導入
いつ訪れても潮の香りが漂う、大学の角にひっそりとある研究室。壁に貼られたホワイトボードには、実験計画や海洋調査のスケジュール、種ごとの遺伝子情報を整理した走り書きが細かく書き込まれている。
また室内の奥では、高性能な顕微鏡が存在感を放ち、その周辺にはプレパラートやピペット、試薬ボトルが整然と並ぶ。培養装置が静かに作動し、海藻や微細藻類の培養液が淡い緑色を放つ。
壁際には透明な水槽がいくつも並び、青白いLEDライトが波のように揺らめいている。その中ではウミウシやクラゲ、小さなイソギンチャクが、ゆったりとした動きで水中を漂い、それぞれの生態系を静かに演出していた。
「例えばこのウミウシ。摂食した藻類から葉緑体を盗んで、自分の細胞内で維持するでしょ?」
そのうちの一つを指で小突きながら、屋木先輩は僕に対して言葉を並べた。
特に議題のない小話をする内に、テーマはみるみる海洋生物へと移り、結果この有様なのである。真意を打ち明ければ、僕は彼女についての話をしたかったのだが、しかし今さら後に戻ることもできないので、会話を盛り上げる意味でも、その話に付き合うことにした。
「盗葉緑体現象ってやつですね。光合成生物じゃないのに光合成をする、葉緑体を維持するための遺伝子を、宿主側が持ってないと難しいって言われてますが。」
「うん、いろいろ仮説はあるけど、まだ明確な証拠はないんだよ。」
「だったら、RNAシーケンスとかで、そのウミウシがどんな遺伝子を発現してるのか、調べてみるべきでは?」
「お、いいね。発現パターンと葉緑体の活性期間がリンクしてるかどうか調べれば、新しい発見があるかもしれない。」
そういって彼女は、着用したゴム手袋を雑に脱ぐと、それを捨ててまた新しいものを箱から取り出して、いそいそと研究の準備を始めた。近々、論文の査定が控えているため、その満ち溢れたやる気にも納得である。
彼女が使用する机には、大きく広げられた海図や図鑑、散乱した論文のコピーがいつも無造作に置かれており、積み上げられた専門書には、付箋がびっしり貼られている。
ほかの先輩方がフィールドワーク————つまり体のいい旅行————に出ている中、彼女だけは研究室に籠る選択を採った。ゆえに今は、僕と彼女だけの時間、それなのにこの部屋は、僕ひとりだけのような寂しさに満ちている。
天井につるされたザトウクジラやシャチの骨格標本が、憐れむように僕を見ている気がしてならない。
奥木結舞、彼女が研究に躍起になる、一つの大きな理由。それは、現在もどこかでフィールドワークに励んでいるのであろう、先輩方の存在にほかならない。
時はさかのぼり、ある夏の日のこと、彼らは出先からとあるサンプルを持ち帰ってきた。興味本位から、僕もそれを見学させてもらった。それは淡いピンク色で、血管のような青白い筋が目立ち、触ってはいないが、ブヨブヨとした感触をイメージさせた。ソレの第一印象はといえば、異臭を放つ腐肉というにふさわしく、こと最悪なものであった。
果たして何を思って、奇怪なソレを先輩方が現地から持ち帰ったのかは知り得ないが、そんな懐疑心は、彼らの研究成果によって瞬く間に拭われることになった。
一躍、まさしくその言葉で表現するのが適切であった。彼らが論文を発表した途端、世界中から注目を浴びたこと、弱小だったこの研究室は、莫大な資金を政府から援助され、潤沢になった。はじめは国内、次に世界と、ありとあらゆる研究者から賛辞が送られてきた。
ちなみに、先輩方の論文にはこう書かれている。
============
“原初触媒”(以降はアルファと呼ぶ)は、iPS細胞をはるかに凌駕する能力を持ち、ヒトゲノムと融合することで、細胞の再プログラミングを誘導できる。具体的には、アルファが持つ独特な分子構造が、体内にある不活性な幹細胞や生殖細胞のエピジェネティックな状態を目覚めさせ、細胞分裂や分化のプロセスを劇的に活性化させる。
たとえば不妊治療への応用としては、次のようなプロセスを想定している。
1.細胞再生の起爆剤
患者の体内から採取した細胞に、アルファの微量成分を添加することで、従来では再生不可能とされていた生殖細胞の分化が促される。これにより、卵巣や精巣に存在する微細な幹細胞が、機能的な生殖細胞へと再起動される。
2.ゲノム融合による奇跡の再構築
アルファは、ヒトのDNAに直接働きかけ、失われた、あるいは変異した遺伝情報を補完・再構築する働きを持つと考えられる。その結果、患者個々の体質に合わせた、最適な生殖細胞が生成される。
つまり、アルファは科学の枠を超えた存在として、不妊治療においてはまさしく「失われた命の可能性を再び呼び覚ます鍵」と言えよう。
============
初めてこの論文を読んだとき、心が震えたことを強く覚えている。彼らの研究によって、これまでハイコストだった治術の常識は覆され、誰もが手の届く非常に安価なものへと生まれ変わったのだから。否、不妊治療に絞らず、損傷した臓器や組織の再生、難治性疾患の治療、抗老化、美容医療、さらに、もっとテクノロジーが進歩すれば、細胞工学や組織工学は、3Dプリンティング技術と結び付けることで、カスタマイズされた人工臓器の作製など、未来的な医療技術の発展にも寄与する可能性があるのだ。
そう、先輩方は、この世界の救世主となったのだ。彼女の前ではとても言えたことではないが、はっきり言って、僕や奥木先輩では、到底たどり着けない境地である。
「こんなんじゃダメだ…………。」
光は遠く、果てのない闇の中で、彼女はポツリと言葉をこぼした。水槽の中で、摂取、排泄を繰り返すだけの下等生物に愚痴を吐くかのように。当然、返ってくるのは、ろ過装置の幽かな物音だけ。果たしてなんと声を掛けるべきだろうか、そう思考を巡らせていると、なにか思い至ったのか彼女は振り返り、僕にこう言ってくる。
「三枝くん、あたしも現地調査に行ってくる。」
「えっ。」
「研究室にこもってばかりじゃダメだ、京都さんたちのように、足を使わなきゃ。」
「でも、博論の審査まで時間がないんですよね。」
「どのみち、このままじゃ予備審査も通らないよ。」
後ろで束ねたひと房の先端をいじりながら彼女は言った。伏せられた眼差しからは、諦めの感情が読み取れるが、しかし次には目の色を変えて、揺らがない決心を灯した黒色を僕に見せた。
「自分も行きます。」
今度、彼女はその黒を白で囲んだ。当然だろう。彼女に比べれば、そこまで研究に熱意はなく、そのことを秘めていたわけでもないので、この研究室に所属する誰もがそのことを知っており、彼女も例外ではないのだから。
「いや、驚いたな。まさか三枝君がそこまでアクティブだったとは。」
あははと、特に悪びれることなく彼女は言った。確かに知見を深めることに熱はないが、扉の外へ出ることに躊躇いがあるわけでもない。いったい、どこからそんな人物像が浮上してきたことやら、果たして知り得ないが、その固定観念を払拭することもできるいい機会だろう。
「自分にも足はありますから、先輩の受け売りですけど。」
「いいよいいよ、2つよりも4つのほうが見えることもあるだろうしね。」
「すみません、わがままを言ってしまって。」
僕が彼女についてゆく理由はもう1つ————これが一番の要因だが————ある。僕は奥木先輩に、恋慕の情を抱いている。きっかけはただのひとめぼれなのだが。
「ところで、調査先の目星はついてるんですか?」
「うん。」
奥木先輩のことだ、僕では到底思いつかないような有意義な候補をいくつか考えているに違いない。そう内心を昂らせて問うてみれば、彼女はファイルラックからとある紙束を抜き出して、机に押し広げた。英語で綴られたそれは、先輩方の論文であった。
「実はね、私も、嘉宿島に行ってみようと思うの。」
嘉宿島とは、東京都に属する、人口が僅か千人程度の小さな島である。生物以外の分野についてはからきしなのが僕なので、その島の歴史に関しては全く知らないが、聞くところによると、白亜紀よりもずっと前の時代にはまだ海の底にあったのだという。やがて大陸から日本列島が切り離され、見覚えのある形に整えられ始めたころに、その嘉宿島は浮上したらしい。
“神は地底から顕れた”
先輩方の論文、無機質なフォントが連なる一枚の、その余白部分には、手書きの日本語でそう認められていた。またその下にはこうも書かれていた————順序とは、まったくもって肝心ではない、時には結果から始まることもある————。先輩方が残した落書きは、完璧に近い論文の評価を落とすには至らなかった。
「呼ばれている、という訳ではないのだけれど、惹きつけられるよね」
果たして何度目か、奥木先輩は論文を検めながら、しかし食い入るようにその3行を刮目しながらつぶやいた。ただならぬ気迫は感じるが、ただそれだけでは問題にならず、彼女に付いて嘉宿島へ行くことに、何の障害にもならないのであった。