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cottoncolor  作者: 杜若
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十一話

「こんばんは佐々木先生。どうしたんですか? 難しい顔をして」

後ろから突然声をかけられ、佐々木は飛びあがらんばかりに驚いた。

「あ、前田先生。ず、随分と早いですね」

「もう19時近くですよ。ずいぶん熱心に考えこまれていましたね。私が入ってきたことも

気付かなかったでしょう」

「え、ええ。す、すいません」

片手で口を押さえて控えめに笑い声を洩らす前田女医に、佐々木は恥ずかしさで全身から汗が噴き出すような心地がした。

「あら、謝る必要はないわよ。片先生や小鉢先生は?」

尋ねながら、小首を傾げる様子がとても愛らしい。

三十代半ばの成熟した女性なのに、まるで十代の少女のように見える。

前田の肩口をさらさらと流れる黒髪を見て、佐々木は7年前にたった一週間だけ妻だった人のことを思い出した。

彼女が元気だったら、前田のようにいつまでも少女のような可愛らしさを失わない女性になっていただろうか。

「どうしたんですか、佐々木先生。ぼんやりして」

再度尋ねられて佐々木はまた体中からどっと汗が噴き出す心地がした。

「すいません。片先生は救急医の勉強会で白鳳大学病院へ行っています。小鉢先生は、その、会議に出席しています」

本当は万が一に備えて他の科の科長や院長さらに警備会社もまじえた対策会議なのだが、前田女医に全てを話していいかどうか判断がつかなかった。

「そう、じゃあ佐々木先生は私が出勤する前のお留守番だったのね」

「え、ええ」

”お留守番”といわれてしまえばまるで子供のようだが、実際佐々木は医師としてはまだ卵からかえった雛も同然で文句は言えない。

「じゃ、お留守番御苦労さま。後はまかせてね。注意が必要な患者さんはいないかしら。あら、これは?」

スチールの机と机の間に挟まった御意見用紙をつまみ上げた前田に、佐々木はしまったと首をすくめた。

いつのまにか一枚そんな所に挟まっていたなんて。

「な、なんでもありませんよ」

慌てて用紙を引きちぎる勢いで前田の手からそれをひったくると、彼女は一瞬驚いた顔をしたがすぐにちいさくごめんなさいと謝った。

「部外者が首を突っ込む所ではなかったわね」

その姿に佐々木は胸がずきりと痛んだ。

部外者というなら自分も同じだ。ここにいるのは研修医のカリキュラムに従っているからだけで、やりがいを感じているがそれでも救急医を一生の仕事と定めているような小鉢科長や片医師とは全く違う。

「い、いえ違うんです。その、前田先生を無闇に怖がらせてはいけないと思って」

「怖がるってどういう事?」

訊ね返してきた彼女に、佐々木は出来る限り詳しく昼間小鉢から聞かされたことを説明した。

「そう、大変なのね。救急病院はどこも」

と前田はため息をつく。

「どこも、っていうと」

「私はいろいろな病院でアルバイトをしたんだけれど、どこも迷惑な患者には悩まされたわ。

多分モンスターペイシェントなんて言葉ができるずっと以前からね」

「そうなんですか」

まるで少女のように華奢で可憐な前田女医が淡々と語る様が、かえって佐々木にうそ寒い思いを抱かせた。

医者に難癖をつけ、暴れる患者はもはや日常風景の一部なのか。

「前田先生は……」

「何?」

どうして、アルバイトを続けているんですか。という問いを佐々木は慌てて飲みこんだ。

こんな所で聞いてよい話題ではないだろう。

「常勤医にならないか不思議?」

だが、前田はその質問を見透かしたかのように逆に尋ねてきた。

「え。ええ、あ、あの気に障ったらすいません」

耳まで赤黒くなってうつむく佐々木に、前田は淡い微笑を向ける。

「いいえ、よく聞かれるから慣れているの。そうね、私はいろいろな経験をしたいから。かしら」

「いろいろな経験ですか?」

ええ、と前田は深くうなずいた。

「まだまだ外科医の世界は男社会だから、女医は碌な症例を任せてもらえないのよ。最初に入った医局で先輩の女医が十年たってもヘルニアと盲腸の手術しかやらせてもらえないのを見て、なんだかがっかりしてね。ある程度は我慢したけれど、ついに医局を飛び出しちゃったのよ」

「そ、そうなんですか」

「救急医は大変だけれども、その分たくさんの症例に触れることはできるのよ。

アルバイトは身分は不安定だけれどその分病院が肌に合わなかったらやめれる気楽さがあるわ」

笑顔で喋り続ける前田に、佐々木は感嘆の小さなため息を漏らした。

自分は多分与えられた環境に満足できなくても、そこから飛び出して新天地を求めるより妥協点と憂さ晴らしを探し出して

落ち着いてしまうだろう。

「すごいですね、前田先生」

「そう、わがままってみんなはいうけれど。でもこんな脅迫状まがいのものを送りつけてくる患者がいるとなると

ちょっとやっかいね。何にもないといいんだけど」

 そういって眉をひそめた前田に佐々木も頷く。

「そうですね。でもこの脅迫状ちょっとおかしいんです」

「おかしい、なにが?」

「なんで小鉢医師ばっかり名指しなんでしょう。救急科はほとんどが飛びこみの患者さんですし、

俺達は一応名札はつけていますが、いちいち名乗らないですから気づかない人がほとんどだと思うんです」

「そうねえ」

前田はもう一度ご意見容姿をつまみあげてうーんと唸った。

「でもクレームをつける人は妙に細かい所に気がつくから、名札を見ていたかもしれないわね。

わざわざパソコンで打った文章を張りつけることといい、執念深そう。何もないといいわ」

「……そうですね」

佐々木が頷く。その時。

「先生がた、すいません。受け入れをお願いできますか」

市川が顔を青ざめさせて医局に飛び込んできた。


                         ※


「なんで小鉢医師ばっかり名指しなんでしょう。救急科はほとんどが飛びこみの患者さんですし、

俺達は一応名札はつけていますが、いちいち名乗らないですから気づかない人がほとんどだと思うんです」

「そうねえ」

頷きながら、霧子はそうきたか。と心の中で舌打ちをした。

これをやったのは見当がついている。多分事務長の毛利だ。

わざわざ印字した別の紙を張り付けるということは、筆跡を知られたくないという事。

つまり、字を見ればどこのだれか気づかれるおそれがあるのだろう。

ふつうのモンスターペイシェンとはそんなことはしない。

頭に血がのぼるままに、直接抗議に来るか電話口でまくしたてることがほとんどだ。

馬鹿な奴だ、もう少し頭がいいと思っていたのだが。

こんなことをすればいたずらに騒ぎが大きくなるばかり。

遊びがやりにくくなるじゃないか。

もう少し、脅した方がいいだろうか。小鉢の名前で。

しかしこの研修医結構鋭いところがある。いつも伏し目がちでおどおどしているから

最近よくあるタイプの指示がないと動けない人間だと思っていたのに。

……もう少し、手名付けた方がいいかしら。

佐々木とたわいのない会話を交わしながら、霧子は頭をフル回転させていた。その時。

「先生がた、すいません受け入れをお願いできますか」

と看護師の市川が医局に飛び込んできた。

「救急車?いつ受け入れ要請が来たの?」

「いいえ、駐車場に倒れていたんです。ひどい腹痛を訴えていて。見てもらえますか」

「わかったわ。連れてきて」

「小鉢先生を……」

「まだいいわ、佐々木先生。もし手が空いていたら手伝って」

「はい!!」

看護師達の手によって処置室への受け入れ準備が瞬く間に整えられる。

ほどなくしてストレッチャーに乗せられてやってきたのは、高校の制服らしい紺のブレザーを着た少女だった。

体を海老のように曲げて、額には脂汗が滲んでいる。

よほどの痛みに耐えているようだ。

「大丈夫、名前はいえるかしら」

霧子の問いかけにも食いしばった口からはうめき声が漏れるばかりだ。

「盲腸ですかね」

「かもしれないわ」

少女の太ももと鮮血が伝わったのはその時だ。

「え、あ」

「佐々木先生、どいて」

戸惑う佐々木を押しのけるように、霧子はストレッチャーに近付くと勢いよくスカートをまくりあげた。

陰部を覆っている下着も真っ赤に染まっている。

「ハサミをかして」

躊躇なく手渡されたそれで下着を切りさくと、柔らく薄い陰毛におおわれた秘部の奥を指で確かめた。

「……出産、だわ」

「え!!」

佐々木はもちろんその場にいる看護師全員が固まる。

「もう、頭が触れる」

「ど、どうしましょう」

おろおろと佐々木が尋ねた。

ここは総合病院だが、小児科と産婦人科はない。

「今から、救急車で別の病院を」

「まって、それじゃ間に合わないわ」

慌てて出ていこうとした看護師を霧子は押しとどめた。

「受け入れ先も決まっていないし、このままだと救急車の中で生み落としてしまうわ」

「じゃ、どうすれば」

「佐々木先生、取りあげましょう」

「え?」

驚く佐々木の手を霧子はぐいと引っ張った。

「今診察したところ、赤ちゃんは正常に参道を下っています。取りあげている間に受け入れ病院を

探して、分娩直後に搬送した方がリスクが少なくて済みます」

「で、でもおれ。出産は初めてで」

「そのうち立ち会います。腹をくくりなさい!!」

まだおろおろしている佐々木を一括して、霧子はぐいと女子高生を仰向けに寝かせた。



続く












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