1.
ことのほか、肌寒い朝だった。
三月も半ばとはいえ、いまだに朝晩はよく冷える。目覚めた時はまぶたの冷える感覚に寝ぼけまなこをこすり、ようやく窓から差し込む日差しを眩しく感じた。
言葉のない茫洋とした意識の底から、何かを忘れているような感覚がせり上がってきた気がして、居心地の悪い朝だった。おそらく何かの夢を見ていたのだろうが、その断片さえ思い出せない。
むくりと起き上がって腕を組んだところで、枕元においてあったスマホのアラームが静寂を切り裂くように鳴り響いた。びっくりしてアラームを止めた頃には、夢を見ていたことさえ忘れていた。
時刻は午前七時ちょうど。今日は伯父の計らいで遠縁の親戚に会いに行くことになっていた。その人の名前を聞いてもピンと来なかったが、幼い頃に一度会っているらしい。
なぜに会わねばならないのか尋ねると、いわく二十歳になったからだという。元服の挨拶じゃあるまいし、とは思ったが、父も母も承知していたことらしく本人の面倒くさがりとは関係なしにことは進められていた。
我が家は子に有無を言わせぬ厳格な家庭というわけではないが、どうにも逆らうべからずという迫力があって、渋々了承した。
大学進学と共に住み始めた一人暮らしのアパートの朝は静けさが漂う。けれども、いつもその静けさは何かの気配を感じさせる。部屋の中の、たとえばテレビ横の観葉植物だとか、洋服掛けだとか、あるいは何もない部屋の隅だとか。しかし気配を感じたそこらへ目を向けるとすでに気配は消えている。
あるものにすでになく、ないものにいつの間にかあるような移ろいを持って、それは部屋中をふわふわと移動していた。虫の類いではないことは早々に分かっていた。
それはずっと俺を見ているからだ。
朝食を摂り、身支度を済ませた頃、伯父から電話があった。
「おはよう、純一君」
穏やかな声に返事をする。
「もうすぐ迎えに行くけど、大丈夫かい」
「いつでも大丈夫ですよ。何か持って行くものはありますか」
「1つだけ」
「はい」
「追儺のお札を」
1つの間を置いて、ゆるゆると承知した。
ついな、という音の響きを耳にした時、ふと自分の宿命を悟った。
実家を出るときに、代々伝わるお札で魔除けになるからと持たされたものだった。それまでそんな代物があることさえ知らなかったが、それを受け取ったときもあまり驚かずに納得していた。
幼い頃から、いつも何かが側にいた。やはり目には見えなかったが、つかず離れずと消え去ることはなかった。何者かも知れない存在が世間とは乖離した存在なのだと自覚するまでに時間がかかったが、さしたる害もなかったので放置していたのだ。
むろん父母にそれを打ち明けることもなく、これは自分だけの秘密だと思っていた。今回のことはきっとそれと関係するのだろう。なぜだかそう感じた。引き出しの奥にしまっていたお札を久しぶりに取り出すと、白地に墨の祝詞が書かれていたはずなのに、ほとんど真っ黒に変色していた。
不可解な現象に眉をひそめ、引き出しを確認するが、どこかに汚れがあるわけでもなかった。このお札はただの紙切れではなかったらしい。その身を挺して何事かの役目を果たしていたのだ。手で触れたところからはらはらとほつれていたので、これ以上ぼろぼろになるのを防ぐために懐紙に包んだ。家を出るときには上着の内ポケットにしまった。
しばらくして伯父の車が到着した。シルバーの軽バンだった。ガラス越しに会釈をしたあとに後部座席に男が乗っていることに気づいた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は悠真も一緒だ。一度会ったことがあるだろう」
会ったことがあるといっても小学生の時くらいだったはずだが、一瞥すると仏頂面をした悠真が一言くれた。
「よう」
「久しぶり」
襟足にかかる長髪は金髪で、昔の面影がさっぱりない。それどころか以前の顔もおぼろだったから悠真だと言われてもピンとこなかった。おそらく相手もそんなものだろうと思われる。何しろ会話らしい会話をした記憶もなかったのだ。それだけになぜこの組み合わせなのか分からなかった。
多少の気まずさを感じながら、悠真の隣の席に収まる。走り出す車の中で、悠真は両手をパーカーのポケットに突っ込んだまま窓の外に顔を向けていてにべもない。