最終話
辺りが血の匂いに満ちている。
皆の……商隊の皆の命の気配がもうない。
「サムリ……お願い」
「テア! しっかり! 通報はされているはずだ! 騎士団がもうすぐ来る!」
「サムリィーン」
「……アルテア」
「もう、時間が無い、の……お願い」
もう自分で起き上がる力も無い。
お腹に穴が開いては、もう保たない。
死ぬのは怖い。
私が溶けて、もうどこにも無くなるのが、怖い。
でもしっかりしろ。
時間が無い。
「これを、ゆい……ビビに……あなたの名で守って」
最後の力を振り絞って左手を上げる。
薬指にはサムリに贈られた指輪がある。
私から抜いて。唯と交わして。
庶民は式も宣誓もせず、ただ指輪を交わすことで夫婦になることが多い。
「今すぐ私と離縁して。そしてビビと再婚して。そうすればシュリを守れる。お願い」
ヒューヒューと湿った空気ばかりが口から漏れていく。きちんと言葉で紡げただろうか。
東の国を出た所で、魔物に出くわした。
四つ足の個体だった。
一本道の向かう先で、こちらを見ていた。
後ろの一行に魔物出現の合図を送り、魔道具で気配を消しながら道を外れて全力で逃げた。
一度は逃げ切ったかと思い油断してしまったのかも知れない。そこをまた同じ魔物に襲われた。
追いかけられていたのだ。
魔物には時折知能の高いものがいる。弱い者をいたぶって遊ぶように、狩りをするように生き物を襲うものがいるのだ。
運が無かった。
言い表せばその一言かも知れない。
北の国から遠く離れたこの地で私たちの保護を失えば、シュリは生きていけない。
たとえ生き延びたとしても……生きていた方が辛いことの方が多いだろう。
唯も、未婚の母では、見ず知らずの土地で受け入れられるとは考えづらい。
未婚の母と保護者を失った子ども。
辿る未来は決して優しいものにはならない。ここは日本じゃない。
けれども、未亡人なら。
夫の連れ子とともにいる理由も、子の父がいない理由ともなる。
もう瞼が重い。
サムリ、お願い。
……足をケガしてしまったあなたも逃げることは出来ないでしょうに、あなたの心配よりもシュリたちの心配をするひどい妻でごめん。
私のことはあなたが守ってくれるでしょう?
だから、私はシュリを守るわ。シュリが真っ当に生き残れる一番可能性の高い方法に懸けるわ。
シュリの泣き叫ぶ声がしている。
もう何を言っているか理解出来ないけれど、きっと私に手を伸ばして泣いている。
行きなさい……生きなさい、シュリ、ビビ。
振り向かず、耳を塞いで前だけを見て、いきなさい。
愛しているよ。
もう、痛みも感じず、静かな暗闇に意識が溶け出した瞬間、声がした。鮮明な、声がした。
『文代』
直接心臓をビンタされたように、ドクンと心臓がはねた。
『唯がシュリヒトを連れて逃げたよ。指輪、交わしたよ。……小さい頃、お父さんのお嫁さんになる! って言ってたの、叶っちゃったなぁ』
間違えるはずがない。
サムリの声の、もー君だ。
サムリはただの一度も自分の前世の話をしなかった。修太郎君と会っても、そういう意味では無反応だったのに。
覚えていたのなら、思い出していたのなら、なんで!?
『はは、怒ってる。言ったところで、僕はサムリだし、茂一だし、文代と……テア、妻大好き人間なだけだし。それに、覚えていると言っても細かいことはあんまり。文代と唯と兄さんと小百合さんと修太郎君のことくらい。修太郎君は……シュウ様は、生きていたら、唯を拐って監禁しそうだったなぁ』
あはは、とサムリが軽く笑う。
私、瀕死。あなたもまもなく命を落とす場面ですが……?
『生まれて生きて、出会って結婚して、子どもに恵まれて、なんか知らないうちに神様とやらに背負わされたやらなきゃならんことも精一杯やって、僕たちは生きた』
……そうね。精一杯、生きた。
辛いことも苦しいことも悲しいこともたくさんあったけれど、それ以上にたくさん笑って、大切な人たちに囲まれて、生きた。
前世とか関係ない。
年数も関係ない。
世界線すら関係ない。
私たちは、生きた。
『唯を捨てたクソ野郎を探し出してぶん殴ってやるつもりだったけど……、ここまでみたいだな』
サムリが何かの魔術を編んでいる。
ああ、魔物をここに留める魔術だ。……自分の命を織りまぜて……編んでいる。
生命力を織りまぜて魔術を編むと、その魔術はとんでもなく強いものになる。
だが、命は、なくなる。
『文代、一緒に逝こうか。……僕たちはどっかの女神様の誓約なんかなくても、また会える気がするよ。たとえ覚えていなくても、文代はまた僕の愛する人になるんだ』
もー君。
「アルテア、愛しているよ」
サムリィーン。
魂にまで及ぶ豊穣の女神の祝福が無くても、きっと私たちはまた会える。
あなたを愛している。
あなたを信じている。
私たちに約束などいらない。
また、ひたすらに生きるだけ。
「……ひでぇな」
「隊長……生存者……は」
「……いるように見えるか? 俺には性別どころか何人被害にあったかも分からんよ……」
王太子殿下からの密命を受け、南東の国との国境を越え、とある方を保護しようとしていた。
正規の入国ではないので、最低限の少人数で騎士服ではなく、冒険者に扮していた。
その方は商隊に同行していた。
東の国に落ちて来た、異世界の娘、カヤ様。
我らが氷の騎士ジークの伴侶となられた方。
敵を欺くために、騎士ジークと別れて国を出るが、秘密裏に我々が保護するよう厳命された。
商隊が国境を出るところを確認し、一本道を先回りして待機していた。人の目に触れぬよう保護しなければならない。
だが、その商隊はいくら待っても通らなかった。
この短い距離で何かがあった。
慌てて捜索すると、道に魔術の跡が微かにあった。何かの魔術か魔道具を使ったようだ。
こちらに向かって来た別の一行に話を聞いて、毛が逆立った。
先程、この道に魔物が出たがすぐに姿を眩ました、と。
行商人は魔物や山賊を回避するため、気配をほぼ断つ魔道具を備えていることが多い。
その魔道具を使い、商隊は道行くことを捨て、魔物から逃げたとしたら。
嫌な予感がした。
魔物は目の前の生き物を襲い尽くすものだ。そうせずに立ち去るのは、何かしらの理由がある時で、そいつは知能のある厄介な個体であることが多い。
そして、程なくして、断末魔がいくつも聞こえ、嗅ぎ慣れた鉄錆の匂いが風に乗って来た。
警戒しながら匂いを辿ると、道から大分離れたそこには、肉と血溜まりの中で咆哮をあげる四つ足の魔物がいた。
血に塗れたそいつは、ひたすら地面を叩いて荒れ狂っていた。
動きがおかしい。
左前足を地面に着けて動かしていない。
違う。
左前足が地面に封じられていた。
魔術で地面に縫いとられ、動けないのだ。
魔術が解けると厄介だ。
無言のまま全員で魔物に襲いかかり、首と四肢を落とした。
魔物の左前足を封じていた魔術が解けていき、その際、術式が読み取れた。
魔物の命がある限り離さない。
それは、術者の命をかけたものだった。
その術式があった場所にいたであろう人物に、敬意と鎮魂の祈りを捧げた。
この魔術のお陰で簡単に仕留めることが出来たのだ。
なぜ命を使ってまでも魔物をここに留めた?
単純に考えれば、誰かが逃げるまでの足止めだ。
だが、それは状況からの推測でしかない。
すぐさま、ありのままを報告しなければならない。
任務は失敗した。
商隊は魔物に襲われ、現場に生存者はなし、と。
騎士たちはこちらに向かう警らの気配に気が付き、唇を噛みしめ、踵を返した。
読んでくださり、ありがとうございました。
生と死がたくさん出てくる重いお話しでしたが、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
これでテアのお話しは完結です。
テアは、生きました。
サムリも生きました。
悔しさも悔いも未練もあるけれど、精一杯生きたと、胸を張って二人は逝きました。
唯がカヤでユイで、ビビとなったお話しでもありました。
これからも黒の森のお話しは、絡まりながら解かれながら話が重なっていきます。
どうぞよろしくお願いいたします。