六話
「ねえ、……ちゃん。確かにこの仕事は女性にとっては辛いかもしれないわ。でもね、自分の手で他人の命を救えるのよ。
そのやりがいに比べればこの位の辛さは何ともないわ」
優しい声と微笑みに、霧子はひじの内側を軽くくすぐられたような甘いこそばゆさを覚える。
なんで、この笑顔を私だけに向けてくれないの。なんで、皆と私を同じに扱うの。
笑顔を見る度に甘い感覚と怒りで身体が裂けてしまいそうになる。
自分の想いを言葉にしたら、この笑顔はもう二度と見られない。それが判るような年になるまでこの人と出逢わなかったのは
幸運なのか不幸なのか。
「あらあらどうしました」
扉が開く。見知らぬ人が入ってくる。自分に向けられていた笑顔がその人へと向けられる。
やめて、やめて、なんであんたが、名前も知らないあんたが笑顔を向けられるの。
もうダメだ、ならいっそ。
白衣の背に手を伸ばした所で霧子ははっと目を覚ました。
畳を敷いた10畳ほどの和室の片隅で携帯電話がgreen.greenを奏でている。
確か寝る時は枕元に置いておいたはずだが、眠っている間に弾き飛ばしてしまったのか。
苦笑しながら起き上がると腰のあたりが微妙に痛い。安物の固い布団を敷いているのがわるいのだろうか。
でも、ベッドは手で持って運べないから我慢するしかない。
トントンと腰を拳で叩きながら襖を開ける。クローゼット代わりにしているそこには出勤用のスーツが二着とジーンズそして
全国に店舗を展開している衣料品店のトップスが三組入っているだけだった。
仕事をしている成人女性としてはあまりにも少ないが、これで特に不自由したことはない。
一歩外に出れば金さえ持っていれば服くらいいくらでも手に入る。それに、何かあった時は
荷物が少なければ少ないほど行動が素早くなるものだ。
黒いナイロン製のボストンバック。女性が持つにはそっけなさすぎるそれは確か中学校の修学旅行用に学校指定の店で買ったものだったはずだ。
規則でがんじがらめに縛りあげていれば子供がまっすぐに育つと信じられていた愚かしくも懐かしい時代を象徴するようなそれにはいる分が彼女の全財産だった。
それにしても、と押し入れからいつも着ているものよりさらに地味、むしろやぼったいと言った方が相応しいこげ茶色のスーツを取り出す。
それを着た自分を鏡に映して見れば、起きぬけの腫れぼったい顔も手伝って別人のように老け、疲れ果てて見えた。
……似ているかも。
指先でひんやりとした鏡の表面を自分の頬に沿ってなぞりながら霧子は口の中で呟く。
あの人も、本当は美しい顔をしていたのに自分を飾るということを一切しなかった。
髪は手入れが楽というだけで、伸ばしっぱなしのストレートをヘアゴムでくくっただけ。
普段は穴のあいたジーンズに洗いざらしのコットンシャツで、改まった場には成人式の時につくったという型の古いスーツだった。
こんな人だから、誰も気づくことはないと思ったのに。
でも、草むらの中に放られていようともダイヤの輝きは失せないようにどんなにやぼったい髪形や洋服もあの人の魅力を隠すことは
できなかった。だから、自分は。
ふっと音楽が途切れた。いつのまにか部屋の中には夕暮れの紅色の光の代わりに夜の闇が忍び込み始めている。
あんな夢を見たせいだ。改めて念入りにやぼったさを演出しながら霧子は思った。あの人のことを考えるといつもあっという間に時間がたつ。
そんなあの人を、苦しめた北山のことを考えると胸の奥がざわざわとする。
彼が坪内総合病院に取材と称して恫喝にやって来た日から二週間がすぎていた。
12月も半ばを過ぎ、町はクリスマスに向けて一日ごとにきらびやかさを増している。
身支度をおえた霧子はポストに突っ込まれていた新聞を読みながら眠気覚ましのコーヒーを啜る。
相変わらず世の中は悪いニュースが多いようだ。
一向に回復しない景気。企業の不祥事。迷走し続ける政治。世界各国で毎日のようにおこる紛争。
誌面をめくっていくとテレビ欄の真後ろ。三面記事といわれる場所にわずか数行「カラカラ天気が原因か、猿若町で火事多発」
と書かれていた。なるほど、確かに今年の冬は乾燥している。もう一ヶ月近く雨が降らずお陰でインフルエンザが大流行の兆しを見せていた。
病院にも高熱を出してせき込みながらやってくる患者が途切れることはない。
でも、この火事は天気のせいではない。火事多発を埋め草記事につかった記者はそれが実は一人の人間が放火したせいだという事実を知ったらどういう顔をするだろうか。
薄笑いを浮かべて霧子は冷めかけた苦いコーヒーを啜る。北山はハイエナのような男だけあって
なかなか用心深かった。
自分が恨みをかっているという自覚があるのだろう。だから、いつもより慎重にわなをしかけることにした。でも、丁度食べごろの果実を目の前にして
手をださずにがまんすることができなかったのだ。
直接手で命を摘み取る快感はないが、炎が全てを焼きつくしていく様を見るのはそれなりに楽しい。
あの町は消防法など守っている店の方が少ないから死者や重症者がその度に出るのもわくわくした。
猿若町で地味な若い女が明け方に徘徊するなど目立ちそうだが、たった一枚の白衣がその違和感を消してくれる。
あの町はその日暮らしを続けてそのまま年老いてしまった人間も少なくない。
無保険で金もない哀れな老人の「今」だけを見て可哀想と野良猫にえさをやるような感覚の医療従事者がいるのだ。
それを装えば、どんな汚い路地裏を歩いていようと皆何も思わない。なぜ、唯の白いだけの上着に皆そこまで無防備になる。
霧子はそれだけが不思議だったが、まあ、今は深く追求することはやめておこう。
「今日が、しあげ」
マグカップを洗って家をでる。いつも病院へ向かうバスではなく駅に向かうバスにのるためだ。
今日の目的地は猿若町。ほぼ毎日徘徊しているのに着飾った艶姿を見るのは初めてだ。
電車が最寄駅に近づく。暗闇の中、まるで浮島のように色とりどりの明かりが輝いている場所がある。
あそこが、今の私の遊び場。ああ、なんてきれいなのかしら。
始めてここに来た日のように頬を僅かに紅潮させて、霧子は男性客に混じって電車を降りた。
続く