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cottoncolor  作者: 杜若
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二話

ブラインドの隙間から薄青い朝の光が差しこんでくる。

「もうひと踏ん張りだな、お疲れ様。初日なのに随分ハードな勤務になってしまったね」

小鉢医師が差し出してくれたコーヒーを霧子はすぐに手を出すことが出来なかった。

彼の言うとおり昨日は急患が三件たて続けにやってきたお陰でほとんど眠ることが出来なかった。

そんなことは初めてではなかったが、久しぶりの経験だったため思ったより疲れていたらしい。

どんな表情をつくってよいかとっさに判断がつかなかった。

しまった。一瞬ひやりとしたが、小鉢医師はそれを疲れのせいだと思ってくれたようだ。

「N病院でもこんな日はあまりなかっただろう」とスチールの事務机の上に

湯気の立つマグカップを置いてくれた。

「そうですね。N病院は三次救急でしたが繁華街はカバーしていませんでしたから」

頭の中にインプットした数百枚の表情のサンプルの中からやっとこの場に相応しい疲れているけれど、ほっとした笑みを選んで顔の上に忠実に再現する。普段より一呼吸遅い。家に帰ったら久しぶりに復習が必要なようだ。

そんなことを考えながら、熱く苦いコーヒーをすする。

この病院から三駅離れた場所にある猿若町は、戦前までは神社を中心とした門前町だったようだが

今は地方都市にありながら歌舞伎町と同じ位の知名度をほこる歓楽街だ。

ごく普通の居酒屋から、マニアックな趣味を満足させる風俗店までがひしめき合っているらしい。

トラブルは当然日常茶飯事。更に厄介な人々も多く、同じ地域をカバーしている白鳳大学病院救急救命センターなどは猿若町から搬送だと伝えると、必ず満床だという答えがかえってくるという

もっぱらの噂だ。

昨夜はそんな街から二件の搬送があった。

一件は、喧嘩で怪我をした若者。もう一件はアルコール依存症が進んで静脈瘤が破裂したホステス。

どちらも治療が始まるまで酷く暴れ、しかもホステスは点滴をさす血管が十分以上見つからないほど

体がぼろぼろだった。

「まあ、こんな夜ばかりではないよ」

対面の机に腰をおろし、心配そうにこちらを見つめる小鉢医師に霧子は大丈夫ですと頷いた。

今度は口元に自然に笑みが浮かぶ。

跳びこみの患者が多く忙しい現場。しかも運ばれてから数時間が経過しているのに未だ患者二人共家族がやってくる気配がない。

これは、思っていたより理想の職場かもしれない。

「やりがいが、あります」

「そういってくれるとありがたいよ」

小鉢医師がほっとしたような笑みを見せる。

言葉は便利だ。ほんの少し省略しただけで聞き手は自分の都合のよいように補足してくれる。

時計が七時半をまわると日勤の看護師や、常勤の医師達が出勤してきて病院は一気に騒がしくなった。

「それではお先に失礼します」

小鉢医師や片医師、さらに研修医の佐々木にも丁寧に挨拶をして医局を後にする。

ほうっと背後からため息が上がった。振り返らなくても

それがマイナスの感情を含んでいないことが良くわかる。

ああ、本当に良い職場だ。

だれもいない女子ロッカー室にはいると堪え切れずに声をあげて笑いだしてしまった。

これなら、思う存分「遊び」を実践できる。昨日の疲れなどいつの間にか吹き飛んでいる。

家に帰る前にぶらりと猿若町を歩いてみよう。そうすれば具体的な計画が立てやすくなる。

さらに病院内、できれば事務方に思い通りに動く奴隷を作っておこう。

せわしなく考えをはりめぐらせながら、霧子は病院を後にした。



                            ※


「へえ、前田先生って思ったより肝が据わっているんですね」

「女性で外科医だぞ。当たり前じゃないか」

 今日の佐々木の朝一番の仕事は、片医師について患者の回診だ。

「……そんなもんなんですか」

 今一腑に落ちないように首を傾げる佐々木の頭を片がカルテの挟まったバインダーで叩く。

「今のぬるま湯研修じゃわからねえよ。俺が研修医だった頃は一週間に一度家にかえれれば

良い方だったからな。うっかり炊飯器に飯がはいっていたりすると、それはみごとなカビの培養地になっていた」

「は、はあ」

「わからない奴だな。つまりだなあ。前田さんは二年も三年もそういう生活に耐えたってことさ。

中々きついだろ、妙齢の女性にしちゃ。ん、昨日運ばれてきた患者さんか。どうですか御気分は」

「さいていよ。一杯やりたい気分」

土気色の顔にだらしなく媚びるような笑みを浮かべた中年の女性に、佐々木はため息を片医師は

皮肉げな笑みを唇の端に浮かべた。女性がここに運ばれてきた原因は酒の飲み過ぎなのに。

「退院してから飲んで下さいね。佐々木。採血して検査にまわしておけ」

「え、まだだったんですか」

「その場でとったやつはアルコールがしこたま混じっていて役に立たん、もう一度だ」

「はい」

 話を聞いているのかいないのか、相変わらずへらへらと笑っている女性を見て

佐々木は空しくなってきた。

 多分この女性は長いこと体調が悪かったのだろう。もしかしたら医師からアルコールをやめるように警告を受けたかもしれない。

でも彼女は飲み続けた。その結果がこれだ。

「ま、アルコールは悪魔の水だ。魅入られる人間はたくさんいるのさ」

慰めるように片医師が今度は優しく佐々木の肩を叩く。

「前田先生、昨日一日で嫌になっちゃいませんかね。喧嘩の人もきたんでしょう」

一通り検診を終えたが、珍しく今日はまだ患者が来ない。

「こればっかりは願うしかないなあ。俺も早く美人女医と二人っきりの夜を過ごしたいぜ」

にやりと笑って片がコーヒーの入ったマグカップに口をつけた時、

「おいおい、それはセクハラじゃないか。片君」

皺だらけののハンカチで顔を拭きながら、小鉢医師が医局に入ってきた。

「小鉢先生、もう起きられたのですか」

「うん、少しは寝れたから大丈夫。佐々木君、コーヒーを飲むならついでに僕の分も

入れてくれたらうれしいな」

「はい」

佐々木がコーヒーを入れていると、背後で

「で、どうでした。美人女医との熱い一夜は」

好奇心を隠しきれなさそうな片の声が聞こえてくる。

「片君、何度も言うが少し口を慎みなさい。……そうだな。少しブランクがあったと聞いていたが

手技の手際は良いし、的確だった。できれば常勤のスタッフに加わって欲しいほどの腕前だよ」

小鉢の返事に片がひゅう、と短い口笛を吹いた。

「それは頼もしい。いやあ今日から勤務が楽しくなりそうだ」

「まったく片君は始末に負えんな……。佐々木君も機会があったら前田先生の手技を見ておくといい。

きっと勉強になる」

「は、はい」

急に話の矛先が向けられ佐々木は慌てて頷いた。

「いいかー、見るだけだぞ。声をかけるのは俺が先だからな」

何と答えていいかわからず、佐々木は曖昧な笑みを浮かべた。

以前ほどではないが、女性は苦手だ。

どんな人でも必ずそこに亡き妻の面影を探してしまう。

「片君、いい加減にしたまえ」

大きなため息をついたものの、小鉢の表情はいつになく明るい。

はーいと首をすくめた片も同様だ。

やはり一人医師が加わればそれだけ余裕が生まれるのだろうか。

年末年始の救急の忙しさを散々片医師から聞かされていたので良かったなと思う反面

自分が全く戦力外だったと言外に告げられているようで何とも複雑な気分だ。

床を見つめてそっと唇をかんだ時、

「先生方受け入れ要請です」

看護師が慌ただしくドアを開けて戦闘開始を告げた。


                    ※


「理想だわ」

まだ朝のひんやりとした空気が残った人気のない通りをぶらぶらと歩きつつ霧子は呟く。

先ほどから抑えようとしても笑みが浮かんでくる。

地方では随一といわれている歓楽街、猿若街。マッチ箱のようなちまちまとした雑居ビルや

プレハブに毛が生えたような戸建にはどれも縁を電球で飾ったどきつい原色の看板がかけられて、

夜はさぞ華やかだろうと思わせる。

もっとも今は、そのどれもに古びたシャッターが下ろされまるで廃墟のようだ。

たまに瞬いている看板はそのどれもがホストクラブ。たまにすれ違う人々は

厚い化粧が崩れかけた派手で安っぽい服を着た女性か、うすっぺらな格好よさを纏った男性。つんと酸っぱい生ごみの匂いがビルの隙間から漂ってくる。

そんな中で仕立てはよいが地味なコートにパンツスーツの霧子は明らかに異分子だ。

「よう、あんたオキニの客と熱い一夜でも過ごしたのかい。うらやましいねえ」

ふいに頭上から下品なだみ声が降ってくる。ついと顔をあげれば金髪にきついパーマをかけた中年女が

にひひと咥え煙草で笑いながら窓を閉めるところだった。

首を傾げながら辺りを見回しても他に人の姿はない。

その代わり潰れた店から放り出したのか壊れたミラーボールが一つゴミ置き場に転がっていた。

鏡のような表面に小さく映った自分の顔は頬が紅潮し瞳も濡れたように輝いている。

なるほど、情事の後だと見えなくもない。

たしかに、自分は欲情しているのかもしれない。くくっとついに声をあげて霧子は笑った。

水商売は懐が広い分無関心さも高い。ある日無断で勤め先に出てこなくなっても

誰も気にしないだろう。加えて金をちらつかせれば容易に自分がしかけたわなに

飛び込む連中も多いはずだ。

さあ、どうやって遊ぼうか。

ぞくぞくとした快感が背筋を脳天まで駆け抜ける。今日はしたみだけにしようと思ったが

耐えられそうにない。

卑猥な軽口を叩いた中年女が消えた窓のあるビルとその隣のビルの隙間には

ミラーボールの他にもゴミがうずたかく積まれている。

その中に石油のポリタンクが二つある。もしやと思いつつつま先でつついてみたら

ちゃぽちゃぽと音がした。

ふたを開ければつんと灯油の匂いが鼻をつく。

霧子はポリタンクを隠すように手早く周りにゴミを積み上げた。

この姿を見る人がいても早起きのホステスがゴミ収集所のあまりの乱雑さに

掃除をしている風に思ってくれるはずだ。

発泡スチロールのトレイがつまったゴミ袋の上に、紙ナプキンとおつまみの空き袋が入れられたゴミ袋をおくとポリタンクが完全に見えなくなる。

仕上げに霧子はバッグから包帯を取り出すと半ばまでほどいてその橋に火をつけた。

細く煙を吐いて燃えだしたそれをゴミ袋の隙間に押し込む。

あとは時間がたてばよい。あのゴミの真上には換気口のダクトが伸びていた。

灯油に引火して火柱が上がればそれはダクトを蛇のようにのたくって恐らく厨房に辿りつくだろう。

このビルの一階は居酒屋。

ビールに脂っこいつまみはつきものだ。この店の閉店は午前五時。

今の時刻は九時。フライヤーの油が冷めきっていなければよいがと思いながら霧子はゆっくりとその場を立ち去る。女がいるだろう二階に掲げられた看板は「アキ子」。

本名なのかしら、源氏名かしらと考えながら。

霧子が家に帰ったのは十時半。少し遅くなってしまった。

今日は土蔵の死体を始末するつもりだったのに。

「まあいいわ、別に冬だし」

あとで殺虫剤を巻いておけばハエの発生は防げるだろう。

ゆっくりと風呂に入り、コーヒーを入れてテレビをつける。

画面に映ったのは燃えさかる雑居ビル。時刻は十一時半。地方ニュースの時間だ。

行方不明 スナック経営「鈴木明子さん」と書かれたテロップを見て霧子は本名だったのね。

と呟いた。


続く。







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