五話
「いやだなあ、そう嫌わないでくださいよう。私はねただちょっとお話を聞きたいんです」
廊下の長椅子の端にいやいや腰を下ろした霧子の隣に、北山は当然のように座った。
股を必要以上に大きく開いているため、片膝が霧子のそれとぶつかりそうだ。貧相な体の中で
垢じみてしわの寄ったYシャツに包まれた下腹だけがだらしなくふくらんでいた。
「いやあ、お綺麗ですね。失礼ですが女医さん一人で当直とは随分と薄情な病院じゃないですか。
ここは確か猿若町もカバーしているんですよね」
ねちねちとまとわりつくような喋り方をしながら、じりりと間合いを詰めてくる。
膝の上にさりげなく置かれようとしていた手を霧子は勢い良く振り払った。
「っつ、威勢がいいねえ。やっぱし頭のいい女性は鼻っ柱も強いみたいだ。
いいですねえ。好きですよそういう人
だから先生教えて下さいよう。この病院で今朝患者がなくなったでしょう。
あれ、医療ミスの可能性がありますよね」
大げさに手を振りながらも上目づかいにこちらを見つめながら舌で上唇を湿らす北山の姿に
霧子は改めてひどい嫌悪感を覚えた。
ここ数年、マスコミの医療従事者に向ける目は厳しいを通り越して半ば弾圧の域に達している。
北山はそれを利用して小金を稼いでいるドブネズミのような輩だ。
細心の注意を払っていても予期せぬ患者の急変を無くすことは出来ない。
まして、一刻を争う患者ばかりが運ばれてくる救急科では一瞬の判断の遅れが
生死をわけることは珍しくないのだ。
北山はそういったもしかしたら助かったかもしれない患者達の話をどこからか嗅ぎつけては、
取材と称して病院にやってくるのだ。
そして、今のようにねちねちのまとわりつく。
「ねえ、先生。あの患者もしかしてこうすれば助かったんじゃないですかねえ」
「ほら、怖いですねえ。この病院は遺族との話し合いがこじれて結局裁判ですよ」
裁判とバッシングに神経をとがらせている病院が彼の要求に従うまでこれを続けるのだ。
北山のせいで医者や看護師をやめざるを得なかった人も一人や二人ではない。
そう……あの時も。
「まだ、こんなことを続けているのね」
「え、いやだなあ私は先生と初対面ですよ。こんな美人一度あったら絶対に忘れませんって」
霧子の呟きに北山はヤニ臭い息を吐きながらぐへへと笑った。
そうか、この男私を覚えていないのか。
言葉を交わしたことはないが、北山が取材という名の強請りにあの病院にやってきた時ほとんど同じ部屋にいたのに。
まあ、あの時は髪も短かったし……それに。
「ねえ、先生聞かせて下さいよう。猿若町から運ばれてきた患者。
あれ、実は命に別状はなかったんじゃないんですか」
霧子の思考は、いつのまにかまた膝へと伸びてきた北山の指に中断された。
太く硬そうな毛が生えたそれは若葉を食い荒らす毛虫のようで、
霧子はさっきよりも強くそれを振り払った。
そのままお話することは何もありません、お帰り下さいと背を向ける。
「そうかい、あんた後悔するぜ。これだからお高くとまった女は嫌いなんだよ」
北山ががらりと口調を変えた。どすのきいたそれは気の弱い看護師なら
泣き出してしまいそうなほど凄味がある。
それはきっとこいつがこういうことをやり慣れているせいだろう。だが
――残念ね――
後ろ手に医局の扉をしめながら、霧子はほくそ笑んだ。
北山にとっては病院が丸々と太った羊の群れに見えるのだろう。だが今回の羊の群れには
一匹ジャッカルが紛れ込んでいる。
たまには、狩られる立場になるのもいいでしょう。
ただし、とられるのはお金よりもっと大切な物かもしれないけれど。
廊下ではまだ北山が騒いでいるらしく、汚いダミ声が響いている。
そんな中で霧子は小さなあくびをするとソファにもたれて目を閉じた。
※
「大体ですね、猿若町の患者なんか受け入れるからこんなことになるんですよ」
スチールの机にヒステリックに両手を叩きつける毛利事務長に佐々木だけでなく小鉢も片も
うんざりした顔になった。
時刻は午前9時。急患の運びこまれる気配はなく。
ICUも満床ではあったが全員容態は落ち着いている。
普段ならばゆったりと流れる時間の中、後回しにしていた仕事を片付ける貴重な機会なのに。
「聞いておられるんですか、先生方」
毛利事務長の声が一オクターブ高くなる。
「聞いてるよ、でもそんなこと出来るわけないでしょう」
ため息をつきながら片が首を振った。
「白鳳大学病院だって、あからさまに搬送を断っているんだ。うちが可能な限り受け入れなきゃ
救急車は現場から動けないぜ」
「それがなんだというんです。リスクがある患者を受け入れればあんな三流記者がつけいる
隙もくなるはずです」
「そうやって今度は患者を見殺しにした病院とバッシングを受けるのか。
俺はそっちの方がごめんだね」
「片先生!!」
「毛利事務長」
今まで黙っていた小鉢医師がゆっくりと立ち上がりようやく口を開いた。
「な、なんですかね小鉢科長。私はこ、この病院のためをおもってこそ」
クロアチア人を祖父に持つ小鉢の身長は180センチをゆうにこえる。
163センチの佐々木よりも小柄な毛利事務長からすれば大人と子供のようなものだろう。
今までいせいのよかった口調がきゅうにたどたどしくなった。
「前にもいいました通り」
毛利を見下ろすような姿勢で小鉢は話を続ける。
「この問題は私達で即決できるような物ではありません。どうかお引き取り下さい」
決して大きくない、むしろ穏やかな口調であったが毛利は額に汗をにじませながらうなるばかりだ。
「こ、小鉢先生なんかすごいですね」
「だろ、あの人怒らせたら怖いんだ」
ひそひそと囁き合う佐々木と片。
「こ、これはぜひと、としあけの全体会議に議題として提出します。お、覚えておいて下さいね」
捨て台詞を吐いて毛利事務長が去っていくと、小鉢は肩をすくめた。
「やれやれ、喧嘩を売ってしまったな」
「喧嘩じゃなくて脅しでしょう。でも厄介な相手に目をつけられましたね」
「ああ」
「え、えっと」
今一話についていけずに佐々木はとまどう。
今朝、前田女医からは北山というフリーライターが取材に来たと告げられただけだ。
なぜ皆こんなにぴりぴりしているのだろう。
「O病院の産婦人科事件は知っているか?佐々木」
ふいに片が尋ねてきた。
「え、あ、はい。確か緊急搬送された妊婦が手術ミスで亡くなった事件でしたよね」
「そういう風に報道されちまったんだよ、あほう」
片がぽんと佐々木の頭に丸めた医薬品のカタログを振りおろす。
「あれは、O病院が妊婦のかかりつけ医でなかった上に前置胎盤というめったにない症例
だったんだ。たとえどんな医師が手術しようと助からなかったはずだ。それをさも病院のミスのように
かき立てた最初の記者が北山なんだよ」
小鉢が再びため息をついた。
「……そうだったんですか」
ようやく毛利事務長が血相を変えて跳びこんできた理由がわかった。
あの事件が起きた時、佐々木はまだ医学部の学生だったがその年から産科を志望する学生が急激に少なくなったと教授が嘆いていたのをよく覚えている。
執刀した医師はその後裁判で無罪が確定したが、二度とメスを持たないと宣言したとも聞いている。
「まあ、ああいう野郎は鼻だけはきくから、どっかから昨日の一件を聞きつけておどしたんだろうさ。
まったく、なんで俺達がびくびくする必要があるんだ」
腕を組んでむくれる片に、小鉢はしょうがないと疲れたような表情で答えた。
「医者が神様だと思いたい人がこの国には多すぎる」
……部屋の空気がまるで鉛のように重くなっていく。
佐々木はそれに耐えきれず、トイレに行くふりをして医局を出た。
続く