勘違いループ
私は知っている。私は、この世界を、知っている。
だからこそ自分の地位を守ることで躍起になっているというのに、どうしてこうも厄介事が生まれてくるのだろうか。頭痛を覚えた。どうせなら一人でこの廊下を通過してしまいたかった。そう思うのならば通らなければいいのに、けれどどうあっても職員室に呼ばれて行っていた私が、教室へ帰るには今私が歩いている廊下を歩く以外にたどり着く道はないのである。
そんな風にして廊下を歩いていた時に呼び止められた。いやいや振り返りまたかと嘆息する。
「篠宮春華、嫁に来い」
「…零点ですわ。いまどきそれでなびくとでもお思いですの?」
「ふむ、久しぶりの最低点だな」
篠宮春華、それが私の名前だ。
桜華学園、私が幼稚舎から通うその学園は幼稚舎から大学までの一貫教育を受けることのできる私立学園である。そこに通うのは良家の子供たち。あるいは、資産家の子供たち。まれに一般家庭の子供たちであっても難関と呼ばれる試験を突破して入学してくるがそれは少数派。この学園には次世代の日本のトップを担う人材が多く、そしてそんな人間を育成させるという目的で子供たちを親たちが送り込んでいるのだ。
だからこそ、この学園で地位を固め今後の足掛かりにすることはとても大切である。
そんな学園の付属高等学校に進学した私は、篠宮家という財閥の令嬢である。優秀な兄と弟がいるおかげで私自身は会社経営にはかかわらずとも良いのだけれど、今後家のための結婚をするにおいてここで教養を身に着けて良い縁をつないでおくことも重要な使命であると、幼少の時に悟った。――というよりは、悟らざるを得なかったのだ。
幼少の、それこそ幼稚舎に入って間もないころ、私はまだ無邪気な子供だった。
子供らしい好奇心をもてあまし、歳の離れた兄は勉強で忙しく、生まれたばかりの弟の世話で両親はそばにいない。けれどそういうものだと理解だけはしていたので家では一人で絵本を眺めるか庭をぶらつくかが私の日課だった。幼稚舎や家庭教師から出される宿題の合間に、私はその日庭に出た。春の麗らかな日だった。
私の家は広かった。先代――父の父なので、私には祖父にあたる――が派手好きで、豪邸を好んだとかでつつましかった日本家屋を、城へと変えた。
そんな家の庭は、広く、池があった。そこには鯉が泳いでいて私はそれを見るのがとても好きだったのだが、そこは人気が少なかった。その日も私は鯉を見ていて、足を滑らせたのだ。池の中に落ちた。池の中は、子供にとっては深い。もがいてもパニックになった状態では溺れるしかないだろう。もうだめかと幼心に思ったその時、私はちょうど私を探していた兄に引き上げられ、そのあと熱を出して一週間寝込んだ。
そしてその時に、私は夢を見たのだ。
その夢の私は、高校生で今よりも庶民的な格好をしていた。そして、その時の私の情報が一気に流れ込んできたのである。そしてその【私】が好んでいた少女漫画は、今の私が過ごしている世界の話だった。
『spring heart~春は雪に降り注ぐ~』
そう銘打たれた少女漫画は、学園を舞台にヒロインが氷の皇帝と呼ばれるヒーローと結ばれる話である。
桜華学園を舞台に繰り広げられる恋愛と、そしてヒロインのライバルにあたる篠宮春華の名前、マンガを隅々まで愛読していた私は、寝込んでから一週間目のその日に漫画の篠宮春華と幼い篠宮春華の一致に恐怖して、飛び起きた。
そのあとのことは、こと細かく思い出せる。兄は私を見て抱きしめて離さず、両親も泣きながら喜んでくれた。私を愛してくれている家族が私は大好きだ。
そして、その愛が混乱した私を落ち着かせた。漫画かもしれないが、私は現在を生きているのだ。だから、私は私らしく生きていけばいい。
――漫画の篠宮春華は氷の女王と呼ばれ学園の上位の位置にいた。ヒーローと対をなし、彼の幼馴染として婚約者候補として存在している。ただ悪役という立ち位置ではなく、ヒロインにとって好敵手である。嫌がらせは一切せず、凛とした佇まいで愛するヒーローを助け、またヒロインを叱咤激励していく。それが結果的にヒロインとヒーローの絆を強めることになるという影の立役者とでもいうべき不憫な彼女はしかし、読者からの人気はとてつもなく高かった。彼女が主人公のスピンオフ作品まで出るという予告まで出ていたほどには。そして、私もそんな彼女のファンであり、なんの因果か彼女に生まれ変わってしまったのだ。
そのことに私はプレッシャーを覚えた。学園での彼女は、春という名前を持っているにもかかわらず氷の名を持っていた。冷静に、公平に、いつだって自分の正しさを信じ進んでいく。知識も、礼儀作法も、右に出る者はいないくらいに完璧だった。
私は、彼女に近づくことができるのか。それからの私の日々は、もう戦だった。
必死に、それこそ死に物狂いで身に着けたそれは、我ながら忠実に漫画の篠宮春華を再現でないきていると思う。――現に私は、この学園で【氷の女王】と呼ばれているらしい。
「相変わらずつれないな」
「…毎回お暇なのですか」
「お前に関する時間は惜しみなく使うことにしているんだ」
氷の皇帝――目の前で一日に一回は必ず私を口説いていく男が、あの漫画で私の思い人だった斎条院冷哉その人である。彼の気まぐれに私はいつも、頭を痛めているのだ。
冷たささえ覚える美貌に、しっかりとした体格、学園随一と呼ばれる頭脳に加えスポーツ万能という完璧を体現したようなこの男は、日本の財閥のトップに位置する家柄の跡継ぎである。
それでも奢ることのない彼は人望篤く、私も好ましいとは、感じているが。
――私は知っているのだ。この男は私のことを最後まで愛してくれることなどないということを。
斎条院冷哉は、いずれヒロインと出会い恋に落ちる。私は、それを傍で見ているしかないのだ。
それならば私は今の立場を崩さない。恋情など、抱かない。
けれどそんな決意はいつだって、紙一重で揺らぎそうになる。私は、一途に私を思ってくれる人でないと嫌だ。いつかどこかのヒロインと結ばれる運命にある人など、いやだ。私は傷付きたくないのだ。
「どうした?」
「どう、とは何がでしょう冷哉さま」
「心配事か?最近表情が硬い」
「…いいえ、ご心配には及びませんわ」
目を伏せてそっと首を振ろうとして、とどまる。
伸びてきた暖かな手が私の頬に触れた。は、と目を向ければ、こちらを案ずるかのような表情で皇帝が私を覗き込んだ。
――やめて、そんな風に触れないで。
言えない言葉の代わりに、一歩後ずさろうとして失敗する。
幼いころからそれこそ幼稚舎のころから、一緒に過ごしてきた。この学園で友人にも恵まれたが何よりもこの人と過ごした時間が特別だと思う。
時に笑い、喧嘩をして、それでも私はこの人の隣に友人として立ちたいと努力を重ねた。
「お前はいつも頼ろうとしない。誰にも。何が不安だ?お前の不安は俺が取り除く。何を恐れている?教えてくれないか」
「恐れることなど、なにもありませんわ」
――嘘だ。恐れている。芽生え始めた恋心を止めるすべを知らず、膨れ上がる気持ちの制御で手いっぱいで。私は【原作通りになる】ことを恐れている。
訝しがりながらも私から手を離した皇帝と並んで歩く。
漫画のワンシーンだ。いや、あの話はこのシーンから始まる。学園の皇帝と女王が並んで歩いているときに向こうからやってくる外部生――ヒロインの桜庭うららである――が通り、そして彼が彼女に目を止めるという部分。要旨は平凡だが、外部からトップの成績で入学した彼女に彼は刺激を受け、同じクラスということもあり仲を深めていくのだ。
そしてそのシーンの季節はちょうど高校の入学式が終わり一か月がたったころのこと。あの漫画では皇帝が女王を口説くという場面は欠片もなかったが、きっとこれからストーリー通りにかわっていくのだろう。
ついに来てしまったかと私は唇をかんだ。もちろん、ヒロインの桜庭うららは、原作通り外部生の中でトップの成績で桜花学園に進学してきている。
「あ、あの!篠宮さん!」
「………え?」
思考はそこで途切れる。原作ではありえない横やりに、ぼんやりと現実だからだろうかと思う。
緊張した面持ちのその人は、三条雪人。少女漫画的に言うならば、所謂、当て馬のポジションにいる人間である。つまり私と同じ。彼はヒロインに恋をして、学校生活をサポートする。けれど思いは報われないのだが、最後には笑って彼らを祝福するという、なんとも健気なキャラクターだ。
そんな彼が私を呼び止めたということは、どういうことだろう。
振り返りながら首をかしげる。隣の皇帝が、不機嫌そうなオーラをまとうのを感じながら、何か?と問いかけた。
「貴方の時間をいただけないでしょうか」
「…一体、何の用だ」
「斎条院、僕は篠宮さんに話したいことがあるんだ。邪魔をしないでもらえる?」
「話ならここでもできるだろう」
全く持って理解不能なのだが、なぜこの二人が火花を散らしているのか。
もしやもうヒロインとの出会いは済ませていて、私の知らないうちにヒロインの取り合いが始まっていたのか。
最近の私への口説き文句も彼女への恋心を周りの外部生に厳しい取りまき達に隠すためのカモフラージュだったのかもしれない。そんな考えを抱きながら、私は子供のような口喧嘩をしている彼らにため息を吐いた。
――もう決まっていることなら、受け入れるしかない。私は、【(()篠宮春華】())の想いを封じ込めてでも、彼を、斎条院冷哉の恋を叶えて見せよう。私の好きな、篠宮春華でいるために。春の名を持ちながらも決して彼を溶かすことのできなかった私に、お似合いなポジションだ。
「昼休みの時間も、まだありますし少し彼と話してきます。ごきげんよう、冷哉さま。参りましょうか、三条さま」
「ありがとう、篠宮さん」
「…行くのか?」
捨てられそうな犬の様に、見えてしまった。皇帝なのに。いつも堂々としているのに、どうしてそんなに弱そうな顔をしてしまうのだろう。
けれどこれからきっと彼には出会いがあるのだ。私も、それを直視したくなかったので、ちょうどいい。またあとで強引に言い渡し、私は三条雪人と連れ立って歩く。
「中庭でいいかしら」
「ああ、そうだね。そこが一番ここから近い」
三条雪人は、皇帝と対の様な容姿をしている。いうなれば王子様。キラキラとした線の細い、柔らかな物腰が人気の。
私は、腰あたりまであるストレートロングに華やかな顔立ちの美貌を持つが、常に冷静沈着であり釣り目がちな目が勝気そうに見えるのか、女王様といった容姿である。私も、可愛いと呼ばれる容姿にあこがれる。
中庭は昼休みを過ごす生徒がいるが、声高にしゃべらない限り会話は聞こえることはないだろう。
「篠宮さん、僕は君のことが好きです。貴方の時間をこれからも、僕にくれませんか」
「…………は、い?」
たっぷり三分間、私は固まってしまった。
どうしてこうなったのだ、と脳は突然のお知らせに拒否反応を示してフリーズした。
何が、いったい、どうして?
「突然で驚かせてしまって、ごめん。ただ、君たちを見ているのが辛かったんだ。僕にチャンスをくれないか?」
「え、ええと、」
「これから知っていってほしい。僕はそれこそ幼稚舎の時から君のことを想っていたんだ」
それは、なんとも、年代物だ。と思わず言いそうになってこらえた私をほめてほしい。
どういうことだ、これ。なんでこうなった。
ああでも、私は【篠宮春華】だ。彼もいずれ、私よりもヒロインを選ぶのだろう。
冬の、凍てつく寒さを名前に持つ彼らはヒロインの温かさに触れて雪解けを知る。
「私は、…わたし、は。――私だけを見てくれる人が好き。私をずっと見ていてくれる人を愛したい。だから、」
ごめんなさいと、続けようとした言葉は突然私を襲った衝撃で言葉にならなかった。
暖かなそれに包まれた私はまるで抱きしめられているかのように力強い腕の中にいた。
「と、言うことだ。諦めろ三条、コレは俺のものだ」
「…勝ち目はないとは思っていたけど。――でもまだ諦めないよ?皇帝にはスキがありすぎるからね」
全く理解不能な会話が私の頭上でなされている。
私を抱きしめているのは、皇帝で、私の手をとって優雅に口づけているのは三条雪人で、そしてどうして二人の間に【わたし】がいるのだろう?
考えることにつかれた頭は、思考を放棄して、そのまま私はくらりと意識を手放した…らしい。
***
素直ではないこの幼馴染は、春の名を持ちながら氷の女王と呼ばれている。
それは別に幼馴染が冷たいだとか冷徹だとかそういうわけではない。彼女は公平だが、いつだって慈愛を持っている。わかりにくいが、それに気づいた人間は彼女を慕っているし、彼女を慕う人間は多い。どうして氷の女王なのかと言えば、それは【氷の皇帝】と呼ばれる俺の近くに在るからだ。
いつだって傍にいた。彼女に幼稚舎のころ一目惚れをしてからかれこれ10数年、片時も離れず周りにも存在を主張してきた。だからこその、その名前だ。
氷の皇帝のそばにあるのは、女王でいい。
彼女と俺がセットであると周りが認識していれば、いいのだ。後は未だに素直にならない彼女を落としていくだけ。
だからこそ、毎日飽きもせず口説けば、採点をはじめる始末。
頼れと何度言っても抱え込み、けれど俺が手を出せばほっとしたように安堵する。そんな彼女を放っておけるはずもなく、宙ぶらりんな状態のまま日々は過ぎた。
春華が俺を想っていることなどバレバレである。隠そうと躍起になっているところも可愛いので何も言わないが、そろそろ限界だ。理性の面において。
同じ幼稚舎からの三条雪人も春華を想っていると聞いてさらに焦る。
いずれ俺は家の事業を継ぎ頂点に立つ。その時に、隣で立っているのは、篠宮春華以外に、いないのだ。
「わたし、は。――私だけを見てくれる人が好き。私をずっと見ていてくれる人を愛したい」
その言葉を聞いたとき。
ああ、やっと素直になったのかと口元を釣り上げた。
素直に教室に戻るわけもなく後をつけて様子をうかがっていれば、そんな返事にであい、衝動のままに抱き寄せた。
触れたかった彼女の肢体は柔らかく、優越感に唇をゆがませた。目の前の男が悔しげに春華の手に口づけたので危うく沸騰しかけたが、それくらいは温情をかけてやろうと思う。
篠宮春華は、俺が好きなのだ。そして、俺はそれこそ無力な子供だったころからこの女を愛しているのだ。
「お前をもう離さない。覚悟しろ、春華」
***
目覚めた私は、また一つ思い出した。
あまりの人気に、篠宮春華ルートができたのだ。彼女の人気はすさまじく、彼女と皇帝あるいは三条雪人との話が見たいという要望が殺到し、そして作者も乗り気になりそのスピンオフ作品が作られた(もちろん、その作品も私は愛読していた)。
もしかしたら、その世界なのでは、と考え始めたところで乱暴にドアが開き斎条院冷哉が現れた。
「婚約するぞ、春華。一生かかってもお前を振り返らせて見せる。俺はお前を一生涯愛すると誓おう。――だから、俺のものになれ」
真剣な、こちらを食らいつくしそうなほどの熱情を孕んだ目が私を見据える。
――そういえば、スピンオフの冒頭部分にこの情熱的なセリフが、あったかもしれない。
と思いながら、私はふらりとまたベッドの住人へと逆戻りした。
混乱しすぎて熱暴走を起こしそうである。
***
n番煎じのライバル転生もの…になるはずでした。
最近はまっています。