七話
子が店のドアを開けるとかろうじて手元が見えるくらいに調節された照明の下、
生温かい空気がねっとりとまとわりついてきた。
猿若町のメインストリートから一本入った路地に面して建てられた古い雑居ビルの一室にあった。
都会の歓楽街と同じように、この街も大通りには全国展開をしている居酒屋チェーン店や
値段の高いキャバクラなどが軒を連ね、路地の奥にはいっていくほどにそれが値段が安い
うらぶれた飲み屋やアブノーマルな趣味を満足させる店に変わっていく。
つまりこの店は表通りに看板を出すほど一般的ではないが、人目を忍んで出入りするような店でもない。
入店する人間の大部分が遊び慣れて少しスリルを味わいたくなった類だろう。
2週間通い続けたせいで暗がりの中でも何がどこにあるのかはだいたい見当がついている。
ぎしぎしと軋むソファに腰を下ろすとすぐに黒服が小さなキャンドルをテーブルの上に置いた。
小さな炎が霧子の全身を仄かに照らす。と、幾つもの視線が全身を舐めまわすのを感じた。
ソファからは暗闇に塗りつぶされて見えないが、この店は4畳半程の個室が数個連なったつくりになっており、隣の部屋との壁の一部がくりぬかれそこに目の粗いすだれがさがっている。
廊下と部屋の壁の一部も同じようになっていて、視線はそこから注がれていた。
ハプニングバーと名付けられたこの形態の店は、客同士に「思わぬ出会い」を提供するというコンセプトらしい。
一人客をナンパするのもよし、カップル同士の痴態をのぞき見するのもよしというもので
極端に照明が暗いのも、女性客だけ顔を下から照らすようにキャンドルが置かれるのも
(おもに男性客が)素性を知られずにスリルを楽しめるよにという配慮だ。
この店の奥には、セックス用の部屋もあるが双方の合意さえあれば連れだって店を出ても何ら不思議はない。
すぐに霧子の隣にどさりと誰かが腰を下ろした。
「あんた、よく来るね」
酒か煙草あるいは両方かでしゃがれた声は二週間前の夜中、病院の廊下で聞いた。
北川雄二。自称フリーライターの強請りや。彼がこの手の店を愛用していることはネットで検索すればすぐにわかった。
本人がツイッターで自慢げに呟いていたからだ。プロフィールの自画自賛ぶりも失笑モノだったが
自分の性癖を自慢げに呟き、たまに寄せられる控えめな批判や指摘を「自分の才能に嫉妬した負け犬の遠吠え」呼ばわりしているのはいっそ憐れみさえ覚えた。
こんな男には本来なら食指は動かない。だが、今回は別だ。
そういえば遊び以外で人を殺すのは随分久しぶりだ、と北山の話しを聞くふりをしながら霧子は思った。
「なあ、あんたもたまってるんだろう。場所、移ろうぜ」
生温かく湿った耳にかかる。ここに来る前に何処かでひっかけてきたのか酒の匂いが鼻をついた。
背筋がぞわぞわとして酷く不快だ。こんな物はさっさと叩き潰してしまおう。
「ねえ」
息を止めて霧子は北山に囁くと、ろうそくの暗い光の中で彼の表情がだらしなく溶けていくのがぼんやりと見えた。
これほど至近距離にいて二週間前に合った人間の顔を忘れてしまうのか。
まあそのほうが好都合だけれども。
「ここじゃ狭いわ。外に出ましょうよ」
北山がよだれをたらさんばかりに口を笑いの形に歪めて頷くのを、霧子は憐れみすら籠めて見つめた。
※
「うそだろう……」
霧子が猿若町に降り立ったころ、坪内総合病院の職員用駐輪場で佐々木ががっくりと肩を落としていた。
自転車の後輪がずたずたに切り裂かれている。
時刻はもうすぐ19時を回ろうとしている。自転車やは多分もう閉まっているだろう。
休日までにはまだ四日もある。
その間バス通勤になるならいつもより30分は早起きしなくてはいけない。
「勘弁してくれよ」
激務続きの今は1分でも遅くまで寝ていたいのに。
「おい、どうした。佐々木」
ふいにかけられた声に慌てて振り向くと、片医師が愛車のパジェロの運転席から身を乗り出していた。
「い、いえなんでもないです」
「何言ってんだ泣きそうな顔しやがって。ん……これは酷いな」
車から下りてきた片はタイヤが切り裂かれた自転車を見て顔をしかめる。
「す、すいません」
「だから何でお前が謝るんだ。乗せるから手伝え」
首をすくめる佐々木の髪をぐしゃぐしゃとかきまわしてから、片はハッチバックをあける。
「え、えっと」
「だから、自転車屋まで乗せてってやるよ。はやくしろ」
「いえ、大丈夫です」
「馬鹿かお前は」
片は大きくため息をついた。
「自転車屋まで何キロあると思っているんだ。この寒空の下そんな物引きずって歩いた揚句に
風邪ひいたなんてことになったら、皆が迷惑するだろう。ほらはやく」
「は、はい」
指導医の言葉に引きずられるようにやっと佐々木は自転車を引きずりだした。
「行きつけはあるのか?」
「いえ」
「じゃ、俺の知ってる所にいくぞ。あそこなら夜九時までやってるから」
独り言のように呟いて、片は車を発進させた。
平日だというのに道は混んでいた。
「ひどいことしやがるな」
佐々木ではなく、遥か向こうの信号機まで連なるテールランプに目を向けながら片がまた
ポツリとつぶやいた。
「そ、そうですね」
助手席に座っていた佐々木は居心地悪そうに体をもじもじとさせた。
片医師の車は職員用駐車場の中でも特に目立っていたが乗せてもらうのは初めてだ。
外観と同じように内装も佐々木の知っている自動車のそれとランクが違うことが一目でわかる。
坪内総合病院の常勤医の給料がどのくらいかはわからないが、小鉢科長の車が型の古いフィットということから考えると、それほど高いというわけでもなさそうだ。
やっぱり母親が有名な美容クリニックを経営しているせいだろうか。
世の中やっぱり少し不公平だ。
「俺たちは別に聖人君主ってわけじゃないから、知らないうちに患者さんを傷つけてしまうことも
あるかもしれない。でも、自転車をずたぼろにされても文句を言えないような事をした覚えはないぜ」
「……片先生は、これ、患者さんの仕業だと思っているんですか」
控えめな問いかけに、片医師は苦く微笑した。
「職員用の駐車場は救急外来専用の入り口のすぐわきだろう。一般用の駐車場は建物を挟んで反対側だし、正面玄関から入ったなら建物をつっきらないとでてこれない。それに昼間は警備員がいるし、何か出来るとすれば朝早くか夜遅くだろ。そんな時間に病院に来るのは救急外来の患者しかいないじゃないか」
佐々木は唇を噛んでうなずいた。12月に入ってから朝七時半出勤が続いている。
そして今日、当直明けの片医師から明け方ずっと払うべき治療費を滞納している厄介な患者がやってきたことを聞いた。
「やる気、削がれますよね」
それまでの病歴もわからずにいきなり飛びこんでくる患者達。
最善を尽くしても感謝されるどころか、罵倒される事の方が多い毎日。
「まあ、世の中ぎすぎすしているからしょうがないか、ほらついたぞ。ここだ」
片の知っている自転車屋というのも、佐々木の知っているものと大分違っていた。
タイヤ交換やパンクの修理も洒落たインテリアショップのような場所でやられると奇妙な感じすら受ける。
やはりタイヤは修理不可能で交換といことになったのだが、その値段を示されてため息が漏れた。
給料日まで吉野家とコンビニ弁当で乗り切るしかないだろう。
「……そんな顔するなよ、厄落としに夕飯奢ってやるから。あれ小出先生じゃないですか」
「あら、片君に佐々木君も。どうしたのお揃いで」
ひょいと棚の間から顔をのぞかせたきついパーマをかけた中年の女性は二人の顔を見て驚きながらも嬉しそうな顔をした。
続く