べた。

「検査で、私が使えない……ダメな奴だと判明しました。私は、事態が飲み込めず……」

 国際機関はお金の手続きをすると、ぱったり来なくなった。担任教師は退職し、他の教師達もレイチェルを空気の様に扱った。優しい言葉と感情でレイチェルに近づく者は居なくなった。

 成績はいつも一番だったけれど、教師達は二番目からが一番だと言う扱いをした。いじめはより陰湿になって、目立たない形に変わった。

 ケアスタッフとして、学校で優しくしてくれたシルビアにも嫌悪を抱く様になっていった。彼女から与えられる知識はただ、ありがたいだけだと思っていた。しかし、だんだんとしみ込んで毒になっていった。

 過去の自分がされていた事が監禁と虐待であった事、欠けた聖勇者であるレイチェルには、出産が求められていたのに、それが出来ない事。色々な現実を思い知らせる事になったのだ。そんな辛い事実ばかりを教えてくるシルビアを何時しか憎んでいた。常識と言うナイフで心が削られて行く事に耐え切れなくなって、その手を振り払ったのだ。……それっきりシルビアは来なくなった。

 悪意も無く、本心から気にかけてくれている人は確かに居る。ルイーザがそうだ。ライラックの店長もルークもそうだ。けれど皆、踏み込んでこない。だから居心地が良かっただけだ。

 やたらと踏み込んで来ようとするのに、クラウンの一切見えないジークフリートはずっと怖かった。……こうなる事が何処かで分かっていたのかも知れない。

 踏み込まれたら、レイチェルは逃げ出すか、苦しい過去を自白する事しか出来ない。逃げ出すって何処へ?レイチェルはずっと迷子だ。逃げまどって疲れ果てている。

「ごめんなさい……子供……産めません」

 自分は、女に生まれていたからこそ、皆が価値を見出していた。それが、女性として機能しないのでは、皆絶望すると言うものだ。産めないのだから、いらないのだ。千年に渡る、人々の希望を、絶望に変えてしまったのだ。だから、ラグニス家を始め、事情を知る者は全員、隠す事にしたのだ。

 喜ぶのは、半天教徒だけだから。

 レイチェルは、カウンターに涙の粒を落としながら、しゃくりあげて泣き続けた。格好悪いとか、情けないとか、そう言う気持ちも無かった。もうプライドなんて残されていなかった。

 『先生』は、本当に自分が憎かったのだ。嫌われているのを知りながら、愛情欲しさに縋りついた愚かな自分に、息も詰まる。大切な物をすべて奪われていたのだ。結果、心配してくれる人を絶望させる事しか出来ないのだ。

 どれくらい泣いていただろうか。その間、じっと黙っていたジークフリートが静かに告げた。

「君の価値は、そこじゃない」

 ジークフリートは、ずっと立っていたけれど、座り直し、ポケットからハンカチを差し出した。少し迷って、レイチェルはそれを受け取った。

 ジークフリートは、レイチェルをまっすぐに見て、言い含める様に言った。

「何度でも言う。君の価値は、そこじゃない」

 でも、周囲がレイチェルに求めたのは、その価値だ。

「僕には、その部分はあまり意味が無い」

「でも……」

 記憶も臓器も無い、残りカスの自分の価値など、自分がよく知っている。

「君は、大勢に裏切られた。辛い思いをして、人を嫌悪している。それなのに……僕の話す、普通なら信じられない様な話を、嘘だと一言も言わなかった。辛いのに自分の事も話してくれた」

「相手の情報だけを引き出すのは、フェアじゃありません。それに……そんな出来過ぎた嘘、話す理由があなたにはあるのですか?」

「無い。証拠が欲しい?」

「いいえ!」

 即答していた。翼を見せろと絶対に言ってはいけない。

 とっさに判断したのだ。理屈ではない。直感だ。ジークフリートは、今もレイチェルが納得するなら、翼を見せる事を躊躇っていない。……その後で何かが起こっても責任を取れない。レイチェルはそれが怖かった。

「僕が物凄く怒っている事を、さすがに感じているみたいだね」

 魂の契約者。ジークフリートは、本心から怒っているのだ。世界そのものを敵にしたような怒りだった。レイチェルは、こんな激しい感情は、持った事が無い。

「僕が怖い?」

 怖い。凄く怖い。レイチェルはそれを言えずに黙り込んだ。ジークフリートから黒い霧が吹きだす様子を見たくなくて、目を逸らした。この人のそんな姿、見たくない。

「こんな僕が契約者でごめん。自分でもどうしようも無いんだ。怖くてごめん。優しく出来なくてごめん。何も知らなかったのも、ごめん」

 レイチェルが恐る恐る顔を上げると、ジークフリートは泣きそうな顔でレイチェルを見ていた。全く黒く無かった。どうして?

「君は間違いなく、僕の伴侶だ。僕にとってそれが価値だ」

 レイチェル自身を望む言葉。ずっと、ずっと……欲しくて、あがいて、絶望して諦めた言葉が、今、自分の為に用意された。レイチェルは、その言葉をどう扱っていいのか分からず、戸惑ってしまう。

 ジークフリートは、ゆっくりと、レイチェルに染み込ませるように言った。

「僕は君がいい。君だから、いいんだ。……レイチェル。学生証を出して」

 ジークフリートに言われるまま、学生証をポケットから取り出して差し出した。

「これ。新しいの。ずっと渡そうと思っていたけど、今、渡す」

 ジークフリートは、ペンを取り出すと、何かを書き加えていた。

「はい」

 差し出された学生証は、名前がレイチェル・ラグニスで印字されていた。書き加えた部分はすぐに分かった。……種族欄がおかしなことになっている。

『盾嫁』

 『人間』と書かれていた場所に二重線を書いて、ジークフリートが書き直したのだ。シールダーの伴侶だから、盾嫁にしたらしい。……たてよめって何?花嫁っぽいけど、全然違う。訳が分からない。

 レイチェルは、唖然としてそれを見た。

「これ、明日から使うんですか?」

「勿論」

 ジークフリートの返事に、レイチェルは暫くして、腹を抱えて笑い出した。こんな学生証、誰にも見せられない。どうしたらいいの?困っている筈なのに、胸の奥から、何かがふわふわとした何かが浮かんできて弾ける。嬉しいと言う感情だと気づくまで暫くかかった。

 事実を知っているのに、それでもいいと言って受け入れてくれた人が居る。目の前に居るのに、未だに信じられない。

「何だよ。折角考えたのに」

 ジークフリートが心外そうにつぶやく。暫く笑ってから、レイチェルはふと思いつく。

「あなたは?」

「ん?」

 レイチェルは、勇気を出して言った。

「あなたの身分証明証の種族を聞いているのです」

「あー……」

 ジークフリートが誤魔化そうとしているの、レイチェルは再度手を差し出して言った。

「見せてください」

「あ、いや、その……」

 そろりと出してきた証明証は、思った通り、種族が『人間』になっている。

 レイチェルはちょっとジークフリートを睨みつけてから、自分の持っていてペンでそれに二重線を引いて消すと上に書き加えた。

『盾夫』

「え~、たてお?ちょっと酷くないか?」

「自分だけ、人間で誤魔化すのは、卑怯です」

 レイチェルは、威圧的に訴えた。

「うぅ……」

 痛い所を突かれたのか、ジークフリートが唸る。しかし、暫く眺めると、じわじわとにやけ始めた。何だ?と思っていると、ニヤニヤして言った。

「でも、レイチェルの直筆で『夫』なんて書いてもらったから、このままでいいか」

 レイチェルは目を丸くする。何だか、まずい気がする。

 おろおろしている内に、その証明書はジークフリートのポケットに収まった。

「あ、あの……」

 ジークフリートは、優しい顔で笑って言った。

「この程度の悪戯で、うろたえてるの?可愛い。もっとやって」

 レイチェルは、耳まで真っ赤になって、何も言えなかった。

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