十三話
私は決して先生がたを責めているわけではないんです」
硬い表情で同じ言葉をくり返す品の良い中年女性に佐々木も片もそして小鉢すらも
途方にくれた様子で顔を見合わせた。
運び込まれた急患の家族に医師が容態等を説明するファミリールーム。ヒーターのファンが回る低い音に混じって
微かにジングルベルの音色が聞こえてくる。
今年も残す所あと十日になった。クリスマスが近くなるほどに街の空気は浮足立ちそれに比例するように交通事故が増えて行く。
となると当然救急科の仕事も増えていくわけで、下っ端中の下っ端である研修医の佐々木ですら昼食を取るひますらなかった。
だから受付にふらりとやってきたこの女性が「斎藤加奈子を知りませんか」と尋ねても、誰もが首を振るばかりだった。
「ここで出産をした女子高生です」
ほんの少しだけ尖った女性の声に今度はそこにいたスタッフ全員が凍りついたように一瞬動きを止めた。
「ここではなんですから」と
小鉢がさりげなく人目につく受付からファミリールームに女性を導いたのは、さらに本来ならついてくる必要もない
片も佐々木もつられるように部屋に入ったのも強張った彼女の表情から何かを感じ取ったせいかもしれない。
「娘を助けていただいてありがとうございます」
と頭を下げておきながら、
「でも、あの時もう少し違う処置をとってくれたらと思わずにはいられません。女子高生が妊娠するなんて
本来ならばあってはならぬことでしょう」
強張った表情のまま早口で喋り続ける女性に、佐々木は胃のあたりが重苦しいような不快感を感じた。
それは片も小鉢も同じようで、女性に向ける二人の表情が徐々に険しいものになってきている。
「確かに私は仕事が忙しくて加奈子をかまってやる時間が普通の母親より少なかったかもしれません。
でも、その代わり私はあの子の望むことは可能な限りかなえてきました。欲しい物は与えましたし、進学先も
あの子の希望通りのしましたわ。それなのに、どうして……父親もわからない」
女性の声がつまり、膝の上に置かれた手に透明の滴が落ちる。
「お気持ちはわかります。その、お嬢さんは今……」
小鉢の問いかけに女性は深いため息をついて答えた。
「いなくなりました。病院から退院して次の日のことです」
「っえ」
三人の医師は顔を見合わせた。あの少女――斎藤加奈子がここで出産してまだ十日ほどだ。
取りあげた前田医師が出血量も少なく安産だったと言ってはいたが、それでも産じょく期といって
無理をせずに新生児の世話だけに集中する時期なのに。
「赤ちゃんは……」
「一緒です。あんな、どこの馬の骨ともしらない男との間の子供でも愛情を感じる物なんでしょうか。
早く帰ってこないと冬休み明けはすぐに実力テストがあるのに。あの子なら、国立大も狙えると先生も
太鼓判を押して下さったのに。一体何が不満でこんなことを、あの子は」
血管が浮いた手の甲に涙が次々と落ちていく。
もう若くはない肌の上に塩辛い水滴がぺたりぺたりと張り付いくのを見つめていると、佐々木は背筋のあたりが
うすら寒くなるのを感じた。
多分、今この場にあの女子高生が子どもを抱いて現れても女性は娘はどこですかといいながら泣き続けそうな気がする。
「たまに、若い子がトイレとか妙な場所で子供産んじまってニュースになることがあるだろう」
どうか娘がやってきたらすぐ連絡をくださいと何度も頭を下げながら、女性がようやく立ち去った後片が
ぼそりと呟いた。
「はい」
「あれさ、必ず家族は妊娠にきずかなかったって話がセットになってるんだよな。今まで
そんなことあるかと思ってたんだが、やっと納得がいったよ。きずかなかったんじゃなくて見なかったことにしているんだな」
「かもしれないな」
ため息交じりに小鉢が頷く。
そして多分それは、きずかれずに済むより何倍も苦しいことに違いない。
「斎藤さん、でしたっけ。行方不明になったって……、大丈夫でしょうか。ここに、くるのかな」
「さあ、わからないな」
佐々木が沈みきった声で投げかけた問いに、片が大仰に首を傾げる。
壁にかけられた時計が午後の4時を指した。いつまでもこんな場所で油を売っているわけにもいかないのだが
三人の医師は誰も動こうとはしなかった。
「生まれたての赤ちゃんは……寒さに弱いですよね」
窓の外は雪がちらつきだした。
若槻市の冬は積もることこそめったにないが、雪が降ることは珍しくない。
「おむつとか、ミルクとかもってでたんでしょうか」
「公園とかなら他のお母さんもいますよね。案外そう言う人達に助けられて今頃あったかい部屋で……」
「しるかそんなこと!!」
片が叫びながらホワイトボードを蹴り飛ばす。
キャスターのついたそれは勢いよく壁まですべって耳障りな金属音をあげた。
「いいか佐々木、俺達の役目はな患者が病院のドアを出てった時にもう終わってるんだ。その後患者がどうなろうと
俺たちは関係ないし、何もできることは……ない」
部屋いっぱいに響き渡るほどの片の声は徐々に小さくなっていき、最後の一言は掠れたようなうめき声になる。
「すいま、せん」
そんな指導医の顔をまともに見ることができず、ベージュ色のリノリウムの床を見ながら佐々木は謝った。
十日前、新しい命を受け止めた両腕が空しく体の脇でゆれている。
「片君、佐々木君に当たるんじゃない。僕だって同じ心境だ。女子高生が一人こんな寒空の下で赤ん坊を抱いていて彷徨っているなんて
考えたくないからね。さ、そろそろ戻ろうか。次の患者が来るかもしれない」
たっぷり五分程が経過した後、ようやく小鉢がそう言ってドアを開けた。
※
おや、あれは。
雪がちらつく中バスを待っていた霧子は、車道を挟んだ向かい側をふらふらと歩く少女に気づいた。
冬の夕暮れ時、コートを着ていても風が吹けば震えるほどの寒さなのに少女は部屋着のようなスウェットの上下を着ているだけ。
しかも両手に毛布にくるんだ赤ン坊まで抱いている。
しばらくじっと少女を観察し、霧子は彼女が十日前に病院で出産した女子高生だと気づいた。
確か、母子で別々の病院に搬送されたはずなのにもう退院したのだろうか。
好奇心が湧いた。
バスが雪で遅れたことにすれば少々遅刻してもかまわないだろう。
霧子は素早く車道を渡ると少し距離を置いて女子高生の後をつけ始めた。
どこに行くというのだろうか。ここは若槻市の中でもはずれのほうでこの道をたどっても隣の市へと抜ける山道に通じるだけだ。
民家もめったになく街灯すらまばらなのに、友達でもいるのだろうか。
霧子がついてきているとも知らずに、女子高生はふらふらと歩き続けやがて霧子の家の庭へと続く竹林の前で足を止めた。
こんな所に、何の用?
霧子が見守る中で女子高生はまるで荷物でも放り出すように赤ん坊を竹林の中に放り投げた。
続く。