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cottoncolor  作者: 杜若
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四話


「小鉢先生、どうでした」

出勤してすぐに院長に呼び出された小鉢医師が疲れた顔をして戻ってきたのは、もうすぐ昼になろうという時刻。

切羽詰まった口調で尋ねる片に、救急科の責任者は安心させるかのように僅かな笑顔を見せた。

「事故、ということで落ち着いた」

その言葉に片と書類を書くふりをして耳を澄ませていた佐々木は安堵のため息をついた。

転院まちの鈴木明子の急変に看護師が気づいたのは午前三時三十分。

傷が痛むのか患部にまかれた包帯をむしり取ろうとするので両手を抑制していたのだが、いつのまにかそれがほどけていたのだ。

異常を知らせるアラームはなぜか音量が最小限に絞られていた。

しかし、ナースステーションでもICUに入っている患者に異常が起こればアラームが鳴る仕組みになっている。

普段だったらすぐに看護師が駆けつけることができただろう。だが昨日は午前三時に交通事故の急患が入り当直の片医師と前田女医、さらに看護師のほとんどがその治療にかかりきりになっていた。

その上なぜかよその科に入院していた老人が救急科へ迷い込んできたため待機していた看護師が送り届けていたため、アラームが鳴り響いた時、ナースステーションは全くの無人だったのだ。

「こういっちゃなんですが、昨日は間が悪すぎた」

呟いた片に小鉢も頷く。

「ああ、ついでに言えば鈴木さんに身寄りがなかったこともよかった。ただし、毛利事務長が大分おかんむりらしい。しばらく風当たりがきつくなるから覚悟してくれ。佐々木君も申し訳ないが何か言われたらその場は口答えしないではいはいと頷くだけにしていて欲しい」

佐々木は罪悪感と失望感の入り混じった苦い気分でわかりましたと頷いた。

事故と認められたとはいえ、もう少しだけ皆が気をつけていれば防げたことだ。

だが、それを口に出してどうする。まだ僅かな期間ではあるが今までの日々を振り返ればここが戦場のような職場であることは身にしみてわかる。全員が百パーセントの力を出して働いているのにそれ以上のことをしろということはできない。

だが、火事で重傷を負い誰にも看取られずに息を引き取った挙句、遺族がいないことを「幸運」と言われてしまった鈴木明子はあまりにも哀れすぎる。

そんな風に悶々としていたせいなのか佐々木は午後一杯ささいなミスを繰り返し、その度に指導医の片から嫌味たっぷりの注意を受けた。

「最悪な日だなあ」

午後五時半、とっぷりと暮れた窓の外を見ながらぼんやりと呟く。

机の引き出しに放り込んである私物の携帯には、久代からのメールが何通かきていた。

内容は想像がついたし、返事が必要な事はわかってはいるが携帯を開く気分にすらなれない。

「こんばんは」

涼やかな声と共に前田霧子が医局に入ってきたのはそんな時。

「こ、こんばんは」

今日の彼女は冬だというのに白衣がなければ胸が半ば見えてしまいそうな大胆な服を着ている。

清楚な美貌にはそぐわないが、妙に色気漂うその姿に佐々木は瞬時に熱を出したような錯覚を覚えた。

「昨日は大変だったわね。その後どうなったのかしら」

そんな佐々木の様子など気にも留めない様子で優しく尋ねてくる前田女医に時々つっかえながら事故として片付けられた経緯を説明した。

「かわいそうね」

話が終わると前田女医はポツリとつぶやいて、白衣のポケットからハンカチを取り出し目頭を押さえる。

「ま、前田先生、あ、あの」

佐々木はとまどった。三十半ばで東京の救急病院での勤務経験もあるならばこの手の話は決して珍しい物ではないだろう。

どんな悲惨な話でも繰り返せばいつしか慣れてしまうものなのに。

「ごめんなさい、私涙もろくて」

ハンカチで目元を抑えながら前田女医は笑おうと努力したようだ。口角がもちあがろうと震えているのが不思議と可愛らしい。

「鈴木さん、最後は苦しまずに逝くことができたかしら」

「え、ええ。き、きっとそうです」

こくこくと佐々木は頷いた。自分以外にも鈴木明子の死を悲しんでくれる人がいる。

それがわかっただけでさっきまで胸にたまっていた重苦しい思いが急に吹き飛んだ気がした。


                         ※


「お先に失礼します」

すっきりとした笑顔で医局から出ていく研修医を霧子は吹きだすのを必死でこらえながら見送った。

いつも持ち歩いているハンカチには少量のミョウバンがしみこませてある。

目元をこすればあっというまに涙を堪える健気な女医になれる。少々の痛みは縁起の良いスパイスだ。

憐れみの言葉を紡ぎ、涙を見せればどうして他人は自分を良い人だと思いこむのだろう。

口先だけなら簡単にいつわることができるのに。涙など瞳を守る生理現象に過ぎないのに。

鈴木明子の酸素マスクを外したのはもちろん霧子だ。命に別条がないようなので退院した後にあの土蔵に監禁してやろうと思っていたが

熱傷センターへの転院待ちだと聞いて、気が変わった。

ベッドに横たわり時折苦しげに抑制された両手を動かす鈴木明子の頭部にはあの金髪は一筋も残っていない。

「やっぱり日本人は黒髪でなくっちゃね。それに苦しそうだわ。ほどいてあげましょう」

母を見舞う娘のような優しげな口調でつぶやきながら、霧子は抑制帯をほどいた。

布団をかけておけばしばらくは誤魔化せる。ついでに酸素吸入器のアラームの音量を限界まで下げておく。

「明子さん。かけをしましょう。これであなたが死ななければあなたの勝ち」

そう言い残して霧子が医局に戻ったのは午前二時。その一時間後に交通事故の患者が搬送され、しばらくして内科から入院患者が迷い込んできた。

これは霧子が隙を見て内科から連れ出したのだが、交通事故は偶然だ。とても運がよいことだ。

「かけは私の勝ち」

医局に一人残された霧子は呟く。今日から夜間は一人当直だ。

小鉢医師からは何かあったらすぐにコールをするように言われたが、多分受話器を握ることはないだろう。

遊び場は独占したいし、寒い冬に死者が増えるのは仕方がない。

その日の当直は昨日までの騒ぎがうそのように静かなものだった。

看護師達はほっとした様子でナースステーションでそれぞれの仕事についている。

霧子も昨日から寝ていなかったこともあり、椅子にもたれているうちについうとうととしていた。と、

「こまります、今は誰も先生がいらっしゃいません」

困惑したような声が廊下から聞こえてくる。

何だろう、とまだぼんやりとした頭で霧子は考える。

まだ勤務三日目だがここの看護師達がみな肝が据わったツワモノぞろいだということは理解できた。

そんな彼女たちのうちのだれかが、これほど戸惑っているということは近頃はやりのモンスターペイジェントでもやってきたか。

丁度いいと霧子は舌でちろりと唇を湿らせる。一気に眠気が吹き飛んだ。

又新しいおもちゃが手に入りそうだ。

だがドアの隙間からこっそり廊下の様子を覗き見て、あいつはと唇をかんだ。

背中をつっと汗が伝う感触が酷く不快だ。こんな感覚を覚えたのは何年振りだろう。

蛍光灯が青白い光を投げかける廊下に薄笑いを浮かべながら看護師と話しているのは中年の男だった。

くたびれたスーツに皺のよったズボン、それにぎらぎらとした光を浮かべた上目遣いが野良犬を連想させる。

「だからよう、誰でもいいんだよ、ちょっと話を聞かせてくれりゃあそれで」

煙草の吸い過ぎか酒の飲み過ぎか、嗄れ声が酷く耳触りだ。

男の手には名刺らしきものが握られていて、それを看護師に押し付けようと躍起になっている。

「北川、雄二」

医療ジャーナリストを自称する売文屋。まさかこんな所で再開するとは。

「あれえ、先生がいるじゃないですかあ」

うまく身を隠していたつもりなのに、北川は霧子の方を見てにやりと黄色い歯をむき出して笑った。

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