一話
久々の投稿になります。いつものメンバーが返ってまいりました
またお付き合い願えれば幸いです。題名は谷山浩子さんの曲名から。
prologue
前田霧子が鏡台の前で唇にベージュ色のルージュを塗り終えた時、携帯が軽やかな音楽を奏で始めた。
The New Christy Minstrelsの「Green Green」メールや電話ではなく午後五時、
出勤時間にセットしたアラームだ。
仕事に出るのは数カ月ぶりだが、身支度に関してはカンは鈍っていなかったらしい。
流れ続ける曲に合わせて口角をあげ笑顔を作って見た。
鏡の中の自分は壁にかけられた化粧品メーカーのカレンダーに印刷された人気女優と大差ない美しさだと思える。実際街を歩けば、霧子とすれ違った男性は大概鼻の下を伸ばして振り返るのだ。
なのに……どうして、いつも……。
流れ続けていた曲が急にとまり、霧子をはっとして携帯に手を伸ばした。
液晶に表示された数字は五時七分。
もう家を出ないとバスに間に合わない。初日から遅刻しては印象が悪くなる。
そのこと自体はまったく気にならないのだが、これからの「遊び」のことを考えれば
余計なマイナス点はつけたくはない。
若槻市、坪内総合病院救急外来の夜間当直医のアルバイト。これが今日からの仕事だ。
アルバイトといっても医師の時給は同じ時間帯のコンビニ勤務の約十倍の時給なので、
贅沢をしなければ週四日の勤務でも十分に暮らしていける。
キャメル色のコートを羽織り、半透明のごみ袋を片手に玄関の扉を開ける。
耳に流れ込んできたさらさらという水が流れるような音は竹の葉ずれだ。
「もとは日本庭園だったんですよね。ただちょっと空き家だった期間が長くて
手入れが行き届かなかったんです」
約一か月前、多少家賃は高くて構わないから静かな一軒家を借りたいという希望する霧子に、
不動産屋は熱くもないのにひっきりなしにハンカチで額をぬぐいながらこの家に案内した。
築50年の平屋。リフォームはしてあるというが台所や風呂場など水回りはふた昔前くらいの造りで
いかにも使いにくそうだった。
窓が少ないせいだろうか家全体が薄暗く、襖を外せば部屋同士が繋がる構造で隙間風もひどい。
「ははは、さすがに女性がお一人で住むのはちょっと寂しいですよね」
無表情に部屋と庭を交互に見まわす霧子に、不動産屋はことさら大きな声で笑いながら
ハンカチをせわしなく動かした。
「あれは、蔵かしら」
竹林に半ば埋もれるように建っている白壁の建物を指差すと、
不動産屋のハンカチの動きがますます激しくなる。
「あ、あれはー。そのうち必ず大家さんを説得して取り壊させますから、その、何にもはいっていないんですよ。だから泥棒の心配もないし。でもあれですね、やっぱり台風がきたらこわいでるよね。
大丈夫、他にもっと良い物件が」
「決めたわ」
「はい、じゃあ次のところをお見せしま……」
「決めた、ここ借りるわ。あの蔵も自由に使っていいのかしら」
「次は日当たりも良いですよ。ちょっと隣との距離が近いのですが」
目をそらしながら喋り続ける不動産屋の脛に霧子は肩からかけていた小さなハンドバックを思い切りたたきつけた。
携帯電話と財布しか入らないくらいのそれにまさか重さ2キロの鉄の塊が入っているとは思うまい。
素早く動かせば後ろからならめったにきづかれない。
悲鳴を上げて蹲る不動産屋の耳元に大丈夫ですかと優しく囁き、霧子は改めてこの家を借りると続けた。
地面に降り積もった笹の葉はブーツの下でサクサクと雪のような音を立てる。
ここがもとは日本庭園だという不動産屋の言葉は嘘ではないらしく
梅や皐月、さらに苔むした岩などが枯れ落ちた葉にうずもれるようにある。
この屋敷の持ち主は竹の強靭すぎる繁殖能力を知らなかったのか。
見た目で全てを判断してはいけないのは人も植物も同じようなものだとくすりと笑いながら、
蔵の扉につけられた南京錠をあける。
重い扉は厚さ10センチはありそうだ。渾身の力でひいてもゆるゆるとしか開いていかない。
なるほど、蔵が昔の金持ちの象徴だったわけだ。分厚い扉と壁で中の物を災いから守り、そして……
「都合の悪い物を世間から隠す……元気、田口さん」
奥の暗がりからひゅうひゅうと細い音がする。手にしたビニル袋から懐中電灯を取り出して
スイッチを押すとぼんやりとした光の輪の中に浮かび上がったのは、黒光りする鉄の檻。
獰猛で大型の犬用の物だが、こういうものがネットで手に入るとは行きすぎたペットブームとやらも
悪くない。
「前田先生」
しわがれ、掠れた声よりもひゅうひゅうと調子外れの笛の音のような呼吸音の方が大きく聞こえる。
大型と言っても犬を入れる檻の中では人は立ちあがることは出来ない。
しゃがみこんで胸も恥部も露わにしたまま、田口康子は太い鉄棒を一心不乱にゆする。
「あら、ずいぶんと身軽に動けるようになったわね。ダイエットの成果かしら」
「だして。お願いここから出して」
耳障りな音を立てて鉄棒がゆれる度に、弱い明かりの中で赤い物が飛び散る。
23歳、若さがたっぷりとつまっている田口の肉体はあちこちが無残にもえぐり取られていた。
太もも、腕、臀部、ある所は浅く、ある所は骨が見えるほど深い傷は彼女が動くたびに赤黒い血が吹きだす。
「でもあんまり動きすぎると倒れちゃうわよ。止血が十分じゃないから血が止まらない」
「だして、だして」
顔をゆがめて叫び続ける田口に霧子はくすくすと笑い声を上げる。
……前田先生の笑顔ってさあ、なんというか偽物っぽくない? 背中にチャックあったらどうしよう……
ダイエットがしなきゃが口癖なのに、ナースステーションで暇さえあれば
飴やクッキーをつまんでいた看護師。
特に何をされたというわけでもなかったが、偽物の笑顔というのが霧子の心にきりりと爪を立てた。
「さーて体重測定ですよ。田口さん。目標体重になればここから出れますからね」
昔、鏡を見ながら喉から血が出るほど練習したお陰で身につけることができた優しい女医さんの声と表情で、檻の片隅に置かれた
ヘルスメーターを指差す。
「出られる」という一言にくちゃくちゃに歪んだ田口の顔に一瞬だが笑みが浮かんだ。
なんだ、もう壊れかけているのかつまらない。
そっと溜息をついて、霧子はビニル袋に右手を突っ込んだ。田口がヘルスメーターにしゃがみこむと、デジタルが点滅し49と表示される
「残念、あと一キロですね。もう少し削りましょうか」
田口のひっという短い悲鳴は、振り下ろした肉切り包丁の風切り音にかき消された。
鈍い音と共にあがった赤黒い水流を寸での所で避ける。これから仕事なのだ。汚されても困る。
「乳房って両方で丁度一キログラムなんですって。ああ、看護師だからこのくらいはしっているわよね」
ぽっかりと赤黒い二つの穴が開いた胸を数度大きく上下させた後、笑ったような表情で田口はゆっくりと後ろに倒れた。
「田口さん―。おめでとうダイエット大成功ですね。ってもう聞こえないか」
霧子は軽く肩をすくめ、おわん形の肉の塊を無造作に投げ捨てる。冬だから朝まで放っておいても匂うことはないだろう。
本当に土蔵は便利だ。防音仕様の部屋よりも音が外に漏れない。田口はここに監禁された頃朝から晩まで助けてと叫び続け
ついには喉を壊してしまったというのに近所から苦情は一つもなかった。
十日間、まあまあ楽しめた部類だろう。口笛を吹きながら手ぶらで土蔵を出る。バスの時間まであと7分。急ぎ足で歩けば間に合うだろう。
1
「すいません、間違えました」
医局の扉を半ば眠りながらあけた佐々木は、白衣を着た女性の姿を見て慌てて頭を下げた。
今年も残す所半月を切り、いつにもまして忙しい坪内総合病院救急外来。
1年目の初期研修医の佐々木は一時間眠っては急患に叩きおこされるということを繰り返していたため、かなり疲れていた。
先ほどの夕方の回診もベッドサイドに立った瞬間に記憶が途切れ、指導医の片に肘で小突かれてようやく我に帰るという有様。
だからついに帰る場所まで間違えたのかと頬が熱くなった。と
「あー、佐々木君。紹介するよ」
救急科長の小鉢医師の苦笑交じりの声が女性の後ろから聞こえる。
「え、えっと紹介するって」
「こちら前田霧子先生。今日から週四回で夜間当直を務めて下さる」
「え、あ、そ、そうですか」
「よろしくお願いします。佐々木先生」
霧子が頭を下げると、背中で束ねられたまっすぐな黒髪がさらりと涼やかな音を立てた。
切れ長の一重の瞳に筆の先で描いたような小さな唇。グラビアなどを飾る美女とは
まったく異なった美しさをもった女性だ、と
佐々木は思い、また頬が熱くなるのを感じた。
「あ、あのこちらこそ」
ぎこちなく頭を下げると、すっと体の脇を微かなよい香りが通過して行った。
「随分美人が来たなあ」
入れ違いに医局にやってきた片医師が、短い口笛を吹く。
「交通事故の急患を見て、気絶しなきゃいいけれど」
「片君、それは大丈夫だろう。前田霧子。36歳専門は整形外科。数年前まで東京のN病院に務めていたそうだ」
「へえ、何度もその手のテレビ番組に出ている有名どころじゃないですか。いっそ常勤になってもらえばいいのに。重宝するでしょう口ばっかりのひよっこより」
どっさりとインスタントコーヒーの粉末を入れたマグカップにポットの湯を注ぎながら片が皮肉げにつぶやくと、小鉢は手に持っていた
霧子の履歴書を引き出しにしまいながら軽いため息をつく。
「やれやれ、片君は案外根に持つんだな。放っておけよ外部の石頭なんか」
「放っておいて、減給されちゃたまりませんから。なにせあの方はこの病院の金庫番だそうですから。なあ、佐々木」
「え、は、はい」
いきなり話を振られて佐々木は戸惑いつつも頷いた。
二人が話しているのは、多分事務長の毛利和明のことだろう。中国地方を根城にした有名な戦国武将と同じ名字であるのが本人はご自慢のようだが、他の職員特に医師や看護師は彼の大分寂しくなった頭頂部の様子に引っかけて「けなし」と呼ぶ。
これだけで毛利事務長がどういう風に思われているか察しくというものである。その事務長と片が派手にやりあったのは一月半ほど前のこと。
「年末年始の当直を一人体制でやれと、どういうことですか」
「どうもこうも、救急外来はベッド数が15しかないじゃないですか。しかも常に二床は急患のために空けてある。一人で十分でしょう。本来なら常勤医すら一人でよい所を、小鉢先生たっての頼みで片先生を配置し、さらに初期研修医の派遣先にまでなっている。真っ赤々のお荷物科に院長先生は厚遇すぎる」
薄い胸をそらして滔々と得意げに喋る毛利と対照的に、片の顔からはすっと表情が消えていく。
「小鉢先生、あれまずいですよね」
「ああ、相当頭に血が上っている証拠だ」
たまたまその場に居合わせた佐々木が固唾をのんで見守る中、片を身振りで制した小鉢が「よいですか」と毛利に向き直る。
「毛利事務長の言うことは理解できます。しかし、年末年始は市内の病院のほとんどが休診に入り重症な急患を受け入れる病院は
うちと、白鳳大学の救急救命センターのみです。冬は体調を崩す人も多いですし、事故も増える。一人での当直は不可能です」
「ふむ」
腕組みをしながら毛利が頷いたので、小鉢はおわかりいただけましたかと安心したように続けた。が、
「それならオンコール待機で十分じゃありませんか。患者が来るかどうかはその時の状況次第。空っぽの診察室に医師が二人も待機している
必要はない」
「……ほう、オンコールねえ」
「片君」
黙っていろと小さく手を振る小鉢を無視して、片は続ける。
その好戦的な口調に佐々木は息苦しさを覚えた。
導火線が燃え尽きる寸前のダイナマイトを握ったらこんな気分になるのだろうか。
「っは総合病院では県内で5本の指に入る位の大きさだって言うのに、医師一人の給料を出し渋るのか。ただ働きをしろと面と向かって言われたのは研修医の時以来だぜ」
「誰がただ働きと言いました」
さすがにむっと来たらしく、毛利の口調がけわしくなる。しなびたへちまみたいだと片が例えた細い体が細かに震えだす。
「オンコールは休みの緊急呼び出しだ。当然何の手当てもないんだろう。ここ5年の年末年始を考えれば、呼び出されない方が奇跡だぜ」
「そういうことは赤字を解消してから言ってもらいたいものです。片先生と小鉢先生お二人の給料分すら今は利益が出ていない状況で……」
「なら手前が手伝え、このハ……」
「片君」
さすがにまずいと思ったのか小鉢医師が睨みあう二人の間に強引に割り込んだ。
「毛利事務長。この件はいまここですぐに結論を出すわけにはいきません。どうか院長をまじえて
もう一度お話する場を設けて下さい。しかし、片先生の言う通り年末年始の当直は一人では無理です。そこはご理解下さい」
そう言って丁寧に頭を下げる小鉢医師に毛利事務長は「ふん、そのうち新聞誌面を飾らないように十分にご注意を」と捨て台詞を残して去っていった。
「ったく。新たに夜勤のバイトを入れて誤魔化しか。あくまでも年末年始常勤医の一人当直に拘りたいらしいな。あのはげは」
「……そうしたほうが色々と都合がいいんだろう。賃金と労働時間の両面で」
机の上で両手を組み、その上に顎を載せて小鉢が呟いた。
「っは。俺達は警察や消防と同じです。いつ起こるかわからない事件や火事に備えて待機を欠かさない。それが何で理解できないんだ」
「外部の人間にはわからないさ、中々ね。昔は研修医がこんな役をすべて引き受けてくれたから、問題にもならなかったんだが」
その言葉に、佐々木はす、すいませんともごもごと口の中で謝った。
「バカ、お前が謝ることじゃない。現場を知っちゃいない厚生労働省の役人のせいだ」
片が佐々木の後頭部をぱしりと叩く。
新研修医制度のお陰で、佐々木は医学部に半ば怪談のように伝わる過酷な従来の研修医生活を送らなくてすんではいるが、そのかわり
中途半端な改革のお陰でそこかしこに現れた歪みを、ちょくちょく目の当たりにする。
「ま、美人女医と夜を過ごすってのもわるくないよー。ベッドのある部屋で」
「……片君、口を慎みなさい。佐々木君、それが終わったら今日はこれであがっていいよ」
「は、はい」
佐々木は頷いて、記入していた書類を片付けるといそいそとロッカールームに向かう。
久々に家のベッドで眠れると思うとただそれだけで嬉しかった。
「お疲れさまでした……」
途中、病院を案内されている途中らしい霧子とすれ違い声をかけられた。
「あれ?」
会釈を返した時、佐々木は彼女のスカートの裾に赤黒い何かがこびりついているのに気づく。
「あ、え、えと」
だが、それを指摘しようと迷っている間に、彼女の姿は廊下の角に消えてしまった。
続く。