第一部
昭和の後期日田中学校は一学年三十数人、総勢百人ほどの田舎の中学校である。
キンコーン日田中学校の授業終了を告げる鐘が鳴った。暫くすると、ぞろぞろと校舎から生徒達が出て来た。運動着に着かえて校舎の下にある運動場にも生徒達が集まって来る。
バレー部バスケット部ソフトボール部等々の生徒達である。中学校の北隣りに日田小学校があり、その校舎の下に中学校とは別の運動場がある。その運動場の南側隅に小学校の校門がある。中学校の校門は校舎の北側にあり、その校門から出て来た織峰姫は中学三年生になっている。身長一五八センチ、体重三八キロ、頭髪は肩まで垂れる黒髪で色白面長目元の涼しい女生徒だ。織峰姫は校門から少し坂を下って小学校の校門の入口に立った。
小学校の授業を終えて運動場で遊んでいる十数人の子供達がいる。
「オーイ。帰るわよ」姫が運動場に向かって叫んだ。すると遊んでいた子供達のうち男女数人がランドセルを背負って姫の元へ駆けて来た。空見集落と桜裏集落の四五六年生の子供達だ。
「オーイ。帰るぞ」姫の後ろから大声が運動場に響いた。二三人の子供がランドセルを抱えて声の主を目掛けて駆けて来た。「さあ皆が揃った。帰ろう」姫に笑顔を向けたのは、曲がり坂集落の星山敏彦中学三年生だった。敏彦は身長一六五センチ、体重四五キロ短髪丸顔目の大きい姫の同級生だった。姫と敏彦は同じ山の分校で一年生から三年生まで共に学び、四年生からは此処日田小学校に共に通った。
山の上にある空見集落と曲がり坂集落の子供達は、遠距離で危険な通学路は四年生から日田小学校に通うことができた。その四年生から六年生の子供達は中学生が登下校の引率を任されている。
姫の住む空見の集落までの通学路は、丘陵地の高台にある学校から短い坂道を下ると南北に延びる県道に突き当たる。その県道を真っ直ぐに南に約一キロ、道路脇にあるお堂を過ぎた辺りで左手東に県道から逸れる町道がある。その町道は敏彦が住む曲がり坂集落へと続いている。
県道は町道が分かれた辺りから急坂道になる。葛折れの坂道が続くこの峠は桜の峠と呼ばれている。姫達空見集落に帰る一行と曲がり坂集落に帰る敏彦達一行は、お堂の前で別れた。
姫は小学生の先頭に立って桜の峠を登ってゆく。峠の坂道の右手は深さ十数メートルの谷で、谷の向こう側の山の斜面に数本の山桜の木がある。この峠が桜の峠と呼ばれた由縁であろう。
桜の峠の上まで登ると右手に谷を渡る土橋ある。この橋を渡った裏山に桜の裏集落がある。
僅か六戸の小集落だ。姫が引率して来た子供のうち男と女の兄妹が手を振って、この橋を渡って帰って行った。桜の峠を越えるとすぐに町境で道はだらだらと下って河南町に続いている。
峠の上、町境の手前に左に登る町道がある。この曲がりくねって登る急坂道を空見坂という。姫達はこの坂道が登り着いた山の上にある空見集落に帰っていく。
夏休みが終わり二学期が始まっている。秋は運動の季節だ。各種の大会が予定されている。運動部に属していない姫にとっては関係のない話だった。ただ運動部に入っていない敏彦は、姫とは違っていた。一年生の時、校内マラソンで二年生を差し置いて一位になり、その走力を買われて出場した地区大会で優勝している。今年も地区大会に敏彦が出場することが決まっている
その日も下校する姫と敏彦は小学生を引率して小学校の校門前から坂を下っていた。坂の下に来た時、前を歩く姫の横に敏彦が肩を並べて来た。
「姫ちゃん、お堂まで引率を頼むよ。俺は先に行ってお堂で待っているから」そう言い残すと敏彦は空の弁当箱しか入っていないカバンを小脇に抱えて駆けていった。
敏彦には一つ年下の弟信二がいる。信二は兄と違いバスケット部に入っている。此のことについて姫は敏彦に尋ねたことがある。信二君は家の手伝いをしなくていいのかと。すると敏彦は、弟には皆と同じように学校での活動をさせてやりたい。家の手伝いと言っても牛の世話をするだけだから俺一人で十分だと話した。良い兄さんがいて信二君は幸せねと姫に褒められると、あいつがそう思ってくれていればいいけれど兄貴は牛の世話が好きで帰宅部してると思っているかも。それより姫ちゃんと一諸に帰りたいだけだと思っているかもなと敏彦は真顔で言った。その時姫は笑って私は何と答えればいいのかなと、敏彦の言いたかった真意を避けた。すると敏彦は是は冗談だよと顔を赤らめ手を振って見せた。
姫達を残して走って行った敏彦は、若干登りの直進道路を桜の峠目指して駆けゆく。峠の下のお堂前に着くと、敏彦は抱えていた空弁当が入ったカバンをお堂の中に投げ込み足を止める事無く急坂道の桜の峠へと駆け上がって行った。曲がりくねった峠を登りきると敏彦は今来た坂道を走り下ってお堂の前まで帰ってきた。百メートル先に向かってくる姫達の姿が見えた。
陸上部のない田舎の中学校では、地区大会などに出場する選手は運動部の中から選抜されることになっている。運動部に所属していない敏彦は例外だった。敏彦にとって通学路だけが練習の場だった。お堂の中からカバンを取りだし敏彦は姫達を待った。側まで来た姫が「よく頑張れるね。陸上部がある町の学校ならもっと記録が出せたのにね」と言うと敏彦は、
「ただ走るだけの競技に陸上部は関係ないよ。ただひたすら駆けていれば、そのうち世間も認めてくれる日がくるかも知れない。それより何より走るだけだと金がかからない。腹は減るけどな」とニヤリと腹を押さえて見せた。姫が微笑むと満足したように
「やあ、ありがとう。明日も頼むよ」姫に声を掛け引率する三人の小学生を引き取り、左に折れて曲がり坂の方向に去っていった。
敏彦は戸数十戸程の曲がり坂集落の家に帰ると、家で飼っている二頭の和牛の世話を親から任されている。
父親は日々山仕事で出かけ母親は開墾農地で果樹やコンニャク等の栽培で忙しく働いている。
その両親を助けるため敏彦は飼い葉の草刈りや、牛小屋の敷き藁替えや掃除に餌やりなど等々遊ぶ暇なくはたらいている。
翌朝も姫が空見と桜裏の小学生五人を連れて桜の峠を降りてお堂の前まで来ると、敏彦は先に来て一人で待っていた。
「今日は一人・・小学生達は・・」姫が尋ねると「今日は小学生を弟に任せて走って来た。歩くばかりだと練習にならないから」と敏彦は答えた。
「でも弟の信二君、早朝練習で毎朝早いでしょう。よく引き受けたわね」
「たまには兄貴に協力しても罰は当たらないだろう。この兄貴の御かげで家の手伝いをしなくても部活動ができるのだから」
敏彦の会話が尽きないうちに、空見の女の子が口を出した。
「お兄ちゃん、本当は姫さんと邪魔されず二人で会いたかった。のよね」小学生達が合図地をするように笑った。
「おい、お前達年上のお兄さんをからかうなよ。ませた小学生だ」
そうこうしている内に曲がり坂の下の山根集落から歩いてくる子供達が目に入った。
「俺先に学校に行くから」弁当箱しか入っていない通学カバンを下げて敏彦は走り出した。
敏彦は教科書ノート等の教材は全て教室の机に置いたままだ。家に帰り勉強する事など考えた事もないし、その暇もない。勉強は学校の授業で十分だと敏彦は考えている。
敏彦が走ることに目覚めたのは一年生の冬の事だった。卒業を控えた三年生を除く一二年生全員による校内マラソン大会が行われた。
中学校の運動場を出て桜の峠下のお堂を折り返す約二キロのコースだった。その時敏彦は二年生を差し置いて一位になった。この時参加していた姫は鈍ビリだった。姫は皆に着いていけず遅れる友達に声を掛けて励まし後ろからサポートして走っていた。故にビリになった。
姫に取って人と競い合う事も、順位を争うことも眼中になかったのだ。敏彦はこのマラソン大会で初めて自分の脚力が人より優れていることに気づいた。二年生の秋、地区の陸上大会に日田中学校の代表選手として千五百メートル走に出場し、大会記録で優勝を果たした。
そして三年生になった今、地区大会の期日が迫っていた。昼休みの時間、弁当を食べ終えた姫は校舎二階の廊下から運動場でボールを追い遊んでいる級友達を眺めていた。すると後ろから声がかかった。「姫ちゃん、ちょっといいか」敏彦の声だった。姫が振り向くと敏彦の目が笑っていた。「何よその目は、何を企んでいるの」姫は敏彦の顔から眼をそらした。「姫ちゃん俺の話を聞けよ。きっと驚くよ」敏彦追い打ちをかけるように話しかけて来た。
「何よ。何か良い話でもあるの。あるなら早く話しなさいよ」多くの級友の目がある昼休みである。姫の投げやりな言葉も敏彦にも理解できた。
「良い話かどうか。それは姫ちゃん次第だよ。聞きたいかい」
「勿体ぶらず早く話しなさいよ。変な話だったら許さないわよ」
姫は敏彦が持ち込んできた話はあまり良い話ではないと直感していた。
「じゃあ話すよ。秋の地区大会の千五百メートル走に姫ちゃんを出場させる話が教員室で出ていたらしい。これはバスケの主将の牧野が、教員室で先生達が話していたのを聞いたと俺に話してくれたんだ。これはビックニュースだろう」
「えーー。」姫は腰を抜かすほど驚いた。晴天の霹靂とは此のことだった。
「なぜ私なのよ。私は信じないわよ。私を騙すなんて許さないわよ。それに決った話じゃないのね。ただの冷やかしでしょう。私なんかが、そんな大会に出られる分けがないじゃない。速く走れる人はいくらでもいるじゃない」
「それが違うんだな。運動会のリレーだって前をゆく走者に追いついても決して追い抜いたりしないで、順位を変えないようにバトンを渡す。マラソンだって遅れて走る他人ばかりサポートして、全力で走ったりしない。先生達は見ていたんだよ。姫ちゃんは本気で走ると速いとね。俺もそう思っていた」
「それは敏彦君の早とちりじゃないの。私は鈍足よ」
「信じるも信じないも、これは事実なんだから、近く先生から話があるはずだから覚悟しておいたほうがいいよ。話はそれだけだよ」
「ああ飛んでもない話をありがとう。私はごめんこうもり傘ですよ」
「ああこうもり傘ね。相合傘でいこうね」
「敏彦の馬―鹿。勝手に想像していなさい」
敏彦と別れた後、姫の内心は穏やかではなかった。徒競走なんて考えてもみなかった。人と競い合うという事は姫の辞書にはなかった。勝っても負けても、トップでもビリでも姫に取ってはどうでもいい事だった。他人が喜ぶならそれでいいと平穏な日常生活を望む姫だった。それが敏彦によって自尊心を傷つけられた思いだった。
その日の放課後、姫は体育教師の倉田先生から教員室まで来るようにとお呼びが掛かった。
―まさか・・―いやな予感が姫の心を過った。教員室に行くと担任の町田先生と体育教師の倉田先生が手招きし姫を呼び寄せた。
「星山君から聞いたと思うが・・」体育教師の倉田先生が机の引き出しから白い布切れを取り出し姫の前に差し出した。何やら黒い墨で書かれた布を開くと日田中と書かれていた。
「これは何ですか先生」姫はその布を倉田先生に返そうとした。
「織峰、地区大会の千五百メートル走に出てくれ。これは強制だ」
そう告げられて姫は目の前が暗くなった。
「先生それは・・何故私なのですか。買いかぶらないでください。信じられません」
「そう言うと思った。織峰は自分が分かっていない。先生達の目は節穴ではないよ。織峰は速い。そう信じているから君に頼むんだ。日田中学校の名誉のために頼む」
姫は迷った。姫自身今まで一度も他人と競い、力いっぱい走った事がなかった。自信なんてものは全くなかった。自分自身、自分の走力がどれ程あるのか、てんで分かっていなかったからだ。姫は俯いて考えこんだ。しばらく考えた末姫は口を開いた。
「先生がどう考えてるか私には理解できません。マラソンでもビリで走った事は皆が知っています。そんな私を大会に出すと皆が知れば反発する人も現れるかも。先生に対する不信感を持つ人だっているかも知れません。此の布切れは持って帰りますが、もう少し考えさせてください」姫は教員室を出た。教員室の前の廊下で敏彦とバスケット部主将の牧野が姫を待っていた。牧野は地区大会に百メートル走の出場が決まっている。白い布切れを握り出て来た姫に敏彦が声を掛けた。
「姫ちゃん大会出場を決めたのか」
「決める分けが無いわよ。皆に笑われたくないもの。先生には考えると言っておいたわ」
「そうなのか。俺はてっきり姫ちゃんは出ると決めたのかと」敏彦は白い布切れを持つ姫の手を見た。その布は選手の胸に着ける学校が記載された布だった。
「ああこれの事ね。直ぐに突き返すと先生の立場が無くなると思って持ってきた」
姫はその布切れをひらひらと頭の上で振って見せた。敏彦と牧野は頭を振って姫の前から消えた。
翌々日登校した姫が教室に入ると教室の後ろにソフトボール部の女子が一塊になって、ひそひそと話をしている。時折ちらちらと姫に送る視線が背中に注がれる。―何よ。この嫌な雰囲気はー姫は一時間目の教科書とノートをカバンから出して机の上に置いた。後ろの誰かが発した「黒沼・・」という言葉が耳に届いた。―黒沼って恵美ちゃんのことー姫は小首を傾げた。
同級生の黒沼恵美とは特に親しい間柄ではないが、ソフトボール部で二年生の時、学校代表として地区大会に出場し中距離走で三位入賞した記憶がある。―恵美ちゃんと私に何の関係があるのー考える間なしに教室の入口に姿を見せた敏彦が、名前も呼ばず此方に来いと手招きしていることに気が付いた。速く来いと敏彦は何度も手招きを繰り返している。姫は黙ったまま
席を立ち敏彦の側に行った。
「何よ。何か私に言いたいことが・・」敏彦は姫にそれ以上喋らせず、姫の腕を取って廊下の隅に連れて行った。
「手を放してよ。人に聞かれてはいけない話でもあるの」
「そんな話ではないけれど、ソフトボール部の女子達のあの様子を見ただろう。あの女子達がどんな話をしていたのか知りたいだろう」
敏彦は姫の腕から手を放して姫の顔を見つめて言った。
「何か私に関係ある話だとは感じたけれど、私には思い当たることは何もないわ。ただ黒沼美紀ちゃんが関係しているとは思ったけれど」
「そこまで知っているなら話は早い。ソフトボール部の女子の一人に聞いたのだけど、今黒沼が母親を連れて教員室に来て倉田先生と話をしているらしい」
「それが私とどう関係しているの。もしかして地区大会に関係しているの」
「地区大会に関係大有りだよ。倉田先生が千五百メートル走に姫ちゃんを出場させるという話が黒沼美紀に伝わり、今回の母親同伴の教員室乱入という訳だ。詳しく話すと黒沼美紀は去年の地区大会千五百メートル走の三位入賞者だ。今年こそ優勝と練習に力を入れていたらしい」
「それで倉田先生に説明を求めて母親を助っ人に連れて来たと言う訳ね。美紀ちゃんの言い分は分かるわよ。母親の件は別にして」
「母親の件は別じゃないよ。黒沼の親父はピーテーエーの会長だから、母親もそれなりの権力があると思っているのかも知れないよ」
「それは兎も角、美紀ちゃんから私の鈍足のことを聞けばお母さんだって、先生に一言言いたくなると思うわよ」
「それじゃあ姫ちゃん地区大会出場の件は・・」
「いい流れになったわね。当然私は出場できません。と言うより何もなかったと言うことで、めでたしめでたしね。それでは教員室に行って美紀のお母さんの前で、もう一押し私はでませんと言ってくるわ」
敏彦が止める間もなく姫は教員室に小走りで行ってしまった。
姫が教員室の前まで行くと、ちょうど美紀と母親が出てくるところだった。美紀は姫と鉢合わせになったが目も合わせず、母親と学校の玄関に向かって帰って行った。
「おい織峰ちょうどいいところに来た。おっ星山も一緒だったかお前も中に入れ」
教員室から出かけていた倉田先生が目の前に立つ姫と、姫の後を追ってきた敏彦を教員室に呼び入れた。教員室には担任の町田先生もいた。その町田先生が二人に言った。
「お前達、誰に聞いて来たのかは知らないが、黒沼との話はもう終わったよ」
「先生それでは、私は失礼します」
姫が立ち去ろうとすると倉田先生が姫を呼び止めた。
「織峰まだ話は終わってないぞ。確かにお前に決めていた千五百メートル走はなくなった」
「わあ、やっぱり。先生ありがとう」
「喜ぶのはまだ早い。話は最後まで聞くものだ。千五百メートル走は黒沼の達ての頼みを聞いて彼女に任せることにした。彼女には三千メートル走を走ってもらう予定だったが、彼女が千五百メートル走にこだわり今回の話し合いとなった」
「良かった。彼女喜んだでしょう。私も嬉しいです」
「こら織峰最後まで聞け。本題はこれからだ。星山も聞いておけ。お前達二人は三千メートル走に出てもらう。成績にこだわらず全力で頑張ってもらいたい。話はこれまでだ。以上」
倉田先生が反論は許さないという真顔で姫と敏彦の顔を見た。敏彦と姫は顔を見合わせ教員室を出た。姫には倉田に心底から逆らえぬ訳があった。姫の父芳造が日田市場で牛飼いの寄り合いの席で酒を飲み酔っ払って帰り際、道路で倒れていたところを通りかけた倉田先生に介抱された挙句空見の家まで送ってもらった恩義があると母から聞かされていたからだ。二人が教員室を出ると、すぐに担任の町田が後を追ってきた。
「ちょっと待て、織峰に話がある。倉田先生は話さなかったが、黒沼の母親が倉田先生に言った言葉だ。織峰が大会に出て七位以内に入賞できなければ、織峰を選んだ倉田先生の責任を問うと言う話だ」
「何故倉田先生が責任を問われなくてはならないのですか。私には訳がわかりませんが」
「それは織峰が走れないと皆が思っていると、誰から聞いたか黒沼の母親もそう思いこみ、そんな織峰を選んだ倉田先生に責任を負わせ様としたのだ。地区大会の後この問題がこじれない事を祈るだけだ」
「倉田先生は自業自得ですね。そんな話を聞かされても私にはどうする事もできまさんよ先生」側にいた敏彦が天井を仰いだ。
「まあ織峰がどう考えようと知ったことではないが、ただ老婆心ながら知らせておこうと思っただけだ。気を付けて帰れ」
町田先生は教員室に帰って行った。
何時もの様に姫と敏彦は小学生を連れて帰途に就いた。敏彦が姫に声を掛けるも、姫は黙して語らず先頭を歩いてゆく。お堂の前に来て敏彦が別れを告げても、姫は片手を上げただけで二手に分かれて行った。姫達は桜の峠で桜裏の兄妹を送った後、峠を越えても空見坂への道を通り過ぎだらだら坂を下ろうとしていた。
「姫さん何処に行くの。道が違うよ」
子供達に指摘され、姫はその間違いにやっと気が付いた。
「あっごめん。私としたことが・・」
姫は自分の頭を叩いて向きを変え、空見坂に戻って行った。
「姫さん何か考え事していたの。彼氏に振られたとか」
子供達に笑われて、やっと自分を取り戻した姫は子供達に明るく言った。
「私歩きながら眠っていたの。起こしてくれてありがとう」
空見坂の上に見える空は青かったが、姫の心は霧が掛かったままだった。
家に帰って姫は、今日の出来事を母の美和に語った。病がちな青白い顔の母は笑顔を作り、悩める娘に言った。
「石倉先生に子供の姫が恩義なんて考える必要はないわ。それはお父さんと私が何時までも先生に対し、感謝の気持ちを忘れずに持ち続ける事なの。それよりも姫の走る潜在能力を認めてくれた先生に感謝すべきよ」
姫は頷きながら聞いていたが、不安を口にした。
「お母さんは知らないけれど、私は他人と競い合うことが嫌いなの。だから今まで走るのはビリだった。それが私に取って一番心が休まる方法だったの。それを行き成り地区大会だの徒競走だのと言われても私には自信がないのよ」
「他人を傷つけることが嫌なのね。でもね。今まで姫がビリで走っていた、その優しさや思いやりが全ての人に伝わるとは限らないわ。人によっては要らぬお節介とそれを素直に受け取らず、迷惑と感じる人だっているかも。中には馬鹿にするなと怒る人もいるかも知れないわ。情けは人の為ならずて言葉もあるしね」
「それではお母さんも大会に出る事に賛成なの。どうしても私に他人と競えと言うの」
「姫ちゃん、お母さんは他人と競い合えとは言わないわ。姫ちゃん自身が自分の心と体で競い合い、今まで知らなかった自分の可能性や限界を試す良い機会だと思ったの。これは勝ち負けに関係ない自分との闘いに臨みなさいと言いたかったのよ」
「お母さんにそう言われても私、三キロなんて走った事がない。どの位のスピードでどの位の距離を走れば限界が来るのか。それさえも解らない。そんな私にどうしろと言うの」
「小さい頃から山坂を駆けて来たじゃない。空見坂からだらだら坂の下まで駆けていらっしゃい。休まず駆けてこられたら、それを大会まで繰り返せば完走できるわよ。それこそが自分との闘いよ」
母の美和の青白い顔に少しだが赤みが差していた。
「それじゃあ、お母さんの言う事を信じて今日から走る事にするわ」
姫は全てを話し母と語り合ったことで胸のつかえが軽くなった様に思えた。
西の山に陽が落ち、空にまだ明るさが残るころ姫は家を出た。空見の集落外れから,急坂道の空見坂を掛け下り更にだらだら坂を駆け下りて行く。だらだら坂が平道になる場所で姫は折り返し、今度はだらだら坂を上り更には空見坂を上ってゆく。吸っては吐く呼吸が荒い。太ももが足が上がらない。姫は懸命に腕を振った。空見坂の上に生える一本松が見えた。
姫は片道二キロ五百メートル、往復五キロの坂道を走りきった。ハーハーと息をきらせ縁側に転げ込んだ姫に、母の美和が冷たい水を入れたコップを持って現れた。
「どうだった。自分との闘いに勝てたかな。休まず走り続けて帰ることができたかな」
「休んだりしなかったわ・・」姫は手を伸ばし、母の手からコップを受け取ると、荒い息のまま冷たい水を喉に流しこんだ。「ゴホッゴホッ」と噎せる姫の背中を母は優しく軽く叩いた。
「人に勝つより自分に勝つことのほうが大変なのに、貴女て子は本当に頑固で融通が利かないんだから。お母さんは一度も休まず姫が走り切るなんて本当は信じてなかったの。無理な走りをすれば怪我をするわよ。長い距離が走れる事が分かったのだからもう明日は走らなくていいわよ」
「お母さんが今言ったわよね。頑固で融通が利かない子だって、それが私。明日も走るわよ」
この日が姫の本当の走り始めになった。
一方敏彦は朝、弟の信二に弁当だけしか入っていないカバンと学生服の上着を持たし、小学生の引率まで任して一人曲がり坂を駆け下った。お堂の前を走り抜け学校までの直線道路をいt気に走り抜けた。学校下の登り坂手前で折り返し、また来た道を走ってゆく。お堂前から今度は桜の峠へとかけ登った。峠の上まで登った時、姫と小学生の一行に出会った。
息を切らせながら敏彦は姫に笑顔を送った。
「朝からこんな所まで走って来たの。まさか私が心配で迎えに来たとか」
姫に考えもしなかった事を言われて敏彦は考えを改めた。
「そうだよ。姫ちゃんの昨日の様子が心配で迎えに来た。でも心配なさそうだ。では学校までもう一度、ひとっ走りだ。学校で会おう」
敏彦は桜の峠を駆け下りて行った。―今敏彦君はもう一度学校までと言ったわ。それじゃあ一度学校まで走って又此処まで走って来たという事よね。すると距離にして約五キロかー
姫は敏彦の走りに対する自分にない執念を感じた。
お堂前まで降りて来ると、敏彦の弟信二一行に出会った。信二は学生服を重ね着して両手にカバンを下げている。
「おはよう信二君。お兄さんの手伝いは大変ね」
姫は声を掛け笑ってしまった。
「姫さん笑うなよ。そう言えば姫さんも三千メートル走を走る事になったと兄貴が言ってたけど本当なの。それって苛めじゃない。誰が決めたの、そんな無茶な事を」
「信二君もそう思うでしょう。私不登校になりそうよ。でもお兄さんと同じ三千メートル走だから出るだけは出なければね。ドンビリで走るわよ」
「簡単に言うけれど姫さん走れるの。兄貴は優勝すると練習距離を倍以上に伸ばして走っているよ。姫さんも練習しないと」
「そうね。その気に成ったらね。学校に行くのが億劫になってきたわ」
姫と信二の一行は一列になって学校に向かって行った。
姫が教室に入るとソフトボール部の女子が黒沼美紀の席を囲んでいる。姫は机にカバンを置くと廊下に出ようとした。その時「天罰・・」と言う黒沼美紀の声が聞こえた。クスクス笑いも
姫の後を追いかけてきた。―千五百メートル走に私が選ばれていたことが、よほど悔しかったのよね。その私が三千メートル走なんかに選ばれた事をいい気味だとでも思ったのよね。それで天罰て事よねー姫は全てを理解していた。
三日後敏彦が姫に耳打ちした。
「ソフト部の女子に聞いたのだけど黒沼美紀が、姫ちゃんが三千メートル走に出るのは天罰だと言ったらしい。自分は親に泣きついて千五百メートル走に出られる事になったくせに、本当に腹が立つよ」
「敏彦君、壁に耳あり障子に目ありと言うわよ。そんな話は人前でしないでね。他人がどう思おうと私には関係ない話よ。敏彦君ご注進ありがとう」
敏彦と別れた後、ソフトボール部の女子達のクスクス笑いが耳に蘇ってきた。
―全ての根源は倉田先生にあり。罪作りの先生―首を振り姫は思いを断ち切った。
姫の自分との闘いが続いている。一日一日大会の日は近付いてくる。駆けて家に帰ると縁側に倒れんでいた姫はもう居なかった。水を飲んで噎せることもない。そんな姫を母の美和が見守っていた。
大会前日、姫は白い布切れを母に渡した。母の美和は白い顔に笑みを浮かべてその日田中と記載された布切れを胸に当て、ティーシャツと針箱を取りに腰を浮かした。
地区大会当日の朝、姫はナップザックに運動着と運動シューズそれに母手作りの弁当を入れて家を出た。父の芳造が珍しく駅まで送ろうかと言ったが、姫は断り空見坂を歩いて下った。
桜の峠がら日田市場の集落を通り日田の無人駅に着いた。駅前広場には体育教師の倉田先生と引率の担任教師の町田先生が先に来て待っていた。姫は付近を見回した。広場の隅にソフトボール部の女子が数人黒沼美紀を中心に集まっている。皆黒沼美紀の応援に行くのだろう。三々五々出場選手に選ばれた生徒達が集まってきた。敏彦も牧野と共にやって来た。総勢約二十人、大会が行われる久津町に向かう列車に乗った。
途中駅の北勝駅では、大会に出場するのかそれに関係する人達と思われる生徒や大人がどやどやと乗り込んできた。
久津駅に降り立った日田中学校の面々は地区大会が開催される久津町の町営グランドへ歩いて向かった。町営グランド入口には四町地区陸上競技大会の看板が掲げられていた。集まった七中学校、各学校の応援待機場所はグランドを取り巻くように定められている。グランドの中央に来賓用テントとその隣に主催者役員と審判員用のテントがあった。グランドのコース一週は四百メートルである。来賓用等テント真向いの直線コース脇に日田中学校の待機応援席があった。
向かいのテントに来賓や役員が集まって来た。見ると来賓席に井上校長先生の姿があった。
来賓祝辞や主催者役員等の長い話の開会式が終わり、やっと競技が始まった。跳躍競技はコース外のグランドの隅で行われた。最初は百メートル走等の予選から始まった。各競技二名までの出場が許されている。日田中学校の牧野は予選を突破し決勝にすすんだ。四百メートル走に出場した男子バレー部の木村は惜しくも惨敗し予選落ちとなった。同じく女子バレー部の山川佐紀は走り高跳びに出場したが、これも予選通過とはならなかった。
いよいよ女子千五百メートル走の時間が迫ってきた。待機場所から出てゆく黒沼美紀に女子ソフトボール部の応援団が「頑張って」と声をかけて送り出した。黒沼美紀は出てゆく時チラリと挑戦的な視線を姫に送った。まあ見てなさいとでも言いたかったのだろう。
「いよいよ黒沼の出番だな」そう声を掛け倉田町田両先生の間に割り込み座ったのは、来賓席に居るはずの井上校長先生だった。
「あっ校長先生、黒沼の応援ですか。本人達ての願いで出場した千五百メートル走です。期待できるでしょう」
担任の町田先生が校長先生ではなく倉田先生に向かって言った。倉田は何も言わずグランドを見つめている。
「只今より女子の千五百メートル走を執り行います」グランドの周囲が一瞬どよめいた。
選手十三名がグランドに姿を現した。黒沼恵美の姿も見える。選手達がスタートラインに並んだ。「ヨーイ」号砲が鳴ると同時に選手は先を争い、団子状態となってコーナーへとつき進んでゆく。「あっ」日田中学校の応援席に声が響いた。選手の一人が転倒している。転倒した黒沼美紀は飛び起きると前を追った。だが先頭集団ははるか先を、後に続く選手も一列になって追っていく。黒沼美紀は必死に後を追い最後尾に着くと一人二人と追い抜いてゆく。しかし先頭集団とは相当な開きがあった。日田中学校の応援席前を走り過ぎる黒沼美紀の右脛に血がにじんだ様な赤い擦過痕が見受けられた。
「黒沼の傷は大丈夫かね、倉田君」
井上校長先生に尋ねられた倉田先生は「走っているので大丈夫です。焦って無理をして前に出ようとするから、こういう羽目になる。何処まで追い上げできるか」
レースは二周目に入っている。それでも黒沼美紀は七位まで順位を上げた。日田中学校の応援席では女子ソフトボール部の取り巻きが賢明に、黒沼美紀に声援を送っている。
―美紀ちゃん頑張れー姫も胸の内で黒沼美紀に声援を送っていた。膝に怪我を負い懸命に走る黒沼美紀の姿に感動もしていた。
レースは三周目も終わりあと三百メートルとなった。黒沼美紀は前の二人を抜き五位に順位を上げた。しかし前を行く四人に迫る事は出来なかった。前年度三位今年こそ優勝という黒沼美紀の望みは叶えられなかった。五位入賞それが黒沼美紀の成績だった。
日田中学校の応援席に戻って来た黒沼美紀は膝に包帯を巻かれタオルで目頭を押さえていた。「よく頑張った」担任の町田先生が声を掛けた。「黒沼君よく頑張った。五位入賞十分じゃないか。胸を張りなさい」井上校長先生もねぎらいの声を掛けた。黒沼美紀がすすり泣きしていた。取り巻きの女子ソフトボール部員も黒沼美紀の側でもらい泣きをしている。
「黒沼もう泣くな。勝負の世界は厳しい。今日の経験を忘れない事だ」
黙っていた倉田先生が黒沼美紀の肩を優しく叩いた。
織峰姫と星山俊彦の三千メートル走の出番が迫った。最初は男子の三千メートル走だ。集合を促すマイク広報がグランドに流れた。
「ちょっくら行ってくるとするか」おどけった調子で立ち上がり敏彦は出て行った。
「倉田先生、星山君を千五百メートル走から三千メートル走に変えたそうだが大丈夫かね。千五百メートル走の大会記録を持つ星山君でも、短い練習期間で倍の距離を走り切る事は可能なのかね。少し無理がありはしないかね」
「校長先生、私は彼のずば抜けた脚力走力を信じているのです。きっと想像以上の走りを見せてくれると思いますよ。三千メートル走でも記録を出すかもしれません」
「倉田先生がそこまで言うからには期待して応援するとしよう」
井上校長先生は顔を引き締めグランドをにらんだ。
青や緑、黄色やエンジ、カラフルなランニングシャツとショートパンツ、上下揃いのいで立ちで学校の存在をアピールする選手達に混じり上下白色のシャツとパンツ姿の敏彦がトラックに出て来た。「是より男子三千メートル走の開始です」マイク広報がスピーカーに流れると、選手達十三人はスタートラインに並んだ。号砲が鳴った。グランドコース七周半の闘いが始まった。
敏彦は二三番目の位置に着け一周目を終えた。日田中学校応援席の目は敏彦に集中している。
誰も声を発しない。ただただ見つめているだけだ。二周め三周目順位は変わる事無く選手達は一列になって走ってゆく。四周目先頭をゆく緑色の選手が少しスピードを上げた。前をゆく数人と、その後ろが遅れて差ができてきた。その差は十メートル程になった。五周目前集団がばらけて前を行くのは三人になった。その三人の中に敏彦がいる。六周目、日田中学校の応援席の前で敏彦は加速してトップに躍り出た。日田中学校の応援席から歓声が沸き起こった。敏彦はトップに立つとスピードを上げてゆく。二位との差が見る見る開いてゆく。七周目差は開き続け十メートルから十五メートル、ラスト二百メートル。敏彦はスパートした。二位との差二十メートル敏彦はゴールした。日田中学校の席で拍手が起こった。
「やったぞ倉田先生。星山君はすごいぞ。私は感動で涙が出そうだ」
井上校長が倉田先生の手を握り締めた。担任の町田先生は心配気に黒沼美紀を見ていた。美紀は泣いてはいなかった。敏彦が小走りで手を上げ戻って来た。拍手で出迎える皆と同じ様に美紀も拍手を送っていた。
敏彦は席に戻ると姫を探した。姫は次の出番に席を立っていた。キョロキョロと辺りを見回す敏彦に倉田先生が声を掛けた。
「どうした。織峰が心配か。お前の優勝を一番喜んだのは彼女だろう。嬉しい顔で出て行ったから、彼女の力になれただろう」
「先生冷やかさないでください。俺は誰も探してはいませんよ」
「そうか。では次は織峰の出番だ。しっかり応援してやれ」
倉田先生と敏彦の会話を聞いていた黒沼美紀の取り巻き達が又何やらひそひそと話していた。
「姫ちゃんがどんな走りをするか楽しみね。又ドンビリだったりして、その時はどんな顔で帰
って来るのかな。そうなればいい気味だね美紀ちゃん」
黒沼美紀の取り巻きは後方に座っている倉田先生をそっと仰ぎ見た。皆倉田先生が事を混ぜ返した根源と知っている。織峰姫を無理やり三千メートル走に出場させたことも。
姫は出番を待つ入場門の待機場所で、集まった選手達とは少し離れて立っていた。
―皆速そうー選手達の顔を見回し不安が胸をよぎった。そんな時会場に来て選手達の多さに驚く姫に、皆同じ中学生だよ。俺たちと何も変わらないと言った敏彦の言葉を思いだした。
女子三千メートル走を告げるスピーカーの声が流れた。選手達がグランドに出てゆく。姫も後に着いてスタートラインに向かった。グランドを見回し日田中学校の選手達がいる場所を見た。誰かが立ち上がって此方を見ている。それが敏彦だと姫には分かった。
―姫ちゃん頑張れー聞こえなくても敏彦の声が姫には聞こえた。
姫を含め十三名がスタートラインに着いた。号砲が空に木霊した。十三名が一斉に走り出した。先を争う者それに従いマイペースで走り出す者。集団は直ぐに縦長へと変わってゆく。
姫は最後尾を走っている。一周目二周目姫は最後尾のままだ。先頭のペースはまだ上がらない。縦一列の後続も差はなく連結列車の様に走ってゆく。三周目後続の二三人が少し遅れ気味になってきた。その内の一人が最後尾を行く姫だ。
「おい倉田先生、織峰は大丈夫なのか。遅れているが・・」井上校長が倉田先生の顔を伺った。
倉田先生の表情に変わりはなく無表情でレースを見つめている。
「美紀ちゃん予想した通りの結果に終わりそうよ」小声で黒沼美紀に忠臣をアピールする取り巻きがいる。黒沼美紀も笑みを浮かべレースを眺めている。
四周目レース中版に掛かって来た。先頭五人それに続くのは五人、その後に姫を含めた三人がそれぞれ五メートル程の間隔を開けて走っている。先頭と姫との差は約二十メートルを超えた辺りだ。五周目レース後半に移って来た。先頭をゆく黄色のランニングシャツの選手がスピードを上げて来た。縦長の間隔が広くなってゆく。最後部を走る三人の差も広がって、先頭との差が三十メートルに達しようとしている。日田中学校の待機応援席からコース手前に男子選手が飛び出してきた。先頭集団が、その後続より遅れて最後尾の姫が来た。
「姫ちゃん。行け天罰」敏彦が姫に向かって叫んだ。それが何を意味する言葉か、ほんの一部の者の他に解る者はいなかった。その一部の者さえ敏彦が口にした言葉は理解しなかっただろう。
敏彦の叫びに目覚めた様に姫の体が一瞬沈み伸び上がった様に見えた。するとどうだ。突然姫のピッチが上がりスライドが伸びた。再後続の二人を置き去りに前を追ってゆく。見る間に前を一人二人三人と追い抜いてゆく。グランドがざわついた。
六周目先頭集団六番目に上がった姫は更にスピードを上げて、前をいく先頭集団を追い抜き始めた。どよめきが沸き起こった。
―織峰を出場させた責任の一端は私にもあるー最後尾を走る姫の姿に忍び難い後悔が湧きおこり、俯いてレースを見ないようにしていた町田先生がグランドに目をやった。そこには信じられない光景が写し出されていた。
「これは夢か、幻か」身を乗り出し井上校長が唸った。倉田先生の頬が緩んでいる。黒沼美紀とその取り巻きも口を大きく開けて走る姫の姿を追っている。
先頭集団を抜き去り、先頭に飛び出した姫は更にスピード上げく。後続との差が十メートルから二十メートル。七周目差はどんどん開いてゆく。独走状態で最終二百メートル。姫はラストスパートに移った。歓声とどよめきが会場全体を包んだ。
「日田中学校の織峰選手。これは大変な記録が出そうです。天才少女の出現です」
マイクを持つ女性役員の興奮した声が場内に流れた。
姫は後続に五十メートルの差をつけてゴールした。どよめきは暫く治まる様子がなかった。
「おい倉田先生、先生の見る目の確かさを実感したよ。よくもあの織峰の特質を見抜いたものだ。驚き桃ノ木山椒の木だ」
井上校長が倉田先生を褒め千切った。倉田先生は笑って言った。
「校長織峰の資質を見極めたのは町田先生も同じです。今日は一杯おごってください」
「よし今日は倉田先生と町田先生、私が一杯おごるとしよう」
上機嫌の校長が脇の町田先生の膝を叩いた。
その校長先生の様子を横目に、俯いている黒沼美紀の取り巻き女子ソフトボール部員達だった。―織峰姫ちゃんが、あんなに走れるなんて思はなかった。私達とんでもない勘違いをしていたようだー黒沼美紀とその取り巻き達は一様に反省していた。馬鹿にしようと待ち構えていた織峰姫は今や手の届かない羨望の人になっている。
日田中学校の待機応援席に姫が戻って来た。倉田先生に勧められ先生の横に座った姫に井上校長と町田先生が手を出して握手を求めた。ペコリと頭を下げ握手に応じた姫は、笑顔を向けている敏彦に気が付き小さく手を上げた。姫の記録は大会記録は元より県大会の記録も上回り社会人記録にも迫る記録だった。
「最初からもっとペースを上げて走っていればもっと記録が出せたはずだ」
倉田先生が、さも残念と言わんばかりに汗を拭く姫の顔を覗き込んで言った。
「まあまあ倉田先生そう欲張らないで、織峰姫君は今日が初めてのレースを体験したんだ。それで此の記録だ。恐れ入ったよ」脇から井上校長が姫に助け舟をだしてくれた。
日田の無人駅に列車が着いた。生徒達は三々五々帰宅の途に就いた。敏彦と姫は並んで帰って行った。
日田市場の居酒屋食堂松屋に井上校長と倉田先生、それに町田先生がいた。
「今日はご苦労でした。中長距離走で男女が優勝。短距離では牧野が三位。私は鼻が高かったよ。これも先生方の御かげだ。さあ乾杯しよう」
校長がビールジョッキを持ち上げ両先生も手に持ったビールジョッキを突き出した。三人の先生は一気にビールを飲み込んだ。
「ああ美味い。今日のビールは格別だ。それはそうと倉田先生、黒沼の母親は今日の結果を聞いてどんな顔をするか見ものだな」
井上校長に町田先生が顔をしかめ、口に人差し指を立てた。
「校長ここは黒沼の家に近いです。誰かに聞かれたら不味いと思います」
町田先生が声を落として店内を見回した。客は離れた席にいて聞かれた恐れはない様だった。「これは失敗した。だが結果は覆る事はない。結果が全てだよ。そうだろう倉田君」
「そうです。でも転んだ黒沼も可哀そうです。優勝に自信を持っていましたから」
倉田先生がビールジョッキを卓に置いて、お代わりを注文した。町田先生も頷いていたがジョッキのビールを飲み干すと、お代わりを注文した。摘みの枝豆を啄んでいた校長が倉田先生に尋ねた。
「倉田君、織峰がビリを走っていた時、星山が声を掛けた天罰とはどういう意味だろう。知っているなら教えてくれ。あの声掛けの後、織峰は目が覚めた様に走りだした。どうにも腑に落ちない言葉だったが」
「校長。その訳は知っていますが、話す事は出来ません。今は後悔している輩がいるはずですから。そうだろう。町田先生」
倉田先生に話を振られて町田先生は口に入れかけた枝豆をポロリと落とし慌てて合図地をうった。
「そうか町田先生も知っているのか。なら聞くまい。何かきな臭い話なら知らない方がいいだろう。そうだろう町田君」
今度は校長に話を振り向けられ町田先生は平服して、校長のビールのお代わりを注文した。
「きな臭い話より、明日から両先生は忙しくなりそうだな。今日の成績を知った陸上の有名校
が星山君と織峰君を先を争って奪いに来る事になる。その対応次第で二人の未来が決まる」
先生達のビールの摘みに今日の出来事は事欠かなかった様だ。
姫と敏彦がお堂の前に差し掛かっていた。
「あの天罰は良かったわ。初めての経験で、何処で前に出ようかと考えて走っていたの。敏彦君のあの言葉でああ此処で前に出ればいいのかと思い切って前に出た」
「その後ぶっちぎりで、驚くほどの好記録ときた」
二人は笑いあい別れて帰路の坂道に向かった。秋風に舞った枯葉が桜の峠を転がってきた。
空見の家に帰ると母の美和と父芳造が笑顔で出迎えてくれた。
「姫ちゃん聞いたわよ。やったね。すごい走りだったと倉田先生が電話で知らせてくれたの」
母は姫の背中からナップザックを取り父の芳造と二人でナップザックを開いた。空の弁当箱
汗にまみれた運動着と運動シューズ。それから優勝メダルに記録が記された表彰状。母はそのメダルと表彰状を父の芳造に手渡し、汗にまみれたティーシャツの胸に着けた日田中文字の布切れを糸を切って取り外した。
父と母の喜ぶ顔を目にした姫は、自分が走る事で親孝行ができた事に少し満足した。しかし他人と競い合う事には依然として違和感が残っている。
翌日何時もの様に小学生を引率して登校すると、がらりと雰囲気が一変していた。一二年生が顔を合わせると皆笑顔で接してきた。教室に入ると何時もビリで姫にサポートされていた級友が駆け寄り抱き着いてきた。
「姫ちゃん聞いたわよ。何時もビリで走ってくれてありがとう。姫ちゃんの優しさが改めて感じたわ」
「そんな事を言われると恥ずかしいわ。私は競い合う事がきらいなだけよ。これからもビリで走ろうね」
笑いあう二人に誰も陰口を叩く者はいなかった。ソフトボール部の女子も一様に好意的態度だった。黒沼美紀先を除いては。
秋から冬に担任の町田先生と体育教師の倉田先生は、県内外の陸上強豪高校からの問い合わせに追われていた。星山敏彦君と織峰姫がどの高校を選ぶのか。運動部のみならず学校全体が注目していた。
年が明けて二月、敏彦と姫の進路が決まった。敏彦は倉田先生の大学の先輩が監督を務める都会の私立の陸上強豪校に入校が決まり、姫は県内の同じく陸上の強豪高校に入校を決めた。
姫は病身の母を思い近場の高校を選んだ。二人が出会うのは全国大会のみとなった。
姫の高校での陸上生活は寮生活から始まった。姫と同室になったのは三年生エースでキャプテンの早水奈央だった。早水をお姉さんと慕う姫に、早水は上級生らしく何かと気を使い姫を助けてくれた。
姫は一年間競技に出場しなかった。何故なら姫は陸上の練習では何時も最後尾を走るのが常だった。陸上部監督の小川良子は、日田中学校の倉田から織峰姫が人と競い合うことを嫌うという特異な性格を聞いていた。姫が二年生になり後輩が入部してくると、姫は二年生の前を走る様になった。そこで小川監督は初めて姫を有名走者の名がつく記念大会に出場させた。
そこで初めて三千メートル走を走った姫は実力を発揮し優勝して見せた。三年生になると姫はインターハイ出場国体出場と出場した大会全てで優勝して見せた。織姫こと織峰姫の名は全国高校生の間で知らぬものが居ないほど有名をはせた。
一方彦星こと星山敏彦も一年生から多くの大会に出場し、優勝又は上位入賞を果たし三年生になるとエースでキャプテンとなって駅伝の名門大学や又は強豪の大企業入社は確実視されていた。
姫と敏彦は三年間、インターハイ出場や国体出場でたびたび顔を合わせた。遠くはなれて暮らす二人だったがこの時だけは子供に帰り思い出話に花を咲かせた。
年が明け進路を決める時が来た。姫は陸上名門の大学を希望せず、あえて地元県の国立大学を選んだ。天才ランナーとして期待された選手が、選りに選って陸上部とは名ばかりの同好会クラスの部しかない国立大学に進学する。これには各陸上名門大学は失望した。何故だと各名門大学は不審に思った。この時姫の気質特質に気付いた者はいなかった。
―人との競い合いは終わりにしたい。名門大学で同僚と競い合う事は負担でしかない。走るなら一人で気ままに走りたいー
我ままとも言える姫の独自の思考は、そのまま大学生活へと続いてゆく。
敏彦は陸上名門高校から名の知れた名門大学に特退生として入学が決まっていた。
敏彦は入学までの間、故郷の曲がり坂の実家に帰り束の間の休暇を過ごしていた。その僅かの時間に疎かになっていた家の手伝いをと牛小屋に入り堆肥をかたずけ敷き藁を入れていた。その時、日頃大人しい牛が突然暴れだした。「痛いー」何百キロもの牛の足が敏彦の左足を踏みつけた。敏彦は牛小屋から足を押さえて転がり出た。小屋の外で作業をしていた弟の信二が飛んできた。「兄貴どうした」「足が・・足が」敏彦の尋常でない様子に信二は兄の足を見た。大きくはれ上がった左あしの甲が紫いろに変わっている。
「近所の誰かを頼んで医者に連れて行ってくれ」痛みに青ざめて敏彦が弟に頼んだ。信二は近所を駆け回り軽四輪トラックを出して貰った。敏彦をトラックの荷台に乗せ日田市場の町医者にかつぎこんだ。
敏彦の足を診察した町医者は、北勝町の町立病院で手術をしなければ手遅れになると再び敏彦をトラックに積んだ。敏彦の左足の甲は複雑骨折しており町医者では手に余る大怪我だった。
敏彦は町立病院で手術を受けた。しかし医師の言葉は無情だった。「この足は踵で歩くことは可能だがもう走る事は出来ない」と敏彦に告げた。
―こうも簡単に俺の陸上人生が終わるのかー敏彦は病院のベッドで泣いた。涙の裏に姫の顔が浮かんだ。敏彦は何度も姫の名を心の内で呼んだ。
敏彦の怪我を姫が知ったのは十日も過ぎた頃だった。ひょっこり訪ねて来た敏彦の弟信二の口から敏彦の不幸な怪我を知った。姫は全身から力が抜け落ちる思いで敏彦の怪我の容態を聞いた。敏彦がもう走れないと知ると大粒の涙を流した。
姫が町立病院を訪れたのは翌日の朝だった。姫が病室に入るとベッドで横になり窓の外を眺めている敏彦が振り向いた。姫と目が合った。
「姫ちゃん来てくれたのか。この座間だよ。おれの人生は終わったよ。」
「何を馬鹿な事を言うのよ。走る事だけが人生じゃないよ。歩けなくて車椅子で人生を送っている人だって大勢いるわよ。信二君に聞いたけど走れないけど歩けるって」
「それはそうらしいけど今の俺から走る事を取ったら何も残らないよ。大学に行って又姫ちゃんに会える。それを楽しみにしていたんだよ」
「敏彦くん私には走る事に執着はないの。走るのは二十歳までと決めているの。それも敏彦君が居ないとやめて仕舞いそう」
「俺は姫ちゃんが陸上とは縁のなさそうな県内の国立大学に行くと聞いて、何だかそんな気がしていたよ。今となっては、もう少し姫ちゃんが走っている姿を見ていたいよ」
「さあそれはどうかな。敏彦君が第二の人生に希望をもって生きてくれると信じられたら考えてみるわ。今度会う日にはお互い笑って会いましょう」
二人が別れて二年。姫は一人でトレーニングに努め、年に一二度だけ大きくない大会に出場し、それでも優勝を飾っていった。姫は大学三年生になり成人式を迎えるとトラックから姿を消した。彗星のごとく現れ彗星のごとく天才織姫は消えた。
翌々年の春、姫の姿が日田小学校の教員室にあった。姫が校長室での校長との対面を終え教員室に入ると一番奥の席から声が掛かった。
「おおい。織峰先生こっちだよ」姫が目をやると、そこには懐かしい顔が姫を見て笑っていた。「あっ、倉田先生・・じゃない教頭先生・・なぜ此処に」
「私も赴任して来たばかりだよ。日田中学校は三年前に北勝中学に吸収合併されて今は廃校だよ。そう言うことで今は此処に居る訳だ」
「そうだったのですね。改めて織峰姫です。何も分からない新任教員です。宜しくご指導ください」「ああ分かっているから堅苦しい挨拶は抜きだ。三年生を担任してもらう事にしている。頑張って努めなさいよ」
そう言うと教員室に居る五人の先輩教員を紹介してくれた。皆中年以上の先生方で姫の様に若い教員はいなかった。姫は末席の机の前に座った。
チャイムが鳴り先生方が席を立ってゆく。姫も立とうとすると倉田教頭が待ったを掛けた。
「校長先生と私の後から着いてくればいい」そう言うと倉田教頭は椅子に掛けたまま存在な様子で校長先生の出番を待った。その頃校庭では先生方が生徒を整列させ校長先生の現れるのを待っていた。玄関を出て校庭に至る坂を降りて来る校長先生の後ろに続く姫に五六年生から小さな歓声が上がった。
六年生の担任である岡本洋一先生が子供達を宥めた。すると子供の誰かが先生に聞こえる小声で「先生チャンスだよ」男女を問わず六年生に小さな笑いが起こった。
岡本先生は三十歳にして独身。短く刈った頭に角ばった厳つい顔の先生だった。
子供達は独身の先生に若く綺麗な先生が赴任してきたことをチャンスと伝えたのだ。
校庭に降りて来た校長先生は生徒の前の壇上に上がり赴任してきた教頭先生と姫を紹介した後、姫が三年生の担任と告げると五六年生から落胆のブーイングが起こった。倉田教頭先生だけが笑みを浮かべていた。教員室に戻る途中、倉田教頭が姫に笑いを含んで言った。
「五六年生は君に担任をしてもらいたかったようだな」
「そうなんですか。私には分かりませんでした」
「姫ちゃん幾つになっても子供だな」倉田教頭は笑って教員室に入った。
日田小学校に赴任して最初の日曜日、姫は山道を伝い今はない昔通った山の分校を横眼に
曲がり坂の敏彦の家に向かった。
敏彦の家に着くと弟の信二が出迎えてくれた。
「姫さん日田小学校の先生になったって聞いたよ。まさか本当に地元の小学校に帰って来るなんて信じられなかったよ。兄貴も驚いていたよ」
「まだ赴任してまだ数日しかたたないのに、もう伝わっているの。速いはね」
「小学生が空見の織峰という若い女の先生が来たと話してくれたんだよ」
「そうよね。珍しい噂は早く伝わるものよね。ところで敏彦君は居ないの」
「今兄貴はお袋と開墾地の畑に行っているから、ひとっ走り呼びに行って来るよ。それまでそこに腰かけて待っててな」
信二は縁側を指さし駆けて行った。姫は長閑な山の景色を眺めた。芽吹いた木々の新芽が美しい。何処かで鳥のさえずりも聞こえてくる。しばらく待つと信二が駆け戻ってきた。
「今兄貴が帰って来るよ。走れないからゆっくりだよ」そう言うと信二は家の奥に消えた。
敏彦が帰って来た。怪我の治った左足はつま先が使えず踵で歩くためか少しびっこで、ゆっくりと歩いてきた。
「やあ帰って来たな。まあ、まずはおめでとう。速いものだなもう四年が過ぎてしまったよ」
笑顔で帰って来た敏彦は縁側の姫の横に腰かけた。信二がお茶を入れて持ってきて、すぐに家の奥に消えた。
「敏彦君今仕事は」姫は敏彦の不自由な足を見ないで尋ねた。
「ああ仕事には行っているよ。河南の農協に努めているよ。心配してくれていたのか。あの通り車にも乗れるし何の不自由もないよ」
敏彦は庭の隅にとめてある白い軽四輪トラックを指さした。
曲がり坂集落も空見の集落も地域の中心である北勝町より山を越えた河南町の方が距離的には近い。桜の峠を越えだらだら坂を下って行けば河南町に至るのだ。
その後二人は昔話に花を咲かせた。倉田教頭に話が及ぶと一層話が盛り上がった。話が途切れ沈黙の時が訪れた時姫が言った。「敏彦君今でも私の事スキ」と。敏彦は姫の目を見つめ「そんなことは当たり前だろう。姫ちゃんこそ、こんな姿の俺を嫌いにならなかったか」恥ずかしそうに山の上の空を見上げた敏彦は昔と変わらぬあどけなさが残っていた。
「敏彦君彼女はいるの」
「こんな俺にそんな者できる訳がないじゃない」
「良かった。空見に帰てきたかいがあったわ。私ね子供の頃から敏彦君が好きだった。でも口に出せなかった。だって恥ずかしくてそんな事を言える年頃じゃなかった。この歳になったから言えるのよ」
「じゃあ俺と付き合ってくれるのか」「ええ私はあの町立病院の病室で決めていたの。私は敏彦君の側に居ると」
「そうか。あの時俺はどん底の人生を味わっていた。その時でも雛ちゃんが頭に浮かんでいたよ。するとどうだ突然姫ちゃんが病室に現れた。夢かと思ったよ」
「以心伝心て事があるのよね。またこうして二人は会えたのだもの」
こうして二人の思いは明かされ交際が始まった。
姫は午前の授業と給食を終え、休み時間に教員室に戻っていた。そこに六年生の女の子が駆けこんで来た。
「先生、大変です。一年生の男の子が鉄棒から落ちて泣いています。腕が痛いと泣いています」その六年生の声を聴くとどの先生より早く姫は教員室を飛び出し、鉄棒の下に駆け付けた。大勢の子供達が鉄棒下に集まっている。姫は子供達をかき分けて泣いている一年生の男の子の側により体を確かめた。男の子の右腕が垂れ下がっている。男の子はその右肩を押さえて泣いている。姫にはその男の子の腕の異常に覚えがあった。競技中転倒した選手が同じような症状だった事を思い出した。―肩の脱臼―駆けつけて来た六年生の担任岡本先生に先生が着ているカッターシャツを脱いで貸してくれと頼んだ。岡本先生はすぐにシャツを脱いで姫に渡してくれた。姫はそのシャツを三角巾代わりに男の子の右腕を男の子の首に釣ると、男の子を背負った。「織峰先生それは私が・・」私が背負うと言おうとした厳つい顔の岡本先生に姫は言い放った。「先生私の方が早い・・」言うが早いか姫はこどもを背負ったままで駆けだした。
運動場隅の校門から坂を下り約四百メートル先にある日田市場の町医者に向かって一目散に駆けた。―早いー後を追いかける岡本先生は直ぐに置いて行かれた。顎を上げ追いかけるが見る間に姫の後ろ姿は小さくなった。
姫が町医者の診察室の椅子に座らせていると、ゼイゼイと苦し気な息を切らせて岡本先生がやって来た。町医者は白髪交じりの頭髪をかき上げ、子供の腕を二三度動かして見ると直ぐにグイと肩に腕をはめた。子供が泣き叫んだ。子供の腕は姫の見立て道理の脱臼だった。
「坊主もう終った。もう痛くなくなるから泣くな」
町医者は子供の肩に湿布を施した。姫は子供の腕を釣っていた皺になった岡本先生のカッターシャツをそっと差し出し謝った。待合室が騒がしくなった。子供の親と倉田教頭、それに一年生の担任教師が来ていた。町医者から診察結果を聞いて子供と親は帰って行った。
倉田教頭以下三人の先生も学校に帰った。
「教頭先生、あの織峰先生は何者ですか。あの足の速さは尋常ではありませんよ。子供を背負った彼女に私は着いていけませんでしたよ」
「岡本君それは当然だよ。織姫と言う愛称で呼ばれていた陸上選手を聞いたことは無いのかな。まあ陸上に興味のない君には分からないだろうがな」
「その織姫と言うのが織峰先生ですか。道理で速いはずです。驚きました」
「分かればいいよ。もう一つ教えておこう。彼女にはこれが居る。古い知り合いのな」
倉田教頭が小指を立てて見せた。「これですか・・」岡本先生が自分の小指を立てて眺めた。「織峰には彼氏がいると言ったんだ。だから諦めろという事だよ」
「教頭、教頭は何故そんなに織峰先生の事を御存じなのですか」
「それは織峰も織峰の彼氏も私の中学校教師時代の教え子だからだよ」
姫にひそかに好意を寄せ始めた岡本先生は早々と倉田教頭にくぎを刺されてしまった。
姫と敏彦は順調に交際を続け二年後敏彦が織峰家に婿入りして二人は結ばれた。桜の峠の山桜が満開の季節だった。