歸浦
思わぬ再開を果たした後、僕らはそのまま、生臭さに満ちた漁港を練り歩いた、まずは拠点となる宿を探すべく。けれど普段から観光客など来ないのだろうか、昭和を思わせるポスターや看板がならぶ旧びた商店は、シャッターが下りており、旅館や、ようやく見つけた民宿などの類いも閉業している有様であった。
「カッコウが鳴いてるねえ、少子高齢化の先頭に立っているような町だ。」
彼女の言う通りだとも思ったが、どことなく違う気もした。僕はこの町に、もっと異様な雰囲気を感じている。
港町の家々は固く玄関を閉ざしており、格子状の窓からは、埃にまみれた障子が窺える。また、賑わうはずの大通りはさらに異様であった。朽ちかけた家屋の軒先に引っかかった漁網は不気味に揺らめき、その網の中には、腐った魚がそのままにされており、その腐臭が風に乗って鼻腔に刺されば、吐き気が込み上げてくる始末だ。
捨て置かれているものは他にもあった。木彫りの人形、割れた写真立て、折れ曲がった櫂が散乱し、さながら時が止まっているかのようである。それほどまでに、沈黙がこの島の支配者たり得ていた。
「この魚臭さ、海から離れたってのに、まだ匂うね。」
「どこかで魚市場が開いてるんでしょうか。」
「それか、半魚人が住んでいたりして。」
「やめてくださいよ。」
あり得ない話ではあるのだが、完全に否定はできなかった。桟橋にいた幾人かの漁師は、みな異臭を漂わせていたし、撥水素材の作業着を着こんでいたため、肌はおろか、その素顔も確認できていないのだから。
ぞっとしない彼女の冗談には付き合わず、僕は引き続き宿泊施設を探した。現代人らしく、地図アプリで検索しようとスマホを開くも、突き放すように画面の端には圏外の二文字が浮かぶ。これはいよいよだと総毛立った時。
「ねえ見て、あの建物。」
彼女の指さす方へ視線をやると、堅く閉ざされた家々の中にポツンと、玄関口から光が漏れ出ている一棟を認めた。見てくれはといえば他のものと同じ様式ではあるものの、1階と2階の中間あたりに「中谷」と木彫りの看板が立てかけられているため、何か商いを行っていることは明白だった。
「営業中みたいですね。」
「ちょっと民宿っぽくない?」
「見かけはそうですけど。」
いうなれば枯れた森に花開く一輪のようであるが、甘美な蜜で獲物を誘う食虫植物のようにも捉えられる。鬼が出るか蛇が出るか、果たして賭けではあるが、この状況ゆえ訪ねない訳にもいかない。
「僕が聞いてきますよ。」
男気を見せたつもりだったが、彼女は断った。
かくして正体の不明な建物に近づくのだが、すると次第に聞こえてきたのは声だった。男のもの、何を言っているのか聞き取れないが、ノイズが混じっていることからラジオの音声であることが分かった。それも随分と古めかしい型のものから発せられているようだ。
屋内から漏れる電灯の黄色い光に、そろそろ触れそうになった時、閉じられたガラス戸を通して中の様子が窺えた。羽虫がたかる仄暗い蛍光灯、4畳ほどの土間と靴箱、そこを上がった先に広がる空間には、番台のようなカウンターが認められる。
「銭湯かな?」
「そういえば、裏手には煙突が見えましたね。」
「お風呂か、お風呂は今はいいかな。」
「まあ、とりあえず入ってみません?」
口元を“への字”にゆがめ、気が進まないといった感情を見せる先輩。しかしようやく見つけた人の気である、これを逃す手はない。恐る恐る引き戸に手をかけて力を込める。建付けが悪く、キュルキュルと、扉の開は決してスムーズとは言えない。
「ごめんくださあい。」
半開にした戸の隙間から声を切り込ませる。声を張り上げるのは得意でないが、そんな僕でも十分に奥まで届かせられるほどの静寂であり、けれど返ってくるのはラジオの音声のみ。もう一度呼びかけてみてもよいのだが、恐らく同じ結果になるだけなので、意を決して中へと足を踏み入れることにした。
玄関をあがり番台の前に立つも、終に人が現れる気配は感じられず、さてどうしたものかと、僕は奥木先輩と視線を交わし合った。
「どうしましょう、建物の裏側に回ってみますか?」
「うーん、礼儀知らずだって、悪い印象を残したくはないけど。」
「けれど状況からして…………。」
「やむを得ないよね。」
僕らは目を合わせたまま頷き、一旦建物から出ることにした。そうして薄暗い路地を抜けて、忍び込むように敷地の裏手へと回る。
「すいませーん。」
店の顔であるこぎれいな表側とは反対に、裏側は如何にも裏側といった風であった。積み上げられた薪の束、それを運ぶ一輪車はタイヤが外れており、その役目を終えたように横たわっている。その中でも目立つのは、銭湯の象徴とも言える煙突であろう。かすんだ文字で「中谷湯」と書かれており、年季の入った錆が認められる。
「はあ あい」
物置だろうか、傾いたプレハブ小屋から野太い声が返ってきた。いかにもである、その声はおよそ人の喉から発せられたものとは思えぬほど、何か邪悪さを孕んでいた。加えて声の主の全貌を目の当たりにすれば、我々はもう、その場に立ちすくむことしかできなかった。
「おぉ お客さんだったか」
後ろめたさでもあるかのように分厚い雲に隠れた太陽が、小屋から現れた島民の、その姿を照らす。「ひ」と奥木先輩が短く声を漏らした。対する僕はといえば、声こそ出さなかったものの、その風貌に気圧され半歩後ずさりしたことは事実であった。
「見ない顔だね 観光客かい」
白く濁った瞳孔がこちらを見つめる。人の目玉とは、他の捕食者と同様に前を向いているものである。だがその男————声のみで判断する限りは男————のプルーンのように膨れ上がった眼球は、本来ある位置から大きくズレ、ほぼ真横を向いていた。男がまばたきをするたびに、目玉が眼孔に収まろうと必死にもがいている様が認められる。
「あ、あの。」
初見では驚きを隠せなかったが、そういうこともあるだろうと、そう割り切って言葉を切り出した。しかし聞きなれない声、見慣れない風貌は、そう思えば思うほど、心とは逆の方向へと僕を導こうとする。
「急な訪問で、すいません。僕たちこの島の生態系を調査するためにやってきた者でして、この辺りで泊まれる宿を探しているんですが。」
詰まらせながらも絞り出し、ようやく言葉を言い終えた僕は、声を発さないことの心地よさというものを覚えた。
そうして相手の出方を窺っていると、足でも悪いのか、男はたどたどしい足取りでこちらへ歩み寄ってきた。そうすれば漂ってくるのは潮の香、桟橋で嗅いだものと同じ匂いである。あの場にいた漁師たちの全貌は明らかにならなかったが、彼らもまたこの男と同様であったのだと悟った。
魚の鱗のように肌を覆う爪のようなもの。シワだらけだと思っていた首は、実はシワではなく切れ込み、つまりサメのエラのようなものであり、隙間には人の指らしきものがびっしりと生えそろっている。いうなれば半魚人なのだが、半魚人たらしめる魚の部分を、人間の部位で代用しているかのようだった。
「何を 不思議そうな顔を していらっしゃるか」
目を丸くしていたせいか、男は首をかしげて問うてきた。この島では、この姿こそが当然であると言わんばかりに。果たしてどう返したものかと、いまにも狂いそうな脳みそをフル回転させて思考を巡らせていると、割って入るように彼女が口を開いた。
「失礼しました、その、お仕事の邪魔をしたようなので、我々はこれで失礼させていただきます。」
彼女はそう言って僕の手を取ると、この場から去ろうと歩き始めた。ただ彼女の選択には賛成だったため、僕もすぐさま自分の意志で踵を返した。わずかに覚えた罪悪感から、男の方へ振り返り会釈をしたが、その際、男は僕たちではなく、雪を待ち受ける子供のように、大きく口を開けて、空を仰ぎ見ていた。垣間見えた男の口内は、平らな歯で埋め尽くされていた。
「なんだか怖くなってきました、さっさと帰りましょう。」
「う、うん」
銭湯を後にした僕たちは、下船した桟橋へと戻るべく、小走りで来た道を辿っていた。絶えず浴びせられる視線は気のせいではなく、目を配れば、家々の窓や障子や、あらゆる隙間からこちらを覗く眼光が認められた。
「僕たち、知らない間に、やばいところまで来ちゃったようですね。」
「でもおかしいよこんなの、ネットの情報だと、もっと活気のある島だって言ってたのに。」
恐怖に背を押され、ジョギング程度だった駆け足は、気づけばほぼ全力疾走に近い速度にまで達していた。そんな僕らを嘲るような声が、そこかしこから聞こえてくる。独立したコミュニティは他所からの来訪を嫌うというが、さすがにこれは、度が過る。
「痛たっ。」
どこからか飛んできた石ころのような物体が、先輩の後頭部を打った。その衝撃のせいか、彼女は足をよろめかせる。僕はすぐさま彼女の体を支えた。果たして速度は落ちてしまったものの、引き続き港を目指して足を回した。
「もう、最低。」
「大丈夫ですか?」
「うん。」
誰かが投げた石に続き、罵声はもちろんのこと、生ごみ、木端、最悪、魚の死骸までもが放られ、僕たちの体は、その汚物に塗れてしまった。
やっとの思いで港に着くと、さらに絶句した。否、容易に予想できたはずだった、僕らが乗ってきたフェリーはおろか、波止場には、1隻の船も係留していなかったことは。変わらず桟橋で作業をする漁師たちの声と、防波堤に打ち付けられた波の音だけが、静かにこだまする。