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大魔法使いの愛人は恩師が死んでも何もしてあげられなかった

作者: 葛西渚

ある日、帰ると郵便受けの中に一枚のハガキが入っていた。


「本年〇月〇日に夫 ゼノム・ラビアビスが永眠しました。生前のご厚情を――」


そして、ハガキの最後はこう締めくくられている。


「葬儀は故人の意志により近親者のみにて相済ませました」


先生が死んだ。

その現実を受け入れるだけでも、時間がかかり、私は郵便受けの前で立ち尽くした。


差出人の名前を確認すると、セラ・ラビアビスと書かれている。


あの人……奥様が、私にハガキを出すなんて考えられない。たぶん、弟子の誰かに訃報の連絡をすべて任せたのだろう。事情を知らない誰かに。だから、私にも届いたのだ。


――僕が死んだら、これだけは君に頼みたいんだ。


涙は流れなかった。

けど、別れる前に先生から託されたことを思い出した。


「行かないと……」


次の日、私は午前中から先生の……ラビアビスの屋敷へ向かった。曇り空のせいか、屋敷の前は以前よりも人通りが少ないような気がした。


三年ぶりの屋敷はほとんど変わらない。立派な門構えなのに、どこか鬱蒼としていて、人を寄せ付けない雰囲気が漂っている。先生が死んでから、既に一週間以上が経過しているため、故人を偲ぶ雰囲気は既になかった。


だとしたら、先生の荷物は……。

急がなければ、と私はドアベルに指先を伸ばすが……。


奥様の顔が浮かんだ。

奥様が顔を出すかもしれない、と思うと、伸ばした指先が震えてしまう。


「すみません」


過去の記憶に怯えていると、背後から声がした。驚きながら振り返ると、赤い帽子を被った三人の男性が。


「引越センターのものです。お荷物はどちらでしょうか?」


「……え?」


引っ越し、という言葉に困惑する。


「あ、あの……私は、ここの家のものではなく」


「そうですか。じゃあ、ちょっと、いいですか?」


男性は私が避けることを前提で、真っ直ぐとドアベルに指を伸ばすと、呼び出し音が鳴り、屋敷の奥から返事があった。


どうしよう、逃げないと。でも、先生の荷物を……。

迷っている間に、屋敷のドアが開く。


「あ、どうもー。すみませんが、お願いします」


顔を背けた私の後ろで、男性の声が。


よかった、奥様じゃない……と安心する私の横を引っ越し業者の人たちが通り、屋敷の中へ消えて行った。


「もしかして、セシル? セシル、だよね?」


屋敷から顔を出したであろう、男性の声が、私を呼んだ。振り返ると、そこには驚きに目を丸くした、よく知る顔が……。


「イノハラ……。イノハラなの?」


その人物……イノハラは溶け出した氷のように笑顔を浮かべてから、大きく頷いた。


「本当にセシルだ! まさか、また会えるなんて……」


彼は屋敷から出てくると、私の手を取った。


「無事でよかった。とにかく、無事で……」


感極まるイノハラを前に、私は戸惑いつつも、運が良かったと心の中で胸をなでおろす。イノハラは私の同期だ。今よりもっと若いころから、ずっと先生のもとで一緒に魔法を学んだ仲。


彼になら、聞きたいことが聞けるかもしれない、と私は少しだけ昂りを取り戻す。


「イノハラ、先生が亡くなったって、本当なの?」


イノハラの表情が固まり、すぐに暗いものに変化していった。相変わらず、素直な人だ。


「うん。君に伝えるべきだったよね。ごめん」


「良いの。奥様に知られたら、破門どころじゃないでしょうから。それより……今の人たち、引っ越しの業者さんだよね?」


「うん。奥様は引っ越すつもりなんだ。ラビアビス研究室も解散だから、生徒たちも荷造りをしているところ」


「じゃあ、先生の荷物は!? 菖蒲頭(あやめとう)があったはず!」


名残惜しそうな顔のイノハラに、私はほとんど怒鳴るように質問する。そのせいで、彼を再び驚かせてしまったようだが、何かを誤魔化すような苦々しい顔を見せた。


「……形見分けは済んでいるよ。君に渡せるものは何もない」


「嘘でしょ? もう全部……何もないの?」


頷くイノハラ。


「先生の骨は? 頼まれたの、死んだら故郷のアミレーンにある教会に、って」


「……骨は魔研大に売るって。先生は遺書を残していなかったし、骨をどうしたいのか、誰にも伝えていなかったから」


「ダメだよ、先生の骨と菖蒲頭(あやめとう)だけは、私が……!!」


思わず、私はお屋敷の中に踏み入ろうとしたが、イノハラに止められてしまう。


「今行ったら、奥様と鉢合わせになる。あの人が君を見たらどうなるか、分かったものじゃない!」


「いいよ、どうなっても良いから、あの人に会わせて! 骨と菖蒲頭(あやめとう)は先生にお願いされているの……」

イノハラの制止を振り払おうとしたが、私は取り返しのつかない事実を知らされる。


「残念だけど、骨も菖蒲頭(あやめとう)もここにはない。既に魔研大に引き取られている。だから、奥様に会ったとしても……」


それを聞いて、私は力を失ってしまう。こんなことになるなら、どんな方法を使ってでも、先生の傍らか離れるべきじゃなかった。そうすれば、先生の最期だって看取れたかもしれないし、骨も菖蒲頭(あやめとう)だって……。


ぐるぐると回る頭で、何とか取り戻す手段はないかと考えていると、屋敷の奥から、イノハラを呼ぶ声が。それは間違いなく、奥様のものだった。


「とにかく、今日は帰って。後で連絡するから」


再びイノハラを呼ぶ声があり、彼は「今行きます!」と答えた。そして、私を憐れむような目で見ると、どこからかボールペンと付箋を取り出し、そこに何かを書きなぐる。


「僕の連絡先だ。詳しいことは、改めて話すから。さぁ、帰って!」


強引に付箋を手の中へ握らされ、私を押し出すようにして、お屋敷の扉は閉められてしまった。


曇り空はついに雨を落とす。私は閉ざされた扉を前に、もう二度と先生と会うことはないのだ、と改めて思い知るのだった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


先生と出会ったのは、私が魔法研究大学に入学し、しばらくしてからだった。


「えー、それでは抗議を始めます。あれ、資料がない……。あ、家の書斎に忘れてきちゃった!」


ぼさぼさの頭をかきむしり、牛乳瓶の底みたいなメガネを何度も押し上げて、落ち着きを取り戻そうとするさまは、どう見ても冴えない男だった。年齢も確実に一回りは上なのに、頼りなさそうな男。


「つまり、これは女神セレッソが残した魔法と言われ、威力は使い手の精神状態に左右することから、別の分野の知識が必要となり……」


しかし、先生の講義は私の知的欲求をことごとく満たすものだった。この人が何を考え、何を信じ、何を譲らないのか、常に考えるようになっていた。だから、ゼミの選択は迷うことなく、先生のラビアビス研究室を選んだ。


「あ、君がセシルくん?」


それなのに、初めてゼミで生徒たちが集まったときは、先生が私の名を呼んだときは本当に驚いた。


「は、はい」


戸惑いながら返事をすると、先生は講義中には見せたことがない、嬉しそうな笑顔を見せて言うのだった。


「君のレポートは、いつも楽しく読ませてもらっているよ」


このとき、私はこの人に恋をしているのだ、と自覚した。


それからは少しずつだった。

少しずつ距離を縮め、お互いの好意を口にせずとも確信できるような関係となる。


その頃は、本当に幸せだった。目が合うだけで、愛されていると感じられたし、愛しいと思えた。さらに、私と共同で進めていた先生の研究は、どれもこれも大きな成果として認められ、ゼノム・ラビアビスは大魔法使いだ、と言われ始めたのも、このころだった。


「先生、これはなんですか?」


ある日、先生の机の上に人の頭ほどの大きさの何かがあった。茶色い植物の塊のようでもあるが、無機物のように硬質。見たことのない、不気味な物体だった。しかし、先生は私がそれに興味を持つと嬉しそうに笑った。


「ああ、菖蒲頭だよ」


菖蒲頭(あやめとう)?」


「うん。下手したら千年前の遺物らしくてね、もしかしたら凄い魔法が封じ込められているかもしれないってさ」


「千年前って……女神戦争の時代ってことですか??」


「そうなんだよ。この菖蒲頭(あやめとう)には、女神戦争の謎が隠されているかもしれないんだ。人類が滅亡寸前まで追い詰められた、大規模な戦争で何が起こったのか、どんな魔法が使われたのか、分かるかもしれない。ロマンだろ? 私はね、残りの人生かけても菖蒲頭の謎を解明するつもりだ。もちろん、君にも手伝ってもらうよ」


頼りにされている。

しかも、それは遠い未来まで続くようで、私は嬉しかった。


同じ分野の学問を研究し、一つの答えに向かう。それも、大きな充足感を私に与えた。それなのに……。


「結婚することになった」


菖蒲頭の研究が始まってから、一年ほど経ったある日。突然、先生に告げられた。先生は苦笑いを浮かべながら、どういう意味なのか、自分の頬を指先でかきながら、こんな言葉を加える。


「君には……言っておくべきだと思って」


何もかも明るい日々だったはずが、急にスイッチを切られたように、目の前が真っ暗になった。重たい。体も、気持ちも、視界も……何もかもが重たくなってしまった。


「嫌です」


感情のコントロールを失った私は、とにかく素直だった。先生が何を思うか考えもせず、ただ自分の気持ちを口にした。しかし、先生は聞こえなかったのか、首を傾げたのを覚えている。


「セシルくん?」


「嫌です。先生が結婚するなんて……絶対に嫌です!」


研究室で座り込み、泣き出した私を見て、先生はずっとあたふたしていた。たぶん、女に泣かれたのも初めてだったのだろう。それから、体の水分がすべて目から流してしまったであろう私に、先生は言った。


「家同士の約束だったんだ。ずっと、前からの……」


「どういうこと、ですか?」


「昔、私の先祖と共同研究していた一族がいてね。ラビアビスと盟友関係を結んでいたんだ。そして、こんな約束をした。お互いの末裔の血から、魔法使いとしての適正が失われつつあったら、種を分けるように、って」


これは、古い魔法使いの家系には、よくあることだった。薄くなる魔法使いの血を、別の一族と束ねることで再起を図る。しかも、先生のラビアビス家はさらに古い家柄で、約束を破った一族に呪いがかけられる誓約書も結んでいたらしい。


「じゃあ、先生にとって望まない結婚なんですか?」


先生は頷く。


「できることなら、僕は君と……」


「私と?」


先生は頬を赤らめ、目を逸らした。


「言ってください。私、言ってもらえたら、もう泣きません。二度と泣きませんから」


そのとき、先生の黒目はよく泳いだ。だけど、いずれ観念してその言葉を私に……。


「許されるなら……僕は君と結婚したかった」


そして、私たちは初めての口づけをした。それから、私たちは隠れて関係を持つことになる。この先に幸せはない。分かっていても、止められなかった。


ある日、 セラ・ビビアーノという女性が研究室を訪れた。


「本当にかび臭い場所。本ばかりで、埃っぽいし、片付けないの?」


セラ……つまり、後に先生の妻となるその人は、あからさまに不快感を顔に出し、生徒の私たちなど存在していないように振る舞った。


「弟子たちに掃除をさせなさい。ここにある本も、ほとんど必要ないのでしょう?」


「いや、どれも大切だよ。ごめん、誰か彼女にコーヒーを入れてくれないかな」


私が黙ってコーヒーを用意する。このころ、研究室の人間は私と先生の関係を何となく気付いていたらしく、雑用やら身の回りの面倒を最初に誰が見るのか、言葉にせずとも決まっていたそうだ。だから、このときコーヒーを用意したのも、私だった。


「どうぞ」


奥様は私を見た。

私は弟子の一人でしかない。きっと、彼女には何の印象も抱かれないだろう。


そう思っていたのに、彼女は私を数秒間も見つめた。このときの緊張感と恐怖心は、いつになっても忘れないだろう。しかし、彼女は何も言わず、もちろんコーヒーの礼もなく、視線を先生に戻した。


「ねぇ、式の場所は考えてくださっているの? わたくし、アミレーンみたいな田舎にある式場は絶対に嫌よ」


「アミレーンだって王都内だけどなぁ」


先生は私のことが気になって仕方がないようだったので、ひっそりと研究室から出たのだが、奥様がいなくなったのを確認してから戻ると、口をつけていないコーヒーが残されていた。


それからも、奥様は何度も研究室にきた。そのたびに、私はコーヒーを準備し、口をつけることなく残された。だが……。


「僕がやるからいいよ」


初めて代わりを名乗り出てくれたのが、イノハラだった。


たぶん、毎回コーヒーを出す私を見ていられなかったのだろう。それからは、ずっとイノハラがコーヒーを出し、奥様も口をつけるようになった。


先生の結婚式は無事に終わり、奥様が研究室にやってくることもないだろう……と安心したが、そんなことはなかった。


「ねぇ、この前受けてらした取材の謝礼、額はいくらだったの? 貴方、そういうの何も教えてくださらないじゃないですか」


「そういう話は、家で……」


「遅くまで帰らず、朝は早く出てしまう人に、いつ聞けばいいのです? 研究ってそんなに忙しいのかしら? そうは見えないけど」


奥様は何かと研究室を訪れては、意味のない話を続けた。でも、そんな日は必ず、先生は私と遅くまで過ごし、いつも以上に愛情を注いでくれたのだった。


こんな日々が続くだけでも、私は満足かもしれない。妻という立場にはなれないが、先生が愛し続けてくれるのなら。そう思っていたのに、ある日、朝早く研究室に入ると、イノハラが珍しく同じ時間に顔を出した。


「ねぇ、セシル」


たわいのない会話を何度か続けた後、イノハラが改まって声をかけてきた。


「なに?」


「……先生とは別れた方がいいと思う」


「……え?」


誰にも知られていない。当時はそう思っていただけに、イノハラの言葉にはひどく動揺した。


「たぶん、もう隠しきれないよ。先生だって、そこまで器用なタイプじゃないし、あの奥様に知れたら……」


「……何の話か、理解できないけど」


「それでもいいよ。だけど、ちゃんと考えてほしい。僕は、セシルに不幸になってほしくない」


私はイノハラの助言を聞かなかったことにした。その日の夜、先生と二人の夜を過ごしていると……。


「セシル。お願いがあるんだ」


先生が突然変なことを言い出した。


「もし、私が死んだら……僕の骨はアミレーンの教会に寄付してほしい」


「……どうしたんですか、急に」


「アミレーンの教会には、昔世話になったんだ。少しでも恩返しがしたい。今の私は、大魔法使いなんて呼ばれているんだ。骨もそれなりの金になるはずだ」


「どこか悪いんですか?」


不安になる私だが、先生は横になったまま、微笑みを浮かべた。


「いや、何があるか分からないから……お願いしておこうと思って」


「怖いこと言わないでください」


「頭の片隅に入れておいてくれれば、それでいいよ。いいかい、アミレーンの教会だからね」


「大学に売らないのですか?」


多くの大魔法使いは、死後に自分が属している大学に骨を売る。高名な魔法使いの骨は、すりつぶして素材にすれば、術の研究に大変役立つため、学問の発展と遺族にお金を残す意味も込めて大学に売るのだ。しかし、先生は首を横に振る。


「私が苦労していた時代には何も助けてくれなかったのに、名声を得てからすり寄ってきた大学には……自分の絶対に売りたくないんだ」


私の知らないところで、先生は苦労していたのだろう。優しくて、些細なことにはこだわらない先生がこんなことを言うのだから、本当に嫌な思いをしたに違いない。


「分かりました。でも、長生きしてください。それが一番ですよ」


せっかくだから楽しい夜に。そう思って話題を変えようとしたが、先生は続ける。


「それから、菖蒲頭(あやめとう)は君が持っていてくれ。できれば、私が死んだ後も研究を続けてくれたら嬉しい。多くは望まないけれど、僕が死んだら、これだけは君に頼みたいんだ」


「分かりましたから、変な話はやめましょう?」


それから十分に愛し合って、私は微睡み始めた。薄れていく意識の中、いつものように先生が帰るための支度を始める。


「先生……」


私のつぶやきに先生が気付き、枕元まで来てくれた。そして、額にキスすると、耳元で囁くように言うのだった。


「私のすべては、骨に宿る魔力と菖蒲頭だけだ。本当にそれだけなんだ。だから、その二つは君に残したい。他の誰でもなく、君に」


「先生、今日……変ですよ」


眠気に引っ張られる私に、先生は穏やかに微笑む。


「できれば、私の子を君に残したかった」


次の週の朝、先生は研究室に現れず、代わりにやってきたのは奥さんだった。


「ラビアビスと寝た弟子は誰?」


弟子一同が集まる中、奥様は血走った目で問う。


「誰なの? 名乗り出なさい!」


沈黙は、どこまでも重たくなっていったが、やがて全員の視線が私に集まった。


「貴方ね?」


奥様がそれを見逃すわけがなく、私に詰め寄る。


「やっぱり、貴方ね! 隠せると思った? 見え見えよ。あんたがあの人のこと、媚びた目で見てたの、最初から気付いていたんだから!」


「私は……」


乾いた音が響く。

反論の余地なく、頬を打たれたのだ。


「言い訳なんて聞きたくもないわよ! 貴方みたいな、体を売って自分のポジションを守る女、許されると思ったら大間違いだから!」


そして、私はラビアビス研究室を……大学を追い出された。


それから、小さい研究室に就職し、たまに先生を思い出すような日々を送った。三年が経って、そろそろ気持ちに整理を付けなければ、と思っていたころ……先生の死を知らせるハガキが届いたのだ。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


ハガキが届き、私がラビアビスの屋敷から逃げるように帰ったあの日から、一週間後。私はイノハラと魔研大の総合受付にいた。


「ラビアビス先生の骨、ですか?」


受付の女性が訝しがるように聞き返してきた。


「はい、そうです。あと、菖蒲頭(あやめとう)って言う、これくらいの大きさの……」


イノハラはジェスチャーで伝えようとするが、女性は心当たりがないらしい。結果、一時間待たされた後、先生と仲が良く、私たちも講義を受けたことがある、オオハシ先生が姿を現した。場所を移し、静かな会議室に通された後、オオハシ先生は言う。


「ラビアビスの骨はもう溶かされて、別の素材と一緒に混ぜられてしまった。今から、彼の骨だけを抽出するのは不可能だ」


「……もう、ないのですか? 少しも?」


先生ほど実績のある魔法使いなら、学術的な資料として骨が残されることもあるはず。だから、オオハシ先生は頷いたとき、私は信じられなかった。


「ウソでしょ? 少しくらい残っているはずです。全部が全部……素材にされるなんて、あり得ない!」

「セシル、落ち着いて」


イノハラが私の肩に手を置くが、私はそれを振り払い、オオハシ先生に一歩詰め寄る。しかし、それで何がしたいのか……感情のぶつけ方も分からず、ただ奥歯を嚙みしめるのだった。


「あの、骨とは別に遺物も寄付されませんでしたか? 先生が菖蒲頭と呼んでいたものです」


「ああ、見たよ。確かに一度引き取った。だけど……あれは、たぶん禁断技術だよ」


禁断技術。今の世界にとって行き過ぎたものと判断された技術のこと。それを不正に使ったり、隠し持ったりすると、禁断技術封印機関という特別な組織に取り締まられてしまうような代物だ。


「だから、然るべきところに引き取ってもらった」


「じゃあ、菖蒲頭は」


「ここにはない」


頭が真っ白になっていく。

禁断技術封印機関に回収されたら、もう二度と帰ってこない。


噂では、兵器として戦争に使われる、と聞いたことがある。先生はそんなことのために、あれを研究していたわけではないのに……。


「ただ」


オオハシ先生は言った。


「ラビアビス夫人は骨を一部手元に残す、と言っていたはずだ。だから、我々は買取った骨をすべて素材として使ったんだ。やつの形見は残っている、と聞いていたからね」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


私とイノハラは再びラビアビスの屋敷に……いや、奥様の引っ越し先にやってきた。


「本当に、奥様に会うの?」


不安げにイノハラが聞いてくるが、私の気持ちは固まっている。


「だって、先生のお願いを聞いてあげるには、それしかないもの」


イノハラは不安を通り越し、憐れみか、もしくは不快感に近い表情を見せたが、最後には溜め息を吐いて言った。


「分かった。僕に何ができるか、分からないけれど、最後まで付き添うよ」


「ありがとう」


私はドアベルを押した。

奥様の新居は、ラビアビスの屋敷より少し小さかったが、一人で住むには大きすぎる。奥様はここでどんな生活を送るつもりなのだろうか。考えている間に、扉が開き、奥様が顔を出した。


以前よりも年齢を感じられたが、相変わらず勝気な正確がよく顔に出ている。最後に会ったときは、その顔が怒りに満ちていたが、今の彼女はどこか穏やかなものすら感じられた。そして、彼女は言った。


「そろそろ来ると思ってた」


「……どういうことですか?」


思いもせぬ言葉に戸惑うが、奥様は口の端を吊り上げると、落ち着いた様子で私たちを中に招き入れようとする。


「どうぞ入って」


「……お邪魔します」


新居は本当に広くて、先生が生きた面影はどこにもなかった。先に廊下を進む奥様の背中を見て思う。そもそも、先生と一緒にいた思い出が、この人にはあるのだろうか、と。


私たちは通された部屋にある、大きなソファに座ると、使用人らしき女性がお茶を入れてくれた。使用人を雇うなんて、どれだけ余裕がある生活を送っているのか。おそらくは、先生の遺産を食い潰して生きて行くつもりなのだろう。


奥様はお茶を飲むだけで何も言わなかった。自分から要件を聞くつもりはない。そんな意思を感じた。奥様の意図を組んだのか、最初にイノハラが口を開いた。


「奥様、実はお願いがあって……」


「イノハラ」


しかし、奥様はイノハラの言葉を遮る。


「貴方はこの人の付き添いできただけでしょう。私に用事があるのはこの人なら、この人が直接私に言うべきです」


イノハラは苦々しい顔で私を見る。申し訳ない、と顔に書いてあるが、最初から自分で言うつもりだった。これ以上、イノハラに迷惑をかけるわけにはいかない。


私は立ち上がって、深々と頭を下げた。


「お願いです。先生の骨を私に譲ってください」


「……あれだけのことをして、貴方に骨を譲るわけがないでしょう。それとも、時間が経ったから許されたと思っているのですか?」


「烏滸がましいことだとは十分理解しています。しかし、私は先生から頼まれたのです。骨は故郷に返してほしい、と」


「貴方にそんな権利はありません。あの方の妻は、私ですから」


「それを承知でお願いしています。どうか、先生の骨を譲ってください」


頭を下げたまま、時間だけが経過する。奥様はお茶を味わい、カップを置くと、やっと口を開くのだった。


「誠意を見せなさい。その程度の謝罪で済むとは、思わないでほしいわ」


「誠意、ですか?」


「この場でできる、最大に誠意を込めた謝罪よ。分かるでしょ?」


奥様が何を言っているのか、理解できた。この人に、頭を下げるだけで先生の骨が手に入るのなら……。菖蒲頭(あやめとう)は戻ってこないけれど、せめて先生の骨だけでも戻ってくるのなら……。


私は膝を付き、手を付いた。


「セシル!」


イノハラが止めるが、私も奥様もただ黙って、お互いの信念を貫く。


「申し訳ございませんでした。己の行動を恥じています。どうか、お許しください」


額を床に付き、謝罪の言葉を発するが、流れるのは長い沈黙だけ。それがどれだけの時間だったのか。私がこれまで経験した、どんな嫌な時間よりも長く感じるものだった。壁にかかった時計の秒針の音だけが嫌に目立ち始めた頃、ついに奥様が口を開く。


「許しません」


私は床に額を付けたまま、膨れ上がる怒りを必死に抑える。


「どうか、お許しください」


「許すわけないでしょう。そもそも、骨なんてここにはありませんから」


思わず顔を上げ、奥様の顔を見た。笑っていた。彼女は、勝ち誇った顔で、笑っていた。


「う、ウソです。オオハシ先生が、骨の一部は奥様が持っているから、後は全部素材にしたと言っていました。本当はあるんでしょう? ここに先生の骨があるんでしょう?」


だが、奥様は口元に嘲笑を浮かべるだけ。


「ありませんよ。全部、引き取ってもらったわ。私を裏切った人の骨ですよ。手元に置いておきたいと思うわけがないでしょう」


「……じゃあ、どうしてそんなウソを?」


奥様の行動が理解できなかった。だが、奥様は当然のことを説明するように言うのだった。


「そう言えば、貴方がここにくるって思ったから」


「え?」


「貴方を謝らせたかったの。私の前で膝を付かせたかったのよ。あははっ、思った通りだった」


私は言葉を失い、ただ奥様の顔を眺める。彼女はそんな私を見て、得意気な笑顔を見せた。


「それにしても、あの人の骨はどうなったのかしら。今頃、粉々になって、どこのものか分からない素材と交じり合っているのでしょうね。何と交じり合ったのかしら。動物の骨、それとも馬糞? あの人にはお似合いかもね」


奥様の笑い声が響く。

私はしばらく放心状態で、奥様の笑い声も遠くから聞こえているみたいだった。だが、次第に怒りが溢れていく。体が怒りに満たされた瞬間、私は立ち上がり、奥様の首に両手を伸ばした。


「セシル!」


あとちょっとだった。あともう少しで、あの女にこの手が届き、締め上げられたのに、寸前のところでイノハラに止められてしまう。


「離して! こいつは、この女だけは! 私が殺す! この場で殺すんだから!」


何とかイノハラを振り払おうとするが、男の力には敵わない。私は奥様の笑い声を聞きながら、ただ暴れ回り、疲弊して……


やがて、動きを止めた。


長い間、奥様の笑い声と必死に宥めようとするイノハラの声だけが聞こえていたが、それもなくなり、ただ静寂だけが流れた。


「……そろそろ帰ってくださる?」


最後は奥様のこんな言葉で締めくくられた。


「そろそろ、恋人が帰ってくるの。貴方たちがいたら、ちょっと面倒でしょ」


恋人。その言葉に、少なからず驚きを覚える。


「どうして?」


私は問わずにはいられなかった。残された、わずかな体力を振り絞って。


「どうして、先生のことを愛してなかったのに、ここまでするの? 貴方にとって、先生はどうでもいい存在だったのでしょ? ここまで感情的になる必要、ないじゃない!」


関心のない人のために、ここまでする体力があるとは思えなかった。何を原動力に、この人は他人を攻撃できるのか。私には理解できなかった。だが、奥様は平然と答える。


「何を言っているの? 私のプライドを傷付けたからに決まっているでしょ」


信じられなかった。


「それだけ? それで、もう別の男を見つけて、自分だけは幸せになろうとするの? まともとは思えない!」


自分で口にしながら、無意味な質問だと分かっている。だけど、聞かずにはいられなかった。奥様は答える。


「何を言っているの? 貴方だってイノハラを手懐けて、自分を慰めようとしているじゃない。一緒よ」


「ぼ、僕は……そんなつもりでは」


イノハラは否定するが、奥様は当然だと言わんばかりに続ける。


「貴方、私と自分は別の生き物だと思っているでしょ? そんなことはないわ。形が、やり方が違うだけで、私も貴方も同じ。結局は男を貪って生きるだけの女よ」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


奥様の新居を出ると、すぐに若い男とすれ違った。私たちと対して歳も変わらなそうな、軽薄な印象の男だ。そして、その男は奥様の新居の中へ消えていく。


あんな男と、あんな女に……先生は食い物にされてしまったんだ。そう思うと、もう立っていられなかった。


「セシル……」


崩れ落ちる私をイノハラが支えようとするが、糸が切れた人形のように膝を付く。何とか両手を地に付き、倒れまいとするが、それ以上は何もできなかった。耐えられなかった。


「うっ……あ、ああ」


言葉も出ない。

ただの嗚咽と一緒に、これまで流れなかったが涙が、ぽつりぽつりと落ちていく。


「私は……何もしてあげられなかった!」


アスファルトの上に、獣のように四つ這いになって、私はただ叫ぶ。


「先生のために、何もしてあげられなかった! 先生のためなら、何でもしてあげられるって思ってたのに、最期のお願いすら、聞いてあげられなかったんだ!」


先生は決して多くを求めなかった。誰かを傷つけることも、誰かに迷惑をかけることも、可能な限り避ける人だった。こんな終わり方をしていい人じゃない。だって、あれだけ優しい人だったのだから。


涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃ。

何度か通行人の視線も感じたが、私は同じ言葉を繰り返すしかなかった。


「何をしてあげられなかったよ! 先生に……何も!」


どれだけそうしていたのか分からない。何度かイノハラが私の背に触れたが、やはり立つことはできなかった。でも、少しすると私は立たなければならない、と思い直す。


「ごめん、迷惑かけて」


イノハラに謝ると、彼は首を横に振った。


「僕の方こそ、何もしてあげられなかった。ごめん……」


「帰ろう」


私たちは駅の方へ歩き出す。このまま、消えたかった。死にたかった。だけど、それすらできない。先生のために、そんなことも……。唯一愛した人のために、何もできなかった私が、この先何を目的に生きればいいのか。分からない。


奥様がなぜ先生にあんな仕打ちをできるのか。他の弟子たちは何も思わないのか。イノハラがなぜこんな私に付き合っているのか。分からないことだらけだ。


だけど、分からないことだらけのまま、人生は続くのだ。そう思うと、寒気が止まらなかった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


それから何年の月日が経っただろうか。菖蒲頭(あやめとう)は今、私の手元にある。


正確には、菖蒲頭の一部だが。


そして、私は菖蒲頭の研究を続け、それを見つけた。魔法によって冷凍状態を保持した、小さなガラス瓶。これが菖蒲頭の中に、隠されていたのだ。


菖蒲頭は千年前のものだが、ガラス瓶は明らかに最近仕込まれたもの。つまりは、誰によるものかは明白だ。さらに研究を続けると、魔法によるメッセージが、空気上に浮かび上がる仕組みを見つけた。


「これで私の子を君に」


ああ、やっぱり。先生は残してくれていたのだ。私に、最大の愛情を。小瓶の中身は間違いない。先生のDNAだ。


喜びをかみしめるように、小瓶を握りしめると、ドアが開いた。


「イノハラ先生、旦那様からお電話ですよ。あまりにお帰りが遅いから、心配されているみたいです」


「……ああ、いつもごめんなさい。あの人、本当に心配性なんです」


「うふふ、愛されているのですね」


再び扉が閉まり、菖蒲頭を保管ボックスに戻してから、私は立ち上がった。幸せは、取り戻せる。そして、思い知らせてやるのだ。先生を蔑ろにした連中に。私とこの子で……。


先生、復讐は必ず果たします。


そう誓って、私は部屋の扉を閉めた。




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■異能探偵

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― 新着の感想 ―
[良い点] どろどろな人間関係を、どうしてこうもさらっと舞台にあげることができるのか……うーん、すごいです。 イノハラがセシルを見る表情の描写だけで、複雑な関係があったことがわかったり、短編だと言う…
[一言] 奥様に一票。結婚前から平然と愛人を作る誠意の無い男なんてあんな扱いされて当然だし主人公も責める資格も復讐する権利も無い。主人公へのざまぁが見たかったです。
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