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M氏の諦観

A~Zまで悪人を並べ立てようとしててやろうと思っています。

自分の中の悪を並べ立てれば、書いている本人の私は毒が抜けきって真っ当になれるかも知れません。

そう願を掛けながら、意外と悪が出てこないことに焦りながら、Mです。

善良であっても、「脇」と「見た目」が悪けりゃ悪に認定されるんだよ、この世の中は。と思いつつ。

 事件

(検事アサヒナ・タカシ)

 事件番号、平成XX年(ん)1010号事件。新しく担当する事案だ。

 全くひどい事件だった。この事件の担当になったのは、謂わば天命だろう。私にはこの被疑者がどうしても許せない。憎んでいると言ったって良い。子供に毛の生えたような若い男による、連続殺人事件。世の中も騒然となったものだ。

 連日新聞やテレビと言ったメディアで大変な話題になり、拘留中は警察の発表の一々に世間が大騒ぎした。報道は被疑者の親族や学生時代の友人、学生生活にも及び、確か両親は世間に謝罪することもなく雲隠れしたと言うことだったな。無責任という遺伝子が脈々と受け継がれたわけだ。不愉快だ。

 流石に被疑者が送検されてからは下火になったとは言え、例え世の関心が薄れようとも凶悪犯罪であることに変わりは無い。ここからこの被疑者が犯した罪を裁く裁判が始まる。正義はまさにここから試されるのだ。

 警察から上がってきた調書を読むと、被疑者Mは筋弛緩剤を患者の点滴に混入したり、静脈に注射して安楽死させたとある。被害に遭ったのは小学五年生、女児。末期胃癌の患者、58歳男性。以上が意識不明の植物状態。胃瘻いろう患者、89歳女性。膵臓癌患者、42歳男性。硬膜下出血でリハビリ中の患者、65歳男性。以上が死亡。何とも痛ましい。人生まだまだこれからの少女と懸命にリハビリに励まれていた男性は慚愧に堪えないことであろう。ご本人には無論、ご遺族にとっても。そこには胸に抱いた未来があったはずなのに。

 高齢であったり、重篤な疾患があったとは言え、不意に他人によって命が絶たれて良いはずがない。ご家族やご友人に残したい言葉もまだあったに違いない。何とも痛ましい、言葉にならない。

 この被疑者は医薬品を扱えることで神にでもなった気分だったか、器の小さい人間が、その器にそぐわない大きな力を与えられると、全能感に酔いしれるのだ。ままあることだ。そして、裁きでも下したつもりだったのだろう。今度はこの男が裁きを受ける番だ。覚悟するが良い。全力で悪を暴く所存だ。


(弁護士マノ・キョウコ)

 親にも見放された被疑者M、23歳、男性。大学受験に失敗し、一浪後看護専門学校に進学。三年間の勉強の後、○▽山クリニックに勤務。勤務態度は良好で、患者受けも悪くない。

 そのM氏が逮捕されたのが12月20日。注射針や薬品のアンプルを処分するところを私服警官に呼び止められ、手に持っていた物を改められた。結果、筋弛緩剤ベクロニウムの空きアンプルが三つ発見され、任意同行。M氏は無罪を主張するも、ある日を境に全面的に犯行を認めている。

 M氏は犯行の凶悪さから唯一の肉親である両親からも見放され、弁護士を雇うことも出来なかった。両親はM被疑者を生んだことを恥として、一切のメディアへの露出を拒否し、人知れず住居を移したと聞く。今、私が連絡を取ろうとしても取れないのだから、その徹底ぶりは異常とさえ言える。

 同僚に話を聞いてみても、若い男性らしい少々の醜聞はあっても、それが事件と結びつくようなものは無い。おおむね仕事熱心で、彼女を欲しがっている一般的な男性だ。被疑者の倫理観については、同僚に聞く限りではよく分からない。ただ、きっちりとした仕事をするとのこと。

 事件は今年の1月から断続的に起こっている。被疑者Mは去年の四月に○▽山クリニックに職を得ており、警察の報告では自らの技量と報酬の乖離に不満があり、今年に入ってから犯行に至ったという。

 被告は健康保険制度についても不満があり、高い診療報酬を使用する胃瘻や末期癌と言った患者に憎悪を抱いていたという。「誰のお陰で治療を受けられると思っているのだ。俺達若者が健康保険料を払ってやっているからじゃないか。その健康保険だって、俺達が老人なるずっと前に破綻するのは目に見えている。」と周りに漏らしていたそうだが、その周りに私が聞いてみたところ、そのような発言を聞いた人が一人もいない。

 被告は点滴や静脈注射により筋弛緩剤ベクロニウムを注入し、死に至らしめた。私は暴力や事故と言った刑事事件をよく扱ってはいるものの、医療関係については明るくない。医療に関しては「白い巨塔」ではないが、医療の素人には難しすぎる一面がある。この方面は、どなたかの協力が要るだろう。

 私が気になるのは、被告のひどく諦めきった態度だ。捨て鉢な言動が無実を現しているとも思えるが、正直なところ何とも言えない。


(被告M)

 寒い。留置場があんなにも寒いものだとは知らなかった。しかも、独房だ。今いる拘置所がどれだけ有り難いか。

 まさか自分が逮捕拘束されることなんて考えもしなかったから、こんな言葉も知らなかったが、逮捕されたら留置場、取り調べが終わって裁判が終わるまでは刑が決まっていないので拘置所に預けられるのだそうだ。こんなことにならなければ、どうでも良いことだけど、こうも差があるのだと大きなことだ。もう二度と留置場は御免だ。

 留置所での寒さはハンパなかった。コンクリの打ちっ放しに毛布一枚。刑事達の怒鳴り声を散々聞かされて、ノイローゼ寸前で放り込まれるのが裸電球一個の留置所だ。しかも僕は重大犯罪を犯しているとかで独房。取り調べと独房、どっちがきつかったって、どっちもどっちだった。あの空間から出てこられただけでも有り難い。

 逮捕されたのは、小雪のちらつく12月の終わりだった。あの朝、僕は先輩に言われて医療用廃棄物を分別しに外に出た。注射針や注射液の入っていたアンプルがほとんどだった。いつも通り、サッサと処分して、暖かい建物に入りたかった。あんな雑用まで、看護師の仕事だとは思わなかった。暇そうにしている事務員やパートに任せれば良いようなものだが、万が一にも廃棄した内容と既購入物・残存物の内容に齟齬があっては大問題になる。だから、これも大事な仕事だと言われれば、納得もいった。

 処置室で先輩看護師、かなり年配のベテラン女性看護師だ、と廃棄するもののダブルチェックを行って、廃棄記録に間違いが無いことを二人の判を押して記録した。後は鍵のかかったポリバケツに捨てるだけ。

 ポリバケツの鍵を開け、蓋を取ろうとした時だった。茶色の手袋をした手がいきなり僕の右手を掴んだ。他の人の手が僕の左手を掴むと、廃棄物を入れたビニール袋を取り上げた。

「何をするんだ。それは医療廃棄物だぞ。」

 僕は心底怒りを込めて言った。

「Mさんだね?君には連続殺人の重要参考人として、任意同行をお願いしたい。」

 濃いグレーのスーツを着た、いかにも強面の男が茶色の手袋の持ち主だった。髪はオールバック。有無を言わさない威圧感があった。僕は完全の呑まれてしまった。

「はあ?」

 そう言うのが精一杯だった。何のことなのか、全く理解できなかった。

「君は、このクリニックで起こった連続殺人の重要参考人なんだよ。よって、我々と同道願いたい。

 これは任意だがね、拒んでも良いってわけじゃない。分かるね?」

 オールバックの男の後ろでは、これまた強面の男達がビニール袋の中を改めている。

「素手で触るな!針が入っている。感染症に罹ったらどうするんだ。」

 震える声だったと思う。男達は胡散臭そうに僕の方を一瞥すると、

「あっ、そっ。そりゃどーも。」

 と素っ気なく返した。男達はいかにもその辺にいそうなラフな格好をしていた。僕は両脇を屈強な男達に掴まれ、車に案内された。先輩や同僚に一言を言う暇も与えられなかった。

「くどいようだがね、君は重要参考人なんだよ。」

 それがどういう意味かは分かりかねたが、車に乗った。それが、いわゆる娑婆とのお別れだった。

 車の外見は普通のセダンだった。だが、中は機材が色々と詰まれていて、普通ではなかった。僕は両脇を筋肉の太い男に挟まれ、真ん中に座らされた。

「シートベルト、してね。」

 面倒くさそうに助手席に乗ったオールバックが言った。僕は素直に従った。


 調書

(検事アサヒナ・タカシ)

 最初は無実を訴えていた?まあ、たいていはそうだろう。うまくいけば、罪を逃れられるかも知れないと思うのだろう。浅はかとしか言いようが無い。

 取り調べがいつも紳士的とは限らないが、我が国は法治国家だ。取調官達はその道のプロだ。さじ加減は心得たもので、やはりこの被疑者も途中で諦めたと見える。取り調べ開始三日後からは素直に供述をしている。

 最初の三日間が、それなりに長時間に渡って取り調べを受けている。開始と終了時に被疑者の指印がある。まあ、これくらいは一般企業でも良くあることだ。残業だと思えば普通だ。問題にならない。

 その後は九時五時だな。素直になれば、それだけこともスムーズに進む。

 私が取調官に特に注意して聴取して欲しかったことは、動機だ。物証的にはまず問題が無いと私は確信している。充分すぎるほどに物証はあり、公判は充分に維持できる。これに動機が揃えば文句ない。取調官にはその旨伝えてあり、趣旨に沿った取り調べをやってくれている。プロの仕事というものは、気持ちの良いものだ。それに引き替え、看護婦のなり損ないのようなこの半端者ときたら、医療に従事する者のくせに、人を殺すとはな。

 十一歳、女児。痙攣発作で入院。ドルミカムを抗痙攣剤として使用し、絶対安静中。初恋の女性に似ており、酸素マスクと直接胃に栄養分を送るマーゲンチューブが痛々しく、殺害を決意。自らの手で殺すことで永遠に女児が自分のものになると考えた。筋弛緩剤ベクロニウムは点滴に分からないように混ぜた。

 全く、自分の担当患者でもないのに、この年令の若者ってのは頭がどうかしている。殺すことで手に入れられるというロジックがサッパリ理解できない。だが、こういう頭のおかしい奴は、ままいるものなのだ。

 89歳女性、65歳男性。彼等に支給される年金と医療費がもったいないと考え犯行に及んだ。どうせ世間に対して何の生産性も見込めない老人であり、この世から去って貰うのが妥当と考えた。

 ふん、やはりな。神にでもなったつもりか。お前達若造が何不自由なく生活できる世の中を築いて下さった社会の先輩に、尊敬の念も感謝もないのか。こんな思考回路を許した学校教育も狂っているのかも知れないな。

 58歳男性、42歳男性。癌で苦しむ姿を見たくなかった。いずれ自分が同じようにこの病で苦しむのかと思うと、いてもたってもいられず静脈に筋弛緩剤を注射した。どの患者も、安らかな顔をしてしてくれたのが救い。

 ああ。だが、この男には救いはない。救えない。厳罰あるのみだな。医療関係者への不信を掻き立て、社会を騒乱させ、無辜の人間を少なくとも五名死傷させたことは極刑に値する。しかも三人にいたっては命を奪われている。永山規準からしても、妥当だ。

 求刑は、死刑とする。余罪に至っては、究明のしようがないことが悔やまれる。


(弁護士マノ・キョウコ)

 典型的な自白強要の調書だわ。教科書に載せてあげたいくらい。11歳女児が初恋の人に似ていて、独占したかった?馬鹿馬鹿しさもここまで来ると、笑えないわ。でも、裁判員達はまともに受け取っちゃうのよね、理解し易いから。

 まず、最初の三日間。12時間ぶっ通しの聴取。ここで心が折れたのね。後は取調官の言う架空のストーリーを聞いて、その通りですと答えただけ、と。もう見えるみたい。

 多少の現実味を持たせるために、被告の過去の話を散りばめて動機に絡みつけただけ。

 あ~あ、日本が先進国だなんて、誰が言ったのかしら。進んでいるのは物質社会だけ?精神面では全く遅れまくっているわ。この取り調べだって、本当に警察のもの?警察の前に、特高って付くんじゃ無い?いつの時代の取り調べよ。

 どこかの国際的な会議で、我が国の取り調べが問題になって、何のかは知らないけれど大使が「日本は先進国だ、侮辱するな、笑うな、黙れ」って怒ったそうだけど、日本の制度なんて、本当の先進国からすれば遅れた制度なのよ。遅れていると言うのは、即ち間違っていると言っても良い。間違っているというのは、真実を追究するのではなく、効率だけを追求しているという意味。しかも、検挙率を上げるための効率。だから、真実がどこにあるかなんて置き去り。恐ろしい法治国家だわ。

 しかもこの血液検査、何?全量検査に回して追試しようにも検査対象を廃棄しているからしようがないですって。これじゃあ物証版死人に口なしだわ。わざとやったみたい。液体クロマトグラフィー?これで何が含まれているか分かるのかしら。で、ベクロニウムが高濃度で検出。ベクロニウム殺人。

 本当かしら。

 そもそもこの一連の患者さんの死亡に対して、最初に疑問を持ったのがミヅキ看護師。若手の女性だわ。ミヅキ看護師は上司のマツシタ看護師に相談。これが5月。まだまだ亡くなるには早すぎる患者さんが亡くなっている、か。11歳女児が植物状態に、89歳女性が既に死去。二人の報告に対して医師達は何が起こってもおかしくはないと返答。ただし、11歳女児の急変には不信を持ち、血液検査を実施した。で、ベクロニウムが検出された。でも、これって10月に行われた検査だわ。彼女が急変したのが1月。ベクロニウムって、そんなに体内に残るものなの?手術の時によく使う薬品って書かれているけど。

 65歳男性はリハビリ中であり、急死は不自然。そうね。こちらは遺族が解剖を拒否。遺体から無断で抜き取った血液からベクロニウム。検査は亡くなってすぐの11月。遺族の許可無く血液を抜き取っており、証拠能力無し。

 末期胃癌で現在植物状態の58歳男性、こちらの血液からもベクロニウム。検査は11月に入ってから。いつから植物状態なのかは明確ではないが、夏頃からか。

 胃瘻の89歳女性、膵臓癌の42歳男性については遺体がなく検査不能。

 無くなったベクロニウムは、4mgが3アンプル。全て、発注も廃棄もM被疑者が行っている。紛失した3アンプルについては報告がどこにもなされていない。M被疑者はこの紛失に気が付いていたのかしら。それに、4mg 3アンプルのベクロニウムでこれだけの人を殺せるのかしら。

 調書は結構穴だらけ。でも、自白がきっちり取れている。これは厳しい裁判になるな。取調官が絵を描いたのは丸分かりだけど、そんなことは裁判では言えないし、立証も出来ない。取り調べの可視化って、必須よね。取り調べる方にとっても、無理矢理自白を取っていないって証明にもなるし。いやいや、自白だけで起訴したりってのが、やっぱりおかしい。物証があってこそよね。日本の司法が遅れている最大の部分だと思う。


(被告M)

「間違いないね?ここに署名して、拇印を押して。」

 取り調べの最後に、調書にサインをさせられた。

「これから裁判になるから、いわゆる未決囚と言うことで留置所から拘置所へ移れるよ。

 拘置所はね、留置所と違ってかなり自由が利くし、まあ、ましなところだよ。」

 そう言って取調官は気持ち良さそうに笑った。

「よく頑張ったね。立派に裁判を受けられることを、期待しているよ。」

 ぽんぽんと背中を叩いて、担当の取調官は取調室を出て行った。

 テレビドラマや映画では、割りと小綺麗で、窓のある取調室が出てくるけれど、実際には窓なんてない。逃亡できないようになっているのだろう。鰻の寝床のように細長く、やたらと圧迫感がある。僕はそれだけで息が詰まりそうだった。

 担当官は、気軽に「ちょっとトイレに行ってくるね。」と外に出られるが、僕ら被疑者はそうはいかない。独房から出る時に手錠をかけられ、腰に紐を巻かれる。その紐を持たれたまま取調室に入る。腰掛けると手錠は外してもらえるけれど、腰紐はそのままだ。気軽にトイレになど、行ける空気じゃない。トイレを我慢していて、気持ちが悪くなって過呼吸になりそうになった。その時は「どうして言わないの?」となじられたが、一体何時間経過したのかも分からない小部屋に閉じ込められて、それは無いだろうと思った。

 手錠と腰紐は、「自供」してからだった。ベクロニウムで人を殺したなんて、笑っちゃう。バカバカしいにも程がある。しかも点滴に混ぜたって。筋弛緩剤がトロトロ体の中に入って効くものか。寝たきりの方や重篤な患者さんには導尿の設備があるから、体内の筋弛緩剤は尿として体外に排出される。何時間もかけて点滴するのに、いったいどれだけの薬品を混ぜれば殺すことが出来るんだか。

「みんな安らかな顔で亡くなっていくので、それが私にとって救いです。」これは取調官の温情による作文だ。バカバカしい。筋弛緩剤を注入されて、死に至るとする。筋肉が弛緩するのだから、当然顔の筋肉も弛緩する。即ちいわゆる穏やかな表情になる。だけど、意識はしっかりしているから、地獄の苦しみを与えることになる。殺す方は楽だろう。大人しく死んでくれるのだから。でも、殺される方にとってはたまらない。こんなこと、多少の知識のある人間なら誰でも知っている。あの温情溢れる作文は、僕の医療知識を冒涜するものだ。

 だけどダメだ。何を言っても、何を説明しても、全く聞き入れてくれなかった。テレビで見るような、高圧的な取り調べはなかった。だけど、まるで壊れたスピーカーに話をしているようだった。

「違うよ、君が殺したんだよね?そうだろう?最初の事件は、そう女の子だ。

 君はこの子の死に何の責任も感じないの?」

「僕はその子の担当じゃない。その子が意識不明になって、大騒ぎになってからその子が入院していることを知りました。」

「いやいや、そんなに大きくないクリニックだ。君はこの子のことを知っていたよ。何故なら、君の初恋の人によく似ているからだ。彼女、まだ11歳でね、人生これからだったんだ。それを、君は踏み潰したんだよ。」

「ですから、全く知らないんですよ。初恋って、幼稚園の時です。似てもいませんよ。大体、何で僕が殺す必要があるのですか?」

「君は独占したくなった。永遠にこのままで、この子を記憶の中に残しておきたかった。いるんだよ、そういう考え持った人ね。君も、そうなんだ。」

「バカな。だから知りませんって。私は小児の担当じゃない。小児と大人とでは処置が全然違うんです。だから、任されるわけがないんです。接点がないんですよ、本当に。」

「君は偶然見かけたんだろうね。それに、大きなクリニックじゃないから、入院患者さんほぼ全員知っていただろ?君は良く入院患者さんのことを知っているって、マツシタさんも褒めてたよ。」

「だから、それは大人の話でしょう?子供は知りませんよ。」

 何日こんな不毛な会話をしたか、覚えていない。何度目かに、もう何もかもがどうでも良くなってしまった。何も答える気もしなくなり、ただ「はい。はい。そうです。」とだけ言うようになった。

「12月2X日、午後X時X分。刑法199条、殺人の容疑で逮捕する。」

 次の日から、手錠と腰紐が始まった。

 ようやく意識を取り戻したのが、国選の弁護士さんが来てくれてからだ。僕はそこから目が覚めたように思う。僕よりか幾つか年上なだけだと思われる、若く綺麗な女性の弁護士さんだ。僕は綺麗な人だと思っただけで、全く期待していなかったけれど、

「調書を読みましたけど、動機も殺害方法も、疑問を持っています。」

 そう、この一言だ。この一言で、僕は夢の中から出てこられたのだ。その一言に涙があふれ出た。ベクロニウムで人を殺すことが如何に容易ならざるか、僕が一連の患者さんの中で、一部の方としか接点がなかったこと。調書は何一つ真実を記述していないこと。弁護士さんは、

「遅いなんてことはありませんよ。きっちり裁判で戦いましょう。」

 そう言ってくれた。そうだ、僕は、やってないんだから。


 写真

(検事アサヒナ・タカシ)

 就職の時のだという写真を見てみても、良くこんな表情の男を雇ったものだと呆れる。

 まして人命を預かる医療施設で。

 目が吊り上がり、黒縁の眼鏡。髪の毛はセミロングで、後ろで括っているのか?何ともヲタクというのか、秋葉原にゴロゴロしているような男だ。

 何よりも目つきだ。この目つきは犯罪者の目だ。誰彼と無く恨みに思い、自分だけが世界の不幸を背負って歩いているように勘違いする。その不幸も、全て自己責任だとは死んでも気が付かないのだろう。

 コンプレックスなんてものは、誰にだってあるものだ。それを糧にして成長できるかどうかが、大人か子供かの違いだ。この男は永遠に子供のまんまなんだろうな。胸くそが悪くなるようだ。

 失敗することを恐れて挑戦をすることをせず、勝負に敗れることを恐れて他者と競わない。また親もそれを良しとするのだ。全く嘆かわしい世の中だ。挑戦をせずして成功などあるはずも無い。どんな小さなことでも、挑戦しない限り、成功などしないのだ。又どんな小さなことでも、やはり他者との競い合いが日々の生活なのに、それを避けて通る小心者のくせに、自尊心だけは人一倍強い。そんなこの男の内情をこの写真は良く表しているじゃないか。

 私がこの病院の経営者であったなら、こんな顔の男は絶対に使わない。必ず何かしらやらかすであろうからだ。それくらい、経験を積んだ大人なら分かりそうなものだ。ここの経営者に対しても、私は残念に思う。未熟だ。しかも、人の命を預かるというのに。

 この写真の印象が強すぎて、検察に呼んでからの聴取でのこの男の表情に記憶があまりないな。ぼやぼやと何か言っていたような気がするが、気に留めるに値しなかったのだろう。ま、この顔の男では無理も無い。

 法廷で死刑を求刑する時、この男の表情をじっくりと見てやろう。顔なんてものは、その人間の性格、過去を如実に物語るものだ。このナチュラル・ボーン・キラーめ。最後は法の裁きを自ら受けるが良い。


(弁護士マノ・キョウコ)

 私は裁判が行われるに当たり、必要的弁護事件と認められた本件の国選弁護人になった。被告本人に私選弁護人を雇う金銭的余裕がなく、センセーショナルな事件の割に手弁当で弁護を引き受ける弁護士がいなかった。それも、この写真に一因があるかもしれない。

 一目見て思ったのは、グリコ・森永事件の犯人の似顔絵。髪型を除けば、割りと似ていると言える。私が疑問なのは、何故この写真をメディアが使っているのかと言うことだ。

 新聞もテレビもネットも、この写真ばかりだ。白黒で、コントラストがきつく、特徴がどうしても強めに出てしまうこの写真。

 本人に聞けば、就職するために撮った写真だという。面接の時に写真撮影があり、髪が長めなのを気にした被告は後ろにまとめ、極度に緊張したまま撮影に臨んだ。職場にも、懇親会の写真や飲み会の写真もあるのに、何故この写真。しかも、この写真はIDカードにも使用されていない。

 ○▽山クリニックでは職員であることを示すIDカードを首から提げることになっている。被告と同時期に就職した職員は、面接の時の写真を使用している。だが被告は○▽山クリニックの意向で撮り直している。なのに、何故。

 IDカードの写真は、落ち着いた表情のものだ。微笑みも浮かべ、誠実さが感じられる。お酒が入って笑っている表情には愛嬌さえ見える。普通の、二十代前半の若者の顔。実際会って話をしても、報道で使用される写真の方が奇異に感じられる。本人の写真ではあるのだけれど、本人を表した写真じゃない。

 ○▽山クリニックが意図的にこの写真を流しているのは間違いない。被疑者として報道されるのに、にこやかな写真もそぐわないと好意的に解釈も出来るが、それにしてもイメージ操作をしようとする悪意を感じる。


(被告M)

 拘置所に移ってからは、色々と差し入れも受けることが出来るようになった。

 着替え、菓子、布団も有り難かった。やはり、留置所よりは数段良いとは言っても、寒い。布団は有り難い。持ってきてくれた友人に感謝する。

 雑誌や新聞も頼んでいたのだけれど、なかなか持ってきてくれなかった。何度かしつこく頼んで、ようやく持ってきてくれたが、

「気を悪くすると思うぜ。」

 と言って渡してくれた意味がよく分かる。どの新聞にも、どの雑誌にも、僕の顔写真が載っている。しかも、何故かあの写真だ。

 自分で言うのも何だが、まるで凶悪犯だ。

 確かに自分の顔で、自分が撮って貰った写真だが、一番嫌いな表情の写真だ。大学受験の願書にも、こんな表情の写真しか撮れなくて、その写真を使った覚えがある。受験の失敗を、写真のせいだと思いたかったくらいだ。

 僕は緊張すると、どうしても表情が硬くなってしまう。いくらカメラマンが「笑って」と言っても、笑うどころじゃなくなるのだ。

 撮影なんて、早く終われば良い。笑えと言われるこの場から早く逃げたい。ただでさえ緊張しているのに、この上の緊張は耐えられないと思っている表情なのだ。こんなの僕じゃない。本当の僕じゃない。なのに、この写真ばかりが溢れ、これが僕になってしまっている。

『ドクター・キリコ現わる。』、『白衣の殺人鬼、黒い死に神のマントを愛用。』、『平成の連続殺人魔。女ばかりの職場に馴染めず、孤独だった。』、『男のくせに看護師?患者の言葉に逆上するM』。雑誌にはそんな言葉が並ぶ。手塚治虫先生の「ブラック・ジャック」は僕も大好きだ。小学校の図書館で出会ってから、ずっと手元に置いている。そのブラック・ジャックに出てくる安楽死をさせる医師がドクター・キリコだ。主人公のブラック・ジャックとは相容れないダークな人物として登場する。僕は、そのドクター・キリコなんだそうだ。なんかもう、この上なく情けなくって、一人涙を堪えきれなくなる。

 看護師を男性がするなんてってのは、高齢の患者さんからは良く聞く。だけど、かなりの力仕事であることから男性が参画する意義は充分にある。その事を話すと、それはそうだねと理解をしてくれる。実際ベッドから手術台への移動でも、患者さんを抱え上げなければならないこともある。男性だからこそ果たせる役割も、それなりにあるのだ。だから、僕はその事に誇りを持って仕事をしていた。笑われても、話しをすれば見方が変わる。その事を僕は知っている。

 確かに職場は女性ばかりだ。看護師としての括りでは。でも、男性だから頼みやすいこと、男性だから女性看護師からバトンを渡されることも多いし、同僚の女性看護師からバカにされたことも一度も無い。医師の側でも女性には言いにくいことでも僕になら言い易いこともあって、重宝されていたと思う。

 僕のことが書かれた記事の後に、有名お笑いタレントの浮気の記事が載っている。この記事も、どこまで本当のことが書かれているのやら。雑誌の記事なんて眉唾物だとは思っていたけれど、ここまでとは。そんな眉唾物の記事でも、この写真が真実味を持たせるのでは?僕の大嫌いな僕の写真。世間は僕を、この写真の通りの人間だと思っているんだ。そりゃ、殺人鬼って思うよね。


 経歴

(検事アサヒナ・タカシ)

 ああ、典型的な世の中を逆恨みしそうな人物来歴だな。

 小学校のころから「狐目の男」として虐めを受ける。あのグリコ森永犯の似顔絵か。似ているのは目だけだが、子供の虐めなんて口実はなんだって良いんだ。その人間を苛めたいから苛める。即ち、この被疑者Mは虐めを受けるような人間だった。虐めを受けるか受けないかは、その人間の存在感次第だ。苛められる奴は、こう言っては気の毒だが、苛めてくれオーラが出ているのだ。だから苛められる。この男も、そのタイプだろう。

 中学、高校とクラブ活動も大したことはしていない。バスケットボールや陸上、卓球、バドミントン、水泳にも手を出しているが、どれも早々に辞めている。中学、高校でクラブ活動を全うできない奴にろくな奴はいない。まず根性がない。それに、健全な肉体にこそ健全な精神が宿るのだ。だから、この手の奴らには健全な精神は宿らない。周りの学生が陽の光の下、懸命に汗を流しているのにこいつらはカーテンを引いた部屋の中でゲームをピコピコやっているのだ。どこかのクラブで気の合う奴だったり、強引にでもクラブに引きずり出してくれるようなお節介がいれば、この男の人生も変わったかもしれないのにな。

 クラブ活動を続けていれば、文化系でも無論良いのだが、そうしていれば、後輩の女の子からラブレターの一つでも貰うものだが、これでは性の捌け口も得ることなく悶々としたことだろうよ。

 大学は医学部を志望。一年目も二年目も、あちこち受けているなあ。ああ、この学校は寄付金を出せば入れてくれるのだが、その金が家になかったのだろう。ここは偏差値が高い。記念受験か?何故医者を目指した?金持ちになりたかったか?それとも周りに凄いと言って貰いたかったか?理由はそんなものだろう。それが、看護師。

 仕事は真面目にやっていたようだが、何人か女性の患者から拒否されているな。セクハラでもしたか?いや、この顔だ、患者が怖がるのも無理は無い。研修や勉強会には積極的に参加。技能を習得し、各種資格にも挑戦。色々持っているな。感染管理認定看護師?を取得。救急看護認定看護師に挑戦中。ふ~ん。どういうものかサッパリ分からないが、この部分を見えると惜しい感じがするな。

 自宅PCからは二次元、三次元を問わずわいせつ画像が二千点以上認められる、か。中には18歳未満と覚しき児童ポルノ法に抵触するファイルもあり。ま、余罪としては小さいから立件はパスだな。ただし、公判では被疑者の性格を物語る上の一部として紹介はしよう。どうせ極刑は免れない。児ポ法違反なんざ、ゴミだ。

 調書にある、この二次元ってのは一体何だ?X軸、Y軸か?うん?アニメ画像か。気味の悪い絵だな。こんなもので興奮できるのかね。おかしい奴は、やっぱりおかしいのだな。他にはアメリカからダウンロードした無修正のわいせつ動画多数。実際の女性には相手にされなかったのだろう。何せ、患者から拒絶されているくらいだからな。男としては、何と言うか同情を覚えないでもないが、社会正義の面から言うと、同情の余地は全く無い。


(弁護士マノ・キョウコ)

 被告は割りと厳格な両親の元、一人っ子として育っている。大学入試に失敗するまで、いやそれ以降も、過度なまでに被告に干渉している。

 小学生の時には友人の選別を母親が行っている。被告は仲の良かった友人と別れさせられている。しかも、その友人とその母親を前にして、ほとんど罵倒している。これでは子供達同志だけでも仲良くしようとしても不可能だわ。以来、被告は人付き合いを億劫がるようになり、進学しても仲の良い友人を持とうとしていない。

 進路に関しては父親の意向が強く反映されている。中学校、高校、大学に至るまで父親の指定している学校を受験している。本人にどのような意向があったのかは分かっていない。両親は本人の意思を尊重したと言っていたようだが、それを裏付けるものは無い。

 一貫して学校での活動は無意味として教育されており、生徒会活動、クラブ活動、修学旅行は参加していない。その代わり朝の六時から叩き起こされて、勉強。学校から帰れば夜中まで塾。その後は塾の復習。「学校は塾の予習・復習をするところ」と言われ続けている。学校では完全に浮いた存在になり、苛められるどころか全く相手にされなくなった。

 今、両親は行方をくらませており、弁護士である私でも連絡が取れない。これだけ徹底的に干渉しているにもかかわらず、本件に関しては本人が既に成人しているため、自分たちは関係ないというスタンスだろうか。個人的には、ご都合主義に思われる。両親のコメントは警察の資料に僅かに記録されているに過ぎない。

 本人の鬱屈した性格は、時々噴出していたようだ。塾や予備校で、思うように成績が上がらずに激高している姿が報告されている。両親の期待に応えられないかも知れないという強迫観念にとらわれていたのだろうか。

 携帯電話は大学生になるまで持たせてもらえていない。これでは今時コミュニケーションの取りようも無い。酷い親。こんな親に育てられながら、万引き等の窃盗を行っていないだけ、自制心が強いと褒めてあげたいくらいだ。だいたいこういう過保護な少年は、単独で万引きや他人のお金や持ち物を盗んだりするのだが、そういう記録はない。

 大学受験には失敗しているものの、看護学校での受業態度は良好で、成績も良い方だ。意欲的に勉強に取り組んでおり、徐々にではあるが周りとも打ち解けている。ようやく掴んだ、自分の人生。自分のための、自分が掴んだ人生なのに、こんな事件に巻き込まれて。

 やはり、私には冤罪に思えて仕方がない。本人の無罪を主張する意気込みが薄いのが気になるが、このような人物が殺人を犯すなんて、私には思えない。

 正義はどこにあるのだろう。正義は警察にはない。検察にもない。世間は私を殺人鬼のママだと揶揄する。きっと私にも世間から見れば正義はない。だったら、裁判所には正義があるのだろうか。裁判員制度が導入され、司法に関しては素人が裁判に関わるようになった。私に、週刊誌程度の情報を信じ込むような一般の人達相手に被告人の無実を勝ち取ることが出来るのだろうか。そう、無実を証明するのではない。勝ち取らなくてはならない。証明は、物証が遺棄されているので非常に難しい。だから、勝ち取るのだ。これは私に与えられた試練だ。私はきっと乗り越えてみせる。無実の罪で人生をメチャクチャにされる人を、一人でも出すわけにはいかない。少なくとも、私の目の前では。私は、弁護士なのだから。弁護士バッチの天秤に恥じない仕事をするまで。


(被告M)

 世間から隔離されて、一体何日になるのだろう。もうこのまま、外には出られないのだろうか。弁護士の美人先生は大丈夫だと言ってくれるが、差し入れられる新聞などを見ていると、大丈夫な気にはなれない。

 自分は、そんなに運の良い星の下に生まれたとは思ってはいなかった。だけど、ここまで運が悪いというのか、どうしようもないところにまで墜ちてくるとは思ってもみなかった。

 僕の運の悪さは、どう表現したら良いだろう。傘を持ってきたのに雨が降らなかったみたいな、いつも世界は僕の予想の裏側にある。

 小学校のころは、目つきがおかしいと良くからかわれた。「狐目の男」が僕の渾名だった。周りからは「狐目君」と呼ばれた。無視すると、蹴ったり叩かれたりした。学校の先生まで、笑って狐目と呼ばれることを黙認していた。先生に悪気はなかったのかも知れない。だけど、僕は先生の見ていないところで「誘拐犯」として扱われていたのだ。大金を「大人を誘拐して」手に入れた小学生に、人権も何もあったものじゃない。ただ、目が吊り上がっていた、それが理由だった。

 目つきは多分、祖父からの遺伝だ。祖父も子供のころは気にしていたと笑っていたが、僕の場合は笑えなかった。先生には相談できず、母に相談したら、母は激怒した。最も僕をバカにして笑っていた同級生のところに怒鳴り込んでくれたものだ。それは母の愛だったと思うが、翌日から、からかわれもしなくなった。半年くらい、誰とも口を利かなかった。

 ある日、僕のロッカーからカビの生えた給食のパンが出て来た。僕はパンを全部食べていたので、自分のパンでないことは確かだった。だけど、僕が残したパンだと言うことになった。カビの生えたパン、カビパンが見付かると、一週間給食を残せないことになっていた。男子にはそのカビの生えたパンを投げつけられ、女子には無言で睨み付けられた。あれは、五年生だったか。あれからは一年以上、必要なこと以外は誰とも口を利かなかった。

 中学、高校では色んなクラブに参加してみた。だけど、呼吸器が弱いのか、激しい運動を続けると喘息のような症状が出た。幸い同級生達も先生達もみんな親切で、「一緒にやろう」と言ってくれた。その言葉が嬉しくて頑張ってみたが、自分だけがやっぱり置いて行かれる感じがして、辞めてしまった。「運動が出来なくても、学業で頑張れば良いじゃないか。それでも人はお前のことを尊敬してくれるものだよ、小学校じゃないのだから。」父はそう言って、僕を励まし続けてくれた。

 だから、勉強を頑張ってみた。いつのころからか、医師になりたいと思った。きっと、手塚先生のブラック・ジャックに憧れたからだ。ブラック・ジャックは顔が継ぎ接ぎのようになっている。だけど、色の違う皮膚は親友の形見だから皮膚の移植は絶対にしない。できるのに、しない。そこがクールだった。ブラック・ジャックは顔のことで差別を受けるけど、気にしない。だって、凄腕の外科医なのだ。僕だって、この狐目を跳ね返せるかも知れない。今ではない、いつか。ピノコのような相棒に巡り会えるかも知れない。だったら、医師を目指そう。外科医を。いつかブラック・ジャックになるんだ。

 だけど、その夢は叶わなかった。残念だけど、必死に勉強したけど、偏差値が60を越えることはなかった。60は努力で超えられる範囲だと、予備校の先生も言っていたけれど、僕には出来なかった。僕の唯一の希望、たった一つの夢はそこで壊れた。現役の時、ダメ元で医学部を受けてみたけれど、全滅だった。それは模擬試験で分かっていたことだけれど。

 父も母もそれでも僕を応援してくれて、もう一年頑張ってみたが、地方大学の医学部さえ合格できなかった。

 能力の限界。それも、必死の努力にも関わらず。僕は人よりどれだけ劣っているのだろうと、生きた心地がしなかった。それを救ってくれたのは、同じ予備校に通っていたシバタさんだった。彼女も医学部志望で、一浪はしたけれど有名私立大学の医学部に見事合格した。

「看護じゃ、ダメ?」

 僕の全滅の気まずい報告の後で、彼女が遠慮がちに言った。

「医療に関わりたいと思ったら、看護もアリかなって。私だったら、M君に看護されたら、安心するかも。」

 その一言で、僕は看護学校の門を叩いた。意味の分からない、何のために必要なのか想像も出来ない受験勉強に比べ、看護のことを、医療のことを学べる環境は楽しかった。男性は女性に比べ圧倒的に少なかったけれど、先生は僕たち男性陣を「誇りに思っている」と言ってくれた。

 女性陣に揉みに揉まれて、男性だから出来ることが見えてきた。それはとてもメンタル的に鍛えられた。初めの内はとても戸惑ったけれど、分かってくるとそう言うものかと割り切れた。だから、女性の患者さんに「男性はちょっと、ゴメンなさい。」と言われても素直に受け止められた。

 その患者さんにも、廊下ですれ違う度に挨拶をしていたら、「以前男性に暴力を振るわれたことがあって、男性が怖いの。」と話してくれた。信頼を、少しは得られたのだと思う。

 僕は、やっと居場所を見付けた。もっと勉強をして、もっと資格を取って、もっとクリニックのために役に立ちたい。ただただそう思っていただけなのに。

 僕が狐目だから?僕が男性看護師だから?殺人鬼になるの?

 そんなバカな!

 だけど、世の中はそう思っているのだろうな。


 判決

(検事アサヒナ・タカシ)

 あり得ない。あり得ない。あり得ない。

 無期懲役?被告に同情する理由はないのに、無期?一体、何のことだ?

 最初に主文を読むなんて、珍しいこともあるものだと思った。大体死刑判決の場合、主文は後回しだ。主文を最初に読んでしまうと、被告にはおろか、報道陣も後の言葉なんて聞きもしない。被告は崩れ落ち、報道陣は飛び出し、その他の野次馬傍聴人はヤイヤイと騒ぎ始める。

 無期懲役。だから素人裁判員は困るのだ。これだけ証拠が揃っていて、自白も取れていて、無期懲役?

 無期ってことは、大体が十年かそこいらで出てくるってことだ。あんな殺人鬼を、再び世に放つって言うのか?バカげている。

 何が証拠の信憑性が不十分だ。ちゃんと検査した結果じゃないか。血液だって簡単に保存できる代物じゃないのだ。しっかりと検査をし、結果を残していたのに、何が疑わしいだ。裁判官も裁判官だ。無期なんて、検察の負けを言い渡すようなものじゃないか。

 そう言えば、弁護側は即刻控訴したと言うが、いつもいつも国費を無駄に使いやがる。本件に関しては、弁護側が控訴しなくてもこちらがしたけどな。弁護側、検察側同時控訴なんて、判事どもはどう思っていることやら。

 死刑制度そのものには、私も異論が全く無いわけじゃない。だが少なくとも三人を殺害し、二人に重度の後遺症を負わせた責任は極刑をもって償う他はない。それが司法というものだ。法による正義だ、犯罪者に対する鉄槌だ。法治国家というものだ。

 証拠が怪しい、自白が怪しいって言うのであれば、判決は無罪であってしかるべきだ。無罪判決を、あの判事達は出さなかったではないか。こう言っては何だが、判事でありながら、自分たちで有罪・無罪の判断が出来なかったと言うことでは無いか?だから無期懲役という玉虫色の判決を出した。

 生い立ち等に同情の余地はない、責任能力に問題は無い、証拠にも問題は見当たらない、それを判決に含めたのに無期懲役。報道陣が驚きざわめくのも無理は無い。失笑すら混じっていたではないか。我が国の司法を辱めるような真似をして、恥ずかしくないのか。

 減刑の理由は、全く述べられなかった。理由だけを聞けば、極刑以外に考えられなかった。減刑した理由は証拠の信憑性を弁護側が突いたことだろう。弁護側の証人が、科学的な根拠が無いと言ったのが影響しているに違いない。その点については、こちらの証人が論破された形になった。だったら、彼が疑わしくても決定的ではないとして無罪を言い渡すのが司法の役目だ。

 だが私は確信している。あいつがやったに違いない。彼が実行犯だ。極刑で問題ない犯罪者だ。控訴審では本件を私は担当できないが、後任検事には是非極刑を勝ち取って貰いたい。法の正義を検察が守るのだ。


(弁護士マノ・キョウコ)

 判事のあの自信のなさはどうだろう。無罪と死刑の間を取った、と言わんばかりだ。司法は値切りではないのだ。双方の中間を取れば良いというものでは無い。

 世間の目、潮流に良く逆らって戦えたと、自負している。裁判と言えど、世論を全く無視できるかというと、そうでもない。だから、大逆風の中の戦いだった。その中で、極刑を言い渡さなかったことだけが、救いだ。判事も、彼が犯人だとは言い切れなかったのだ。だから、命を取るとは言えなかった。とは言っても、状況的には彼が怪しい。検察の証拠能力も疑わしいとは立場上出来ない。だから無期にした。双方に、これで納得しろと言うことだろう。一番やってはいけないことを彼等はやった。私は膝が抜けるような脱力感を感じた。

 目の前の被告を見ると、席に座った時からガックリと落としていた肩が、一段と低くなったように見えた。彼はずっと悲観していた。「どうせ死刑ですよ。」何かというとそれだ。私は自分の気持ちが萎えそうになるのを必死に奮い立たせた。それだけ取り調べで人間扱いされなかったのだろう。親からは見捨てられ、学友の中では孤立していた青年だ。その彼が、今や世間から「死刑になってしまえ。」の大合唱を受けているのだ。

「無期懲役ってことは、裁判所は検事達の言うことを全面的には信じられないと言うことを意思表示したのです。次の裁判では、再度意図的な証拠隠滅があったと検察を追求します。まだ諦めないで。」

「ですが、裁判官は検察が出した証拠に疑義を挟む余地は無いと言っていたじゃ無いですか。それって、証拠に問題は無いってことでしょう?だったら、無期懲役はラッキーってことじゃないですか?」

「違うの。理由の部分で疑義は無いって言っていたけど、本当にそうだったら、あなたに言い渡されたのは極刑よ。だから、本音の部分では、疑っていると言うことなの。」

「じゃあ、誰があの人達を殺したのです?誰があの人達を殺して得をしたのですか?病院ですか?他の医療スタッフですか?誰も得をしません。だったら、警察に捕まった僕が犯人ってことじゃないですか。」

「いい?あなたに、いえ私たちに、真犯人を法廷に突き出す必要は無いの。そんなことをするのはテレビの中だけよ。必要なのは、あなたに罪を犯す理由がなく、罪を犯していないと言うことを証明すれば良いの。真犯人をつかまえるのは、警察の仕事よ。」

「今更新しい証拠なんて出ませんよ。死人に口なし、意識がない人も同じです。それに、もう無罪になって外に出ても、僕を看護師として雇ってくれるところなんてありませんよ。だったら、塀の中で暮らしても一緒じゃないですか。ここなら、一応仕事はあるんでしょう?仕事を与えられないのに、外に出ても仕方ありません。無期懲役だったら、一生仕事はくれるってことですよね?」

 私はイライラが噴出しそうだった。どうしてこうも無気力なのだろうか。親に捨てられたから?女性に見向きもされなかったから?実力がクリニックで評価されなかったから?どれだとしても、そこまで無気力になる理由じゃ無い様に思える。これは、個性なのだろうか。得をするという意味では、被告だって何の得もしない。被告が精神的に虐待を好む嗜好を持っているという仮定でのみ、被告に得があるのだ。精神鑑定の結果、被告にそのような嗜好は認められなかった。矛盾している。なのに、何故被告は無期懲役を言い渡されたのか。私は、彼の被告人席での諦めムードにそれがあるのでは無いかと思う。あの様子を見せられたのでは、判事達も無罪は言い難いだろう。


(被告M)

 昨日、父からの手紙が届いた。相変わらず、住所も何も書いていない。封筒の裏には、一文字、父とだけあった。

 母が倒れた。僕が任意同行され、その後逮捕が報道された直後だった。母は酷いショックを受けたようで、まるで会話も出来ないような状態になったという。父はそんな母の様子を気にかけ、心配し、誰にも知られないような場所に移り住んだらしい。会社にも迷惑をかけることになるがと、父は心苦しそうだった。だけど、僕が逮捕された後の報道陣の父や母への取材攻勢は凄まじかったらしい。母はノイローゼ状態になり、狂犬病に罹った犬のようだったと父の手紙にはあった。目を見開き、涎を垂らして息を上げた様子が細かく書かれており、僕は情けなくて、でもこんなに心配でも気が狂うこともない薄情さを呪ったりもして。

 無実を、お父さんとお母さんだけはどこまでも信じていると書いてあった。涙が出た。

 判決は無期懲役だった。極刑じゃないという点で、弁護士の先生が言うように検察の立件に無理が滲んでいるのだろう。弁護士の先生は徹底的に戦うべきだと言ってくれている。だけど、このまま又世間の注目を浴びるようになれば、母はどうなるだろう。でも、このまま刑が確定しても、父も母も苦しむ。僕は、どうすれば良いんだ。

 点滴にベクロニウムを混入しても人が死ぬことはないことは、何人もの麻酔科の先生が証言してくれた。当たり前なことを証言してくれただけだけど、有り難い。

「検察の方はテレビの見過ぎですね。いくらアメリカの薬物による死刑の執行で筋弛緩剤が使用されると言っても、筋弛緩剤だけで死刑を執行するわけではありません。筋弛緩剤は使用される薬剤の一部だと言うことです。」

 この発言には胸がスカッとした。だけど、その後の週刊誌には、僕がアメリカの死刑を真似て筋弛緩剤を使って人を殺したとなっていた。どこまで事実をねじ曲げたら気が済むんだ。何を言っても世間は聞いてくれない。まるで真っ黒な壁に向かってものを言っているみたいだ。何も返ってこない、黒く塗りつぶされる。どれだけ戦っても、どれだけまともなことを言っても、全部ねじ曲げられてしまう。

 事実、判決の理由の部分では、僕らの主張は全く聞き入れてもらえていなかった。ベクロニウムで僕が人を殺した。全部嘘だ。

 ベクロニウムが何日も体内に留まったりもしないし、点滴や静脈注射でそんな高い含有値が出るはずがない。計算すれば子供でも分かりそうなことだ。なのに、全部無視された。

 科学的に、正しいことなのに。何故だ?どうして?「ベクロニウムを、注射して、殺したことは」疑いのない事実になるのだ?

 訴えられた件に関して、担当の医師が証人として喚問に応じてくれた。

「亡くなった患者さんの中には、いつどうなってもおかしくない方もいらっしゃいました。また、急変された患者さん、11歳女児ですが、彼女から血液を採取したのが10月に入ってからです。急変したのが1月。ベクロニウムは何ヶ月も体内に滞留したりしません。明らかに、どこかでなにかしら検体に改竄があったものと思われます。彼女はまだ生きています。再検査するべきです。」

 医師を見る裁判員達の目は不信に満ちていた。不信で上等。じゃあ再検査してくれれば良いのに、これ以上女児に痛み苦しみを与えたくないと却下されてしまった。医療に携わる者同士、素人には分からない世界だからとバカにして庇っている、そう思っていたのでは無いだろうか。

 どうすれば良いんだ。どうしようもないんだ。どうしようも。僕はどこまでも沈んでいく。ああ、そうだ。「私は貝になりたい」という映画があったな。内容は知らないが、僕は今まさにそんな気分だ。


 後書き

「意外と『善良』な医師や看護師が多かったじゃないか。」

 事務長室でしらけた笑い声が幾つか上がった。

「まあ、彼は真面目で患者受けもスタッフ受けも良かったですからね。」

「だけど、我々には反抗的だった。」

「ええ、コスト度外視。」

「『少しでも患者さんの苦痛を取り除くお手伝いをするのが、我々医療スタッフの仕事なのじゃないのですか?!』まるで、我々が何か怠慢なことをしているかのようだったね。」

「噴飯ものです。看護師如きがね。何を偉そうに。」

「全く。君はどこの国の人間だって。ここは資本主義の国だよ?」

「ええ。その通りです。」

「ところで、あの植物人間になった女の子、あのまま放置しておいてよろしいんですか?」

「ああ、あれね。いいよ。あそこまで行ったら、意識なんて戻りゃしないさ。あの子はね、見ちゃいけないものを見ちゃったんだ。」

「で、一服盛られたんですね。」

「ああ、それで激しい痙攣を起こしてね、ここに担ぎ込まれた。いや、込ませた。で、そのまま死んで貰おうと思ったんだけど、何と回復しかけてね。善意の何も知らない医師ってのは怖いね。意識は戻るわ、記憶は曖昧だわで、それでもう一回殺すことになったんだけどね、あの子はしぶといね。まだ生きてる。」

 また笑い声が起こる。

「婆さんは?」

「家族が殺してくれってさ。医療費もかかれば、サッサと遺産が欲しかったみたいだぜ。どこにでもある話しさ。入院費もこれ以上は払いたくないと言われれば、胃瘻だし、こちらのスタッフの手もかからずに楽に金が入ったんだけど、仕方ないさ。手数料は入ったからね。」

 クックと誰かが笑う。

「胃瘻は楽ちんですものね。胃に管さえ通しておけば、後の世話はほとんど無い。おしめ換えるくらい。家族も滅多に見に来ないしね、あんな無残な姿は。だからクレームも無い。」

「そう言えば、リハビリ中の老人もいましたね。」

「彼はね、間違って殺しちゃった。」

 弾けるような笑いが起きる。

「結構頑張ってたのに、リハビリ。」

「効果も出ていたしね。」

 やれやれと笑いが起こる。

「表にはなってないがね、依頼があった人物にはそれなりに死んで貰ったよ。」

「やれやれ、やっぱ病院ってとこは怖いですねえ。」

 又大笑いが起こる。

「M君には、ちょっと気の毒でしたなあ。」

「何、吊されなくて済んだんだ。あのカワイイ弁護士さんに感謝するべきだよ、彼は。」

「そろそろスケープゴートは必要になっていましたからね。ミヅキ君なんてもう五月蠅くて。私も何度か、亡くなった患者は何が起こっても不思議じゃない状況だったって説明したんですがね。その内担当でも無い医師まで巻き込んじゃって。」

「そうそう。内部調査だろう?ミヅキ君とマツシタ君がM君を追い込んだんだよ。悪い女だよねえ。」

「アソコの締まりは抜群に良好でしたがね。」

 またまた大笑いが起きる。なんだ、皆さんつまんでたんじゃないですかと先程の声が続く。

「彼は何も知らない善意の第三者だ。こういう場合、そんな人間に生け贄になって貰うのが一番良いのだよ。だって内情を知っていれば、パニックを起こして何もかもぶちまけちゃうかも知れないからね。」

「そうなると、厄介ですものね。」

「ああ、厄介だよ。

 気の毒だとは思うけどね、彼も甘かったのだよ。薬品の出と入りだけを見ていた。言われた数だけが入って、言われた数だけが出ているのを確認していただけだろう?その間で、無くなっている薬品があるかどうかを確認していなかった。」

「総数として、薬品の量があっているかを見ていなかったんだね。入った量と廃棄分の差を在庫量として正しくチェックをしていなかったからね。」

「軽く自業自得かな。まあ、我々が使ったのは、無論筋弛緩剤なんかじゃないけどね。」

 やれやれと言った笑いが起こる。

「司法も無知なものですよ。その無知を、もちろん認めやしませんがね。しかしなんですな。あれだけ医療関係者がM君を援護したというのに、一度捕まった人間というのは無罪にはならんもんですなあ。」

 根暗そうな写真が有効に作用しましたなと声が上がり、笑い声が起こる。

「検察が上げた者を無罪になんか、まずならんよ。そういうものさ。我々の計画でも織り込み済みだったじゃないか。

 冤罪ってのは、作らないんだよ。でなけりゃ、国民の司法に対する信頼がなくなるんだろう?」

「我々医師も、一度でも医療ミスをすれば信頼が無くなります。」

「信頼どころか、息の根を止められるよ。だから、医療ミスも、存在しちゃいけないのさ。」

「やっぱ、病院って怖いッスね。」

 苦笑いが起こる。

「M君はどうするんだろうね。控訴?ああ、そう。長い時間がかかるねえ。」

「そうですね。少なくとも、我々がここを去るまでは、出てこれないでしょうね。」

「ふん、我々は出身大学の都合であっちこっち行かされるんだ。いつまでもここに居るわけにゃあいかんだろう。」

「結構、美味しかったですけどね。」

「ああ、そういう病院も、世の中的には必要ってことさ。」

 黙々と上がる紫煙の下、笑い声が起こる。


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