第四話:ウサギ耳の定義とその考察
「帰れ」
「いや、あの……」
「今すぐに私の目の前から消えろ」
ところどころ塗装が剥げ、屋根には細い蔦が絡みついた、中世ヨーロッパの城かと見紛う程大きく立派な屋敷。その荘厳な門の前で、私は屋敷の主であろう男に睨まれていた。
別に、ピンポンダッシュをしようとして失敗したわけでも、家の壁にへのへのもへじを描いたわけでもない。ディールさん達と別れ、仕方なくこの屋敷の門の前に立った。それだけだ。なのに、この燻し銀は情け容赦ない言葉を投げつけてくる。
皆私にフォーリンラブなんじゃなかったんですか。
「帰れと言っているのが分からんのか?その耳は飾りか」
漆黒の瞳が不機嫌そうに細められた。
本気で怖い。視線で人が殺せそう。
……ここでちょっと現実逃避がてら人間観察でも。
門を挟んで私の目の前の男の人は、瞳と同じ色の髪を後ろで一つに束ね、金糸の美しい刺繍がついた高級感漂う服に身を包んでいる。歳は三十過ぎくらいだろうか、ドイツの軍服に似たその服がよく似合っていた。どこのマフィアですかと聞きたくなるくらい威厳がある。そして頭には趣味の悪いシルクハット。……形は個人の嗜好の問題としても、値札をつけたままかぶるのはやめたほうがいいと思いますよ……。
「あ、あのー」
いつまでも現実逃避をしていては埒があかない。取り敢えず、事情を説明してみなければ。
「何だ」
一応返事はしてくれた!
極悪人というわけではなさそうだと安堵したその時、私の目に、信じられないものが映った。
「じゅ、じゅじゅじゅ……」
「哀れだな、遂に気でも狂ったか」
ロン毛オヤジ(仮)が鼻で笑う。
遂にってなんだ、遂にって。
……じゃなくて!
「ど、どうしてあなた銃なんて持ってるの!?」
そう。白い手袋をはめたロン毛さんの右手には、小さな銃がしっかりと握られていたのだ。
いつもの私なら、どうせオモチャでしょ、で片付けていただろうが、このロン毛さんの雰囲気は銃を持っていてもおかしくない。むしろ、持っていたほうが自然だ。
「それはテメェを打ち抜く為だ、この短足女!」
「酷ッ! 今の言葉で私のガラスのハートが音を立てて崩れた……!」
「ま、待て、今のは私ではないぞ」
涙目で睨み付けると、ロン毛さんは両手を肩の位置まで挙げて否定した。眉と目の間が、さっきより少し開いている。どうやら焦っているらしい。
「あなたじゃないなら一体誰が……」
「はッ、別に気配消してたわけでもねぇのに気づかないなんて、アホな女だな」
「何ですってぇ!? アホって言ったほうがアホなのよ、バーカ! ……って……あれ……?」
つい反射的に言い返したが、今の腹の立つ言葉を言ったのは一体誰だ。
きょろきょろと辺りを見回してみるが、それらしき人物は見当たらない。もしや腹話術でも使えるのだろうか、と、まだ両手をあげたままのロン毛さんのほうに顔を向けたその時。
突然、後頭部に衝撃を感じ、軽くよろめいた。振り返ると、私と同い年くらいの金髪の少年が仁王立ちしている。そしてその頭からは、オレンジ色のウサギ耳が二本突き出ていた。
「リオ……お前は一体、何をやっているんだ」
ロン毛さんが片手で眉間を押さえながら、溜息まじりに言う。
もし漫画なら、目の下に縦線が入っているだろう。
「何って、決まってんだろ。この女をお前の代わりに追い出してやろうと」
「余計な事をするな! それから何度も言っているだろう、私をお前呼ばわりするんじゃない!」
「うるせぇな、テメェがそんなんだからヤマネが家出すんだよ!」
「ヤマネは旅行に行っているだけだ、家出ではない!」
やまね……背の高い二人組みの片方の事だろうか。
なんにせよ、なにやら複雑そうな家庭だな。
「えーと、リオ、だっけ?」
とりあえず落ち着いてもらって事情を話さないと。
「気安く俺の名前を呼ぶんじゃねぇ、バカアホ短足女!」
「何ですって!? 私にはアリス……何だっけ……ああ、そうそう、アリス=リデルという名前があるんだから! ちゃんと名前で呼びなさい!」
ちなみにできたてほやほやです。
「なっ、アリスだと!?」
突然ロン毛さんが叫ぶように言った。
驚いて顔を向けると、ロン毛さんが目を見開いて私を見ている。
……私、何かおかしな事言ったっけ……?
「何という事だ……」
ロン毛さんが小さく呟くと同時に、その右手をすり抜けて落下した銃が、石の床に弾んで音を立てた。
「今までのご無礼をお許しください、アリス様」
ロン毛さんは門を開きこちら側へ駆け寄ってきたかと思うと、私の右手を取り、軽く頭を垂れる。
しんと静まり返った空間の中で、ウサ耳少年の舌打ちの音だけがはっきりと聞こえた。
◇◇
「な、何、急にどうしたの!?」
突然の出来事に慌てる私を余所に、ロン毛さんは落ち着いた口調で説明を始める。
ウサ耳少年はずっと押し黙ったままだ。
「もうご存知の事とは思いますが、私は“帽子屋”役をやっています。そして、“帽子屋”は代々“アリス”に仕えてきました。つまり……8代目帽子屋である私の主は貴方です、アリス様」
ロン毛さんは地面に片足をついた格好のまま、私の手を強く握り締めた。
もしこの人が可愛い女の子だったら、上目遣いと手をぎゅっ、の効果は絶大だっただろうが、残念ながらロン毛さんはかなり体格のいい男だ。違う意味で破壊力はあるが母性本能は全くくすぐられない。
「あの、えっと、ロンさんでしたっけ?」
「私ですか? 私はロンではなくシェイド=フランディーズですが」
しまった。
何とか誤魔化そうと、私は小さく舌を出し、右手で自分の頭をコツンと叩く。少女漫画の定番ポーズ、やっちゃった、の五秒前だ。
「え……えへ、やっちゃった★」
途端に、場が水を打ったように静まり返る。不自然な静寂が逆に切ない。
「……痛ェ女」
「黙れリオ!……アリス様、今のは……」
ロンさ…シェイドさんも困ったような表情だ。
「ごめん忘れて」
「……了解致しました。……アリス様」
急に、シェイドさんの声が低くなった。
この世界に来て何度目かもわからない、嫌な予感がする。
「いいですか、ここからが重要な話です。しっかり聞いて下さい」
私が小さく頷くと、シェイドさんはゆったりと口を開いた。
「貴方は、命を狙われています」
「……へ?」
「“アリス”はこの世界の救世主であり――同時に、脅威でもある」
頭が痛む。その話の続きはききたくない。
心のどこかで、そう拒絶する声が聞こえる。でも、シェイドさんは、躊躇う事無く次の言葉を紡いだ。
「この国の殆どの者が、貴女の敵だ。……勿論、“白ウサギ”も例外ではない」
言い終えると、シェイドさんは目を伏せた。
一瞬、時が止まったかのような錯覚に陥る。
「で……でも、それならどうして……」
「貴女を私のところに連れてきたか、ですか?」
何故この人が、それを知っているのだろう。
その疑問を口に出そうとして、激しい喉の渇きに襲われた。口の中が渇いて、上手く声を出せない。
「それは、」
シェイドさんは一旦言葉を切った。再び静寂が訪れる。
私は、ただ黙って次の言葉を待つ事しかできなかった。
「……ルールだからだ」
遠のいていく意識の中で、誰かが私の名を呼んだ気がした。