贖罪証明書
産声を上げた赤子の足首には、白い紙片が結ばれる。
「贖罪証明書」。
そこにはまだ書かれていない罪名と、必ず支払われる罰の欄だけが空白のまま。
教会は言う。
人は生まれながらにして罪深い存在であり、生きるとは、その罪を自覚し、背負い、苦しみ続ける行為である、死だけが、唯一の赦しであると。
それ故に人々は生きる。
いや、正確には――死ぬ資格を得るために生きる。
子どもは学校で教えられる。
「あなたが生まれたのは、誰かの欲望の結果であり、選択の結果であり、過失の結果だ」「ゆえに、あなたは負債であり、あなた自身が返済そのものだ」と。
そう告げられて泣く子どもはいない。泣くことすら、余分な罪になるから。
私は、子供の時証明書の番号で呼ばれて育った。
名前はあるが、祈りの場では番号しか使われない。
神にとって、個性は誤差だからだ。
成人の儀式では、司祭がこう尋ねる。
「あなたは、生まれてきたことを悔いていますか」
全員が「はい」と答える。
答えなかった者は、悔いるまで地下で祈らされる。
私は、ずっと疑問だった。
罪とは、いったい誰のものなのか。
産まれた私か。
それとも、産んだ彼らか。
問いを口にしたことはない。
問いは信仰を揺らし、信仰は秩序を揺らし、自由は、この国で最も重い罪だった。
母は熱心な信徒だった。
毎朝、私の証明書に触れてからでないと食事を摂らなかった。
「あなたの罪を忘れないためよ」と、穏やかに微笑んだ。
父は何も言わなかった。
沈黙は、彼なりの懺悔だったのだと思う。
ある日、母が言った。
「あなたが死ぬ日、ようやく私は救われるのね」
その言葉に、怒りも悲しみも湧かなかった。
ただ、腑に落ちた。
ああ、私の存在そのものが、誰かの贖罪装置だったのだと。
老いた司祭に聞いたことがある。
「神は、なぜ人を罪人として創ったのですか」
司祭は答えた。
「罪がなければ、救いを売れないからだ」
その夜、私は初めて祈らなかった。
死を選ぶ日は、事務的だ。
申請書に署名し、証明書の空欄が赤で埋められる。
罪名は「出生」。
罰は「生」。
司祭は言う。
「あなたは十分に苦しみました。これで赦されます」
処刑台に上がると、空がやけに澄んで見えた。
神の姿は、どこにもない。
刃が落ちる直前、私はようやく答えに辿り着いた。
罪を背負わされているのは、産まれたほうではない。
産んだほうでもない。
罪を必要とした者――
救いを口実に、他者の生を管理し、意味づけし、死を正当化した者たちだ。
私が死ぬことで、誰かが安心するなら。
誰かが「正しかった」と思えるなら。
それこそが、この世界の原罪なのだ。
刃が落ちる。
――そして翌朝、また新しい赤子が生まれる。
足首に、白い紙片が結ばれる。
救いは、今日も不足している。




