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cottoncolor  作者: 杜若
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十二話

処置室の空気は叩けば固い音がしそうなほど張り詰めていた。

一歩処置を間違えれば命が危ない患者ばかりが運ばれてくる救急科では、すでになれっこになっているはずなのに

佐々木は立っているだけで痛いほどの喉の渇きを感る。

処置台の上では女子高生が蒼白な顔色で、うめき声をあげ続けている。

下腹部はよくみれば不自然なふくらみがあるが、それでも一般的な臨月の妊婦よりはかなり小さい。

「佐々木先生!!」

出産の進み具合を観察していた前田女医の鋭い呼び声に、佐々木は弾かれたようにはいとこたえる。

「いきみが上手くできなくて出産が進まないわ。後ろから彼女を支えてあげて」

「え、ど、どうすれば」

「背後にまわって背中を胸で支えるようにしてあげて。手も握ってあげてね」

いつの間に側にいたのか、救急科の最年長の看護師である小山が耳元で小声で補足説明をしてくれた。

「は、はい」

「大丈夫、立ちあい出産で旦那さんが奥さんを支えることもよくあるの。途中で力を抜かないで、全力で支え上げて」

励ますようにポンと背中を叩かれて、ようやく佐々木の固まっていた体が動く。

ふと辺りを見回せば自分以外は皆普段のスピーディーさはないものの、的確に前田女医をサポートしている。

「産婦人科に勤務経験のある看護師もいますから、今市川さんが受け入れ先を探してくれています。

とりあえず今は無事に赤ちゃんをとりあげることに集中しましょう」

「判りました」

佐々木は頷くと処置台の少女に声をかける。

「今から君の体を後ろから支えるからね。いくよ」

処置台の上に乗り少女の体を椅子の背もたれのようにささえると、汗ばんだ手がすさまじい力で腕を掴んだ。

骨が軋む音すら聞こえてきそうなその力に、佐々木は思わず叫び声をあげそうになる。

「いいよ、赤ちゃんが下りてきた」

前田女医の言葉がなかったら、腕を握り締める手を振り払っていたかもしれない。

「痛みが来たら思いっきり下腹に力を入れなさい。息をとめちゃ駄目。短く吐き続けて」

前田の指示に少女の絶叫が重なる。

佐々木の胸にその頭がぐいと押し付けられた。

「前田先生K病院が母親、白鳳大学病院が赤ちゃんを受け入れてくれるそうだ。経過はどう?」

マスクをかけた小鉢が処置室にやってきたのはその時だ。

「今のところ順調です、もう少しで頭がでます勝手をしてすいません」

「謝るのは後だ、今は無事に赤ちゃんが生まれるように全力を尽くそう」

「頭がでます」

何か湿ったものが床に滴る音と共に、少女が再び絶叫をあげる。

「もう少しだから、がんばりなさい」

励ます前田女医の顔には点々と赤黒い物が飛び散っていた。

「もうだめ、痛い痛い痛い!!」

汗と涙で顔中を濡らして少女は激しく頭を振る。

「お母さんがそんな弱気でどうするの」

間髪いれずに前田がぴしゃりと叱りつける。

「が、がんばって。もう少しだから、多分」

佐々木がおどおどと励ますと、少女は縋るような眼で見上げてきた。

「終わるの、もうちょっとで終わるの。痛い、痛い痛い」

「うん、終わる。だから、だから頑張って」

「痛いのね、じゃあおもいきりいきみなさい!!」

前田女医の叱咤と少女の悲鳴が処置室を揺らしたその直後。

元気な鳴き声が、響き渡った。



              ※


「お疲れ様、佐々木君」

目の前にひんやりと冷たい汗をかいている冷たい缶コーヒーを差し出され

ようやく佐々木は我にかえった。

「寒いけど、今の君はこっちの方がいいんじゃないかと思ってね。汗かいてるし」

「すいません、小鉢先生」

佐々木はやや長めの癖のある髪をかきまわしながら、苦笑する小鉢から缶をうけとった。

時刻は午後9時を回っている。無事出産が済んだ後の搬送の手続きとそして診療科のない患者を

成り行きとはいえ受け入れてしまった後始末に追われ、三人の医師がようやく医局に戻ってきたのはつい一五分程前だった。

喉を流れていく冷えた苦い液体が酷く心地よい。

「こんなことが再び起こって欲しくないんだが、佐々木君にはいい経験だったんじゃないかな」

「……はい」

缶を両手の中でくるくると回しながら、佐々木は答えた。

白衣の両そでには少女の指の後がくっきりと残り、命を生む苦しみと痛みを無言で伝えている。

「俺、座学で勉強しただけで、実際の出産は初めてで……」

「ああ、そうだろうね。でもよくあの患者さんを支え続けてくれたね。僕も分娩台以外の場所で出産をさせるのは

実は初めてだったんだ。正直生まれるまで手も足も出なかったよ。前田先生がいて助かった」

「本当ですね」

佐々木が頷いた時、噂をすればなんとやらで前田が医局に戻ってきた。どうやら買い物だったらしい。

その手には佐々木と同じ缶コーヒーがあった。

「先生、本当にお疲れ様」

「いえ、勝手なことをして申し訳ありませんでした。後から考えてみれば、診療科がないのに受け入れるなんて

無謀もいい所でしたわ」

顔を伏せ、反省の言葉を述べる前田女医に小鉢はいいやと暖かな笑みを浮かべて首を振った。

「多分救急車で搬送をしようとしても、受け入れてくれるところがなかなか見つからなかっただろう。

早い段階で出産の準備を整えてくれたことが幸いしたよ」

「でも、救急科はちょっともめ事を抱えているんでしょう。その、上の方々は大丈夫だったんですか」

「それがねえ」

小鉢が少々気の抜けたような顔をした。

「……ほめられた」

「えっ!?」

きょとんとした表情で顔を見合わせる前田と佐々木に小鉢は肩をすくめると先を続けた。

「タネを明かしてしまえば、たまたまK病院にテレビの取材が入っていたそうだ。あそこの先生はどうも少し口が軽いらしい。

運ばれてきたあの女子高生のことをぺらぺらしゃべってしまい、スタッフが酷く感動したそうだ。で、この一件をぜひ「美談」として取材させてくれと坪内総合病院側に申し入れがあったらしい」

「そうなんですか」

佐々木はほうっとため息をついた。安堵の余り体中から力が抜け椅子からずりおちそうになる。

全設備も専門医もいない病院で出産を行うなど本来なら許されないことだ。

全てがうまくいったとはいえ、ペナルティとして小鉢や前田に厳しい処分が下ってもおかしくなかったはずだ。

「今回ばかりはマスコミに感謝しないといけないな。お陰で無罪放免で済んだ」

多分小鉢も同じような気持なのだろう。そう言うと力が抜けたように椅子に腰を下ろした。

「よかったですね、小鉢先生」

前田がねぎらうような笑みを彼に向ける。

「そういえば、前田先生は転科されたことがあるんですか」

その笑顔が一瞬で凍りついた。まるで仮面をかぶっているかのように瞬きすらしないその異様さに

佐々木もそして小鉢も息をのんだ。

「前田先生?」

「すいません、ちょっと手を洗って来ます」

2人の視線から逃れるように足早に医局を出て行く前田の後ろ姿を見ながら小鉢が

「悪いこと聞いちゃったかな」

と呟いた。

「こ、小鉢先生。え、えっと」

「ああ、出産の介助が手なれた風だったから、もしかしたら元は産婦人科医じゃなかったのかと思ったんだよ。

あんまり聞かれたくない話だったようだね」

後で謝っておくから君は気にしないでいいと、言われれば佐々木は頷くしかなかった。


                     ※


白衣の袖口が水が滴るほど重く濡れるのもかまわらず、霧子は顔に水をかけ続けた。

いくら隅々まで暖房がきいている病院の中とはいえ、真冬の水は背筋が凍えるほど冷たい。

それでも霧子の両手は止まらない。止めたら胸の内で蛇がのたうちまわっているような感覚を受け止めなければならない。

そんなことは……もう二度と耐えられない。

「先生、どうしたんですか」

その声にようやく霧子は手を止める。

笑顔だ、とっさの思いに訓練された表情筋は素直に動いた。

鏡に映る二つの顔は、水を滴らせながら化粧がはげ落ちた顔に満面の笑みを浮かべる自分と

青ざめて口元を引きつらせるまだあどけなさを残した若い看護師。

「ごめんなさいね。ちょっと眠気覚ましをしていたの」

あら、こんな時に笑顔はまずかったかしら。でもどうすればいいのかしら。

笑顔を顔に張り付けたまま霧子は考える。

胸の中でまた蛇がわしゃわしゃと騒ぎ出す。

黙れ、不快だ、黙れ、大人しくしろ、黙れ。

ぷちんぷちんと体の中で何かが切れる音がする。

こんな感覚はこれで二度目だ。一度目は……そう、鴨居からぶら下がってしまったあの人を下ろした時。

まだぬくもりをかかえる体にさわったとたん胸の中で蛇が暴れ出し、体の中で何かが切れた。

「せ、せんせい。ゆ、指」

いつのまにか看護師が床に尻もちをついて震えている。

そういえば口の中が渋い。

鏡を見れば、いつのまにか指をかみちぎってしまっている。

鈍い痛みが急速にそこから全身へ広がっていく。

その感触に安堵をおぼえた。

こちらのほうが、まだ馴染みがある。胸の中の蛇よりはまだ理解できる。

「ばんそうこうをもってきて」

まだ表情は満面の笑みのまま。看護師は悲鳴のような返事をして這うようにトイレから出て行った。

胸の中の蛇がゆっくりと静まっていく。

ああ、嫌だ嫌だ気にいらない。

頭の中にあの人の声が響く。

―― 貴方は、どうしてこんなことができるの。

人の命を救いたいから、医者になったんでしょう。――

「……いいえ」

霧子は呟いて首を振る。

「私は、遊びたくて医者になったの」

ああ、気分が悪い。気分が悪い。どうすればすっきりするだろう。

霧子は目を閉じて考える。前にこうなった時はそうだ、

あの人を悲しませた男と女を玩具にしてさんざん遊んだんだ。

じゃあ今回も。

「小鉢先生で、遊びましょ」

まだ指から流れ続ける血をぺろりと舐めて笑顔のままで霧子は三度呟いた。


続く









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