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屍骸  作者: 麗氷柱
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妖しく煌めく葡萄


「どうしよう、帰れなくなっちゃった?」

「とりあえず、どこか落ち着ける場所で、次の船がいつ来るのか調べましょう。」


 迷子になった子供のように狼狽えており、定まらない視線でそこかしこを見回す奥木先輩。そんな彼女を落ち着かせるべく、僕は出任せにそういった。ここが圏外であることは、とっくに知っていたはずなのに。


 混乱とは伝播するもので、絶えず僕の裾を握り、荒々しく息衝く彼女を見ていると、こちらの呼吸さえも苦しくなってきて、整わない息遣いは当然、思考の妨げとなった。だからこそまずは深呼吸をしようと、そうやって遠くに視線を放った時だった、山が近いことに気付いた。数件の家々を抜けた先である。


「あの山に行きましょう。」

「山?」


 僕が指をさせば、彼女もその方角へと視線を向けるが、しかしその表情は判然としなかった。それどころか、彼女は続けてこんなことを言う。


「冗談よしてよ、山なんて、どこに見えるの。」

「えぇ、ホラ、すぐそこにあるじゃないですか?」

「見えないよ…………。」


 そういって目を細める彼女。視力は悪くないはずだった。それでもやはり見えないらしく、彼女は何度か、力いっぱいに目を閉じて、そして開けてを繰り返した。


「目が、よく見えないんだけど。」


 そうして彼女は目を擦ろうとしたのだが、その手は、先ほど島の住人から投げつけられたゴミによって汚れていた。だから僕は彼女の手を止めた。


「それなら、手をつなぎますから、ひとまず僕に付いてきてください。」

「うん」


 どうしたと言うのだろうか、いつも冷静なはずの彼女は、けれど一向に、その落ち着きを取り戻そうとはしなかった。確かにひどい歓迎は受けたものの、命に差し迫るような危険には接していないというのに。


 ただ、どれだけ考えても仕様がないので、僕はとにかく足早に歩き続けた。彼女の手を引いて、まるで恋人みたいに。


 斯くしてようやく山麓に迫った。ここに至るまでの間、確認できた古い家並みは、他と同様なんの変哲もない瓦葺の日本家屋であったが、けれど先ほどのように物を投げられることはなかった。それでも彼女の怯えようはひどく、一々とりなすのに手を焼いた。


「ここまでくれば、ひとまず安心ですね。」

「ねえ、あたし、臭くないかな。」


 奥木先輩とは反対に、すっかり平常を取り戻していた僕には、彼女を気遣えるほどの余裕ができていた。だから「臭わないですよ。」と優しく声を掛けたのだが、彼女は。


「嘘いわないで、まだ臭うの、あの港と同じ、腐った魚のような臭いが。」


 確かに嘘ではあったが、しかしそこまでの悪臭は彼女からはしなかった。それに港から随分と距離はとったため、香るにしても、海から漂う潮の香りのみである。プラセボ効果というやつなのだろうか、彼女の精神はかなりまいっているように見受けられる。


「少し、洗ってあげますよ。」


 リュックサックから飲みかけのペットボトルを取り出して、まずは手を出すように促した。そうすれば彼女は、両手を盃のようにして、水を受け入れる準備をする。無駄には出来ないため、溢さないように手の中へと注ぐと、彼女はその水たまりに顔を浸した。


「ありがとう。」

「いえ。それじゃあ、今度は頭から掛けますね。」


 好意を寄せる異性に、頭から水をかけるというのは背徳感があるが、彼女のシャツが滴る水を徐々に吸収し、肌の色を露にさせるほど透けてしまうと、そんな感情もすぐさま拭われてしまった。どうやら僕の精神は、完全に回復したようである。


「まだ臭いますか?」

「少し、でもマシになった。確かに君の言う通り、森の香りがするね。」

「今度、研究室に森の香りがする芳香剤でも置きましょうか。」

「アリかも。」


 ようやくクスリと見せた彼女の笑顔に、僕の表情も僅かばかりほころんだ。凪のような穏やかな空気が流れるが、けれど問題は解決したわけではない。幸い、いくばくかの水と食料は残っているが、次のフェリーがいつ港にやってくるのか、また、それまでの時間、どこで体を休めればいいのか等、僕たちを歓迎しないこの島での課題は、まさに山積みであった。


「本当に野宿になりそうですね。」

「それはヤダなあ…………そうだ、地図を出して。別の町なら船も宿もたくさんあるかもしれない。」


 彼女の指す地図とは、端末にインストールしたアプリなどではなく、地図製作会社が作成した紙媒体のものであった。早速クリアファイルに挟んでいた何枚かのA3用紙を抜き出して、地面に広げた。


幸い嘉宿島はそこまで大きな島ではなく、果物に例えたら洋ナシくらいのシンプルな形をしているため、その輪郭を指で辿り、我々が下船した港さえ見つければ、現在地がどこなのかは簡単に調べることができた。


「ここがさっきの港町、歸浦もどりうらの大通りで、そこから山を目指して来たので、今ここら辺にいることになりますね。」

「あそこから、まだそんなに離れてないんだね。」

「そうですけど、山沿いの道路を歩いて南下すれば、隣町に行けますよ。」


 ここから直線距離でおよそ14キロメートル離れたところに、真歪里しんわいりという町がある。だがこの島は火山島ゆえ、中心に死火山があり、それを囲うように森林が広がっているため、山道をゆくのが必須となってしまう。おそらく猛獣の類もおり危険が予想されるため、山を迂回して平坦なアスファルトだけを選んで歩けば、長さは大体18キロメートルになるだろう…………骨が折れるな。


 僕がため息を吐いて束の間、どうやら同じことを思ったらしい、彼女は影がさした表情でポツリとつぶやく。


「遠いね。」

「やめときますか?」

「いや、あの町に戻るよりマシだよ。」


 同感だ、あの町だけがおかしかったのかもしれない。地図から読み解くに、真歪里には商業施設も多くあるようだし、歸裏のような村社会とも違うはずだ。僕は自分にそう言い聞かせた。けれども脳裏にこびりつく、あの異形の男の影。もし、島の人間が全員、あのような姿だったら。


 東京を発つ前、この嘉宿島について調べているおり、とあるWebページを見つけた。その記事の見出しはこうだった。“旧日本軍、核実験を成功させていた”。文字の最後に疑問符がついていたかどうかは忘れたが、今でもバカバカしく思えるタイトルには、当然ついていたことだろう。


 信憑性はかなり薄い————ほぼゼロに近い————ため、流し読み程度だったので内容はよく覚えていないが、確かこんなことが書かれていた。


 “潮騒の渚伝説”


「終戦間際、海上を航行する旧日本海軍の1艦が、嘉宿島近海で謎の“光”を放った。以降、水揚げされる水生生物には奇形化したものが多くみられ、島民の中にも皮膚がただれ、骨格が歪む者が現れたという。それが“島の祟り”か、あるいは放射線によるものかはわからないが、“光の痕跡”を見た者は皆、狂信的に“神の巫女”に祈りを捧げている。」


 その実、こういったオカルト話については嫌いでないのだが、詳しい人間から見れば、嘘八百もいいところだと嘲笑することだろう。確かに旧日本軍は原子力や核兵器の研究に着手していたが、実際にはウランや濃縮技術の不足、輸送ルートの寸断、戦況の悪化などで研究は行き詰まり、終には研究室を出ることはなかったのだから。


 だからこそ有り得ないと思っていた。けれど歸裏で見た男の見目形は、それが嘘であるという確信を、根底から覆そうとしていた。


「なにボーっとしてるの?」


 真歪里へ向かう道中、ふと思い出したネットの記事によって思考があちこちに揺ぎ、おそらく情けない顔をしていたのであろう僕を、彼女は覗き込んでそう言った。真歪里に到着するまでの暇つぶしとして良い語り種になるだろうが、彼女の心情を察すると、それを話題することはできなかった。


「いえ、なんでもありません。」

「ふうん。それよりさ、見てよアレ。」

「あれ?」


 彼女が指さす方を辿って見てみれば、丘の斜面を彩る、ブドウ畑の繊細な列が認められた。濃緑の葉の合間に隠れるように実る粒は、まるでこの島の恵みを閉じ込めた宝石のようで、そのうねは順路に沿って規則正しく並び、朝露を含んだ葉が、まるでベエルをまとっているようであった。


「あれって、ブドウ畑ですよね。」

「見た感じはね。もしかしてワインとか作ってるのかな。」

「どうなんでしょう、嘉宿島は主に水産加工品が有名だと聞いてますが。」

「密造酒だったりして。」

「意外と想像力が豊かなんですね、先輩って。」

「馬鹿にしてる?」


 彼女の精神は、冗談を言えるほどにまで快復していた。淀んだ空気が漂う歸裏を出て、新鮮な空気に触れたおかげだろう。


 ある一つに目を瞑りさえすれば、嘉宿島はただの美しい島である。小高い丘の上に佇む白い灯台、打ち寄せる波が岩礁に砕ける海岸線、鋪装された道を一歩出れば、潮風に揺れる草木がやさしくざわめき、その背景には、彼方まで続く碧い海が臨める。


「あそこの葡萄、ひと房くらいなら取っても大丈夫かな。」

「普通に犯罪ですけど…………おなか空いたんですか?」

「そういう訳じゃないんだけど、なんか、すごくいい匂いがしてさ。」


 そうは言うものの、感じられるのは潮香のみであり、しかし嗅覚に意識を集中させてみれば、確かに大気中を固まりのように漂う匂いからは、ふわりと鼻を抜けていく爽さを覚えるも、彼女の感性を真っ向から肯定できるほどの程度ではないのである。


「見るだけ見てみますか?」


 彼女の言葉がいささか引っかかったものの、けれどまあ無下にもしたくないもので、断りもなく農作物を摘み取ることはできないが、立ち寄るくらいであれば問題はないだろうと、僕は彼女へそう提案した。すると聞き分けの良い子供のように、彼女は首を縦に振る。


 僕らが歩いている道路の右側————つまり島の外縁————に海が広がっており、ブドウ畑はその反対側にある。距離が縮まるにつれ、そっと心をくすぐるように甘く優しい薫りが漂ってくる。然れども僕は、一向にそれをブドウと紐づけることが出来なかった。


「いい匂いではあるんですけど、これ、何の匂いですかね。」

「え、葡萄でしょ。」

「そんなはずは…………。」


 さもありなんと、彼女は笑顔で「ほら、葡萄だよ。」と繰り返すが、僕はその言葉にどうにも頷けないでいた。誘われるような芳醇さを感じられる匂いではある。けれど、どこか奇妙に歪んでいて、果物特有の爽やかさはなく、まるで人工的な何かを混ぜ込んだかのような、甘ったるい不自然さが鼻の奥に残るのだ。


 深く嗅げば嗅ぐほど、不安がじわじわと胸に広がる。嗅覚が騙されているのか、それとも記憶が裏切っているのか。何か得体の知れない存在が、ブドウという名を借りて巧妙に近づいてきているような、そんな嫌な予感が僕の背筋をなぞっていく。「本当にブドウですか?」僕の問いかけに、彼女は少しだけ目を細めた。


 あっという間に僕を追い越し、脇目も振らず先を行く彼女を追いかけて、僕もガードレールを乗り越えてブドウ畑に足を踏み入れた。果樹園の主に見つからないよう、心の中で祈りながら。すると、ブドウとは似ても似つかぬ、どこか腐りかけの肉を思わせる臭気が鼻を突いた。


「ひっ。」


 細くみじかい悲鳴が彼女の背から聞こえてきた。急いで駆け寄ると、その理由が判った。


 組み立てられた木材に絡みつくツタには、豊かに実ったブドウがびっしりと連なり、垂れ下がっており、瑞々しく輝いている。見るからにブドウ畑で間違いないのだが、けれども一粒一粒を凝視するにつれ、僕の背中を言い知れぬ寒気が這い上がった。


 その果実は、まるで魚の目玉のようだった。薄皮に覆われた表面は滑らかで、生々しい光沢を帯びているが、瞳孔にも見て取れる部分は光を吸収し、じっとこちらを睨んでいる。あり得ないと思いつつ、恐る恐る手を伸ばし、ひと粒を指でつまんでみるも、弾力のある、ネットリとした感触が指先に伝わり、思わず指を引っ込めてしまった。僕はもう、それを果物と認識することは出来なかった。


 すぐさまここを立ち去ろうと、奥木先輩のほうへと振り返った時、彼女の行動に思わずその手をつかんだ。


「ちょっと、ダメですって!」

「一粒だけ、一粒だけっ。」


 先ほどまで“魚眼のブドウ”を見て青ざめていたはずなのに、しかし垂涎し、もぎ取った一つに熱烈の眼差しを向けて、ぽっかりと口を開けていたのだ。だから必死に止めた。狂ってしまったのだとしても、そうすることが正解であることは明白だったために。…………そんな僕の心もむなしく、か細い腕からは想像もできない膂力に敗れ、ソレは彼女の口腔に運び込まれた。


「えうっ。」


 その見た目から想像で得る通りの味わいだったのか、彼女はそれを噛み潰し、舌の上で転がした後、胃袋の内容物とともに地面へと吐き戻した。果たしてブドウの果汁なのか、ゼリー状の液体が彼女の口角に妖しく残る。


「だから言ったじゃないですか。」


 膝に手をつき、未だえづく彼女の背中をさすってやりながらも、戒めるように僕は言った。ただでさえ事態は最悪だというのに、もう少し考えて行動してほしいものである。もう、気遣う余裕さえ無くなりそうだ。


「もう行きましょう、真歪里まで、もう半分ですから。」

「うん。」

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